第九十九話 ぐうたら三男、仕方なく世界級術式を展開する
橋が軋んでいた。
いや。
正確には、空間そのものが悲鳴を上げていた。
◇
未到達地帯。
中央領域。
古代文明管理区画。
その深部で、巨大侵食個体が完全に目覚めようとしている。
◇
霧の奥。
黒い瞳がこちらを見ていた。
あまりにも巨大。
山脈をそのまま生物へ変えたような存在感。
しかも、あれでまだ全身ではない。
◇
「いやほんとさぁ……」
レイは頭を抱えた。
「なんで毎回こうなるんだよ……」
「レイ様が首を突っ込むからでは?」
セシリアが疲れ切った顔で言う。
「違う違う。俺は平和に暮らしたいだけなんだって」
「説得力皆無ですね」
◇
橋の上では、侵食波動の余波で騎士たちが結界維持に追われていた。
空気が重い。
黒い霧が肺へ入り込むような不快感。
普通の人間なら、長時間いるだけで精神汚染を起こしかねない。
◇
だが、レイの周囲だけは違った。
淡い光。
古代術式。
日本語で構成された異常高密度の魔法陣。
それらが周囲の侵食を強引に押し返していた。
◇
教授が静かにその光景を見ている。
「……改めて見ても規格外だね」
「教授までそんなこと言うんですか」
「いや、本当に規格外だからね」
教授は苦笑した。
「空間侵食を個人で押し返している時点で、古代文明側の想定を超えているよ」
◇
レイは露骨に嫌そうな顔をした。
「褒められてる気がしない」
「実際かなり危険だからね」
「教授が言うと怖いんだよなぁ……」
◇
その時だった。
巨大侵食個体の瞳が明滅する。
次の瞬間。
橋全体へ、黒い衝撃波が叩きつけられた。
◇
「――っ!」
騎士たちが吹き飛ぶ。
結界が軋む。
橋の側面に巨大な亀裂。
◇
「空間固定が崩れます!」
結界班が叫ぶ。
◇
白い管理機構が即座に反応する。
『管理領域維持開始』
『出力不足』
『追加権限要求』
「だから毎回俺を見るな!」
レイが思わず叫ぶ。
◇
アリアが淡々と説明する。
「現状、レイが最適解」
「嫌すぎる」
「同意」
「お前も同意するのかよ」
◇
橋の崩壊が進む。
空間断裂が拡大していた。
このままでは橋そのものが消える。
◇
セシリアが歯を食いしばる。
「レイ様!」
「分かってる分かってる!」
レイは面倒臭そうに前へ出た。
◇
黒霧が吹き荒れる。
だが。
レイの一歩ごとに、空間が安定していく。
◇
古代魔法陣。
それも、今までとは比較にならない規模。
空中を埋め尽くすように日本語術式が展開され始めた。
◇
騎士たちが息を呑む。
「なんだあれ……」
「古代魔語……?」
◇
教授が真剣な顔で観測している。
「……世界級術式」
「分かるんですか?」
セシリアが驚く。
「いや、分からない」
「分からないんですか」
「だが危険なのは分かる」
「研究者の勘みたいに言わないでください」
◇
レイは大きく息を吐いた。
「はぁ……」
本当に気が進まない顔だった。
◇
「レイ様」
エミリーが静かに呼ぶ。
今はドルーゴ姿ではない。
黒衣も仮面もない。
遠征用装備姿のまま、彼女はレイを見ていた。
◇
「壊しすぎないでくださいね?」
「努力はする」
「毎回それで済まないんですよ」
◇
レイは苦笑する。
だが次の瞬間。
表情が変わった。
◇
黒い瞳。
巨大侵食個体。
その周囲で、侵食空間が拡大している。
放置すれば危険。
ここで止めなければ、多分もっと面倒なことになる。
◇
「……ほんと、仕方ないなぁ」
小さく呟く。
◇
そして。
レイは古代魔語を発動した。
◇
『領域封鎖』
◇
世界が止まった。
◇
空間断裂全体へ、巨大な光が走る。
橋。
霧。
侵食空間。
その全てを覆うように、日本語術式が展開された。
◇
黒い霧が押し戻される。
侵食波動が停止する。
巨大侵食個体の動きが鈍る。
◇
「な……っ!?」
騎士たちが絶句する。
◇
教授が静かに呟いた。
「……空間そのものを閉じたのか」
「できるものなんですかあれ」
セシリアの声が引きつる。
「普通は無理だね」
「ですよね!?」
◇
だが。
巨大侵食個体は止まらない。
黒い瞳がゆっくり開く。
次の瞬間。
橋の向こう側空間が、黒く染まった。
◇
侵食が術式へ食い込んでいる。
◇
「うわ」
レイは露骨に嫌そうな顔をした。
「侵食耐性高っ」
「超大型個体」
アリアが淡々と言う。
「管理領域侵食能力確認」
「確認しなくていいから止めてくれ」
◇
その時だった。
黒い瞳の中心。
そこに、人影が浮かぶ。
◇
仮面。
黒衣。
そして。
静かな声。
◇
『久しいな、継承者』
◇
空気が凍った。
レイは顔をしかめる。
「……お前か」
◇
仮面の男が、巨大侵食個体内部からこちらを見ていた。
まるで最初からそこにいたかのように。
◇
『ようやく辿り着いたな』
その声は静かだった。
だが。
どこか嬉しそうですらあった。
◇
『未到達地帯中央管理領域へ』
霧の奥。
黒く染まった空間の中心。
巨大侵食個体の内部に、その男は立っていた。
◇
仮面。
黒衣。
感情の見えない声。
王都地下封印区画。
封鎖遺跡アストラ。
何度も現れ、侵食を導いてきた存在。
◇
『久しいな、継承者』
静かな声が、空間そのものへ響いた。
◇
騎士たちが息を呑む。
侵食個体の中に人影が存在している。
それだけで異常だった。
◇
セシリアが険しい表情を浮かべる。
「……仮面の男」
「知り合い?」
教授が聞く。
「知り合いたくなかった相手です」
セシリアは即答した。
◇
レイは露骨に嫌そうな顔をする。
「ほんと、しつこいなぁ……」
『それはお互い様だ』
仮面の男は淡々と返した。
『お前は何度も管理領域へ干渉した』
「そっちは勝手に巻き込んできただろ」
◇
黒い霧が揺らぐ。
巨大侵食個体の内部で、侵食魔素が脈動していた。
まるで、この空間全体が一つの生物になっているようだった。
◇
教授が低く呟く。
「……侵食と融合しているのか」
「可能性高」
アリアが答える。
「侵食側管理機構との接続率極大」
◇
教授は静かに眉を寄せた。
「人の形を維持しているだけでも異常だな」
「普通は侵食で自我崩壊しますからね……」
セシリアの声にも緊張が混じる。
◇
だが。
仮面の男は平然としていた。
むしろ、その姿は以前より安定して見える。
◇
『継承者』
再び、声が響く。
『お前は理解し始めているはずだ』
「全然」
『この世界は既に限界だ』
「聞いてない」
『管理領域は崩壊寸前』
「聞けよ人の話」
◇
レイは本気で面倒臭そうだった。
だが。
その視線だけは鋭い。
◇
巨大侵食個体。
空間断裂。
管理機構。
そして仮面の男。
全部繋がっている。
◇
『古代文明は失敗した』
仮面の男が静かに言う。
『故に世界は停滞した』
『侵食は破壊ではない』
『再構築だ』
◇
その瞬間。
黒い霧が大きく脈動した。
橋が軋む。
空間そのものが侵食へ引き込まれていく。
◇
「……っ!」
騎士たちが顔を歪める。
精神圧迫が強い。
意識を持っていかれそうになる。
◇
レイは小さく舌打ちした。
「思想語り始めるタイプだったか……」
「レイ様、そこなんですか」
エミリーが呆れたように言う。
◇
彼女はレイの隣へ並んでいた。
遠征用装備。
だがメイド服を基調にした独自仕様で、動きやすさと防御性能を両立している。
腰には魔道具収納。
短杖。
補助術式用魔石。
完全に実戦仕様だった。
◇
エミリーは静かに周囲を観察する。
「侵食濃度が上がっています」
「だなぁ……」
「長引くと遠征隊が持ちません」
◇
騎士たちの消耗も激しい。
結界班は限界が近い。
普通の人間が耐えられる領域ではなかった。
◇
その時。
仮面の男がゆっくり手を上げた。
◇
黒い空間が裂ける。
そこから現れたのは――。
◇
白。
◇
白い管理機構だった。
ただし。
こちら側とは違う。
◇
全身に黒い侵食紋様が走っている。
瞳は濁り、術式は歪み、周囲へ黒霧を撒き散らしていた。
◇
「……うわぁ」
レイは本気で嫌そうな声を出した。
「絶対厄介なやつじゃん」
「侵食型管理補助機構」
アリアが淡々と言う。
「危険度、高」
◇
侵食された白い管理機構が、こちらを見た。
『管理権限確認』
『継承者確認』
『侵食対象認定』
「理不尽だなぁ……」
◇
次の瞬間。
侵食型管理機構の周囲へ、黒い古代術式が展開された。
◇
騎士たちがざわめく。
「古代魔法……!?」
「いや、あれは……」
教授の顔が険しくなる。
◇
「術式構造が歪んでいる」
「侵食による変質でしょうか」
セシリアが問う。
「おそらくね」
教授は静かに答えた。
「本来の古代術式を侵食側が無理やり改変している」
◇
黒い術式が起動する。
瞬間。
橋の空間が歪んだ。
◇
「空間侵食来ます!」
セシリアが叫ぶ。
◇
レイは即座に前へ出た。
ため息を吐く。
「はぁ……ほんと忙しいな」
◇
そして。
空中へ指を走らせた。
◇
古代魔法陣。
高密度。
多重構造。
現代術式ではあり得ない規模。
◇
教授が小さく息を呑む。
「……また新しい構造か」
「観察してる場合ですか!?」
セシリアが叫ぶ。
「いや貴重だからね」
「研究者だからね、で済ませないでください!」
◇
レイはそんなやり取りを聞き流しながら、静かに古代魔語を紡ぐ。
◇
『侵食分離』
◇
瞬間。
黒い術式が砕け散った。
◇
侵食魔素だけが切り離され、霧のように消滅していく。
空間歪曲が停止した。
◇
「なっ……!?」
侵食型管理機構が僅かに揺らぐ。
◇
教授が目を見開く。
「侵食だけを切除した……?」
「相変わらず無茶苦茶ですねレイ様……」
セシリアが頭を抱える。
◇
レイは嫌そうな顔のまま答えた。
「だって侵食部分だけ邪魔だったし」
「その発想がおかしいんですよ」
◇
だが。
仮面の男は動揺していなかった。
むしろ。
静かにレイを見ていた。
◇
『やはりお前は適合している』
「だから嫌なんだってその言い方」
『継承者』
黒い霧が揺れる。
『中央管理領域は、お前を待っている』
◇
その瞬間。
橋のさらに先。
霧の奥で、巨大な“門”が姿を現した。




