第百八話 ぐうたら三男、朝から騒がれる
翌朝。
白銀都市の宿泊区画は、静かな光に包まれていた。壁面へ流れる淡い術式光が朝日代わりになっているらしく、時間に合わせて明度が変化しているようだった。
柔らかな寝台へ沈み込んだまま、レイはぼんやり天井を見上げていた。
昨日の戦闘の疲労はまだ残っている。高次領域への深層接続。侵食中枢との直接戦闘。管理権限の強制行使。その反動は肉体より精神へ強く残っていた。
頭の奥が少し重い。
左腕に残る侵食痕も、完全には消えていない。
だが、それでも。
こうして普通に朝を迎えられているだけで十分だった。
「……帰りたくない」
寝台へ沈んだまま零したレイへ、エミリーが呆れた視線を向ける。
遠征用装備を整えながら、彼女は光幕を開いた。
白銀都市の景色が広がる。
灰色の空。
静かに浮遊する管理機構。
修復が進む白銀建築。
昨日まで崩壊寸前だった都市とは思えないほど穏やかだった。
「起きてください、レイ様」
「古代文明快適すぎる……」
宿泊区画は驚くほど居心地が良かった。
寝具は柔らかく、空調は完璧で、室温も常に一定。風呂まで存在していた。しかも食事が異常に美味い。
未到達地帯探索というより、高級宿へ滞在している感覚に近い。
もちろん、昨日は世界滅亡寸前だったのだが。
セシリアは部屋の隅で資料を整理していた。
机上へ広げられているのは遠征記録だ。
白銀都市。
侵食中枢。
管理権限。
古代文明。
世界維持機構。
どれも国家機密級どころでは済まない内容だった。
セシリアは疲れ切った顔で紙束を見つめている。
「……頭が痛いです」
「朝から?」
「当然です」
王国への報告。
中央研究院への提出。
遠征記録整理。
説明責任。
想像するだけで胃が痛かった。
しかも、説明内容が常識外れすぎる。
世界滅亡寸前でした。
古代文明の管理者と戦いました。
侵食問題の一端が判明しました。
その後、管理業務を押し付けて帰還しました。
どう書けばいいのか分からない。
「なんかいい感じにまとめれば?」
「雑すぎます!」
セシリアの悲鳴に近いツッコミが飛ぶ。
教授はそんな様子を苦笑しながら眺めていた。
彼も疲れているはずだった。
だが研究者特有の高揚感が勝っているのか、むしろ妙に生き生きしている。
とはいえ、以前ほど暴走した様子はない。
あくまで落ち着いた研究者として振る舞っているあたり、かなり理性を保っていた。
「しかし本当に驚いたよ」
教授は窓外を眺めながら呟く。
「未到達地帯そのものが変質を始めている」
昨日から白銀都市の管理機構は周辺観測を続けている。
その結果、未到達地帯外縁の侵食濃度低下が確認され始めていた。
危険度そのものが減少し始めている。
つまり。
1700年以上変わらなかった世界最大の危険地帯が、今まさに変質しているのだ。
歴史そのものが動いていると言っていい。
だが。
レイは寝台へ沈んだままだった。
「んー……」
「レイ様、聞いてます?」
「聞いてる」
「本当ですか?」
「たぶん」
エミリーが深くため息を吐く。
その時。
壁面術式が淡く発光した。
『来訪者確認』
『補助端末個体No.07』
静かな機械音声。
白い扉が開き、No.07が室内へ入ってくる。
銀色の髪。
白衣装。
アリアと同型の補助端末。
だが、こちらはまだ感情表現が少なく、どこか硬い印象があった。
『朝食準備完了』
その瞬間。
レイが勢いよく起き上がる。
「行く」
「現金すぎませんか?」
「飯は大事」
即答だった。
白銀都市内部を移動する間も、修復は続いていた。
白い管理機構たちが空中を移動し、術式修復を行っている。停止していた区画も次々と再起動していた。
昨日まで死の都市だったとは思えない。
生活機能そのものが蘇っている。
『都市機能復旧率六十二%』
No.07が淡々と告げる。
教授は感心したように周囲を見回した。
「自己修復型都市機構……本当に規格外だ」
壁面術式。
魔力循環。
都市管理。
その全てが巨大な魔術式として機能している。
まるで都市そのものが生き物だった。
食堂区画へ到着すると、既に料理が並び始めていた。
焼きたてのパン。
卵料理。
肉。
スープ。
果実。
古代文明の自動調理機構は相変わらず意味が分からない性能をしている。
しかも全部美味い。
「古代文明ありがとう……」
レイは本気で感謝していた。
エミリーが少し笑う。
セシリアも呆れながら席へ着いた。
その時。
都市全域へ白い光が走る。
『外縁観測結果更新』
『未到達地帯環境変化確認』
食堂内の空気が少し変わった。
教授が真剣な表情になる。
『侵食濃度低下』
『危険度減少継続確認』
静かな報告。
だが、その意味は重い。
未到達地帯が変わる。
それは世界地図そのものが変わることを意味していた。
王国。
他国。
中央研究院。
冒険者。
貴族。
世界中が動き出す。
未到達地帯は、世界最大の未知だったのだから。
セシリアは小さく息を呑む。
「……本当に、歴史が変わる」
だが。
レイは肉を食べていた。
ものすごく美味そうに。
「反応薄くないですか……?」
「腹減ってる」
それで押し通そうとしている。
No.07はそんなレイを見つめ、淡々と告げた。
『管理者権限保持者へ提案』
嫌な予感しかしなかった。
『白銀都市管理権限一部譲渡可能』
「やめろ」
即答だった。
No.07は少しだけ沈黙する。
『住居区画永続利用許可可能』
レイが少し揺らぐ。
エミリーが即座に察した。
「揺らがないでください」
「いやでも飯うまいし……」
「レイ様」
「冗談」
半分くらい本気だった。
食事を終えたあと、一行は白銀都市中央管理区画へ集まっていた。
巨大な白色空間。
幾重にも展開された管理術式。
空中を流れる古代魔語。
静かに移動する補助端末群。
侵食暴走直前だった頃と比べると、空気そのものがまるで違っていた。
重苦しさが消えている。
都市全体が正常な呼吸を取り戻したようだった。
中央空間中央では、アリアとNo.07が複数の術式画面を操作している。
白銀都市全域の状態確認。
未到達地帯周辺観測。
侵食濃度推移。
管理機構再接続。
どれも国家規模どころでは済まない情報だった。
セシリアは相変わらず頭痛を堪えるような顔をしている。
「本当に報告書どうしましょう……」
「まだ言ってる」
「まだも何も現在進行形の問題です!」
王国へ提出される正式記録は、今後の世界情勢を左右する可能性すらある。
未到達地帯危険度低下。
古代文明都市発見。
侵食問題の一部解明。
どれも歴史的発見だ。
しかも下手に情報が漏れれば、各国が未到達地帯へ殺到しかねない。
教授は腕を組みながら術式群を眺めていた。
「情報制限は必要だろうね」
「全部公開したら絶対揉めますよね……」
エミリーも苦笑する。
特に管理権限関連は危険だった。
古代文明施設制御。
空間操作。
侵食干渉。
国家が欲しがらないはずがない。
レイは面倒臭そうに頭を掻いた。
「全部隠したい」
「無理です」
即座に却下された。
その時。
白い術式画面の一つが発光した。
『遠征帰還経路算出完了』
アリアが静かに振り返る。
「白銀都市外縁まで安全経路形成完了」
「お、帰れる?」
「可能」
レイは少しだけ安心した。
正直、そろそろ帰りたかった。
未到達地帯は疲れる。
毎回命懸けになる。
しかも今回は世界滅亡寸前まで行った。
しばらく平和に過ごしたい。
昼寝したい。
美味い飯を食ってだらだらしたい。
切実だった。
だが。
教授は術式画面を見つめたまま難しい顔をしている。
「……妙だね」
「何がです?」
セシリアが聞く。
教授は一枚の観測術式を拡大した。
未到達地帯全域図。
そこへ複数の光点が表示されている。
「侵食濃度は低下している」
「はい」
「だが逆に、“動き始めている”」
空気が少し変わった。
レイも画面を見る。
白銀都市周辺。
未到達地帯深部。
今まで停止していた古代施設群が、順次再起動を始めていた。
『管理機構再同期反応確認』
『各地施設応答開始』
No.07が淡々と告げる。
セシリアが息を呑んだ。
「……まさか」
教授が静かに頷く。
「白銀都市だけじゃない」
「未到達地帯全域の管理機構が連動している可能性がある」
つまり。
今回の件は局地的問題ではない。
未到達地帯そのものへ影響が及んでいる。
レイは嫌そうな顔になった。
「やだなぁ」
「露骨ですね……」
エミリーが苦笑する。
「絶対あとで面倒事になる」
レイの勘は大体当たる。
そしてその予感は大抵ろくでもない。
アリアが静かに告げた。
「現在、各地管理機構は安定動作中」
「侵食暴走兆候なし」
少なくとも即座に危険というわけではないらしい。
だが。
教授は遠い目をした。
「古代文明遺跡が各地で起動を始めたとなれば……」
「世界中の研究者が発狂しますね」
セシリアが真顔で言う。
「中央研究院も大混乱だろうねぇ」
教授は妙に楽しそうだった。
「教授」
「安心したまえ」
「君たちほど暴走はしない」
「最低基準が高いんですよ」
そんなやり取りをしている間も、術式画面では各地観測が続いていた。
古代都市。
封鎖施設。
地下管理区画。
未確認構造体。
未到達地帯には、まだ無数の古代文明施設が眠っているらしい。
レイはぼんやりそれを見つめた。
高次領域で得た情報。
断片的な記憶。
古代文明の規模は、今の人類が想像しているより遥かに大きい。
白銀都市ですら、その一部に過ぎない。
そして。
侵食問題も終わっていない。
仮面の男が管理を引き継いだとはいえ、世界そのものが抱える歪みは残っている。
だが。
少なくとも今は崩壊を免れた。
だから。
今だけは少しくらい休んでもいいだろう。
「……帰ったら寝る」
レイがぼそりと呟く。
エミリーが少し笑った。
「何日くらいですか?」
「五日」
「長いです」
「世界救ったんだから許される」
「そこを免罪符にしないでください」
その時。
No.07がレイを見た。
『管理者権限保持者へ質問』
「嫌な予感しかしない」
『白銀都市定期訪問予定は?』
「ない」
即答だった。
No.07は少し沈黙した。
ほんの僅かに。
残念そうに見えたのは気のせいかもしれない。
アリアが静かに補足する。
「補助端末群、レイへの依存傾向増加中」
「やめろ怖い」
「自業自得では?」
セシリアが即答した。
レイは本気で嫌そうな顔をした。
世界を救った代償がこれである。




