第七十二話 ぐうたら三男、準備を始める
未到達地帯へ向かう。
そう決めた翌日。
レイはベッドへ沈んでいた。
「行きたくない……」
布団へ顔を埋めながら呻く。
窓の外は快晴だった。
こんな日は昼まで寝て、美味い昼飯を食べて、ソファでだらだらするべきである。
決して危険地帯へ行く準備などする日ではない。
「現実逃避しても準備は終わりませんよ」
エミリーが淡々と告げた。
机には書類が山積みになっている。
物資一覧。
魔道具在庫。
携行食。
予備魔石。
移動ルート。
野営設備。
完全に遠征準備だった。
「なんでこんな本格的なの……」
「未到達地帯ですよ?」
「知ってる」
「むしろこれでも足りるか不安です」
エミリーは真面目な顔だった。
大陸中央未到達地帯。
人類未踏破領域。
超高濃度魔素地帯。
危険魔物の巣窟。
古代文明遺構多数。
ついでに侵食発生率も高い。
控えめに言って地獄である。
「帰りたい……」
「まだ出発してません」
◇
一方その頃。
アルベルト教授は中央研究院の資料室で腕を組んでいた。
「未到達地帯、か……」
机には大量の資料が積まれている。
古代文明遺跡。
侵食反応記録。
未踏査区域地図。
どれも中央研究院でも閲覧制限級の資料ばかりだった。
教授はその一枚を眺めながら、小さく笑う。
「これは確かに興味深いね」
口調は穏やかだったが、目は完全に研究者のそれだった。
「古代文明中枢級施設が存在していてもおかしくない……か」
「教授、また徹夜ですか?」
若手研究員が恐る恐る声をかける。
教授は苦笑した。
「研究者だからね」
「またそれですか……」
「まあ実際、未知の遺構調査なんて滅多にない機会だからねぇ」
アルベルトは資料を閉じる。
普段の軽薄そうな空気はある。
だが、暴走しているわけではない。
むしろ静かに思考を巡らせていた。
「とはいえ未到達地帯は危険すぎる」
教授は真面目な顔になる。
「侵食、古代施設、超高濃度魔素領域……準備不足で行けば本当に死ぬよ」
若手研究員が頷く。
「それでも行かれるんですか?」
アルベルトは少しだけ笑った。
「まあ、レイ君たちだけに押し付けるわけにもいかないからね」
その声音には、研究者としての好奇心だけではなく。
仲間としての責任感も混じっていた。
◇
昼頃。
レイは仕方なく作業部屋へ移動していた。
「はぁ……」
深い溜息。
作業机には大量の魔石と素材が並んでいる。
「せめて装備くらい楽したい……」
「その結果が毎回おかしい性能になるんですよね」
エミリーが冷静に言った。
否定できない。
レイは魔石を手に取る。
空中へ古代魔語術式展開。
「――『多重魔素循環』」
魔石内部構造が変化する。
通常の数倍効率で魔素を循環する高性能魔石。
しかも量産型。
エミリーが半目になる。
「また国家予算級の技術を雑に作ってますね……」
「快適野営用だからセーフ」
「どこがです」
さらに術式追加。
「――『自動温度調整』」
「――『浄化』」
「――『疲労軽減』」
次々と魔術式が組み込まれていく。
完成したのは小型携行式野営補助魔道具だった。
なお性能は王国最新式を遥かに超えている。
「これ売れば一生遊んで暮らせますよ」
「もう遊んで暮らしてる」
「確かに」
否定できなかった。
◇
その時。
アリアが静かに部屋へ入ってきた。
銀色の長髪。
白い衣装。
そして両手には皿。
「昼食確保」
「お、ありがと」
最近アリアは普通に生活へ馴染んでいた。
というか食文化に染まり始めている。
皿の上には焼き菓子。
王都で流行っている蜂蜜パイだった。
「また甘いもの食べてる……」
エミリーが呆れる。
アリアは無表情のまま答えた。
「糖分。効率良」
「完全にレイ様の影響ですね」
「俺のせい?」
「レイ様以外誰がいるんですか」
レイは視線を逸らした。
心当たりしかない。
◇
アリアはレイの作業を見つめる。
「……高効率」
「ん?」
「現代技術水準超過」
「まあ古代魔語使ってるし」
「にほんご」
アリアがぽつりと呟く。
レイが固まった。
「覚えてたの?」
「記録済」
「余計な記録するなぁ……」
エミリーがくすっと笑う。
最近のアリアは以前より少し表情が柔らかくなっていた。
スラム街の子供たちと接した影響も大きいのだろう。
本人に自覚は薄そうだが。
◇
夕方。
準備は着々と進んでいた。
携行魔道具。
野営設備。
戦闘補助術式。
侵食対策具。
大量の保存食。
「食料大事」
レイは真顔だった。
「そこだけ妙に力入ってません?」
「飯は重要だぞ」
未到達地帯なんて場所では、まともな食事が取れる保証がない。
それは嫌だった。
かなり嫌だった。
だから食事環境だけは本気で整える。
「……ほんと変なところブレませんね」
「快適性は大事」
レイは断言する。
命懸けの冒険だろうが何だろうが、美味い飯は必要なのだ。
◇
夜。
一通り準備を終えたレイはソファへ倒れ込んでいた。
「疲れた……」
「まだ出発前ですよ?」
「もう帰りたい」
「現地行ってから言ってください」
エミリーが紅茶を置く。
アリアは隣で静かに本を読んでいた。
平和だった。
だが。
未到達地帯。
灰冠派。
仮面の男。
確実に何かが待っている。
レイは天井を見上げながら、小さく息を吐いた。
「……ほんと、なんでこうなるかなぁ」




