第九十八話 ぐうたら三男、管理機構に急かされる
空間そのものが軋んでいた。
橋の先。
霧の奥。
そこに浮かぶ巨大な“瞳”は、まるで世界そのものを見下ろしているかのようだった。
黒い。
あまりにも黒い。
色ではない。
存在感そのものが、周囲の光を喰っている。
◇
「……いやぁ」
レイは額を押さえた。
「帰りたい」
本音だった。
かなり本音だった。
◇
だが、現実は待ってくれない。
巨大な侵食個体が視線を向けた瞬間、橋全体へ重圧が降りかかった。
騎士たちの膝が沈む。
結界維持班が悲鳴を上げる。
「結界出力低下!」
「精神汚染反応あり!」
「視界固定を維持しろ!」
現場は一気に緊迫した。
◇
セシリアが雷光を展開する。
紫電が空気を裂き、周囲へ散った。
「精神干渉を防ぎます! 視線を固定しないでください!」
彼女の声で、騎士たちはどうにか持ち直す。
だが、それでも空気は重い。
見ているだけで頭痛がする。
◇
レイはため息を吐いた。
「ほんと、侵食系って趣味悪いよなぁ……」
「同意」
アリアが即座に返す。
「精神圧迫性能高」
「性能って言うな性能って」
◇
その間にも、白い管理機構は静かに立っていた。
まるで巨大侵食個体など最初から計算済みであるかのように。
『侵食領域拡大確認』
『管理権限継承優先度上昇』
「だからその話を今するなって!」
レイは思わず叫んだ。
◇
白い管理機構の周囲へ、再び古代術式が浮かび上がる。
空間が歪む。
橋の上に幾何学模様が展開され、霧そのものを押し返し始めた。
◇
教授が静かに息を呑む。
「……なるほど」
「教授、何かわかったんですか」
セシリアが問う。
「管理機構は未到達地帯そのものを維持している」
「維持?」
「空間封鎖、侵食抑制、領域固定……おそらく全部だ」
教授の声は低かった。
研究者特有の興奮より、純粋な驚愕が強い。
◇
「つまり?」
レイが嫌そうに聞く。
「もし管理機構が停止したら――」
教授は橋の向こうを見た。
「未到達地帯の侵食が外へ溢れる可能性がある」
◇
嫌な沈黙が落ちた。
遠征隊の空気がさらに重くなる。
◇
「……うわぁ」
レイは本気で嫌そうな顔をした。
「めちゃくちゃ押し付けられそうな流れじゃん」
「可能性高」
アリアが即答する。
「否定してくれよ」
「不可能」
◇
その時だった。
巨大な瞳が動く。
黒霧が蠢いた。
次の瞬間――。
橋の側面から、“何か”が這い上がってきた。
◇
人型。
だが、人ではない。
黒い肉の塊。
歪な四肢。
皮膚の代わりに脈動する魔素。
顔だった部分には、無数の目が浮かんでいる。
◇
「侵食個体接近!」
騎士が叫ぶ。
瞬間、隊列が動いた。
◇
前衛騎士たちが剣を抜く。
だが。
「下がっててください」
セシリアが前へ出た。
雷光が走る。
◇
轟音。
紫電が侵食個体を貫いた。
肉塊が爆ぜる。
黒い液体が飛び散り、橋へ落ちる。
◇
だが。
黒い肉はすぐ再生を始めた。
「再生が早い……!」
騎士たちが顔を強張らせる。
◇
レイは小さく息を吐いた。
「はいはい、やりますよ……」
面倒臭そうに前へ出る。
その瞬間。
空気が変わった。
◇
レイの指先に淡い光が宿る。
現代魔術式ではない。
古代魔語。
◇
『分解』
◇
周囲が一瞬静まる。
だが次の瞬間。
侵食個体の身体が崩れ落ちた。
◇
再生しない。
黒い肉が、砂のように崩壊していく。
魔素構造そのものを分解されたのだ。
◇
「……えげつないなぁ」
レイ本人が一番嫌そうだった。
「毎回思うけど、侵食相手だと効きすぎる」
「古代術式適合率極大」
アリアが淡々と言う。
◇
教授が真顔で観測している。
「……やはり侵食は古代魔語系統に弱い」
「教授、今それ分析します?」
「貴重な機会だからね」
「研究者だからね、で済ませる気でしょう」
セシリアが疲れた顔で言った。
◇
橋の下からさらに侵食個体が現れる。
一体。
二体。
十。
黒い群れが橋を登ってきた。
◇
「うわ増えた」
レイは露骨に嫌そうな顔をする。
「ほんとさぁ……」
◇
エミリーが静かに横へ並ぶ。
「レイ様」
彼女は、小さく息を吐いた。
「どうしますか?」
「どうするも何も……」
レイは群れを見る。
後ろには遠征隊。
逃げ場はない。
◇
「……仕方ない」
そう呟いて。
レイは橋の中央へ出た。
◇
古代魔法陣が空中へ展開される。
普通の魔法陣ではない。
文字数。
構造。
密度。
全てが異常。
◇
『空間固定』
日本語が響く。
瞬間。
橋の空間が“止まった”。
◇
「なっ……!?」
教授が目を見開く。
侵食個体が動けない。
空間そのものを固定されたのだ。
◇
レイは嫌そうな顔のまま続ける。
『魔素分離』
光が走る。
黒い侵食個体たちが、一斉に崩壊した。
◇
静寂。
橋の上から侵食個体が消える。
残ったのは、黒い塵だけだった。
◇
騎士たちが絶句している。
セシリアも額を押さえた。
「……本当に規格外ですね」
「俺もそう思う」
レイは真顔だった。
◇
しかし。
その直後。
巨大な瞳が、ゆっくり開いた。
◇
空間断裂全体が震える。
嫌な予感が跳ね上がる。
アリアが静かに言った。
「超大型侵食個体、行動開始」
「はい最悪」
レイは即答した。
◇
黒い霧が吹き荒れる。
橋が軋む。
遠く。
霧の向こうで、“巨大な腕”が動いた。
山のような質量。
あり得ない巨大さ。
◇
「……あれ、どうやって倒すんだ?」
レイは本気で嫌そうに呟いた。
誰も答えられなかった。
巨大な腕だった。
霧の向こう。
空間断裂の奥。
ゆっくりと現れたそれは、もはや生物という尺度に収まっていなかった。
◇
黒い。
ただ黒いのではない。
空間そのものを侵食しながら形を保っている。
腕が動くだけで周囲の景色が歪み、橋の上へ黒い亀裂が走った。
◇
「…………」
レイはしばらく黙っていた。
そして。
「無理では?」
本音だった。
◇
騎士たちも完全に顔が引きつっている。
「なんだあれ……」
「古代竜ですら比較にならないぞ……」
「いや比較対象がおかしいだろ」
誰かのツッコミに、妙な現実感があった。
◇
教授が静かに空間を観測している。
「……存在そのものが侵食化しているな」
「教授、冷静ですね」
セシリアが若干引き気味に言う。
「いや、かなり危険だよこれは」
「表情が楽しそうなんですよ」
「研究者だからね」
「開き直りましたね」
◇
レイは橋の先を睨んだ。
巨大な腕。
その奥には、まだ本体がいる。
今見えているのは一部に過ぎない。
◇
「……ほんと、古代文明ってなんなんだよ」
「失敗した文明」
アリアが即答する。
「身も蓋もないな」
「事実」
◇
その時。
橋が大きく揺れた。
黒い腕が動いた瞬間、空間断裂そのものが軋んだのだ。
橋の側面に亀裂が走る。
◇
「まずい!」
セシリアが叫ぶ。
「空間固定が崩れます!」
◇
白い管理機構が即座に反応した。
『空間維持出力増加』
『管理領域修復開始』
無数の古代術式が橋の周囲へ展開される。
淡い白光。
空間の軋みが僅かに収まった。
◇
「……あれ、一応味方なんだな」
「現時点、管理領域維持優先」
アリアが答える。
「つまり?」
「利害一致中」
「怖い言い方やめて」
◇
その直後だった。
巨大な腕の表面が蠢く。
黒い肉が裂けた。
中から大量の侵食個体が零れ落ちる。
◇
「うわぁ……」
レイは露骨に嫌そうな顔をした。
「増援機能付きかよ」
◇
落下した侵食個体たちは橋へ張り付き、一斉に這い上がってくる。
人型。
獣型。
形状すら定まらない異形。
しかも数が多い。
◇
「前衛、迎撃!」
騎士団長が叫ぶ。
剣閃。
魔法。
怒号。
橋の上が一気に戦場へ変わった。
◇
セシリアの雷撃が侵食個体を焼く。
騎士たちも必死に押し返している。
だが。
侵食個体は多すぎた。
◇
「再生します!」
「核を狙え!」
「数が減らない……!」
◇
レイはその様子を見ながら、深いため息を吐いた。
「はぁ……」
本当に面倒臭そうだった。
◇
エミリーが横へ来る。
「レイ様」
「なんだ」
「そろそろ本気を出してください」
「言い方」
◇
だが、エミリーの言うことも分かる。
このままでは押し切られる。
遠征隊には研究員や後方支援も多い。
長引けば崩れる。
◇
「……仕方ない」
レイは前へ出た。
黒い霧が吹き付ける。
嫌な臭い。
空間そのものが腐っている感覚。
◇
「アリア」
「はい」
「この橋、どこまで壊していい?」
「管理機構存在範囲外なら問題なし」
「雑だなぁ」
◇
レイは指を鳴らす。
古代術式が展開された。
空中へ日本語が浮かぶ。
◇
『領域切断』
◇
次の瞬間。
橋の外側空間が“切れた”。
◇
「……は?」
教授が固まる。
侵食個体ごと、空間が消えていた。
落下ですらない。
存在範囲ごと分離されたのだ。
◇
「うわ、また無茶苦茶やってますねレイ様……」
セシリアが頭を抱える。
「いや俺も加減してるよ?」
「どこがですか」
「ちゃんと橋残しただろ」
「基準がおかしいんですよ」
◇
しかし。
巨大な腕は止まらない。
むしろ、こちらを認識したことで侵食濃度が上昇していた。
霧がさらに濃くなる。
◇
アリアが静かに言う。
「超大型個体、敵性認識更新」
「嫌な予感しかしない言い方やめろ」
◇
直後。
巨大な瞳が完全に開いた。
◇
世界が黒く染まる。
空間断裂内部に、巨大な古代魔法陣が浮かび上がった。
◇
教授の顔色が変わる。
「まずい……!」
「教授?」
「あれは侵食側の領域展開だ!」
◇
橋全体へ黒い波動が走る。
騎士たちが膝をついた。
結界が軋む。
空気が重い。
呼吸すら苦しい。
◇
レイは顔をしかめた。
「……空間ごと侵食する気か」
「可能性大」
アリアが頷く。
◇
その時だった。
白い管理機構が、ゆっくりレイへ向いた。
『管理者候補』
『権限委譲要請』
『承認推奨』
「断る」
即答だった。
◇
だが次の瞬間。
橋全体が激しく揺れる。
空間固定術式が悲鳴のように明滅した。
◇
『管理領域崩壊危険度上昇』
『権限不足』
『対応不能』
◇
レイは嫌そうな顔のまま頭を掻いた。
「……あーもう」
本当に嫌そうだった。
◇
エミリーが静かに隣へ立つ。
「レイ様」
「なんだよ」
「多分、もう逃げられませんよ」
「知ってる」
◇
レイは橋の先を見る。
巨大侵食個体。
崩れ始める管理領域。
白い管理機構。
未到達地帯。
◇
「……ほんと」
小さくぼやく。
「昼寝したいだけだったんだけどなぁ」
その言葉とは裏腹に。
レイの周囲へ、かつてない規模の古代術式が展開され始めていた。




