第百三話 ぐうたら三男、継承を開始する
空が、こちらを見ていた。
◇
巨大な黒い目。
月の内部から覗く異形。
それだけで空間が軋む。
◇
侵食魔素の濃度が跳ね上がった。
都市全域へ黒い霧が流れ込む。
◇
『回収開始』
◇
その声と同時。
世界が歪んだ。
◇
「っ――!」
レイは反射的に術式を展開した。
空中へ日本語が奔る。
◇
『空間固定』
『座標維持』
◇
直後。
周囲数百メートルの空間が崩壊した。
◇
都市構造が消える。
白銀の建物が、まるで削り取られるように欠落した。
◇
だが。
レイたちの周囲だけは残っている。
固定された空間が侵食崩壊を弾いていた。
◇
「いやほんと危ないな!?」
レイは顔を引きつらせた。
◇
教授も完全に真顔だった。
「今のを防ぐのか……」
◇
普通なら都市ごと消滅していた。
それを術式一つで防いでいる。
◇
だが。
侵食中枢の圧力は止まらない。
◇
空の目が開く。
さらに。
周囲の空間断裂が拡大した。
◇
「レイ様!」
エミリーが叫ぶ。
◇
空間固定術式に亀裂が走っていた。
侵食が術式そのものを食っている。
◇
レイは舌打ちした。
「相性悪っ……!」
◇
侵食は“汚染”だ。
通常魔法を侵し、魔素構造を書き換える。
だからこそ厄介。
◇
だが。
古代魔語術式なら、侵食定義そのものへ干渉できる。
◇
「はぁ……ほんと面倒臭い」
レイは深々とため息を吐いた。
◇
そして。
前へ出る。
◇
黒い目がレイを見つめる。
世界そのものみたいな圧力。
◇
普通なら立っているだけで精神が壊れる。
だが。
レイは嫌そうな顔をするだけだった。
◇
「そんな見んなよ」
◇
教授が思わず吹き出しかける。
「君はもう少し緊張感をだね――」
「教授、今それ言います!?」
セシリアが悲鳴気味にツッコんだ。
◇
その瞬間。
空の目が脈動する。
◇
黒い光。
空間侵食。
世界法則そのものを書き換える圧力。
◇
アリアが即座に警告した。
「高次侵食反応」
「うん嫌な予感しかしない」
◇
次の瞬間。
空から“黒い雨”が降り始めた。
◇
雨ではない。
侵食そのもの。
触れた建造物が崩壊していく。
◇
白銀都市が音を立てて侵食されていく。
◇
「まずいですね……!」
セシリアが結界を展開する。
だが侵食雨は結界すら侵していた。
◇
教授も重力障壁を展開する。
騎士たちが必死に防御陣形を組む。
◇
しかし。
防ぎ切れない。
◇
「……あーもう」
レイは頭を掻いた。
◇
完全にやる気のない顔。
だが。
目だけは真剣だった。
◇
レイは空を見上げる。
黒い月。
侵食中枢。
崩壊する都市。
◇
そして。
静かに古代魔語を紡いだ。
◇
『侵食定義上書き』
◇
世界が止まる。
◇
降り注いでいた黒い雨が、空中で静止した。
◇
さらに。
黒色だった侵食が、白く変換されていく。
◇
「え……」
セシリアが目を見開く。
◇
侵食が浄化されている。
いや。
侵食という“状態”そのものを変更されていた。
◇
教授が呆然と呟く。
「法則干渉……」
◇
古代魔語術式。
管理権限。
そしてレイの適合性。
◇
全部が噛み合った結果だった。
◇
空の目が、初めて揺らぐ。
◇
『……異常』
『未確認』
『管理者権限変質確認』
◇
「知らんがな」
レイは即答した。
◇
だが、その時。
都市中央塔のさらに奥。
今まで閉ざされていた巨大隔壁が、ゆっくりと開き始めた。
◇
白い光が漏れる。
膨大な管理術式。
都市全域へ接続された超巨大中枢。
◇
アリアが静かに告げる。
「中央制御核、開放開始」
◇
教授の顔色が変わった。
「まさか……」
◇
アリアはレイを見る。
淡蒼色の瞳が静かに揺れた。
◇
「レイ」
「なに」
「中央制御核へ到達すれば、侵食核封鎖可能」
◇
一拍。
◇
「でも?」
レイが聞く。
◇
アリアは静かに続けた。
「正式管理権限接続、必要」
「嫌です」
即答だった。
◇
空気が止まる。
◇
セシリアが頭を抱えた。
「もう少し悩むとかありません!?」
◇
「だって絶対面倒だろ」
レイは真顔だった。
「管理とか絶対仕事増えるじゃん」
「世界滅亡寸前なんですが!?」
「分かってるけど!」
◇
エミリーが苦笑を浮かべる。
「レイ様らしいですね……」
◇
教授は半ば呆れた顔でため息を吐いた。
「君ほど権限持ちに向いていない適合者も珍しいよ」
「褒めてます?」
「全然」
◇
だが。
冗談を言っている余裕は長く続かなかった。
◇
空の巨大な目が再び脈動する。
侵食波動。
空間断裂。
都市構造が軋む。
◇
レイの術式で一時停止していた侵食が、再び動き始めていた。
◇
アリアが静かに言う。
「侵食中枢、学習中」
◇
「うわぁ……」
レイは本気で嫌そうな声を出した。
◇
「面倒なボス特有の適応機能やめろよ……」
◇
侵食は術式構造へ適応する。
停止。
浄化。
固定。
既に一部対抗され始めていた。
◇
黒い目がゆっくり開く。
都市全体へ圧力が降りる。
◇
騎士たちが膝をついた。
呼吸すら苦しそうだ。
◇
セシリアも雷結界を維持しながら顔を歪める。
「っ……魔力そのものが侵される……!」
◇
教授が低く呟く。
「存在規模が大きすぎる」
◇
世界そのものへ侵食が広がっている。
個体というより現象。
災害。
あるいは法則異常。
◇
レイは頭を掻いた。
「つまり中央制御核まで行って止めろって?」
「はい」
アリアは頷く。
◇
「正式接続が必要」
「そこが嫌なんだよなぁ……」
◇
その時。
白い管理機構たちが一斉に光った。
◇
『管理者候補へ提言』
『現在接続は仮接続状態』
『権限出力制限中』
◇
「制限?」
教授が反応する。
◇
『正式接続未完了のため、領域操作出力三十七パーセント制限』
◇
一瞬、沈黙。
◇
セシリアがゆっくりレイを見る。
「……今ので三十七なんですか?」
◇
レイも嫌そうな顔になる。
「聞きたくなかった情報だなそれ」
◇
教授が額を押さえた。
「本当に何なんだ君は……」
◇
その瞬間。
黒い巨体が動いた。
◇
侵食中枢本体。
塔から半身を現した異形。
巨大な腕が振り下ろされる。
◇
空間そのものが潰れる。
◇
「レイ様!」
エミリーが叫ぶ。
◇
レイは舌打ちした。
避けても後ろの都市ごと消し飛ぶ。
◇
「ったくもう!」
◇
空中へ超巨大術式が展開される。
白銀都市全域を覆う日本語術式。
◇
『座標固定』
『空間保護』
『侵食遮断』
◇
轟音。
◇
黒い腕と術式障壁が衝突した。
空間が悲鳴を上げる。
世界が軋む。
◇
だが。
防いだ。
◇
騎士たちの後方で都市構造が守られている。
◇
セシリアが息を呑む。
「防いだ……」
◇
しかし。
レイの足元が砕けた。
◇
負荷が大きい。
管理領域全域へ干渉しているせいで、術式規模が異常だった。
◇
教授が即座に結界を展開する。
「レイ君!」
◇
「平気平気……!」
レイは顔をしかめながら答える。
「ちょっと重いだけ」
「その表現で済ませる規模じゃない!」
◇
だが。
その時だった。
◇
中央塔奥の巨大隔壁が、完全に開いた。
◇
白光。
無数の古代術式。
都市全域と接続された中枢空間。
◇
そして。
その中心に、“椅子”があった。
◇
玉座のような形状。
白銀の制御座。
周囲へ無数の術式回路が伸びている。
◇
アリアが静かに言う。
「中央管理座」
◇
嫌な名前だった。
◇
「うわ座りたくねぇ……」
レイは本気で嫌そうな顔をした。
◇
その時。
空の巨大な目が、ゆっくり細められる。
◇
『継承者』
『接続阻止』
◇
直後。
都市全域へ侵食魔素が噴き上がった。
◇
白銀都市が黒く染まる。
建造物が侵食され、異形化していく。
◇
「まずい!」
セシリアが叫ぶ。
◇
都市そのものが侵食側へ変質し始めていた。
◇
教授が険しい顔になる。
「時間がない!」
◇
アリアはレイを見る。
静かな瞳。
だが、僅かに焦りがあった。
◇
「レイ」
◇
「……分かってるよ」
レイは深くため息を吐いた。
◇
ものすごく。
本当にものすごく嫌そうだった。
◇
「座ればいいんだろ、座れば……」
中央管理座。
◇
白銀の玉座は静かに光を放っていた。
周囲へ無数の術式回路が伸びている。
都市全域。
いや、この未到達地帯そのものへ接続されているようだった。
◇
レイは露骨に嫌そうな顔でそれを見る。
◇
「帰りたい……」
◇
エミリーが苦笑した。
「まだ座ってもいませんよ、レイ様」
「座ったら絶対仕事増える」
「そこは否定できません」
◇
教授が小さく吹き出す。
「ここまで管理者適性が低そうな管理者候補も珍しいね」
「嬉しくないです」
◇
だが。
空は待ってくれない。
◇
侵食が都市全域へ広がっていた。
白銀構造が黒く変色する。
空間断裂が拡大していく。
◇
空の巨大な目がゆっくり瞬く。
それだけで世界が揺れた。
◇
『継承者』
『接続を拒絶するな』
◇
「いやお前側につく気はないからな?」
レイは即答した。
◇
侵食中枢。
こいつは管理機構だったものだ。
だが既に侵食へ飲まれている。
◇
世界を“再構築”しようとしている。
人類など関係なく。
◇
だから。
止めなければならない。
◇
それはレイも分かっていた。
分かっているから余計に嫌だった。
◇
「なんで俺なんだよほんと……」
◇
アリアが静かに答える。
「適合」
「その適合とかいう仕様消せない?」
「無理」
◇
即答だった。
◇
セシリアが小さく笑ってしまう。
極限状況なのに、いつもの空気感が消えない。
◇
それが少しだけ救いだった。
◇
その時。
都市が大きく揺れた。
◇
侵食中枢本体が完全に動き始めている。
黒い腕が都市外壁を掴み、侵食が広がっていく。
◇
白い管理機構たちの光が赤く点滅する。
『警告』
『中央管理領域侵食率六十三パーセント』
『制御崩壊接近』
◇
「はいはい分かった分かった」
レイは観念したように頭を掻いた。
◇
そして。
ゆっくり中央管理座へ近づく。
◇
白銀の床へ足音が響く。
管理座周囲の術式が反応した。
◇
『管理者候補接近確認』
『接続準備開始』
◇
「だから勝手に進めんなって……」
◇
レイは嫌そうにぼやきながら、管理座を見下ろした。
◇
嫌な予感しかしない。
絶対後戻りできないやつだ。
◇
エミリーが静かに声をかける。
「レイ様」
◇
振り返る。
◇
エミリーは少しだけ困ったように笑っていた。
「ちゃんと戻ってきてくださいね」
◇
その言葉に。
レイは少しだけ表情を緩めた。
◇
「昼飯くらいには戻りたい」
「もう夕方です」
「マジか」
◇
セシリアが呆れたように笑う。
「そこなんですね……」
◇
教授も苦笑していた。
「君らしいよ」
◇
アリアだけが静かにレイを見ている。
淡蒼色の瞳。
感情は薄い。
だが。
どこか不安そうにも見えた。
◇
レイは小さく息を吐く。
◇
「……じゃ、ちょっと行ってくる」
◇
そして。
中央管理座へ腰を下ろした。
◇
瞬間。
世界が変わった。
◇
白い光。
無数の情報。
古代魔語術式。
都市全域の構造。
空間座標。
魔素流動。
侵食反応。
◇
全部が頭へ流れ込んでくる。
◇
「っ……!」
◇
レイが顔をしかめる。
膨大すぎる。
都市一つではない。
未到達地帯全域。
いや。
もっと広い。
◇
世界そのものへ繋がっている。
◇
『正式接続開始』
◇
白い声が響く。
◇
『管理者権限承認中』
『言語認識一致』
『適合率更新』
◇
術式回路がレイの周囲へ広がる。
白銀の光が身体へ接続されていく。
◇
空の巨大な目が揺らいだ。
◇
『……管理者』
◇
初めて。
侵食中枢の声に変化があった。
◇
警戒。
敵意。
そして。
恐怖にも似た何か。
◇
レイは大量の情報へ顔をしかめながら呟く。
「うわぁ……」
◇
本当に嫌そうだった。
◇
「なんだこれ……ブラック企業か……?」




