綿菓子のように甘くはかないもの 下
夢をみているのだとエレネは思った。
早送りで時間が過ぎて行く。昼と夜が目まぐるしく移り変わる。
セピア色に褪せた風景が目の前に広がっている。音はない。もう……随分昔に失われてしまった。
エレネは石を敷き詰めて作られた真新しい街道の脇に、ひとりぽつんと立ち尽くしている。
忙しなく周囲を行き交う人々の衣装は、ざっくりと織った生成りの布で作られた貫頭衣と呼ばれるものだ。布を腰に巻いただけの男性も多い。彼等の腕には『ヲ』の形の刺青が掘られていた。
――これは、神殿へ続く祈りの道だ。
街道の先には巨石を組み合わせて作られた門が見える。神殿に向かう人々の表情に悲壮感はない。元気に駆け回る子供たちは、生き生きとして健康そのものだ。
この地は雨の神様に守られている。祈りを捧げれば、雨の恵みがもたらされる。
それはつまり、豊穣を約束されているということ。
太陽と月がエレネの頭上を通り過ぎる。青空と夜空が移り変わるスピードが速くなってゆく。人々の着ているどんどん服が変化し、真新しかった街道が砂埃に埋もれ、荷車に混ざって馬車が走るようになると、土木作業の道具を背負った男達の姿ばかりが目立つようになった。
千を超える夜が流れ去った後に工事は完了し、男たちの姿が街道から消えて……
気付けば、砂に埋もれてしまった古い道と巨石の門だけがその場に取り残されていた。そこにはかつての賑わいなど見る影もない。
あまりの変わりように言葉を失っているエレネの前を、野の花を握りしめた小さな女の子が笑顔で走ってゆく。遠ざかる小さな背中を思わずエレネは見送る。色と音を失った世界の中、その姿だけがはっとするくらい鮮やかだ。彼女が目の前を通る時だけ、時間が正確に流れる。後は全部早送りのまま……
祈りに訪れる人も少なくなった道を、毎日のように少女は駆け抜けて行く。時折砂の中から顔を覗かせた石に躓いてよろめくが、そんな不運さえも笑い飛ばして、彼女は風を切って走る。
街道脇に何千年も佇むエレネは、いつしか彼女の訪れを待ち侘びるようになる。
ちいさな手にはいつも季節の野の花。瑞々しい命の色がモノクロームの世界を彩る。
――季節は巡る。時間は流れ続ける。
もう彼女は笑いながら街道を走ったりはしない。野の花を胸の前で持って、足元に注意しながらゆっくりと祈りの道を歩いてゆく。はにかんだような笑みを浮かべて……
「ゲディンスのエレネ」
名前を呼ばれ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。ぼんやりとした視界の中でまず見えてきたのは、おばあちゃんたちの心配そうな顔だった。
「大丈夫かい? エレネ」
返事を返そうとして、喉がからからに乾いていることに気付く。長い長い映画を一気に早送りで見たような気分だった。頭の中が混乱している。
エレネはぼんやりと宙に視線を彷徨わせる。恐らくすでにお昼を過ぎている。ソファーで気絶するように眠ってしまっていたようだ。
「気分はどうかな? ゲディンスのエレネ、起き上がれそうかね?」
頷いてから、ゆっくりと両手に力を入れて握ったり開いたりを繰り返してみる。少し感覚が遠い気がするが、頭痛はすでにおさまっていた。二度寝して目覚めた時のようにぼーっとしているだけだ。
おばあちゃん二人に手伝ってもらいながらゆっくりと体を起こす。軽い眩暈を感じてエレネは思わず片手で顔半分を覆った。指先の冷たさを感じて少しだけ頭がはっきりとする。
狭い店の真ん中に立っていたのは、眠たげな細い眼をした白い髭の老神官だった。右手に持った身長より長い杖の先で、細い金の光の輪がくるくると回っている。
深い皺が刻まれた額から右頬にかけて、複雑な模様が浮かび上がっていた。花の模様のようにも見えるそれは、数多くの神様から与えられたしるしが複雑に絡み合って作り出されたものだ。模様の大きさや複雑さが、神官としての位の高さを表している。……恐らく彼はこの国の神官たちを統括する立場の人だ。アレスにおけるゲディンスのラウラのように。
老神官の傍らに立つ若い神官は黒く硬い表紙の野帳を開いて何やら書き込んでいる。彼の右頬にも椿を彷彿とさせる美しい模様が浮かび上がっていた。
エレネはゆっくりと視線を巡らせる。神官たちの背後にあるテラスへと続くガラス扉は開け放たれ、外には軍服に着替えた同居人の青年が立っていた。その背後には狭い店内に入りきらない見物人たちが群れをなしている。
店の入り口の扉も開け放たれおり、そこにも一人の騎士が姿勢よく立っていた。その背後からも見物人たちが店内を必死に覗き込もうとしているのが見える。
この小さな店は今、大勢の人間に取り囲まれているのだ。
背後を振り返ると、ソファーの上にある窓のカーテンはぴったりと閉め切られていた。そこにも大柄な人物の影がうつっている。室内を覗き込めないように、窓の外に騎士が立って見張ってくれているのだ。
視線をさらに横へ。カウンターの中とその奥へと続くドアの前には、少し年配の男性たちが固まって立っている。その中の一人は、エレネがお世話になっている村の村長だ。となると、集められているのは周辺の村の村長や地主たちなのだ。
室内を一周見回したエレネは、真正面に立つ老神官にしっかりと向き直る。老神官は、エレネの目を覗き込んでその色を確認し満足げに頷いた。その反応から、エレネは自分がまだアレスの色違いの瞳を失ってはいないのだと確信した。
一度目を閉じお腹にぐっと力を入れる。
これからこの場で、エレネに対する審問が始まろうとしている。
審問官の派遣は秘密裏に行われる。それで村の人たちの様子がおかしかったのだ。彼等はエレネの元に審問官が派遣されてくることを知っていおり、万が一にも口を滑らせるわけにはいかなかった。そういう『決まり』なのだからそこは仕方がない……
その時の気持ちを思い出して心細くなったエレネは、目を開けて同居人の青年の姿を探す。目が合うと彼は何も心配することはないよと頷いてくれた。
たったそれだけのことで……気持ちが切り替わる。彼が見守ってくれているのなら、もう何も怖くない。
エレネはソファーから立ち上がると、床に膝をついて両手を胸の前で組み深く頭を下げた。入れ替わりでおばあちゃん二人がソファーに並んで腰を下ろす。
「さて、ゲディンスのエレネ。禁忌を犯したかね?」
厳かな声が頭の上に降り注ぐ。『審問官』という言葉はいつもエレネに魔女狩りを彷彿とさせた。しかし、神罰があるこの世界で審理を歪めることは不可能だ。神様の怒りにふれた神官は、与えられていたしるしを失ってしまう。
「いいえ」
エレネは顔を上げてまっすぐに老神官の瞳を見つめた。皺の奥で輝いているのは、吸い込まれそうな灰色の瞳だ。老神官が軽く杖を振ると、光の輪がエレネの頭上に移動し、エレネの頭上で一際強く輝いた。
光の輪は回りながら一気に天井付近まで伸び上がり、噴水のように光の粒子を振りまき始める。店内に降り注ぐのはまさに光の雨だ。それは一瞬呼吸を忘れてしまう程に美しい光景だった。
おお! というどよめきが起こり、店の外が一気に騒がしくなる。
「可視化すると非常にわかりやすい。この通り、この店も彼女も強い加護に守られておる。故に、呪いをかけたのはゲディンスのエレネではない!」
老神官は高らかに宣言すると、カウンターへと視線を向けた。
エレネが大変お世話になっている村長は、それみたことかと言わんばかりの表情だ。その周りにいる者たちは、呆けたような顔で光の雨を見つめていた。
ふっと気が抜けたエレネは老神官に深く一礼してからぺたんと床に座り込む。
テラスに続くガラス扉と、店の入口の扉から、次々と人々が店内を覗き込んでは去ってゆくのが見えた。「立ち止まらないでどんどん進んで下さい!」という声も聞こえてくるから、誘導係までいるのだ。
――完全なる見世物扱いだが、これは必要なパフォーマンスなのだ。
確かに老神官の言う通り、可視化できれば大変にわかりやすい。だが、裏を返せば、高位の神官を審問官として派遣してまで、エレネの潔白をこの場で証明しなければならなかった……ということでもある。
呪いをかけた犯人はエレネではない、ということは周知されたが、呪いそのものはまだ消えずに存在している。この先いつまでも消えないとなれば、近隣の住民たちの不安や不満は時間の経過と共に大きく膨らんでゆくに違いない。いずれ、不安を抱える事にも疲れた人々の中から、『魔女を火あぶりにしろ!』という声が上がるかもしれない……
視線を感じてエレネはのろのろと顔を上げる。カウンターの中から憎々し気にエレネを睨みつけていたのは……毎週のようにこの店を訪れていた青年によく似た男だった。
何故これほどまでの敵意をぶつけられなければならないのか。エレネには理由がわからない。息子の事が関係しているのだろうか?
「ふむ……何故、危険とわかっていて呪いを引き寄せたのかね? 忘れたとしても、自分が望んだことだという自覚は残っているはずだが」
老神官は男に向かって静かな声で尋ねた。その時になってようやくエレネは気付いた。
室内に振り続ける眩いばかりの金色の雨が、今まで目に見えていなかったものをあぶり出していたのだ。
隣村の村長は……うすい灰色の影にまとわりつかれていた。その灰色の気配には確かに覚えがあった。まるで見えない傘を差しているかのように、その灰色の影が降り注ぐ光の雨を遮っている。
ぞくっと冷たいものが背中を駆け抜け、エレネは自らの体を抱きしめて二の腕をさすった。
思いがけない事を言われた、というように、大きく目を見開いた隣村の村長の顔がどんどん歪んでゆく。周囲の視線が自分に集まりつつあることに気付くと、今度は両手でぎこちなく顔をさすり始めた。喘ぐように口をパクパクさせながら、視線を宙に彷徨わせる。
「ちが……ちがわない……ちがう……ちがわない……おぼえていない……わたしじゃない……ちがう……ちがわない……」
不明瞭だった呟きが徐々に大きくなっていった。額や頬を擦っていた両手は徐々に下がってゆき、重ねるようにして口を覆い隠す。
――上になった側の手の甲には……薄茶色の大きな痣があった。
続きます……すみません。




