23 白薔薇の庭
もう夜会の会場はとうに抜けて周囲には人はほとんどいない。時折見回りの騎士や仕事中の侍女とすれ違う程度で、もう人ごみに揉まれるようなこともないのにアレスディールの手は私の手を握り締めたままだった。
握られた手からアレスディールの体温が伝わってきて、それだけで私は夢を見ているような心地だった。
彼がいる、ただそれだけで。
回廊を静かに進む彼の足取りはゆっくりで、私に合わせてくれていることがとても嬉しい。
アレスディールに気遣われている自分が、愛しい――例えそれがイグニス王女に対する配慮だったとしても。
言葉もなく、ただ無言で進んでいるだけだけど気まずさはなかった。静寂でさえ心地よかった。
会場の外に出たためか、喉もとに込み上げる嘔吐感はだいぶ薄らいだが、それでもまだ気分の悪さは続いていた。伯爵は恐らく衣服のどこかに香水に混ぜて何かの薬を仕込んでいたに違いない。ダンスの時に必要以上に私に密着してきたのは薬を嗅がせるためだ。そして気分の悪くなった私を介抱するように見せかけて何らかの行動を取ろうとしたに違いない。
私はアレスディールの横顔を見上げた。
彼があの時来てくれなかったら私はどうなっていたか。
もしかしたら別室にでも連れ込まれてしまったかもしれない。
そうなっていたら、私は。
「ご気分は如何ですか?」
足を止めて、アレスディールは心配そうに私の顔を覗き込んでいた。先ほどの伯爵とは違い、本当に私の体調を案じていてくれていることが分かる。
私は彼に握られていないほうの手で口元を押さえた。
「アレス、少し気分が悪くて……。部屋に戻る前に少し風に当たっていきたいのですが、構いませんか?」
丁度、庭園に抜ける扉の近くに差し掛かったところだった。アレスディールもそれに気付いたようだ。扉に手を掛けてゆっくりと振り返った。
「少しであれば問題ないでしょう。ただ、お体を冷やしてしまってはなりませんので、わたしのもので申し訳ありませんが、これを羽織っていて下さい」
そう言って、アレスディールは自分の外套を私の肩にかけてくれた。その外套は騎士のものだから、防寒の役目も果たせるようにしっかりとした生地で作られているため、私にとっては少し重い。けれど、先程までアレスディールが身に付けていたため彼の体温が残っている。まるでアレスディールに両腕で包まれているような感覚にとらわれた。
「ありがとうございます」
前の合わせをぎゅ、とさらにかきあわせて私はアレスディールを見上げた。多分、私の頬は赤く染まっていたのだろう。アレスディールは気遣わしげに眉を顰めた。けれど、部屋に戻ろうも言わず、繋いでいない方の手で私の肩を抱いた。驚いてアレスディールを見遣ると、彼は私の視線に気付かないのか前を向いたままだった。アレスディールは中庭に不審者が居ないか警戒している様子だった。その鋭い眼差しに私は一瞬で囚われてしまった。
「綺麗……」
彼の紅玉のような紅い瞳は珍しい。彼の家は祖先を辿ると北方が起源なんだそうだが、北でもあまりない。聞けば山岳に住み神に祈りを捧げる巫の一族だったそうだ。紅い瞳は神との契約の証らしい。今は何の力もありませんが……、と話してくれたが彼の紅い瞳を見ているととても不思議な気持ちになる。
「如何なさいましたか?」
私の呟きを耳にしたのか、アレスディールが不意に足を止める。私は彼の瞳に見とれていたなんてとても言えなくて慌てて言い訳を探した。
「月華が……」
その時視界に映ったのは中庭の中央で今まさに満開に咲き誇る美しい白薔薇だった。掌くらいの大きな花なのに、幾重にも重なる純白の花弁がまるでレースのように美しく可憐で、繊細な印象を与える。花開いてもすぐに散ってしまう儚さが、より人の心を奪う。私はこの月華と呼ばれる白薔薇がとても好きだった。
「丁度見頃ですね。明日はここで令嬢たちがお茶会を開くのだと話していました」
「アレスはお誘いを受けたのでしょう?」
噂話について語るように話しているが、アレスディールは貴族の姫君たちにも大層人気があることを知っている。王宮の中庭は貴族にも解放しているので、申請さえすれば姫君たちがお茶会を開くことも可能だ。
「わたしは王子に従う者ですから、主君のお許しなく行動することはありません。明日も王子について国境平定のための軍議に出席の予定です」
言外に断ったことを伝えてくる。私は少しホッとした。同時に自分のつまらない嫉妬と独占欲に嫌悪感を抱く。
「フィリアリーゼ様は出席されないのですか?」
「いいえ」
私は静かに首を振った。私のところには誘いは来ない。
確かにあまり表に出ない私が出席したら主催の姫君は得意がるだろうけれど、多分明日のお茶会は婿がねを物色するためのものだから自分よりも目立つ人には来てほしくないだろう。私は、王女というだけで彼女たちよりも注目を集めてしまうからだ。
「そうですか」
アレスディールは質問の答えには特に関心はなかったみたいで、その後はお茶会の話には触れなかった。
中庭をゆっくりと回り、東屋近くに差し掛かった時、アレスディールが急に足を止めた。
「―――っ」
彼が緊張して背を強ばらせたことを気配で感じる。
ふと、どこかで嗅いだような臭いが鼻孔をくすぐる。この臭いには覚えがあった。
ぐっと肩に掛かった手に力が込められたと思ったら、アレスディールは私の体を抱きすくめるように抱え込んで、東屋の陰に身を潜めた。
「お許しを」
アレスディールが耳元でそっと囁いて、私の鼓動はひどく乱れた。




