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おまけ エレネさんの恋人さん 後編



 頑なにフードの端から手を離さず、真っ赤な顔で目に涙を溜めてふるふると震えているエレネは、大きな荷車の後ろに隠された。彼はお手伝いが残っているからと、野菜の入った籠を再び背負い、子供達とマーヤおばあちゃんと一緒に去って行った。


「……うん。気持ちはわかる。でもこうなったのはエレネさんが原因だ。すでに我々の中ではエレネさんの恋人さんで定着してしまったのだから仕方がない」


 露店の店主は、いつもエレネの店に遊びにくるモニカおばあちゃんの息子だ。荷車におばあちゃんたちを乗せてロバに引かせてエレネの店に連れて来て、そのまま畑仕事に行き、仕事が終わるとおばあちゃんたちを迎えに来る。


 ……そういえばあの青年は人力で荷車を引いていた。

 その時エレネはちらっと疑問に思ったのだが、そこを深く掘り下げて考える気持ちの余裕がなかったので、それはそのまま有耶無耶になった。


「そうそう、エレネさんが彼の名前を私たちの前で呼べるようになるのが先か、それとも、彼の呼び名が『エレネさんの旦那さん』になるのが先か、どっちだろうって、いつも話しているのよねー。おばあちゃん」


「まだまだ時間はかかりそうだけどねぇ……」


「あら? おばあちゃんはそう思いますか?」


「またしても、意見が合わないねぇ」


 おばあちゃんと息子の嫁は、荷車で運ばれてきた野菜を露台に並べている。これはそっちがいい。いやこっちだ。と言い争いになってなかなか進まない。


「……おてつだいできなくてすみません」


 隠れているばかりで何もしていない自分が情けなくて、エレネは沈んだ声で謝罪した。


「いいのいいのー。エレネさんの恋人さんが手伝ってくれたから。……エレネさんが恥ずかしいのはわかるの。でもごめん。面白すぎてやめられない」


「そこだけは私も同意するねぇ。……だから、それはこっちだよ。貸してみな」


「えー、これはここでいいですよ」


「いつになったら並べ終わるんだぁ?」


 ぼそりと呟いた男は突然立ち上がり「おおい、そっちじゃなくてこっちだ、こっち!」と前方の人波に向かって大きく手を振った。


「急に人増えてきたな。もう何でもいから早くしてくれよ」


 それから母親と妻を振り返って、やや苛立った声でそう言ったのだが、二人の耳には届いていなかった。


「だからこれはこっちだよ!」


「ちがいます。こっちですって!」


(成程、これが嫁と姑とその間に挟まれる息子の図)


 一瞬恥ずかしさも忘れて、エレネは言い争う三人の姿をまじまじと眺めた。


「ただいまー」


 幼い男の子の声が、不毛な争いに終止符を打った。子供達と青年が露店の前に戻って来たのだ。


「エレネさんの恋人さんにお菓子買ってもらったー。『お兄さんいい男だから』って、すっごいいっぱいおまけしてもらえた! 僕もいい男になる!」


 マーヤおばあちゃんの孫である少年は、大きな包みを大事そうに抱え、それはもう幸せそうな顔でそう宣言した。


「ぼくもなるー。おかしいっぱいー」


 青年に抱っこされて、元気に片手を挙げたのは、モニカおばあちゃんの一番下の孫だ。「おう! がんばれ」と父親は手を伸ばして息子の頭を撫ぜた。


「果物もいっぱいおまけしてもらえたよ。エレネさんの恋人さんが『いい男』で良かったね、エレネさん!」


 それは大変素晴らしいことだというように、妹が弾んだ声でそう言った瞬間、モニカおばあちゃんと息子夫婦だけでなく、両隣の店の人たちまでもが堪えきれずに噴き出していた。





「……もう村に行けない」


 フードを深く深く被り、モニカおばあちゃんから借りた籠を抱きしめたエレネは、ちいさな荷車に乗せられて後ろ向きで運ばれていた。小さな荷車の乗り心地はそんなに良くない。でも、自分の足で歩く気力はもう残っていない。

 エレネが抱えている籠は、元々買ってくる予定だったものと、おまけしてもらったものでいっぱいになっている。


「慣れると案外気にならなくなるものですよ? その内みんな飽きますよ」


 ……そんな訳はない。田舎は娯楽が少ない。当分これで遊ばれ続けるに決まっている。


「必要なもの全部揃えられたから良かったですね。子供達と一緒に色んなお店を回ったんですが、楽しかったですよ。今度はエレネさんも一緒に……」


「むりです」


 子供のように拗ねた声が出てしまう。本当は、一緒に色々回れたらいいなと楽しみにしていたのだ。でも、とてもそんなことができる状況ではなくなってしまった。

 結局必要なものの買い出しは、青年が子供達といっしょに全部やってくれた。三人の子供たちは戻って来るなりエレネに飛びついて、あった事を全部報告し始めた。一度に喋るので何が何だかよくわからなかったが、どこの店でも青年のことを『エレネさんの恋人さん』だと自慢げに紹介したのだということは理解できた。


 相当独占欲の強い女だと思われたに違いない……


(いっそ改名したい……)


 体中の力が抜け落ちた。荷車が石を踏むたびに大きく揺れるからお尻も痛い。帰って布団を被ってふて寝してしまいたい。

 まだお昼前だ。丁度、市場で落ち合う約束をしていた時間。

 ……たくさんおまけしてもらって得をしたはずなのにあまり嬉しくなかった。


「機嫌直してください。蜂蜜が手に入ったんで、戻ったら温めたミルクに溶かしましょうか。この間割ってしまったカップの代わりも買えて良かったですね」


 エレネはこんなにもやもやした気持ちを抱えているのに、彼はエレネを抱え上げた時からずっと上機嫌だ。


「…………からかわれるの、いやじゃないですか?」


 後ろを振り返って、荷車を引っ張る背中に尋ねると、何故か明るい笑い声が聞こえてきた。


「何で笑うんですかっ」


「エレネさんこそ、いやじゃないんですか? ……私は、てっきり思いきり否定されるのだとばかり思っていたので、ちょっとびっくりしました」


 荷車を止めて、彼はエレネを振り返る。

 最初何を言われたのかわからなかった。否定すると思っていた。……何を? エレネは軽く首を傾げる。


(エレネさんの恋人さん。……恋人……さん?) 


 声にならない悲鳴がエレネの口から漏れる。再びフードを引っ張って顎の下まで持ってくると、エレネはぎゅうっと腕の中の籠を抱きしめた。口から心臓が飛び出しそうだ。


「あ、やっぱり気付いてなかっただけだったんですね」


 エレネの前まで歩いて来た青年が少し意地悪く笑って、フードを外してしまった。風が顔に当たって、熱を持った頬を冷ましてゆく。


「ああああ、あ、の、な、ま……あ、あの、やっぱり不便かもっ……て……おもっ……」


 最早自分でも何を言っているのかよくわからない。


「特に不便を感じていないからこのままでいいです。私に声をかける時に、毎回どう呼びかけようか困っているエレネさんかわいいし、エレネさんの恋人さんって呼ばれるの、嫌じゃないんで」


 エレネはどうしてこんな意地悪をされるのかわからなくて、泣きたくなる。


「それに、新参者の私よりも先に、エレネさんはまずおばあちゃんたちの名前から呼べるようにならないと。……あの子たちだって、ずっと名前を呼んでもらえるのを待ってるんですから」


 びくっとちいさく肩を震わせて、気まずさに視線を彷徨わせてから、エレネは篭に蓋をするように置いた腕に顔を埋めた。


 ――さらっとそういうことが言えてしまうこの人のことが……とても好きだと思った。


 見なくてもわかる。きっと彼はいつものようにとても優しく微笑んでいる。


「ここから道が悪くなるので、お尻が痛くなります。手を繋いで歩いて帰りませんか?」


 目の前に差し出された手に、つかまって荷車をおりる。そのまま二人で手を繋いで歩き始める。彼の言った通り道が荒れ始め、カラカラガタンと青年が反対の手で引く荷車が大きな音を立てた。


「空の色がきれいですよ。エレネさんが好きな花の色に似ています」


 照れて俯いて地面ばかりみているエレネにそう言って、彼は少しつないだ手を持ち上げた。エレネは促されるままに空を見上げる。吸い込まれそうに澄み切った綺麗な青空だ。

 鳥のさえずりと、風の音。右手には確かなぬくもりがある。

 欲しかったものは全部ここにある。そんな気がした。


 こんな風に二人で歩いてみたかったのだと、泣いた日のことを思い出す。

 このままもう一度時間を止めてしまいたい。『エレネさんの恋人さん』のままでずっと、こうしてそばにいて笑っていてほしい……


「……もうすぐ、戻られますか?」


 湿っぽくならないように気を付けたつもりなのに、そう尋ねた声は沈んでいた。


「そうですね。報告には行かないといけないですね。でも、数日中に正式な辞令もおりるでしょうから、すぐに帰ってきますよ」


 鼻の奥がツンとして、目に涙が滲む。言葉の選び方ひとつでこんなにも違うものなのだ。気遣われている。大切にされているとわかる。

 またガタンガタンと車輪が大きな音を立てはじめる。瞬きで涙を散らして、繋いでいた手を離して腕にしがみつく。恋人なら、このくらいは許されるだろうか。


「エレネさんは……素直だから、本当に困る」


 困惑しきった声が隣から聞こえてきた。赤く染まった頬を見上げると、するりと腕を解かれて、同じくらい赤く染まった頬に大きな手がそっと当てられた。二人して照れながら微笑み合う。

 

「帰ってきたら、お名前を教えてくださいね」


 お互いの名前を呼び合って、目を合わせて笑って……




 ――そういうことがしてみたいと、ずっと思っていた。






   

 ――『エレネさんの恋人さん』 完 ――









 自分だけが覚えている。それでいいと思っていた。

 探さないと決めていた。また同じ事を繰り返して、傷付けるだけだ。



 水しぶき交じりの涼やかな風が全身を包み込んだ。男はゆっくりと瞼を持ち上げる。随分長い間眠っていたような気がした。


「誰かの願いがかなうとき、誰かの願いはかなわない」


 誰に言うともなく低く呟いて、色違いの目を眇める。

 物事には裏と表がある。そして遊戯には勝敗がある。どうやら勝者は決まり、自分は賭けに勝ったらしかった。掛け金はそのまま戻ってきたようだ。


 ロベルタが捻じ曲げた運命も、これから少しずつ修正されてゆくのだろう。

 それでも、二度と戻らないものもある。緑の目のアレスはもうどこにもいない。


 すぐにラウラが事情聴取に来る。巻き込まれただけだが、自ら率先して巻き込まれにいったんだろう! と糾弾されれば返す言葉もない。


(何から話すか……)


 頭の中で、一連の出来事の時系列を並び替えていた時だ。バタバタと足音が近付いて来るのに気付く。あれだけ館内を走るなと言っているのに、教え子は全く言う事をきかない。


 やれやれ、と思いながらも、ドアの鍵を開けておいてやる。あの勢いのままドアに激突されても困るのだ。


「シーゲル!」


 内開きのドアが勢いよく開き、目の前に迫る。それは間一髪で避けたが、飛びついてきた教え子の体だけは仕方がないので受け止めておいた。顔から床に激突されても困るので。


「ミディ、廊下は走るな。ドアはノックしてから開けろ。ついでに教師を呼び捨てにするな」


 どうして、彼女はいつも名前を呼ぶと顔を上げてこちらを見るのだろう。傷つける言葉しか出てこないのに。


「うるさいうるさいうるさいっ。引きこもりの偏屈じじぃのくせにーっ」


「出ていけ」


 滅多に動かない表情筋を動かして僅かに口角を上げると、ぺりっと教え子を引き離してぽいっとドアの外に捨ててから、ドアを閉めて鍵をかけた。途端にドンドンドンドンと激しくドアが叩かれる。おまえがうるさい。無表情にドアを見つめながら彼は思った。


 突然激しいノックの音が止む。ようやく静かになったと、踵を返した途端に泣き声が聞こえてきた。

 深い深いため息をついてから、結局解錠してドアを開ける。床にぺたんと座った教え子が子供のように両手で目を擦りながら泣きじゃくっていた。


 遠巻きに様子を見ている人々の視線が痛い。『あいつらまたやってるよ』とでも言いたげな表情だ。毎回泣き落としを使われるせいで、すっかりこちらが悪者だが、毎回無茶な要求をしてくるのは教え子の方だ。

 無礼で不愛想で無表情のひねくれた男と天真爛漫なお姫様が争っていれば、全員が全員若くて可愛いお姫様の味方につく。


 仕方がないので抱え上げて、部屋の中に入れるとドアを閉める。さてこれをどこに置くかという問題が次に持ち上がる。空いている椅子がない。

 改めて見回せば、本当に雑然とした部屋だなと思う。机の上には広げっぱなしの本と書類と実験道具が積み上がっているし、ソファも椅子も全部物が乗せられている。


(どれくらいの時間が経過した?)


 わからないが、五年十年という話ではなさそうだ。教え子が老けていない。


 手近な椅子に乗っている本を片手で床に落とす。宮中伯の一人娘を床に座らせる訳にはいかないので、椅子に座って自らの膝の上に乗せた。さっさと自力で泣き止んでもらいたい。女を慰める言葉なんて前の人生で全部捨ててきた。


「ど、どこっ……どこ行ってたんだ。シーゲル急に消えるからっ、し、心配したんだ。……誰も覚えてなくてっ、私だけが覚えててっ」


「周りの空気読んで一緒に忘れておけばよかったんだ」


「ばっ……バカなことを言うなっ。忘れる訳がないだろうっ。なんで、なんでそういうこと平気で言うんだっ」


 しまった、つい本音が出た。そして教え子は深く傷ついたという顔をしてさらに泣く。もう絶対に離れないというようにしがみついて額をシャツに擦りつける。


 椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げる。だらしなく両手は下に下ろした。

 これは教え子に手を出したということになるのだろうか。でも、座らせる場所はないし、がっちりしがみ付かれているから今更どうしようもない。 


 前世であれだけ泣かせて、生まれ変わった今も泣かせている。昔も今も碌な男じゃないのに、彼女はひたむきに恋心を捧げ続ける。これでようやく解放されると思ったのに、何もかもが上手くいかない。


(……忘れてしまえば良かったんだ。その方が幸せになれた)


 自分がいない間に、別の男と結婚でもしておいてくれれば良かったのに。


「……本っ当に男見る目ないな」


 どうせ泣いている彼女に聞こえないから、力なく笑って目を閉じた。細い指に指輪がないことに安堵している自分が心の底から気持ち悪い。


 でも、もういいか、もう疲れ果てた……

 

「なぁミディ――」




 ――これは、人生二周目のひねくれた男と、彼を一途に追いかけ続けた諦めの悪いお姫様のお話。





冬の間には……


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