第百九話 ぐうたら三男、白銀都市を後にする
白銀都市での滞在は、結果的に三日ほどになった。
未到達地帯最深部。
1700年以上前の超高度文明都市。
本来なら数年単位で調査されてもおかしくない場所だったが、現状そこまでの余裕は存在しない。
未到達地帯全域で古代施設群の再起動反応が確認され始めている以上、王国側も早急な情報共有を求めている。
加えて。
白銀都市そのものは安定化したとはいえ、依然として未知の塊だった。
安全性が保証されたわけではない。
だからこそ、今回の遠征隊は一度帰還し、正式な再調査隊編成を待つ流れになっていた。
もっとも。
レイ個人としては。
「もう十分だろ……」
という気持ちが九割くらいを占めていた。
白銀都市中央管理区画。
巨大な術式群が静かに稼働する中、教授は最後まで資料収集へ没頭していた。
空間制御術式。
都市維持構造。
侵食観測記録。
管理権限階層。
見れば見るほど未知が増えていく。
研究者としては理性を保つのが大変らしく、教授は時折危険な目をしていた。
だが暴走はしない。
あくまで冷静さを維持している。
「いやぁ、本当に凄いね」
教授は術式記録を眺めながら小さく笑った。
「白銀都市だけで現在魔術理論が数十年は進む」
「聞きたくない単位だなぁ……」
レイは疲れた顔で返す。
その横で、セシリアは既に限界だった。
紙束。
術式記録。
遠征報告。
観測情報。
整理すべき資料が多すぎる。
「……帰りたくないです」
「セシリアが?」
「帰った瞬間、研究院と王城から呼び出し地獄です」
実際その通りだろう。
未到達地帯最深部到達。
古代文明都市発見。
侵食問題の変化。
どれも世界規模案件だ。
中央研究院など確実に発狂している。
エミリーはそんなセシリアへ苦笑しながら茶を差し出していた。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます……」
遠征中ずっと張り詰めていた空気も、今はかなり落ち着いている。
白銀都市全域から感じていた不気味な圧迫感も薄れていた。
侵食中枢停止。
管理機構正常化。
その影響は確かに出ている。
窓外では白い管理機構たちが静かに都市修復を続けていた。
崩落していた区画。
停止していた生活設備。
街路術式。
その全てが少しずつ蘇っていく。
まるで滅びた都市が息を吹き返しているようだった。
アリアは静かに術式画面を見つめていた。
「都市機能復旧率、七十一%到達」
「早いな」
「補助端末群総動員中」
No.07も横で補足する。
『未到達地帯各地施設との再接続進行中』
白銀都市だけではない。
未到達地帯全域へ変化が波及している。
それが今後何を意味するのか。
まだ誰にも分からなかった。
だが少なくとも。
以前のような絶望的停滞状態ではない。
何かが動き始めている。
そんな感覚だけは確かにあった。
その後、一行は白銀都市生活区画を簡単に見て回ることになった。
古代文明の暮らし。
その痕跡は至るところへ残っている。
白い街路。
整然と並ぶ建築。
生活魔道具。
自動搬送機構。
保存施設。
小規模公園のような区画まで存在していた。
「……普通なんだよなぁ」
レイはぼんやり呟く。
もっと異質な文明を想像していた。
だが実際は違う。
人が暮らしていた痕跡ばかりだ。
食事をし。
休み。
働き。
誰かと笑う。
そんな当たり前の生活がここにはあった。
だからこそ。
滅びが重い。
エミリーも静かに周囲を見回していた。
「なんだか、不思議ですね」
「ん?」
「1700年以上前なのに、どこか今と変わらない感じがします」
その言葉に教授が頷く。
「文明というのは案外そういうものなのかもしれないね」
「技術は進んでも、人の営み自体は変わらない」
静かな街並み。
誰もいない白銀都市。
そこへ差し込む淡い光。
妙に穏やかな空気だった。
やがて帰還準備が整う。
白銀都市中央外縁ゲート。
巨大な白色扉の前へ、一行は集まっていた。
アリアとNo.07も同行している。
ただし都市外縁までだ。
完全に外へ出るわけではない。
管理者補助端末としての役割がある以上、白銀都市を離れることはできないらしい。
レイは最後に一度だけ都市を振り返った。
白銀の街。
静かな空。
流れる古代魔語術式。
滅びた文明の残骸。
だが同時に。
再び動き始めた都市でもある。
「……なんか変な感じだな」
「後味が、ですか?」
エミリーが聞く。
レイは少し考えた。
「終わった感じがしない」
実際、その通りだった。
侵食問題はまだ終わっていない。
古代文明の謎も残っている。
未到達地帯全域が動き始めている。
だからこれは、多分。
一区切りに過ぎない。
アリアが静かにレイを見る。
「また来る可能性、高い」
「やだなぁ……」
本気で嫌そうだった。
No.07が淡々と続ける。
『白銀都市は常時歓迎状態』
「宿屋みたいに言うな」
だが。
少しだけ。
悪くない場所だとも思っていた。
飯は美味かったし。
寝具も快適だった。
それに。
あの仮面の男も、今度は一人ではない。
だからきっと。
しばらくは大丈夫だろう。
巨大な白色ゲートがゆっくり開いていく。
その先には、灰色の未到達地帯が広がっていた。
かつて死地だった世界。
だが今は、以前ほどの重苦しさがない。
侵食濃度低下の影響だろう。
空気が少し軽い。
レイは大きく息を吐いた。
「……帰るか」
その言葉と共に、一行は白銀都市を後にした。
白銀都市を出たあとの帰路は、驚くほど平穏だった。
未到達地帯。
世界最大の危険区域。
本来なら一歩進むだけで神経を削られるような土地だ。
だが今は違う。
空気そのものが以前より穏やかだった。
灰色の空は相変わらず重い。
荒れた大地も変わらない。
それでも。
未到達地帯特有の圧迫感が明らかに薄れている。
セシリアもそれを感じ取っているらしく、周囲を警戒しながら小さく呟いた。
「……本当に変わってますね」
以前なら、未到達地帯では常時魔力障害が発生していた。
視界の歪み。
魔素乱流。
侵食残滓。
存在そのものが異常だった。
だが現在は違う。
魔力循環そのものが落ち着いている。
侵食濃度低下の影響なのだろう。
教授も観測術式を見ながら頷いた。
「世界維持機構の正常化が始まっているのかもしれないね」
未到達地帯は、元々古代文明管理領域だった。
ならば。
管理機構正常化によって環境自体が変化しても不思議ではない。
もっとも。
だからといって安全になったわけではない。
遠方では依然として空間断裂が発生しているし、不安定な魔素地帯も残っている。
何より。
未到達地帯全域で古代施設再起動反応が発生中だ。
今後何が起きるのか、誰にも分からない。
ただ。
少なくとも今この瞬間だけは。
以前より遥かに歩きやすかった。
魔物遭遇数も明らかに減っている。
道中で遭遇したのは小型魔物群が数回程度。
しかも妙に動きが鈍い。
「弱くなってないか?」
レイは倒した魔物を見下ろしながら首を傾げた。
侵食濃度低下による影響だろうか。
以前ほど狂暴性がない。
エミリーも警戒を解きながら頷く。
「暴走状態が減っていますね」
未到達地帯の魔物は、侵食濃度の影響で異常凶暴化している個体が多かった。
だが現在は違う。
まるで理性を少し取り戻しているようだった。
もちろん。
だからといって可愛いわけではない。
普通に危険である。
特に。
教授が魔物を見つけるたびに観察し始めるのが危なかった。
「ふむ……侵食変異構造も変化しているね」
「教授」
「安心したまえ、触ってはいない」
「最低基準が低いんですよ」
セシリアが疲れた顔でツッコむ。
そんな調子で進むうち、遠征隊は徐々に未到達地帯外縁へ近づいていった。
そして。
数日後。
ついに王国前線拠点が見えてくる。
巨大防壁。
監視塔。
魔導照明。
人の気配。
それを見た瞬間、遠征隊の空気が一気に緩んだ。
未到達地帯内部は、常に気を張り続ける世界だ。
だからこそ。
人の生活圏が見えるだけで安心感が違う。
レイもようやく肩の力を抜いた。
「……帰ってきた」
前線拠点側も遠征隊発見に騒然となっていた。
当然だろう。
未到達地帯最深部へ向かった調査隊だ。
しかも予定を大幅超過している。
最悪全滅も想定されていたはずだった。
門が開き、兵士たちが慌ただしく駆け寄ってくる。
「生存者確認!」
「遠征隊帰還!」
歓声に近い声が上がる。
中には泣きそうな顔をしている兵士までいた。
セシリアは疲れた顔で敬礼を返している。
教授は既に研究資料保護へ全力だった。
レイはというと。
「風呂入りたい」
それしか考えていなかった。
その後、遠征隊は王都へ向けて正式帰還することになる。
道中は王国騎士団による護衛付きだった。
それだけ今回の遠征成果が重大ということだ。
馬車移動中、レイはずっと寝ていた。
本当にずっと寝ていた。
エミリーが呆れるほどに。
だが無理もない。
精神疲労が凄まじい。
高次領域接続の負荷は想像以上だった。
眠っている間も断片的な夢を見る。
白銀都市。
高次領域。
流れ込む膨大な情報。
仮面の男。
古代文明。
世界維持機構。
断片的映像ばかりだ。
だが不思議と悪夢ではなかった。
むしろ。
静かな夢だった。
そして数日後。
王都アルデバラン。
巨大城壁都市が見えてくる。
石畳。
街路。
市場。
人々の喧騒。
未到達地帯とは真逆の世界。
その景色を見た瞬間、レイは心底安心した。
「……文明っていいな」
「今さらですか?」
エミリーが苦笑する。
王都側は完全にお祭り状態だった。
未到達地帯最深部遠征隊帰還。
しかも全員生還。
既に噂は広がっていたらしい。
街中では人々がざわめき、遠征隊へ視線を向けている。
騎士。
研究者。
冒険者。
商人。
全員が興味津々だった。
中央研究院前では、既に研究者集団が待機していた。
教授を発見した瞬間、ものすごい勢いで押し寄せてくる。
「アルベルト教授!!」
「本当に生きていたんですか!?」
「観測記録は!?」
「白銀都市とは!?」
「侵食変化は!?」
教授は少し楽しそうだった。
「やぁ」
「やぁじゃありません!!」
即座に連行されていく。
セシリアも同時に捕獲された。
「レイン様! 報告を!」
「王城から召集が!」
「研究院会議室へ!」
セシリアは死んだ目をしていた。
「……帰りたい」
「頑張れ」
レイは即座に距離を取る。
そして。
全力で逃げた。
エミリーも慣れた様子で追従する。
裏路地。
市場通り。
細道。
人混み。
王都生活で培った逃走技術が火を吹いていた。
十分後。
人気の少ない屋根裏部屋へ辿り着いたレイは、そこで大きく息を吐く。
「……もう働きたくない」
本気だった。
世界滅亡寸前を経験したあとだ。
しばらくぐうたらしたい。
昼寝したい。
美味い飯を食べたい。
平和に過ごしたい。
切実だった。
エミリーはそんなレイを見ながら少し笑う。
「レイ様らしいですね」
窓の外では、王都の喧騒が広がっていた。
平和な日常。
人々の暮らし。
それを見ながら、レイはぼんやり思う。
――しばらくは、平和でいてほしい。
本当に。
心から。




