4 私の罪
初雪がイグニスを白く染める季節、もう、フィリアリーゼの病は隠しきれないところまで篤くなり、努力の甲斐も虚しくほどなく兄王フィラルラーズの知れるところとなった。
彼女の愛しい半身の嘆きはとても深く、今すぐにでも執務の全てを取りやめて頼むから療養に専念してほしいと懇願してきた。お前のいない世界など、あり得ない。どうか俺の側からいなくならないでくれ。そう言って縋る姿は彼女の心を痛めるにはこれ以上ないものだった。
二人は双子だ。
この世に同時に生を受け、同じ時を過ごしてきた。
生まれつき体の弱かった妹は寝台から起き上がれないことが多く、そんな時兄はいつも笑顔で側にいて妹を励まし、支え、彼女を笑顔にしてくれていた。
幼いころ母が亡くなった時の悲しみも、兄が一人前の騎士としての叙勲を受けた時の晴れがましさも、逆臣に嵌められて父王を失い、お互い命の危険に晒されたあの内乱の時の痛みも、その他嬉しいことも、楽しいことも、悲しみも苦しみでさえずっとずっと一緒に過ごしてきた。だから、半身を失う恐ろしさは想像も出来ないもので、二人はその恐怖に立ち向かう術を知らなかった。
彼女の病は亡き前王妃と同じものだった。心臓の機能が低下し、体中の血液の流れが緩やかになり、激しい痛みを伴う発作を繰り返しながら吐血し、衰弱し、そして死に至る。治療法はない。ただ、病の進行を遅らせることだけが唯一可能だ。しかし、病の進行を押さえる薬はとても高価で貴重な薬草を数種類混ぜ合わせて煎じることにより調合される。そして副作用として、長い眠りに落ちるのだ。10日あれば意識があるのは僅かに1日から2日、それ以外は深く長い眠りに就く。まるで眠りの間だけ時間を止めて病の進行を止めるような感じだ。そうすれば余命数年のところを、さらに5年程度伸ばすことができるらしい。実際前王妃は双子を身ごもる前に病を得て、彼らが5歳の春まで生き長らえられた。これは発病直後に適切な治療を受け、ただ療養のみに専念した結果であり、フィリアリーゼの場合とは大きく異なる。彼女は発病時は逆臣により監禁されており、十分な治療が受けられないばかりか肉体的にも精神的にも極限状態にあり、それが病の進行を大きく助長したともいえる。さらに彼女は自らの意思で治療を拒否し、療養もせず、内乱で破壊された国土の復興という激務に身を置き続けた。もともと弱かった体はさらに悲鳴を上げ、今では発作が頻発し、痛み止めだけでは意識を保ち続けることすら支障をきたすようになった。
やはりというか、さすがというか我が兄は私の病に目ざとくも気づいてしまった。
これまで侍医や数人の侍女、そして執務時に補助をしてくれている側近の政務官以外には病を打ち明けてはいなかった。もちろん彼らは病を隠すことに猛反対していた。彼らはそれを知った時の兄の悲嘆を思い、何より一様に私の体を気遣ってくれていた。しかし、国の現状を思えば、財政の厳しい折に余命幾ばくもない私の延命の為に高価な薬の手配をすることなどあってはならないし、何より私自身が王女であることの務めを全うしたかった――その根底には、私の我儘が過分に含まれていたのだがその件については彼らにはもちろん伏せていたけれど。
しかし、兄は私がひた隠しにしていた秘密に気づいてしまった。私の身に近い将来起こりうる結末のこと、私の押し殺してきた、彼への思慕についてさえ。そして私が治療を拒む理由にも感づいてしまった。
兄は騎士に対して怒りをぶつけようとしたから、私は懸命にそれを止めた。彼の騎士が私の心を受け入れられないのは彼のせいではない。私たちは結ばれる運命になかった。ただ、それだけだ。
しかし、兄にとってはそれは大罪だという。兄は私のことをとても大切にしてくれていた。幼い頃は私のことを自分の花嫁にするのだといって周囲に触れて回っては窘められていたこともあった。その兄は、私の幸せを誰より願ってくれていたから、兄の悲しみは私が思う以上だったのかもしれない。
兄はならせめて自分も王都に残ると言いだした。
今は隣国ザカの動きが怪しく、いつザカの軍が国境を越えてくるかわからない状況で、兄が前線を離れることは自軍にとってどれだけの影響を与えることか。イグニスは誇り高き騎士の国。王自らが優れた騎士であることが誉れでもある。実際、先の内戦を収めた兄の手腕は国内外に高く評価されていて、彼が戦場にいるか否かで騎士の士気に大きく影響が出る。いくらイグニスの騎士が個々の武勇に秀でていたとしても、未だ内戦の傷も癒えない現状では、数に勝るザカの侵攻をどこまで食い止めることができるかは大いに疑問だった。だから、私はそれも止めた。王たるもの何を最優先すべきか、兄に諭した。彼もそれを弁えていないわけではない。けれど時として感情はその枷をいとも容易く取り払ってしまう。私の我儘とて、国のこともあるがその理由の大半は秘めたる恋情からくるものだから兄のことを非難できる立場ではない。
「フィリア、どうして」
兄の声はこれまで聞いたことがないくらいに弱々しい。震える声に、申し訳なさと切なさがつのる。私はこの大切な半身をここまで悲しませて、一体どうしたいというのか。たった一つの叶わない恋を貫くことで、どれほどの人に迷惑をかけ、悲しませてしまったのだろう。愚かな自分には嫌悪感しかない。
「フィラル兄様、私の最後の我儘をどうか許して下さい。彼には相愛の婚約者もいらっしゃいます。私が勝手に懸想しているだけ。私は彼が幸せになってくだされば、それでいいのです。でも、この想いだけはどうしても消すことができなかった。私は彼を愛してしまったことを後悔などしていないのです。想いは届かなくても、私は彼の近くにいられたら、それで十分なのです。だからせめて最後まで彼の望む私でいたい……」
「アレスはバカだ。フィリアの想いを受け取らないなんて。フィリア以上の姫などこの世界のどこを探してもいないというのに。お前もバカだ、そんな男に恋してしまうなんて……っ!」
私の背に回された兄の腕は震えていた。大きく力強い兄の腕は、いつもならその逞しさから安心感を私に与えてくれるのに、今は悲しみしか伝わってこない。私は兄の腕の中で何度も何度も詫びた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
報われない恋を貫こうとしたことこそ、私の罪。
私の罪は許されなくていい。でもどうか、私が見ることのできない未来に、彼らが幸せであるように。
そして未来のない私にできることは、せめて私の愛する人が幸せな未来を描けるように祈ることだけ。
――――――どうか神様。