第九十七話 ぐうたら三男、空間断裂を渡る
遠征隊は、空間断裂の前で完全に足を止めていた。
誰もが目の前の“裂け目”を見上げている。
いや、正確には“理解できずに見ている”と言うべきだった。
巨大な黒い亀裂。
大地を切り裂くように広がっているにもかかわらず、底が存在しない。
覗き込めば、距離感が狂う。
落ちればどうなるのかすら想像できない。
「……嫌だなぁこれ」
レイは率直な感想を漏らした。
◇
裂け目の周囲では、研究院の魔導士たちが観測を続けている。
結界針を打ち込み、測定器を展開し、魔素濃度を記録しているが――。
「測定不能!?」
「座標固定が安定しません!」
「空間係数が変動している!」
現場は軽く混乱していた。
◇
アルベルト教授は、その様子を腕組みしながら眺めている。
「ふむ……予想以上だね」
「教授、楽しそうですねぇ」
エミリーが少し引いた目を向ける。
「いやぁ、ここまで露骨な空間歪曲は初めて見たからね」
「つまり?」
レイが嫌そうに聞く。
「常識が通用しない」
「知ってた」
◇
アリアは裂け目の前に立ち、静かに観測を続けていた。
淡い蒼色の瞳が、わずかに光る。
「空間接続反応確認」
「どこに繋がってる?」
「未確定」
「最悪だな」
「否定不可」
相変わらず遠慮がない。
◇
その時だった。
前衛騎士の一人が声を上げる。
「橋だ……!」
裂け目の奥。
黒い空間の向こう側に、細い石橋のようなものが浮かび上がっていた。
まるで最初から存在していたかのように。
◇
「……いや、絶対嫌なやつじゃん」
レイは即座に言った。
「露骨なイベント通路だろこれ」
「いべんと?」
セシリアが首を傾げる。
「あー……なんでもない」
危うくゲーム脳発言をするところだった。
◇
橋は細い。
しかも途中から霞んで見えなくなっている。
普通なら誰も渡りたくない。
だが。
「進むしかありません」
騎士団長が静かに告げる。
遠征はもう始まっている。
引き返す選択肢は、最初から存在しない。
◇
「……行くかぁ」
レイは重そうに立ち上がった。
本当に気が進まない。
だが、放置できない。
結局そこに戻る。
◇
橋の前には簡易結界が展開され、遠征隊は慎重に列を作る。
前衛。
中衛。
補給班。
最後尾に研究班。
レイたちは中核位置だ。
◇
「レイ様」
エミリーが小声で呼ぶ。
「もし何かあったら、無理せず離脱してください」
「その台詞、今まで何回聞いたっけ」
「今回は特に危険です」
「だろうなぁ……」
レイもそれは感じていた。
空気がおかしい。
魔素が不安定というより、“空間そのもの”が揺れている。
◇
一歩。
橋へ足を乗せた瞬間――
ぞわり、と嫌な感覚が走った。
◇
「……うわ」
景色が揺れる。
視界が一瞬だけ二重になる。
頭の奥を掻き回されるような感覚。
レイは軽く眉をひそめた。
◇
「空間認識ズレ」
アリアが即座に言う。
「精神干渉微弱確認」
「嫌な機能ついてんなぁ!」
思わず声が出た。
◇
周囲でも軽い混乱が起きている。
「っ……!」
「酔う……!」
「視界が……!」
一般騎士たちはかなり辛そうだった。
◇
エミリーは即座に補助術式を展開する。
「精神安定術式展開」
淡い光が周囲を包み込む。
空気が少し安定した。
「助かる」
「あとで酔い止め渡します」
「遠征なのに船酔いみたいな扱い」
「似たようなものです」
◇
教授は平然としていた。
「いやぁ、面白いねぇ」
「教授だけ適応早すぎません?」
「研究者だからね」
「便利ワードすぎるだろ」
◇
橋の途中。
突然、景色が変わった。
◇
空が反転する。
地面が歪む。
一瞬だけ、別の風景が見えた。
白い塔群。
巨大な円環構造。
空中を流れる光。
そして――。
崩壊。
◇
「――っ!?」
レイは思わず足を止めた。
今のは。
幻覚ではない。
「過去観測残滓」
アリアが静かに言う。
「古代文明記録断片流出」
「いやサラッと言うな!?」
◇
エミリーも息を呑んでいた。
「今の……街?」
「おそらく」
教授が真剣な顔で呟く。
「古代文明時代の景色だ」
◇
橋を進むたびに、断片的な映像が流れ込んでくる。
巨大都市。
白い建造物。
空を走る光の線。
そして。
黒い“何か”。
◇
「侵食」
アリアが短く告げる。
その声だけが、妙に冷たかった。
◇
黒い波が都市を呑み込む。
人々が逃げる。
空間が崩れる。
塔が折れる。
そして最後に。
巨大な白い扉が閉じる光景。
◇
そこで映像は途切れた。
レイは小さく息を吐く。
「……趣味悪いなぁ」
「同感です」
エミリーも顔色が悪い。
◇
教授は珍しく静かだった。
「……なるほど」
「何かわかったのか?」
「未到達地帯は封印だった可能性が高い」
「封印?」
「侵食そのものを閉じ込めたんだ」
空気が重くなる。
◇
レイは橋の先を見る。
霧の向こう。
まだ見えない場所。
だが確実に、“何か”が待っている。
◇
その時だった。
アリアが急に立ち止まる。
「反応確認」
「何?」
「前方、高位管理機構接続反応」
「……それ、嫌なやつ?」
「非常に」
即答だった。
◇
次の瞬間。
橋の先で、何かが光った。
白い光。
だが暖かさはない。
機械的で、冷たい光。
◇
そして。
ゆっくりと、“人型”が立ち上がった。
白い外殻。
細長い四肢。
顔のない頭部。
その胸部には、古代魔語が淡く浮かんでいる。
◇
「……うわぁ」
レイは心底嫌そうな顔をした。
「絶対戦う流れじゃんこれ」
白い人型は、橋の中央へ静かに降り立った。
音はない。
重さすら感じさせない動き。
だが、存在感だけが異様だった。
◇
全長は二メートルほど。
細長い四肢。
白銀の外殻。
顔にあたる部分には何もなく、ただ淡い蒼光だけが横一線に走っている。
胸部には古代魔語が浮かび上がっていた。
『管理領域保全機構』
レイは反射的に読めてしまう。
そして読めるからこそ、嫌な予感しかしなかった。
◇
「……なぁアリア」
「はい」
「これ、敵?」
「現時点判定不能」
「その返答が一番怖い」
◇
白い人型はこちらを見ていた。
いや、正確には“認識している”という感覚。
視線が存在しないのに、観測されている圧力だけがある。
◇
騎士たちが武器を構える。
空気が張り詰めた。
しかし――。
「待機」
アリアが短く言った。
「不用意接触非推奨」
「つまり?」
「刺激すると危険」
「分かりやすいな」
◇
その時だった。
白い人型から、機械的な音声が響く。
『……管理権限照合開始』
周囲の空気が震えた。
橋そのものへ魔素が流れ込む。
古代魔法陣が淡く浮かび上がった。
◇
「うわ、完全に俺狙いじゃん」
レイは即座に理解した。
アリアが頷く。
「管理権限適合者検出済み」
「嫌な予感しかしない」
◇
『照合対象確認』
『高位適合個体――』
白い人型が、ゆっくりレイへ向く。
『――管理者候補』
遠征隊全体がざわついた。
◇
「ちょ、待て待て」
レイは露骨に嫌そうな顔をする。
「候補ってなんだ候補って」
「レイ様……」
エミリーが頭を抱え始めた。
「また面倒なことに……」
「俺のせいじゃないだろ!?」
「毎回そう言いますよね」
◇
教授はというと、完全に研究者の顔をしていた。
「いやぁ……実際に動作している管理機構か」
「教授、楽しそうですね」
セシリアが引いた声を出す。
「もちろんだよ」
「もちろんじゃありません!」
◇
白い人型はさらに続ける。
『領域封鎖維持率低下確認』
『侵食進行率上昇』
『管理権限継承要求』
「断る」
レイは即答した。
食い気味だった。
◇
一瞬、沈黙。
そして。
『拒否確認』
『再提案実施』
「しつこいな!?」
◇
アリアが淡々と補足する。
「管理機構は基本的に合理性優先」
「つまり?」
「壊れる前に誰かへ押し付けたい」
「言い方」
「事実」
否定できなかった。
◇
その時、橋が小さく揺れた。
空間断裂の奥で、黒い霧のようなものが蠢く。
嫌な気配。
ぞわり、と全員の肌が粟立った。
◇
「侵食反応増大」
アリアの声が僅かに低くなる。
「接近中」
「うわ最悪」
レイは額を押さえた。
「こういう時だけ展開早いんだよなぁ……」
◇
黒い霧は橋の奥から溢れ出していた。
ただの煙ではない。
見ているだけで気分が悪くなる。
空間そのものが腐っていくような感覚。
◇
騎士たちがざわめく。
「なんだあれ……」
「侵食か……!?」
「結界維持急げ!」
隊列が慌ただしく動き始めた。
◇
だが、白い人型は動かなかった。
ただ静かに黒霧を見ている。
『侵食領域接近確認』
『迎撃行動開始』
その瞬間だった。
◇
白い人型の周囲へ、無数の古代魔法陣が展開される。
現代魔術とは比較にならない密度。
幾何学的な光の輪が空中へ浮かび上がった。
◇
「……うわ」
レイが思わず声を漏らす。
分かる。
あれは“本物”だ。
古代文明最盛期の術式。
◇
『位相固定』
『領域切断』
『侵食排除開始』
直後。
空間そのものが切り裂かれた。
◇
黒霧が、一瞬で消し飛ぶ。
いや、“消滅”ではない。
空間ごと分離された。
◇
「えげつな……」
レイの口から本音が漏れる。
教授ですら真顔になっていた。
「……これは想定以上だ」
◇
しかし。
次の瞬間。
空間断裂の奥で、“何か”が目を開いた。
◇
巨大だった。
あまりにも巨大。
橋の向こう側。
霧の奥。
黒い瞳だけが浮かんでいる。
山のような質量感。
そして圧倒的な悪意。
◇
騎士の一人が震えた声を出す。
「……なんだ、あれは」
誰も答えられない。
◇
アリアが静かに告げた。
「超大型侵食個体反応確認」
「確認したくなかった」
レイは即座に返した。
◇
白い人型が再びレイを見る。
『管理者候補』
『権限継承要求優先度上昇』
「今その話する!?」
完全にタイミングが最悪だった。
◇
巨大な瞳がゆっくり動く。
こちらを認識した。
瞬間。
空間全体が軋む。
◇
「っ――!」
騎士たちが膝をつく。
魔力圧。
いや、存在圧そのもの。
見ているだけで精神が削られる。
◇
「結界維持!!」
セシリアが雷光を展開する。
エミリーも即座に補助術式を重ねる。
だが、それでも空気の重さは消えない。
◇
レイは小さく息を吐いた。
「……ほんと」
頭を掻く。
「昼寝してたかっただけなんだけどなぁ」
ぼやきながら。
それでも一歩前へ出る。
◇
橋の上。
未到達地帯の入口。
古代文明の残滓。
侵食の怪物。
そして。
管理者候補と呼ばれたぐうたら三男。
世界の中心は、静かにその姿を現し始めていた。




