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 10 そして時間は流れ始める(終)




「あの灰色のナイフで後ろから刺されました。刺したのはエレネさんに掴みかかった従者で、助けてくれたのは兄です。倒れて動かなくなった私を見て一瞬正気に戻った。……そういう人なんです。だから憎み切れない」


 拳一つ分の間をあけてソファーに腰を下ろした青年は、エレネが一番気にしていたことを、たったそれだけの説明で終わらせてしまった。


「私は兄とは母親が違うんですよ。金の髪と青い目をもっているので、表向きには兄弟ということになっていますが、実際は愛人に産ませた子供です。兄が爵位を継いで息子が生まれるまでは生かしておこうという、その程度の存在でした。他にも何人かいるんです。あの従者も私からすると母親違いの弟、ということになります」


 それはまるで昔話を語るような、どこか他人事の口調だった。家畜のように扱われていたという言葉が耳に蘇って、エレネは胸が苦しくなる。


「兄は昔から心が弱く情緒不安定な人でした。調子が良い時は、気まぐれに優しくしてくれることもありましたが、何かのきっかけで、感情を爆発させて周囲に当たり散らすこともありました。兄は婚約者であるキーレンさまのことを誰よりも深く愛していました。キーレンさまも兄を受け入れようと努力なさっていたように思います。でも、結局……あの『事故』は起きてしまった」


 店内に沈黙が落ちる。エレネはただ黙って青年の言葉を待つ。彼はテラスに繋がるガラス扉の方に顔を向けながらも、厳しい表情でどこかここではない遠い場所を見つめていた。


「その辺りのことはもう、アルゴさまがお話しされたと思うので、私のことを少しだけ」


 ふっと表情を緩めて、青年はエレネに向き直る。


「五年前、エレネさんが隠れていた馬車を見送った日から、私の身に色々不思議なことが起きるようになったんです。例えば、私を鞭で打とうとすると何の前触れもなく突然折れたり、鞭をふり上げた者の手が急に動かなくなったりするんです。そして、明らかに傷の治りが早い。屋敷の者たちも不気味思ったのでしょうね。神殿に連れて行かれたんです。その時に、ラウラさまから、エレネさんを通して私に水神様の加護が与えられていると教えていただきました」


 どきんとエレネの心臓が大きな音を立てた。


「エレネさんが無事だとわかって嬉しかった。あなたを守れた自分を誇らしく思った。その時ですね、騎士になろうと決意したのは」


 そう言ってエレネを見つめる彼の表情は、今までとはうって変わって穏やかだ。自分の存在が彼にそういう表情をさせている。そう気付いた途端にエレネはそわそわと落ち着かない気持ちになった。


「加護は時間の経過とともに薄れて消えてしまいます。きっとあなたは、たった二度会ただけの少年のことなんて忘れてしまう。少し……じゃなかったですね、かなり寂しいけれど、それも仕方がないことだと思っていた……」


 エレネはどこを見ていいのかわからず、視線を彷徨わせる。恥ずかしくて相手の顔を見られない。鼓動がどんどん早くなってゆくのがわかる。


 少年に対する気持ちは、恋ではなかったように思う。でも、エレネの中でずっと、あの少年は『特別』な存在だった。

 彼のために祈りを捧げることは、一年も続ければ習慣となり、エレネからすれば食事の前に心の中で『いただきます』と言うのと同じ感覚になっていったのだけれど、果たして相手はどうだろう? 五年間ずっと、言葉も交わしたことのない女に一方的に祈られるというのは……


「えっと、さすがに、ちょっと気持ち悪い……」


「そんな風に思ったことは一度もありません」


 最後までエレネに言わせることなく、青年は真剣な顔をしてきっぱりと首を横に振った。


「あなたはあの日、自分の時間を止めてしまった。だから、あなたの中の私はずっと血まみれの少年のままだった。……今、私の目の前にいるあなたも、五年前のままです」


 青年は痛みを堪えているような表情をしている。

 エレネは大きく目を見開いてそのまま自分の体を見下ろした。手を広げて手のひらをじっと見て、手の甲を見て途方に暮れる。自分の姿は自分ではわからない。もう成長期は終わっているから服のサイズは変わらなかったし、毎日鏡で顔を見ているから変わったか変わっていないかわからない。 


 ……ちがう。彼が言いたいのはそういうことではないのだ。

 

 この五年間、エレネは目の前を通り過ぎて行く人たちをただ遠巻きに見送るだけだった。人との関わりも避けて逃げ続けていたから、人間として全く成長していない。今も五年前と同じ臆病な小娘のままだ。彼が言いたいのはきっとそういう事……


「私はもう子供ではないんです。あなたに対して抱いているこの感情の名前が何であるのか、ちゃんとわかっていますし、エレネさんが私のことをどう思っているのかも、本当はわかっていたんです。あなたはとても素直な人だから」


 強い眼差しがエレネの色違いの目を射抜く。


「でも、私は、あなたが自分自身の時間を止めている内に……あなたの中の私の姿を書き換えなければならなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()


 伸ばされた手が、そっとエレネの手の甲に触れる。逃げないとわかるとそのまま包み込むように握られた。五年前ならきっと、エレネの手の方が大きかった。


「どうしたらエレネさんは私の名前をきいてくれますか」


 繋いだ手を引き寄せられるままに、青年の方へ体を倒す。


「どうしたら、私の気持ちを受け入れてくれますか」


 反対側の手が伸びて、後頭部を支えるようにさらに引き寄せられる。強引な力でない。抵抗しようと思えばいくらでもできるのに、エレネはされるがままだ。


「どうしたら……私を好きになってくれますか。……あの少年ではなく、今目の前にいる私を」


 思った以上に近い位置で視線が絡む。心臓がどきんと鳴った。唇に吐息が触れるから。ぎゅとかたく目を閉じた。


「……いつもみたいに、はぐらかさないんですね」


 そのまま静かに唇が重ねられて……すぐに離れた。そっと抱きしめられる。自分より少し高い体温に包まれると安心する。お互いの体温が溶け合って、どこまでが自分なのかわからなくなる。

 冷静そうに見えるのに、耳に届く鼓動はとても早い。自分の胸に手を当てると、彼と競うように走り出している。


「どきどきします」


 夢の中にいるようなぼんやりとした声で呟いて、目を閉じたまま肩に頬を擦りつける。


「そういうことを言わないで下さい……」


 焦ったような声が耳に届くから不思議に思う。どうして今になって照れるのだろうかと。目を開けると彼は真っ赤な顔をしているから、少し離れた場所にある彼の唇の端に中指の先でそっと触れてみた。

 エレネはそのまま少し膝を伸ばして同じ位置に今度は唇で触れる。まだ好きですと言葉に出せるほどの勇気はないから、それが今できる精一杯だ。

 全力疾走した後のような鼓動を感じながらも、良かった、ちゃんとできたとエレネは笑み崩れた。そして……やっぱり照れた。


 ああこういうことなのだと、今この身をもって知った。

 顔が一気に熱を持つ、胸に当てた手をぎゅっと強く握り締める。暴れ回っている今心臓は今にも飛び出してきそうだ。くすぐったいような感覚を持て余して、背中を丸めるようにして手を強く押し当てる。


 信じられないというように大きく目を見開いていた青年は、突然ばっと口元を隠して真っ赤な顔をエレネから背けてしまう。

 別の方向を見ながら真っ赤な顔で二人とも照れているという、よくわからない状態になっている。

 耳に届くどどどどっと暴れている鼓動が愛おしい。恥ずかしいのはお互い様だ。エレネの心臓だって負けないスピードで走っている。


「……は、はずかしいです」


「だ……から、そういうこと言わないで下さい」


 呻くように青年はそう言って、まるで言葉を封じ込めようとするかのように、ぎゅうっとエレネを抱きしめた。


「エレネさん、お腹空きませんか? 色々あってお昼食べそこなってしまいましたよね。簡単なものしか作れませんが、何か用意しましょうか?」


 焦った声で提案されたので、エレネはぎこちなく首を縦に振った。


「いつものスープで良ければありますよ」


「でもそれ、エレネさんのお昼ご飯ですよね?」


「……ふたりぶん」


 沈黙が落ちる。これはこれでまた恥ずかしい。全身が熱をもっていくのを感じる。顔だけでなく指先まで赤い。これはいつまで続くのだろうか。


「……自分の都合のいいように、取りますよ? もしかして、毎日スープを作って待っていてくれたんですか?」


「…………」


 エレネは何も答えられずに俯いて、スカートを握りしめた。察しのいい彼は気付いているに決まっている。

 自分でもどうしようもないなと思いながらも、沢山作った方が美味しいからと言い訳して、二人分のニンナ婆さんのスープを毎日作り続けていた。余ったスープはそのまま夕食にしたり、遊びに来たおばあちゃんたちに出したりしていた。


「あ、あの……いっしょに、食べて、くれますか?」


 思い切って顔を上げて青年にそう尋ねる。


「…………緊張してこぼしそうです」


 膝に頬杖をついて横を向きながら、青年が力なく呟いた。エレネは赤い顔のままふふっと笑ってしまう。


「用意してきますね。怪我をされている方は、ここで座って待っていて下さい」


 ソファーから立ち上がった所で、そっと手を握られた。離れる体温を惜しむように。

 あたたかくてかたい大きな手に守られているエレネの小さな手。このぬくもりを失いたくないと強く思った。


(どうかこの人をお守りください。ご加護をお与えください)


 心の中でそっと祈った。その時だ――


 ふわっと水の気配がした。ふと横を見ると、黒と赤の目を持つアレスの娘が、幸せそうに微笑んでぎゅっと青年を背中から抱きしめるのが見えた。青年が振り返ると同時に彼女の姿がふっと消え失せる。それはほんの一瞬の出来事だった。


「……………へ?」


 エレネは茫然と彼を見下ろす。かあっと頬がさらに赤くなる。色々恥ずかしい思いをしたけれど、これが一番恥ずかしい。


「……え? いつもこんな感じですよ」

 

 慣れ切った様子で青年はそう言った。つまり、エレネが祈ればその度にこれが起こって、エレネの幻は、ぎゅっと彼を抱きしめて? ……え? 

 ショックのあまりがくっと足から力が抜けて、エレネは床に座り込んでしまう。立ち上がった青年に抱き上げられてソファーに戻された。


「…………あ、周囲の人には見えていませんからね。でも、これでエレネさんのことを好きになるなと言う方が、無理だと思いませんか?」


 エレネは両手で顔を隠しながら首を横に振る。


「いえ……あ……の、やっぱり気持ちわる……」


「そんな風に思った事は誓って一度もないですね。今はあんな風に微笑んでくれていますが、五年前はずっと泣いていたし、つい最近まで悲壮感漂う表情をされていました。こんなにも心配させているのかと毎日胸が締め付けられて苦しかった。笑ってほしいとずっと思っていたんです」


 今説明されても、エレネの頭には全く入ってこない。


「服……ふくが……」


 屋外で祈ることが多かったため、裸という事はなかったと思う。でも、夜眠る前に祈ることもあって……そういう時は寝間着……


「そこは気にしなくていいです。背中ですし一瞬のことなんで、顔しか見えません。もう一度言いますけど、他の人には見えていないんです。力のあるアレスには見えるかもしれないとラウラさまはおっしゃいましたけど、今まで一度も誰かから指摘されたことはないです」


 その言葉にやっと少し気持ちが落ち着く。それでも、やっぱりこのまま消えてしまいたいくらい恥ずかしい。顔を隠す手を離せない。


「エレネさんが必死に守っていたのは十三歳の頃の私です。あの時私が大人だったら、絶対に同じ結果にはならなかった。さすがにそのくらいのことはわかります」


 それから、青年は急に拗ねたような声になって続けたのだ。


「だから、なかなか会いに行く決心がつかなかったんです。あの時の少年は私ですなんて言える訳がない。……恋敵が純真な子供の頃の自分なんて、本当に最悪です。勝てる要素なんて何ひとつない訳ですから」


「で、でもそれは私も同じで……」

 

 そう言いかけたエレネの言葉は途中で遮られた。


「この店で再会した時に、気付かれなかったことを喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなくて、もう頭の中ぐちゃぐちゃでした。近くで見た幻じゃないエレネさんは、もうどうしようかってくらいかわいいし、笑顔はさらにかわいいし、何が何だかわからなくなっていたんです。……あの時の私の方が余程気持ち悪いですよ」


 恨めしそうにそんな事を言われても困ってしまう。


「まぁでも、最近思うんです……父方の血なんだろうなって。似ている所なんて全然ないと思っていたのに」


 完全に開き直った声が近い場所から聞こえたことに驚いて、エレネは顔を上げる。ソファーの背もたれに手を置いて、覆いかぶさるように青年が顔を覗き込んでいた。


「……言っておきますけど、純真な少年だったのは五年前ですからね?」


 まだ名前も知らない青年が晴れやかに笑っている。彼は少し身を屈めるようにして、真っ赤に染まったエレネの頬に軽くキスをした。




             完

次は番外編ですが、少し間があきます。

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