第2話 転生って本当にあるんだ
雨音が遠ざかり、世界が静かになった。
痛みも、重さも、湿った空気もない。
あれほど全身を叩いていた雨の冷たさも、アスファルトの硬さも、市電の轟音も、何ひとつ残っていない。まるで、世界から音という音が、そっと拭い去られてしまったようだった。
気がつくと、白かった。
ただ、白い。
視界の端から端まで、どこまでも続く白。
床があるのか天井があるのか分からない、輪郭のない白さの中に、佐藤和雄はふわりと立っていた。いや、「立って」いるのかどうかも定かではない。足の裏に、地面を踏んでいる感覚がない。ただそこにある、という感覚だけがある。
(……死んだ?)
痛みはなかった。体の感覚もよく分からない。あるのはただ、奇妙なほど穏やかな静けさだけだ。
一瞬、夢でも見ているのか、と思って、頬をつねってみようと手を伸ばそうとした。うまくいかない。手を見てみようとするが、その感覚もない。自分が今、その白い空間に、ふわりと浮かぶ存在なのだと認識できた。それだけで、夢ではなさそうな現実感だけは、強く感じることができた。
そして、その現実感の理由のもうひとつが、場違いなほどの「生活感」が、目前に見えているからだった。
その白い空間に、ポツンと見えるのが、丸いちゃぶ台。その上には湯気の立つ湯呑みと、小さな菓子皿に盛られたお菓子。丸い形で金色の包装紙、真ん中に「陣太鼓」と書かれたそのお菓子が二つ。そのうちひとつは包装が解かれ、そのちゃぶ台に座る白髪の老人が、嬉しそうに頬張っていた。
何もかもが白い、無の世界。その真ん中に、ちゃぶ台と、お茶と、お茶請けの和菓子と、それを食べる老人。
あまりにも、のどかだった。
ここがもし死後の世界というのならば、もっと荘厳で、おそろしいものだと思っていた。三途の川だとか、閻魔大王だとか。それが、この、近所の茶の間のような光景は、どうしたことか。
白髪の老人と、目が合う。
深く刻まれたシワを、より一層深め、ニコリと微笑んで、手招きをした。
このままここに「立って」いたとしても、何も進まない気がした。
佐藤は、請われるまま、すーっとちゃぶ台に近づいていく。
「――やっと起きたかのう、佐藤和雄くん」
老人は、柔らかい声で語りかけてきた。年相応の嗄れた感じもするが、凛と通っている声だ。服装は、白を基調とした、見るからに上等な着物に、緩い羽織。羽織の胸には、金糸で鳥の図柄が縫われている。三本足の、カラスのような図柄。
(……三本足のカラス。確か、八咫烏とかいったか)
神話か、何かで聞いた覚えがある。神の使い、とか、導きの神鳥、とか。
その上品ないで立ちは、どこかの大きな神社の宮司のようでもあり、近所の優しいおじいちゃんとも言える。ただ、その目だけが、底が知れなかった。柔和に細められているのに、その奥は見通せないほど深く重いものを感じる。
「……ここは、どこですか」
「ん〜まぁ、あっちとこっちの間、狭間になる場所じゃな。死んだもんが一度だけ立ち寄る、いわば休憩所みたいなもんじゃ」
佐藤は、すぐに理解をした。あっちとこっちの間。つまり、あの世とこの世の、境目。
「あなたは……」
「わしか? わしは、あっちとこっちの間で導くもん、ちゅう役かな」
そう言うと、カッカッカと、ひと笑いした後、湯気の立つ湯呑みを口に当て、ずずずっと飲む。まだ熱いのか、少し顔を歪めながら。
(導くもの、か)
神様、と呼んでいいのかどうか、佐藤には分からなかった。だが、この、のどかで、どこか食えない雰囲気の老人が、自分の死後を左右する存在らしいということだけは、なんとなく察しがついた。
「……俺、死んじまったんですよね」
「いかにも。あの市電とのぶつかり稽古でな」
ぶつかり稽古、という言い回しに、佐藤は少しだけ、苦笑しそうになった。命を落とした出来事を、まるで相撲の稽古のように言う。この老人の、独特の間合いだった。
そう言うと、老人は陣太鼓の残りを口に入れ、その美味しさの余韻を噛みしめるように咀嚼したあと、お茶をすすりながら、うっとりと目を閉じる。
(……人が死んだ話をしながら、よくもまあ、そんなに美味そうに和菓子が食えるな)
呆れる、というより、なぜか、肩の力が抜けた。これが、もし厳めしい裁きの神なら、佐藤はもっと萎縮していただろう。この老人の、人を食ったような、のんびりとした空気が、かえって、佐藤の心をほぐしていた。
「しかし、お主の行動は実に尊かった。あの仔猫は無傷で、今頃は優しい女子中学生に拾われて、保護されておるよ」
「……そうですか。それなら、よかった」
それを聞いて、佐藤は胸をなでおろす。自分の行動の結果。一番気にかけていたこと。こちらから聞かずとも安心させてくれるその配慮に、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
無駄じゃなかった。
胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった。良かった。自分の人生に後悔は多かったが、最後の瞬間だけは、胸を張れる気がした。それだけで、なぜか、十分なような気がした。
濡れたレールの上で、震えていた、あの小さな命。あれが助かったのなら、自分の死には、ちゃんと意味があったのだ。
三十七年。うだつの上がらない、便利屋のような人生だった。けれど、その最後の最後に、たった一つだけ、誰の目にも明らかな「善いこと」を、できた。
それは、ささやかだけれど、確かな、誇りだった。
老人は、新しい陣太鼓に手を出そうかどうしようか迷い手をしながら、ひとまずお茶に手を伸ばし、一拍置く。佐藤は、静かに、次の言葉を待っていた。
「さて、ここからが本題じゃ」
老人は、急に真面目な顔になった。
さっきまでの、和菓子に夢中だった好々爺の顔が、すっと引き締まる。その変化に、佐藤も、思わず姿勢を正した。
「不平も言わず、周囲を助け続け、自分よりも相手を優先する。そのうえ最後は、自らの命を以て、小さな命を救った。天国行きは、確定じゃ」
静かに、諭すように、声を届けてくれる。
「は、ありがとうございます」
なんとも間の抜けた返事だ、と佐藤自身も思った。老人は、満足そうに頷く。
「ただ」と声は続いた。「せっかくじゃから、少し提案があるんじゃ」
「提案?」
「そうじゃ。お主、本来の寿命ならあと五十年は生きれたんじゃ。天寿てやつじゃな。それを残して、そのまま天国に行くのは、少しもったいなくはないか? 何かのために命を散らした者の、余生の五十年。このまま無に帰すのは、惜しいとも思うのじゃ」
佐藤は、言葉の意味を反芻する。
あと、五十年。
つまらない人生だと感じていたが、本来なら、九十歳近くまで生きる予定だったのか。あの、灰色のような日々が、あと五十年も続くはずだった。そう思うと、ぞっとするような、それでいて、どこか惜しいような、不思議な気持ちになる。
「ご、五十年も……?」
つい、言葉が出てしまう。
その言葉を、老人はどう受け止めたのか、話は続いた。
「そうそう。そこでじゃな」
老人は、にやりと笑って、言葉を切る。
「――お主が望むなら、もう少し下界で、その寿命、使ってみんか。形は変わるがの」
「形が……変わる?」
「そうじゃ。猫として、じゃ」
沈黙。
佐藤は、数秒、その言葉を咀嚼した。
「猫……として、五十年?」
猫って、五十年も生きたっけ? そう思いながら、佐藤は老人に確認するように、その言葉を繰り返す。
「そうじゃ。知恵も記憶もそのまんまに、熊本の街を、猫として自由に駆け巡ってみんか。せせこましい人間としての人生ではなくなるが、代わりに、日向ぼっこ三昧じゃ。風の匂いを感じながら、自由を満喫する、猫としての猫生じゃ」
佐藤は、思わず笑った。
日向ぼっこ三昧。つまり、昼寝し放題、ってことか。
毎朝、満員の通勤に揺られ、苦手な上司に頭を下げ、後輩の尻拭いに走り回る。そんな日々と、日向ぼっこ三昧。
……笑ってしまうほど、対極だった。
「もちろん、断ってもいいんじゃぞ」
断っても構わない。でも。
佐藤は思った。人間としての三十七年を、振り返ってみる。
悪い人生では、なかった。自分の思い描いた人生ではなかったかもしれないが、常に、誰かのために動けていた。ちゃんと働いて、人に頼られて、誰かの役に立って。誇れるものは何もないけれど、恥じるものも、何もない。
ただ——。
朝、目が覚めて、会社に行って、誰かの尻拭いをして、夜、一人の部屋に帰る。その繰り返しの中で、いつからか、心のどこかが薄く膜を張ったように、外部からの刺激に感情が揺れ動かなくなっていた。
嬉しいも、悲しいも、どこか遠い。
生きているというより、ただ、日々をやり過ごしている。そんな感覚だった。
最後に、心の底から「楽しい」と思ったのは、いつだっただろう。
……思い出せなかった。
(……そうか。俺は、たぶん、ちょっと疲れてたんだな)
路面電車に轢かれる、その直前まで。「俺の人生、何だったんだろうな」と思っていた。あれは、きっと、本音だった。
ただ、なんとなく……なんとなく、閉塞感があった。便利に使われて、誰かのために走り続けて、そして最後に、路面電車に轢かれて終わり。
それはそれで、悪くない幕引きだが。
(猫か。猫というのは、どんな感じなんだろうな)
今まで、猫を飼ったこともなく、身近にも、猫と接する機会がなかった。そのため、なんとなくでしか、猫という生き物を捉えることが出来ない。
気まぐれで、自由で、誰にも媚びない。そんな、漠然としたイメージ。
そんな猫として、これから五十年。
どんな人生か——いや、どんな猫生か、見当もつかない。
でも、もう一度、何かを「楽しい」と思えるなら。もう一度、心の膜の剥がれた、剥き出しの感情で一喜一憂することが出来るのならば。
(……やってみても、いいかもしれないな)
人間に媚びず、何者にも縛られない生き物が猫。自由に街を歩き、好きな時に食べ、好きなだけ寝ている。たとえば、熊本城の石垣の上から、この街の季節の移り替わりを眺めながら眠りにつくとか、そういうことが、出来るのだろうか。
人間だった頃には、ついぞ手に入らなかった、自由。
(……まあ、いいか)
三十七年間、損な役回りばかりだった自分への、せめてものご褒美ではないか。
「……いいですね。猫生ってのも」
「おお、乗ってくれるか!」
老人は、嬉しそうに膝を叩いた。声が弾んでいるのが分かる。
「善は急げじゃ。早速、手配をするかの」
そういうと、老人は佐藤の前に手をかざす。何かが流れ込んでくる感じと、代わりに、何かが抜けていく感じがする。
体の奥が、じんわりと、熱くなったり、冷たくなったりする。不思議な感覚だった。自分という存在が、少しずつ、別の何かに、編み直されていくような。
「ほう、善行だけじゃなく、お主は純潔なんじゃな。こりゃ面白いのう」
「じゅ、純潔?! ち、ちげうし」
「なんも恥ずかしがることはあるまい。ほれ、準備は出来たぞ」
佐藤が自分の体を見ると、薄っすらと光っている気がする。
「一応な、五十年も生きることになるから、体の方は丈夫に出来ておる、はずじゃ。ただ、無理だけはせんといてくれよ。何事も、程々じゃ」
「はい」
確かに、五十年も猫が生きるとは、聞いたことがない。せいぜい、十年から二十年。長生き出来るなら、健康にこしたことはない。
ただ、一つ、気になることがある。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「なんじゃ」
この際だ。自分の気になることは、きちんと聞いておいて損はない。
「生まれ変わる先ってのは、選べるんですか」
「先というか、わしの管轄内で出来ることなら、可能じゃな」
管轄……。さっき老人が食べていたものから察するに、熊本が管轄、と考えていいのかな。陣太鼓は、熊本の銘菓だ。
「じゃあ、可能なら、熊本城の近くがいいです」
二十年以上、毎日のように、その脇を通って暮らした街。うだつは上がらなかったが、嫌いにはなれなかった、あの城下町。生まれ変わるなら、知らない土地より、あの石垣の見える場所がいい。なんとなく、そう思った。
老人は、ホッホッホと笑いながら、白いあごひげを、上から下に撫で下ろす。
「そんなこと、お安い御用じゃ。熊本城の、わしのチカラの及ぶ場所に、降り立たせるからの」
そんな会話を交わしていると、佐藤は、フワッとした浮遊感とともに、どこかに吸い込まれていく感覚を受ける。
体が、軽い。意識が、白い空間の中に、溶けていくようだ。
「そろそろじゃな。お主とは、これでお別れじゃ。次に会うのは、五十年後かのう」
その言葉が聞こえ終わるかどうかで、佐藤の意識が、薄れていく。
遠ざかる意識の、いちばん端で。
老人の声が、ぽつりと、聞こえた気がした。
「あ、ひとつ、言いわす——」




