第12話 料理部騒動・後編「カワイイ字」
佐藤は雑木林の百葉箱の前で、太助と弥生に向き合ったまま、しばらく考えた。
加藤神社の境内。御神木の大楠の群れ。石垣の際に生えた木々の根元。あの辺りなら、人間の目から遠く、雨風も防げる。神社といえば狐だが、田中さんのことだ、動物に優しいからタヌキでも大丈夫だろう。美咲ちゃんは言わずもがな。
何より、あそこは自分の庭だ。俺の目の届く範囲で見守るのが正解かもしれない。
(……まあ、俺が責任を持てる範囲内にはなるが)
(一つ、提案があるんだが)
(なんでしょう)
(俺の住処の近くに、ちょうど良い場所がある。子どもが生まれるまでの間だけでもいいし、気に入ったら長く居てもいいんじゃないかと思うが、どうだ)
太助と弥生が顔を見合わせた。
二匹のオーラが、揺れた。
深い青の不安の色が、すっと薄れていく。代わりに、明るい黄緑が広がってくる。淡い期待の色だ。
(……よろしいんですか)
(いい。ただし、条件がある)
(なんでしょう)
(人間から食べ物を盗るのは、もうやめとけ。困ったら俺に言え。優しい人間は多いが、盗まれるとなると話は別だ。ちゃんと顔を見せてお願いすれば、人間から歩み寄ってくれるから)
(……猫又の旦那)
(それと……)
佐藤は少し間を置いた。
(学校の子どもたちに、一言謝れ。できれば、何か伝わるものを残せ)
太助と弥生が、また顔を見合わせた。
今度は、二匹同時に深く頭を下げた。
((……ありがとうございます))
声が揃っていた。
(……ホントに仲がいいな、この夫婦)
佐藤は空を見上げた。雑木林の梢の向こうに、星が瞬き始めていた。
――――――
翌朝。
肥後学園大学附属中学校の家庭科室の黒板に、大きな拙い字で文字が書かれ、教壇の上にはどんぐりと松ぼっくりが置かれていた。
最初に気づいたのは、中村さんだった。
「……なにこれ」
黒板に書かれた文字は、ひどく拙い。覚えたての子どもが書いたような、線が震えた、それでも一文字ずつ丁寧に書いたと分かる字で、こうあった。
——ごめんなさい。もうしません。
そして教壇には、どんぐりが三つ。松ぼっくりが二つ。きれいに一列に並べてある。どんぐりは艶やかに磨かれ、松ぼっくりは傘の一枚一枚に至るまで、汚れ一つない。
「なにこれ〜」
中村さんに次いでやってきた料理部の生徒が大きな声をあげる。廊下を通りがかった生徒も数人、集まってきた。
「なに、この黒板の文字〜」
「ごめんなさいって。料理部の食材のことじゃない?」
「えっ、犯人から?」
一人がどんぐりを手に取った。
「うわ、ピカピカ。なんでこんなにきれい」
「磨いたんじゃないの〜? ピッカピカになるまで〜」
「誰が? 犯人が? なんで謝るのに、どんぐり?」
生徒たちは顔を見合わせた。
誰も、答えを持ち合わせていないため、意味を確かめようとどんぐりを眺めたり、松ぼっくりをひっくり返したり。あ〜でもない、こ〜でもないと話しだす。
「字、ちっちゃい子の字だよね」
「小学生が入ってきたとか?」
「いや、無理でしょ。鍵かかってたんだよ」
「じゃあ誰が」
話せば話すほど、わからなくなる。
鍵のかかった部屋から食材が消えた。中村さんにそっくりの、顔ののっぺりした誰かが現れた。そして今朝、子どもみたいな字の謝罪文と、磨かれたどんぐり。
点と点が、線にならない。
「なんか……気味悪くない?」
「でも、謝ってるんだよね」
「謝るくらいなら、最初から盗らなきゃいいじゃん」
「それは……まあ、そうだけど」
生徒の一人が、ぽつりと言った。
「でも、なんか……悪い人な感じ、しないよね。このどんぐり見てると」
誰も、それには反論しなかった。
そこへ、料理部の顧問・田原先生が通りかかった。もう定年も近い、ベテランの家庭科教師だ。いつも穏やかで、めったに声を荒げない。
「どうしたの、朝からみんなで騒いじゃって」
中村さんは黒板を指さし、朝、家庭科室に入ったらすでに書かれていたこと、教壇の上にどんぐりと松ぼっくりが置かれていたことを簡単に説明した。
「先生、これ、食材盗ってた犯人からみたいで。でも、字がちっちゃい子みたいで、どんぐりまで置いてあって。鍵かかってたのに、誰が入ったかもわからなくて」
田原先生は老眼鏡を下にずらして、黒板をしばらく眺めた。
それから、どんぐりを一つ、指で摘んで窓際に向かう。
朝日にかざすように、ゆっくりと眺める。
「……ずいぶん、丁寧に磨いてあるねえ」
「先生、犯人、誰だと思いますか」
田原先生は、すぐには答えなかった。
窓の外に目をやる。中学校と高校の校舎の向こう……大学の校舎の裏にある、こんもりとした雑木林に目をやった。
「そうね」と先生は言った。
「先生がまだ子どもの頃、田舎のおばあちゃんの家でね。畑の野菜が、よくなくなったの。きゅうりとか、なすびとか」
生徒たちが、先生を見た。
「おばあちゃんはね、怒らなかった。『ああ、また来たね』って笑って。それで、縁側に少しだけ、野菜を置いておくの。『持っていきな』って」
「……誰が来てたんですか」
「さあ」と田原先生は微笑んだ。「おばあちゃんは『山の人だよ』って言ってたねえ」
生徒たちは、顔を見合わせた。
「山の人……?」
「サルとか?」
「えー、まさか〜」
「いや、でも」
田原先生は、どんぐりを窓枠の上にそっと置いた。中村さんが松ぼっくりも持ってきて、その隣に並べる。朝の光が、磨かれたどんぐりに当たって、つやりと光った。
「昔の人はね、説明のつかないことを、無理に説明しなかったの。怖がりもしなかった。『そういうこともある』って、受け入れてた」
先生は、松ぼっくりを眺めながらみんなを諭すように言った。
「謝ってくれたんだから、それでいいじゃない。食材の管理は、これから気をつけましょう。それだけのことよ」
それだけ言って、先生は職員室へ向かった。
生徒たちは、しばらく窓枠のどんぐりと松ぼっくりを眺めていた。
誰も、何も言わなかった。
でも、さっきまでの気味悪さは、もうなかった。
「……なんか」
一人が、ぽつりと言った。
「ちょっと、いいよね。山の人」
「うん」
「うちらの学校に、来てたんだ」
「いるのかな、本当に」
「いたら、面白くない?」
誰かが笑った。つられて、みんなが笑った。
窓枠のどんぐりが、朝の光の中で、静かに光っていた。
その日から、料理部の食材は、二度と消えなかった。
ただ、誰かが時々、窓枠のどんぐりを覗いては、「山の人、元気かな」と呟くようになった。
――――――
その日の夕方。
美羽が加藤神社の鳥居に飛び込むように駆け込んできた。
「黒猫ちゃん! 黒猫ちゃんが解決したんでしょ!?」
御神木のウロから顔を出した佐藤を見て、美羽は息を切らしながら言った。
「今朝ね、家庭科室に謝罪の言葉と、どんぐりと松ぼっくりが置いてあったって! 私も見たけどすっごくピカピカに磨いたやつ! もう部員みんな、なんだかんだ言いながら盛り上がってるんだよ」
(……太助、ちゃんとしたんだな)
「それで田原先生が『山の人だねえ』って言って。みんな最初は気味悪がってたんだけど、なんか最後には『山の人、いるのかな』って、ちょっとワクワクしちゃってさ」
(……山の人ねぇ。なんだか話が大きくなっちゃったかな)
「ねえ、黒猫ちゃん。これ、やっぱり黒猫ちゃんが解決してくれたんだよね?」
「にゃー」(まあ、そんなところかな)
「さっすが!」
美羽は背負っていた鞄を下ろし、中をごそごそと漁った。
取り出したのは、ちゅ〜るの味違いが五本。まぐろ、かつお、とりささみ、海鮮ミックス、そしてどう違うのか分からないカジキまぐろ。これは酒池肉林か!
「約束のお礼だよ! わたし、初めて買ったんだけどいろんな種類あるんだね!」
(……と、とりあえずどれでもいいから一本ほしいな)
佐藤はウロから完全に出てきて、美羽のローファーに前足をちょこんと乗せて催促する。「せっかちさんだね〜」と美羽はニコニコとしながら、まぐろ味のちゅ〜るの封を開けて差し出してくれる。遠慮なくいただきます。
「ねえねえ、それでさ」
美羽はささみ味のちゅ〜るを開けながら、興奮気味に続けた。
「中村さん、朝からずっと晴れ晴れした顔してたんだよ。昨日まで、自分が疑われてるって気にしてたから。ごめんなさいって文字を見て、もう、すっかり元気!」
(……それは良かった)
「料理部のみんなも、なんか前より仲良くなった気がするなぁ〜。一緒に『山の人ってなんだったんだろうね』って盛り上がって。疑い合ってたのが嘘みたいに」
(……雨降って地固まる、ってやつだな)
「ほんとにありがとね、黒猫ちゃん」
一本目のちゅ〜るをペロリと食べた佐藤を、美羽は嬉しそうに眺めていた。
「私さ、最初は琴音のこと、ちょっと疑ってたんだよね〜。黒猫が願いを叶えてくれるって、そんなの絶対ありえないって思ってて」
(……まあ、普通はそう思うよな)
「でも、本当に解決しちゃった。しかも、誰も傷つかない形で」
美羽は石段に座り直し、夕暮れの空を見上げた。
「琴音に厨二病って言ったの、謝らなきゃなあ」
(……それは、謝った方がいい)
「にゃー」
「あはは、黒猫ちゃんも謝れって言ってる気がする」
美羽はけらけらと笑った。佐藤は二本目もペロリと食べたので、三本目、四本目と次々に開けてくれる。佐藤はそれもペロリと食べる。五本目も開けそうなところだったが、もうお腹いっぱい。ローファーから前足を下ろして、少し離れると「おなかいっぱいかぁ」と、五本目のカジキまぐろ味をカバンに戻す。それを先に食べたかった……。
美羽は「よいしょ」と言って立ち上がり、スカートを払って砂を払った。
「また遊びに来るね、黒猫ちゃん。困ったことが出来たら、またよろしくね!」
(……次も来るのか)
「あ、そうだ。これ言っとかなきゃ」
美羽は鳥居の手前で振り返った。
「演劇部の発表会、もうすぐなんだよ。琴音が部長になって初めての大舞台。すっごく頑張ってるの。黒猫ちゃんも、応援しててあげてね」
(……発表会か)
「にゃー」(応援するよ)
「じゃあね!」
美羽は石段を駆け下りていった。
佐藤は、その背中を見送った。
(……琴音の、初めての大舞台か)
あの子が、どんな顔で舞台に立つのか。少しだけ、見てみたい気がした。
――――――
その夜。
佐藤が御神木のウロで丸まっていると、境内の入口の方から、おずおずとした気配が二つ近づいてきた。
丸みを帯びた体。灰褐色の毛並み。縞模様のある尻尾。
太助と弥生だった。
タヌキの姿のまま、二匹は境内をきょろきょろと見回している。初めて来る場所に、緊張しているのだろう。オーラの色は、濁った黄色と深い青が混ざっていた。疑いと不安が入り混じった色だ。
(よく来た。待ってたぞ)
佐藤はウロから降りて、二匹の前に立った。
(旦那、本当にお世話になります)
太助が、ぺこりと頭を下げた。
(弥生さんも、よく来た。体は大丈夫か)
(……はい。ありがとうございます)
弥生が、お腹を庇うようにしながら、小さく頭を下げた。
(案内する。こっちだ)
佐藤は二匹を、石垣の際、大楠の根元へと連れて行った。
大きな根が地面を押し上げ、その間に自然な空洞ができている。雨風を防げる広さがあり、周囲は落ち葉が積もって柔らかい。
(どうだ、ここは)
太助と弥生が、空洞を覗き込んだ。
二匹のオーラが、ゆっくりと変わっていった。
深い青が薄れ、濁った黄色が消えていく。代わりに、明るい黄緑が広がってくる。淡い期待の色だ。
(へえ……こりゃ、立派な住処ですね)
太助がしきりに空洞の中を確かめている。
(旦那、こんな良い場所、本当にいいんですか)
(俺が言うのも変だけど、いいんじゃないかな。ここなら動物に害を与えようとはしないし、神社のおじさんも優しい)
(神社のおじさんって……オレ等タヌキっすよ。神社って言ったら狐じゃないですか?ホントに、オレ等がここに住んでもいいんすか?)
(逆に面白いんじゃないか?とりあえず、明日、神社のおじさんに会ってみたら分かるよ)
弥生は、入口の辺りで鼻をひくつかせながら、周囲の匂いを確かめていた。
(……空気がいいですよね、ここ)
弥生がぽつりと言った。
(大楠から、神社から、石垣から、なんだか気持ちのいい風が吹いてくる感じ。とっても安心できます)
佐藤は御神木を見上げた。
何百年と生きてきた大楠。そんな木々が太助たちを受け入れている証拠じゃないだろうか。御神木って言うだけあって、狐じゃなくても受け入れてくれているのだろうか。それとも——。
(……木霊でもいるのかもな)
ふと、そんなことを思った。
猫又として目覚めてから半年、ずっとこの大楠のウロに住んできた。寒い夜も、不思議とこの木のそばは、どこか守られているような感じがしていた。
(ここなら、子どもが産まれても、大丈夫そうです)
弥生が、そっとお腹に前足を当てながら言った。
その表情は、穏やかだった。オーラの色も、薄い緑の安心の色に変わっている。
(……よかった)
佐藤は空を見上げた。
十月末の夜空。星がよく見える。遠く、熊本城の天守が、闇の中にうっすらと浮かんでいた。
――――――
翌朝。
佐藤は太助と弥生を連れ立って、社務所の方へ向かった。
ちょうど田中さんが、竹箒を持って境内の掃き掃除を始めるところだった。
「にゃん」(田中さん、新しい住民です)
田中さんの前で精一杯かわいい声で鳴いてみる。
田中さんは、「その声はくろだね〜」と振り返る。
そこには、佐藤と、その後ろには二匹のタヌキがいることに気がついた。
太助も弥生も、緊張した面持ちで身構える。
「おや? おやおやおや」
田中さんは、目を細めた。
しばらく、三匹をじっと眺める。
「……仲間が増えたとね、くろ。それも、まぁ、神社にね」
くっくっくと笑いながら、田中さんはしゃがみ込む。そして、太助と弥生に手を差し伸べた。
「怖がらんでよか。ここはね、加藤清正公が見守ってくれとる神社やけん。生き物には優しか場所たい」
太助と弥生のオーラが、揺れた。
濁った黄色の警戒の色が、ゆっくりと薄れていく。
太助が、おずおずと田中さんの手に近づいた。鼻先で、そっと匂いを嗅ぐ。
「おお、人懐こいタヌキやね」
田中さんが、嬉しそうに笑った。
「奥さんの方は、お腹が大きかね。そうか、子どもが産まれるとか。そりゃあ、めでたか」
(……田中さんには、何でもお見通しなんだな)
佐藤は、少しだけ感心した。
「ここでゆっくりしなさい。ご飯は、ちゃんと用意するけんね」
田中さんはそう言って、また掃き掃除に戻っていった。
太助と弥生は、しばらくその背中を見送っていた。
(……旦那)
(なんだ)
(良い場所に、連れてきてもらいました)
太助の声が、少しだけ湿っていた。
(……まあ、ゆっくりしろ)
佐藤は照れ隠しに、そっぽを向いた。
――――――
その日から、加藤神社の社務所横の平たい石の上に、小皿が三つ並ぶようになった。
田中さんは何も言わず、毎朝、丁寧に三つの皿を並べてくれた。チキン味のキャットフードのカリカリと、タヌキ用にドッグフードが用意された。
(……田中さんって、本当に良い人だ)
佐藤は改めてそう思った。
太助はよく喋るタヌキだった。夜になると、大楠の根元から出てきて、佐藤の隣に座り、あれこれと話をした。
(旦那、佐藤って名前からするに、もしかして人間だったんですか)
(……ああ)
(人間に戻りたいとは、思わないんですか)
佐藤はしばらく、夜空を見ていた。
(思わない、とは言えないな。でも、猫になってから、見えるものが増えた)
(なんです、それ?)
(人とか色んなモノの心が見えるようになった。それが見えるようになってから、この街が、前より好きになった。それがなんかいいなって思ってな)
太助は、黙って聞いていた。
弥生は、相変わらず口数が少なかった。でも、朝の日差しが差し込む時間だけは、大楠の根元の入口で日向ぼっこをした。その姿を田中さんが見つけて、毎朝「今日も元気かのう」と声をかけるのが、日課になった。
弥生のお腹は、日に日に大きくなっていった。
(……もうすぐだな)
佐藤は御神木のウロから、その光景を眺めていた。
加藤神社に、三匹と一匹の、穏やかな日々が流れ始めていた。
そして、十月末——琴音の、初めての大舞台が近づいていた。




