25 闇の向こう
アレスディールの右手は私の後頭部をしっかりと支えていて、私の顔は丁度彼の胸に押し当てられているような状態だった。彼の鼓動を直接感じて、私の心拍数も跳ね上がったが、そこには甘さの欠片もない。寧ろ真逆の、緊張感があった。
先程鼻を掠めた匂いには覚えがあった。
濃厚な蜜のようにねっとりとしたキツい香水の香り――あれは夜会のダンスの時に嗅いだ、ゼノーシス伯爵のものに似ている。
私を腕に抱いたまま、アレスディールは石像のように動かなかった。息を殺して闇の向こうを注視している。この東屋の近くに不審者がいるのは明らかだった。見つかってはまずい、私もそう判断し、アレスディールの腕の中でじっと気配を消すよう試みた。
「………………失敗だ…………、秘密裡に処分…………」
どうやら男の声だが、遠くて殆ど聞き取れない。あちらも声をひそめて話しているようだ。拾えた会話の部分だけでも物騒な話だと言うことは予想がつく。声の主がゼノーシス伯爵かどうかは確証が持てなかったが、香水の香りから恐らくその可能性は高そうだ。
「あの王子に………………計画…………王女を……」
私は耳を必死に澄ませた。聞き逃すべきでない話だと本能が告げる。
これは、自分たちに関わることだ。恐らく、近い未来に起こりうること――兄様が危惧しているであろう一部貴族の反乱に関することだと確信する。私は震える手でアレスディールの腕に手を伸ばすと、彼は私を抱く手に力を強めた。
「…………を手に入れて玉座も…………」
闇の中にもう一人潜んでいるらしいが、そちらは誰か全くわからない。
短いやり取りが終わると、ゼノーシス伯爵は何事もなかったように静かに中庭を後にし、程なくもう一人の微かな気配も無くなる。
突然の事態に動悸が治まらず、私は無意識にアレスディールの胸に縋りついていた。
アレスディールはしばらくそのまま息を潜めて様子を伺っていたが、第三者の気配が無くなったことが確認できたのか、ゆっくりと抱擁を解く。私は急に支えを失って膝から崩れ落ちそうになる。
「――王女!?」
再びアレスディールの腕の中に戻ると、今度は脇と膝の下に腕を回されて横抱きにされる。驚いた私は小さな悲鳴を上げてしまった。
「――アレスディール!!」
「度重なるご無礼をお許し下さい。今宵はこのままお部屋へお連れ致します」
彼は私を抱えたまま、大股で中庭を出てそのまままっすぐに私の私室まで運んでくれた。正直、情けないことに中庭の出来事で緊張のあまり腰が砕けてしまったので、私は歩くこともままならない状態だった。彼はその事に気付いたのだろうし、速やかにあの場所から離れる必要性があったのだろう。
アレスディールは私の私室に入ると、私を寝台の上にそっと横たえてくれた。
「すぐに侍女が参ります。ご気分が優れないようでしたら侍医も呼びますが……」
努めて優しく掛けられる声に私は首を振った。
「いいえ、それには及びません。侍女にお茶を淹れてもらって、それを飲んだらすぐに休みます。アレス、先程の――」
「フィリアリーゼ様、その件についてはわたしから陛下と王子にご報告に上がります。どうかわたしにお任せ頂けますか。ご心中お察し致しますが、どこに何があるやもしれません、どうか内密に」
「わかりました。お任せ致します」
アレスディールの表情は、私を安心させようと努力しているためか、優しく穏やかなものだったが、その心中は表情とは程遠いものであることは安易に察しがついた。私は彼の努力に応えなければならない。
「けれどもアレス、何か分かれば私にも教えて下さい。情報は多いほど非常時の対応に選択肢が増えます。私は――お父様や兄様の枷にはなりたくありません」
先程の中庭での話からすれば、私の存在が彼らの「計画」にとって重要になると思われる。私は非力で自分の身すら自分で守れないだろう。加えてこの病弱な体はいざという時に思うように動いてくれるとは限りない。そんな私は敵方にとって、父や兄に対する格好の質となるだろう。
――そして恐らく兄は私を見殺しにできない。自分の命と天秤に掛けたとき、私の命を優先しかねない。それは逆の立場ならいいだろう。兄は次代の王だ。イグニスの未来を支える掛けがえのない人だ。私が兄の代わりに死ぬことがあっても、その逆はあり得ない。
「畏まりました」
アレスディールは騎士の礼を取った。
「ですが……、フィリアリーゼ様は陛下やフィラルラーズ様だけでなく我々にとっても掛けがえのない大切なお方です。それをどうかお心に留めていて下さい」
彼の真摯な眼差しに射貫かれて、私の胸は一気に熱くなる。私はそっと目を閉じてアレスディールの言葉を反芻した。
「わかりました、私は貴方がたの忠を裏切らないように心掛けましょう。……ありがとう、アレスディール」
私はイグニスの王女。私の命は国と民のもの。
これから起こりうる天使様が仰るところの「嵐」が来た時、私は自分の身に起こる災禍がどんなものであれ、王女としての矜持は守らなければならないと誓った。
それが父や兄を助け、アレスディールたち騎士や民の思いに報いる唯一の方法であると信じた。




