第4話 半年間の猫又の日常
転生から、五ヶ月が経った。
猫生として目覚めた加藤神社。そこには御神木のような楠が何本も生えている。
その中のひとつ――楠の古木のウロを、佐藤は住処とした。
これが思いのほか居心地が良かった。
雨風は防げる。熊本城の石垣がすぐそこに見える。夜明けには遠くに見える阿蘇の山並みの稜線が茜色に染まり、夕暮れには城の天守が橙色に輝く。人間だった頃、あの道を何百回と通り過ぎながら、一度もちゃんと見上げたことがなかった景色が、今は毎日目の前にある。
(……これはこれで、悪くないもんだ)
と、思えるようになったのは、転生から一週間ほど経った頃だった。
最初の三日間は、正直なところ、頭が追いつかなかった。
肉球で地面を踏むたびに「これが俺の足か」と確認し、水たまりに映る自分を見るたびに「やっぱり猫だ」と確認し、尻尾が二本あることを思い出すたびに「そうだった猫又だった」と確認した。確認するたびに「にゃーん」としか声が出ないのが、またもどかしかった。
(せめてものの救いは、心の声が人間のままで良かった……)
そういう意味では、唯一の救いだった。
四日目。境内を掃き清めていた宮司のおじさんが、佐藤を見つけた。
「おや、見慣れん猫やね。どこから来たと?」
宮司のおじさん……田中さんは六十がらみの、ふっくらした体格の男性だ。眼鏡の奥の目が細く、いつも穏やかに笑っている。佐藤が動かずにじっとしていると、しゃがみ込んで手を差し伸べてきた。
「ほれ、怖くないけん。逃げんでよかばい」
佐藤は、その手をじっと見た。
そして、見えた。
田中さんの体の周りに、淡い光の膜。色は、薄い金色。穏やかで、温かみのある色だった。
(……これが、例の力か)
怖くはない、と感じた。その色が、そう教えてくれた。
佐藤はおそるおそる、田中さんの手に頭を押し当てた。
「おお、人懐こい猫やね」
田中さんは嬉しそうに目を細め、そのままゆっくりと頭を撫でてくれた。
(……あ。これは、気持ちいい)
猫の体は正直だった。撫でられると、勝手にのどが鳴る。三十七年間、誰かに頭を撫でてもらった記憶がほとんどない佐藤には、それが少し、くすぐったかった。
翌朝から、境内の片隅に小皿が置かれるようになった。キャットフードのチキン味。
(……ありがたい。ありがたいが、チキン味か)
人間だった頃は、唐揚げが好きだった。チキン味のキャットフードと唐揚げの間には、おそらくマリアナ海溝くらいの深くて越えられない溝がある気がしたが、腹が減っていたので食べた。これが結構イケていた。
――――――
六月。本格的な梅雨が来た。
雨の日の神社は、人が少ない。
佐藤は御神木のウロで雨音を聞きながら、オーラの色について、少しずつ整理を始めた。
最初に覚えたのは「金色・黄色」だ。田中さんや、朝の参拝者に多い。穏やかさ、安らぎ、感謝の色。神社に来る人は、この色をまとっていることが多かった。
次に気づいたのは「青」だった。
ある雨の午後、傘を差した若い女性が一人、鳥居をくぐってきた。参拝というより、雨宿りのように見えた。彼女の周りには、澄んだ水色のオーラがあった。色としてはキレイなのに、どこか、静けさと寂しさを感じた。
(……悲しい、のとは違う。もっと、静かな色だ)
しばらく観察していると、女性は熊本城の石垣をぼんやりと眺め、ため息をついた。それから、小さく「頑張らんといかんね」と呟いて、傘を差し直して帰っていった。
(孤独、か。あるいは、迷い)
青は、そういう色らしかった。
七月。新しい巫女さんを境内で見かけるようになった。美咲ちゃんと言うらしい。
美咲ちゃんは大学生で、夏休みの間だけ巫女のアルバイトをしているらしかった。快活で、よく笑い、佐藤を見つけるなり「くろちゃん!」と叫んで駆け寄ってくるタイプだった。
「くろちゃんくろちゃん、今日もかわいいね〜!ご飯食べた?食べたよね?もう一個あげちゃおっか!」
(……美咲ちゃん。ちょっと待て。今ので既に二本目だ。太る〜)
だが、差し出されたちゅ〜るを断る理由が見当たらなかった。佐藤は甘んじて受け入れた。
美咲ちゃんのオーラは、鮮やかなオレンジ色だった。元気、活力、無邪気な明るさ。見ているだけで、こちらまで少し元気になれる色だ。
(人間の頃、こういう子と話したかったな)
思ってから、少し自分が情けなくなった。
――――――
八月。夏の熊本は、猫にとっても過酷だった。
アスファルトが熱い。日向にいると毛皮が焦げそうになる。涼を求めて石垣の日陰に潜り込んでいると、観光客の子どもに「猫いた!」と騒がれ、追いかけられた。
(……子どもの足は速い。運動不足解消には良いけど、ちょっと苦手だな)
盆休みの頃、境内に家族連れが来た。父、母、小学生くらいの男の子。三人のオーラを何気なく見て、佐藤は少し胸が痛くなった。母親と子どもはうっすらとした黄色だが、父親は違った。
くすんだ、ドロっとしたような灰色だった。
父親の顔を見る。目の下にくっきりとしたクマが見て取れる。どことなく足取りも重そうだ。
(……疲れてる。あの色は、疲労と、ちょっとした絶望が混ざった色だな)
佐藤には、覚えがあった。自分も、あの色をしていたのだと思う。あの五月の夜、仔猫を助けるために路面電車の前に飛び出した直前まで。
父親は賽銭箱の前で手を合わせ、長い間、目を閉じていた。
子どもが「お父さん、何お願いしたの?」と聞いた。
父親は「秘密」と笑った。
その笑顔の周りのオーラが、ほんの少しだけ、灰色から金色に近づいた気がした。
(……神社って、そういう場所なんだな)
佐藤は、御神木の根元でそっと目を閉じた。
――――――
九月。稲刈りの季節。
境内に吹く風が少しだけ涼しさを感じられるようになった頃、佐藤はようやく「赤」の意味を理解した。
ある日の夕方、中年の男性が境内に入ってきた。スーツ姿、書類鞄、汗の染みたシャツ。どこからどう見ても、サラリーマンだ。
そのオーラが、くすんだ赤だった。
(……怒り。でも、ただの怒りじゃない。行き場のない、焦りが混ざった怒りだ)
男性は賽銭を投げ、柏手を打ち、それから小声で「どうにかしてください」と言った。
佐藤は、御神木の根元からその男性をじっと見た。
(……あのサラリーマンに何があったんだろうか)
怒りを感じるが、焦りも感じる。純粋な怒りなら真っ赤なのだろうが、どこかくすんで灰色がかっても見える。仕事で何か遭ったのだろうか。
思えば、人間だった頃の自分のオーラは何色だったのだろう。誰かに見えていたとしたら、何色だったか。
(……たぶん、赤さはなかっただろうな。くすんだ灰色と、少しの金色が混ざったような色だったんじゃないかな)
悪い人生じゃなかった。ただ、少し疲れていた。そういう色。
男性が帰った後、佐藤は石垣の上に浮き上がり、夕暮れの熊本城を眺めた。
橙色に染まった天守。遠く、阿蘇の稜線。市電の走行音。いきなり団子の匂い。
(……熊本って、いい街だな)
人間だった頃より、少しだけそう思えた。
そして十月。
境内の銀杏が黄金色に染まり始めた頃、佐藤は初めて「紫」のオーラを見た。
それが、この街で生きる猫又おじさんの、最初の"仕事"の始まりになるとは——その時はまだ、知る由もなかった。




