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 おまけ エレネさんの恋人さん 前編

注) 本編とはちょっと雰囲気が違いますので、ご注意下さい。サブタイトルで無理と思われた方は、そっとお戻り下さい。よろしくお願いいたします。

   




 ――傷が癒えるまでここにいる。そういう話だった。


 包帯の交換は巡回で立ち寄る騎士たちがやっていたので、エレネは実際の傷を見ていない。

 彼は灰色のナイフで刺された、とだけ言っていたが、それは恐らく不安にさせないための嘘だ。頑なに傷を隠そうとする様子から、エレネはそう確信していた。

 



 エレネがアルゴから借りて住んでいる家の敷地は結構広い。お店兼住居として使っているちいさな二階建ての建物は、実は蔵のようなもので、母屋は別にあるのだ。

 冬になると人形劇団がやってきて、母屋の方で雪が溶けるまで暮らす。彼等が旅に出ている時はそちらが物置にされている。


 青年はそちらで寝泊りすると言ったのだが、エレネは首を横に振った。物置になっているし、ここ最近エレネの体調も優れなかったため、窓すら開けに行っていない。二階にあるエレネの寝室の隣には、ミディアが泊まりに来た時に使う部屋があるのだが、さすがに「そちらをどうぞお使いください」とは言えなかった。


「一階の奥に空き部屋がひとつあるんです。換気用の小さな窓しかないし、かなり狭くて申し訳ないんですけど、足を伸ばして寝ることはできます。……明日から母屋の方掃除しますね」


 青年を案内してドアを開ける。何かあった時に逃げ込んで籠城するための部屋だが、その目的で使われたことはまだ一度もない。布団が畳んで置かれたベッドが部屋のほとんどを占領し、人ひとりがぎりぎり通れるような隙間に保存食が入った布袋と水瓶が置いてある。


「この間布団は干しておいたので、このまま使っていただいて大丈夫ですよ?」


 小窓についている雨戸を外に開け放ちながらそう言って振り返ると、青年はどこかぼんやりとした目で室内を見回していた。訝し気なエレネの視線に気付いて取り繕うような笑みを浮かべる。


「……昔をちょっと思い出しまして。与えられていた部屋が……丁度こんな感じで。ベッドもなかったし、もっとずっと狭くてこんなに掃除は行き届いてなか……」


「今から母屋を掃除してきます」


「つらい思い出ではないんですよ」


 踵を返して部屋を出て行こうとしたエレネを慌てて捕まえて、青年は背中からそうっと抱きしめた。体がふわりと熱に包まれる。


「……毎日こうやって、背中からぎゅって抱きしめてくれる人がいたので。一瞬だけでしたけどね。すごくあたたかくて、幸せで。その瞬間を待ちわびて、恋焦がれて……でも、いずれ別れの時はくるとわかっていたから……すごく怖かった。目の前にうしなって壊れていった人がいたから」


 肩を抱く腕に力が籠る。

どういう言葉を返せばよいのかわからず、エレネはただ黙っている事しかできない。


「強くなりたいと思った。周囲を恨んで、運命を呪って、何も知らなければこんな苦しむことはなかったのにと、ぬくもりを教えてくれた人のことまで恨んで、自分で自分の心を切り刻んでゆく。そんな人間には絶対になりたくないと思っていた……なんかそんな事を思い出したんですけどね」


 突然声のトーンが明るくなる。彼はあっさりとエレネを開放すると、ドアに向かって歩き出した。


「何かどうでもよくなりました。エレネさんがやわらかくてあたたかくてちいさくてとてもかわいいから。……この部屋、使わせてもらいますね。着替えとか調理場の方に置かせてもらっているんで、持ってきます」


 そのまま彼は調理場の方へ去って行ってしまう。ひとりその場に残されたエレネは真っ赤な顔でその場に座り込んだ。


(……心臓が、もたない……かも)


 ぎゅっと目を閉じて壁に寄りかかる。頭がくらくらした。




 ――結局、青年は母屋へは移動せず、この部屋を使い続けることになった。


 エレネは二年間の人形劇団と旅をしていた経験があるし、青年はここに来る前は兵舎で暮らしていたという事で、二人とも他人との共同生活に慣れていた。

 怪我人のはずなのに、彼は洗濯や掃除など自分のことは全部自分でやってしまう。さすがにそれぞれ別に食事を用意するというのは効率が悪すぎるので、そこはエレネが作るという事で納得してもらった。その代わり、五年間ずっと貯めていたお金は受け取ってもらえなかった。


 そして――怪我の治りが早いと言っていた通り、一週間後には青年はすっかり回復し、軍服姿で出掛けるようになった。街道を巡回する任務を与えられたとのことだった。





 エレネは季節ごとに街道で行われる大きなマーケットに買い出しに来ていた。

 道の両脇に露店が並び、食べ物を売る屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。まだ商品を並べ終わっていない店が多いのに、すでに街道は人で溢れかえっている。

 同居人の青年は、いつも遊びに来るおばあちゃんに頼まれごとをされたのだと言って、朝早くから出掛けていった。日時計の前で九時に待ち合わせの約束をしている。昼からはマーケットの警備に就くと言っていた。


 家から持って来た小さめの荷車を片手で引きながら、のんびりと歩いていると、聞き慣れた声がした。エレネは何気なく視線を横に向ける。

 いつも店に遊びに来るおばあちゃん二人が、野菜の入った籠と一緒に大きな荷車に乗せられていた。荷車を引いているのはエレネと一緒に暮らしているあの青年だ。

 他の村人と変わらないようなシンプルなシャツとズボン姿なのに、品の良さが滲み出ているし、何より見た目がいい。すれ違う若い娘たちが色めき立っている。


 青年もおばあちゃん二人も、エレネが近くにいることに全く気付いていない。人が多いし、色違いの目が目立たないように、フードを目深に被っているからだ。

 約束の時間までにはまだだいぶある。いたずら心が起きたエレネは、三人の後をつけてみることにした。


「意地になってるんだねぇ……多分」


「もう自分から名乗ればいいと思うんだけどねぇ……」


「……それでいいんでしょうかね?」


「息子は、嫌がるね。そっちに賭けてないから」


「……まぁ不便がないならいいんじゃないかい、今のままでも」


「二人だと……名前呼ばなくても何とかなるからねぇ」


 そんな会話が聞こえてきた。

 何となく気恥ずかしくて、未だエレネは彼の名前をきくことができない。でも、意地になっているのは彼の方ではないかと思うのだ。絶対に自分からは教えてくれない。

 エレネが彼について知っているのは、騎士であるということと、どこかの貴族の次男だということくらいだ。


 いつまでここにいられるのだろう。

 ふとそのことに気付いた時、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 傷はもう癒えたから……もうすぐここから去ってゆくのかもしれない。


「モニカばーちゃん、こっちこっち、ああ、エレネさんの恋人さん、悪いねぇ」


 大きな声が響き渡る。暗く沈みかけたエレネの思考は一気に現実に引き戻された。

 エレネさんの恋人さん……? エレネさんって……わたし?


 動揺のあまり変な声をあげそうになって慌てて口を塞ぐ。


「えっと、どっちがどっちでしたっけ?」


 青年は露店の店先で荷車を止めて、おばあちゃん二人を順番に抱き上げて荷車からおろす。商品の野菜を並べていたおばあちゃんの息子が、顔を上げて荷車を覗き込んだ。


「うちのは、茶色の布がかけてある方で、あとの野菜はマーヤばーさんとこだな。荷車はここに横付けしてもらえるかい?」


「わかりました」


「うん。ホント助かるよ。エレネさんの恋人さん」


「いえいえ、こちらこそおばあちゃんにはいつもお世話になっているので。……でも、最後の一言って要りますかね?」


「あー、エレネさんの恋人さんだーっ。ばあちゃんも、こっちこっち、こっちだよ」


 今度は甲高い子供の声が響き渡った。ぎくうっとエレネの肩が震えた。


「あ、ほんとだー。エレネさんの恋人さんだー。マーヤばあちゃんも一緒だー」


 子供二人が人々の間を縫うようにして青年に駆け寄ってゆくのが見える。エレネは二人のことも良く知っていた。兄の方が十歳で妹が六歳になったばかりの筈だ。彼等がもう少し小さかった頃は、おばあちゃんと一緒に店に遊びに来ていたから、絵本を読み聞かせたりしていた。


「僕らの店はあっち」


「じゃあ、ちょっと行ってきます」


「おう、助かったよ、エレネさんの恋人さん」


「……それ、いちいち言う必要あります?」


 苦笑しながら青年は荷車からおろした野菜の入った籠をひょいっと背負う。「僕、これ持ってくよ」と、兄の方がそれより幾分小さな籠を抱え上げた。


「あたしもお手伝いするー」


「うん、じゃあおばあちゃんと手を繋いで一緒に歩いてあげてくれるかな? 人が多いからゆっくり歩こうね」


「わかったー。おばあちゃんお手てつないで一緒に行こうー」


「ああ、よろしく頼むよ」


 祖母と手を繋いだ少女はとても嬉しそうに笑った。


「子供の扱いに慣れてるねぇ。エレネさんの恋人さん」


「いやこのくらい普通でしょう?……で、取ってつけたように付け加えるの、やめません?」


「だって、恋人であるエレネさんも知らない名前を、俺らが呼ぶ訳にもいかないし?」


「完全に面白がってますよね?」


「田舎は娯楽が少なくてさぁ……」


「エレネさんの恋人さんは、お名前がなかったからエレネさんの恋人さんってよばれるようになって、今はエレネさんの恋人さんだからエレネさんの恋人さんってお名前なんだよね!」


 ちいさな少女に興奮気味に詰め寄られた青年は、何と答えていいのかわからないというように、笑顔を強張らせた。


「ああ、エレネさんの恋人さーん、丁度いい所に。ちょっとこっちこられるかなー買いすぎちゃって重くてー。手伝ってくれるー?」


 今度は少し離れた場所から声がかかった。誰かが大きく手を振っている。これまたエレネもよく知っている女性の声だ。先程から青年をからかって遊んでいる男の奥さんだ。


「ほら! みんなそうよんでるし」


 少女がキラキラした目で青年を見上げている。無垢な瞳に追い詰められた青年は一歩下がった。


 これは……これは……これは…………


 道の真ん中で立ち止まって震えているエレネを、不審そうに人々が避けて行く。

その時ふっと何かに気付いたように青年が振り返る。フードを目深に被った怪しい人物を見つけた彼は、おやっ? という顔をした。


「……あれ? エレネさん?」


 青年がエレネに向かって呼びかけた途端に、ばっと周囲の視線が一点に集まる。


「あ、エレネさんだー」


「エレネさんだ。エレネさーん!」


 無邪気に子供たちが大声で名前を呼んで手をふり始める。兄の方は抱えていた籠を地面に下ろして、満面の笑顔でぴょんぴょん跳びはねている。その大歓迎ぶりは嬉しい。とても嬉しいのだが……


「え? ええ? どうしました? エレネさん、そんなところで座り込むと危ないですよ」


 その場に蹲ってしまったエレネに驚いて、青年は背負っていた籠を下ろして駆け寄ってくると、ひょいっとばかりにエレネを抱え上げて顔を覗き込んだ。そして、それはもう幸せそうに笑ったのだ。

 顔から火を吹きそうになったエレネは慌てて青年の首にしがみつく。


 周囲できゃあっというような歓声が上がった。もうこのまま気絶してしまいたいとエレネは心の底から思った。

 


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