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ひょんなことから、猫又人生38才目がはじまりました  作者: めこねこ


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第3話 猫生のはじまりは驚きから

 にゃッ!?


 目を開けると、視界が低い。

 地面が近い。

 土と草の匂いが、やけに鮮明に感じられる。

 遠くの雑踏も、鮮明に聴こえ、意識をしなくても全てが聴こえた。


 石畳の隙間から生えた苔の緑、砂利の一粒一粒の形、雨粒を受けて丸くなった泥の表面。人間だった頃には素通りしていた世界の細部が、信じられないほどくっきりと目に飛び込んでくる。


 猫って目が悪いって聞いていたが、そんなふうには感じられない。鮮明すぎるほどに鮮やかに、自然のあらゆるものが細部まで網膜に飛び込んでくるようだった。


 そして、どんな小さな音も、右と左の耳が自然とピクピクと角度を変え、その音の出処や距離感を判別し、目を瞑っていても状況を把握することが出来るようだ。


 手を見ようとすると、そこにあったのは――

 黒い毛と、丸い肉球。

 グッと力をいれると、自動的に爪がニョキッと出てきて、しっかりと地面を蹴ることが出来そうだった


(……え?)


 体を試しに動かしてみると、驚くほど軽い。

 三十七年間、肩と腰に貼り付いていた重さが、嘘のように消えている。腰痛も肩こりもない。このまま疾走したら、どれだけの速さで駆けることが出来るだろうか。体を動かしたくてウズウズとした感覚が生まれる。


 ふと、鼻先に自然の香りを感じた。空気の一粒一粒が澄んでいて、風が運んでくる匂いが、胸いっぱいに広がる。ただの空気がこんなに細かく、そして複雑に絡み合うような匂いだったのかと愕然とした気持ちになる。


 濡れた石畳の冷たさ。どこかの梢が揺れる音。遠くを走る市電の姿。新緑を含む風の香り。

 どれをとっても新鮮で、そして鮮やかだった。


 一旦、周りを見渡す。少し先に、石造りの重厚な鳥居が見える。反対側には広い芝生が広がっている。

 以前に何度か訪ねた事がある場所。

 ここは――加藤神社の境内前だ。


 石造りの鳥居が、夜明けの淡い光の中で薄く白みがかりひっそりと浮かんで見える。すぐそこには熊本城の石垣が迫り、苔むした巨石がずらりと積み上がっている。人間だった頃、何度も脇を通り過ぎたあの石垣だ。猫として見上げると、こんなにお大きいものだったのかと見上げてしまう。


 近くの手水舎に足を運ぶ。水面に移る自分の姿を見るためだ。

 そこには、エメラルドグリーンの瞳を持つ黒猫がいた。


(……本当に、猫になってる……?)


 だが、違和感があった。


 お尻のあたりが、妙に「二つ」動く。


(……ん?)


 振り返る。

 尻尾が――

 二股に分かれていた。


「にゃ、にゃんだってー!?」


 叫んだつもりが、可愛い鳴き声にしかならない。

 その拍子に、ぴょんと飛び上がった。

 ――のだが。

 降りてこない。


(……あれ?)


 気がつくと、石垣の中段、地上から三メートルほどの高さに、佐藤はふわりと浮いていた。足下には何もない。ただ、不思議と怖くない。むしろ体がそこに在ることを、ごく自然に受け入れている。


(浮いてる。オレ、浮いてる。なんで浮いてるんだ)


 おそるおそる、下を見る。

 境内の石畳。手水舎に社務舎。自分のさっきまでいた場所。

 それほど高くはないが、眼下には地面が広がって見える。


 意識を集中させると、ゆっくりと降りられた。着地した肉球に、冷たい石畳の感触が伝わってくる。


(……飛べる? いや、浮ける?)


 そのとき、境内の入口に人影が見えた。

 早朝の参拝者だろうか。年配の女性が一人、ゆっくりと鳥居をくぐってくる。

 佐藤は、なんとなくその人を見た。


 ――見えた。


 その女性の体の周りに、うっすらとした光の膜のようなものが見えた。穏やかな、薄い黄色。朝の日差しのような色だった。何かを祈りに来た人の、静かな安らかさが、そのままその色に滲んでいるように感じられる。


(……何だ、これ)


 目を細めると、もう少しはっきりと見える。目を見開くと薄れる。どうやら力加減がいるようだ。


(人の気持ちが……色で見えてる?)


 その時、落ち葉が一枚、足元に舞い落ちてきた。

 なんとなく、動かせるような気がした。


 ――ひゅっ。


 落ち葉は動いた。が、狙った方向ではなく、なぜか鳥居の方向へすっ飛んでいき、参拝中の女性の頭にペチッと直撃した。


「あら、まあ」


 女性は不思議そうに空を見上げる。


(す、すみません……!)


 謝りたいが、声に出ればにゃあとしか鳴けない。制御がまだ全然できていないらしい。

 そのとき、頭の中に、あの老人の声が響いた。


『ああ、そうじゃそうじゃ。言い忘れておったがのう』

(言い忘れてたの!?)

『人間の魂を持ったまま五十年も生きる猫など、普通の猫では済まんのじゃ。つまりお主は、生まれながらにして"猫又"じゃ。それにな、お主の純潔が、ちいとばかり力に影響してな。ちょっと力が盛られてると思うのう』

(盛られてるって何!?)

『人の心が色で見える。ふわりと浮ける。それから、ちょっとしたものを動かせる。まあ、使っておるうちに慣れるじゃろ。』

(慣れるって言うな!)

『まあ、細かいことは気にするな。熊本の街は広いぞい。楽しんでこい。』

(楽しむ……か。そうだな。)

『最後に、しっぽが二本あるのはお主にしか見えんから安心せい』


 声は、そこでぷつりと途切れた。

 佐藤は、しばらく呆然とした。


(……いやいやいやいや)


 猫になっただけでも衝撃なのに、妖怪になっていたとは。


 だが、風は心地よく、体は軽い。熊本城の石垣が朝の光を受けて、しっとりと濡れた表面に輝いている。遠く阿蘇の山々の方角から、夜明けの兆しが空を染め始めていた。


(……まあ、いいか)


 和雄は、二股の尻尾をゆらりと揺らした。


(天国には行けると思ってたんだけど……猫又か)


 さて、と佐藤和雄は――もとい、猫又の佐藤は思った。


(とりあえず、腹が減った。猫のメシってどこで食えるんだ)


 こうして、猫又おじさんの第二の猫生が、拍子抜けするほどあっけなく始まった。

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