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第九話 百円で動く赤備え、狸将軍、そしてあの本

「……貴様ら、太閤の命を受けて来たというのか」


井伊直政の声は、先ほどまでとは打って変わって低くなっていた。


長岡百穴の岩壁を背に、朱塗りの甲冑をまとった男がゆっくりと顔を上げる。あれほど自慢げに披露していた紅色の唇にも、もはや笑みはない。


「わざわざこの地まで足を運び、我が主君を辱めようとは……よかろう」


直政は一歩踏み出した。


「今日、この場で決着をつけてくれる。命懸けの勝負だ!」


阿強は両手に提げた三袋のしかみ像を見下ろし、それから目の前の状況を改めて確認した。


相手は井伊直政。徳川四天王の一人であり、全身を朱塗りの甲冑で固めた戦国武将だ。手には大身槍を携え、背後には不気味な古墳の岩壁と、まだ消えきらない薄桃色の霧が漂っている。


一方、こちらはどうか。


台湾から来た若者が二人。


しかみ像が六袋。


スーツケースが一つ。


以上。


阿強は隣にいる阿忠へ顔を向けた。


「……なあ、元帥にどうすればいいか聞いてくれ」


「うん」


阿忠は頷くと、その場で目を閉じた。


意識を集中させ、心の中から趙元帥へ呼びかける。


――元帥、元帥、聞こえますか。


――今、宇都宮にいるんですけど、井伊直政が出てきまして。


――ちょっとまずいことになってます。応援をお願いします。


しばらくして、返事があった。


『ああ……うるせえな……くそ、ちょっと待てって……』


がちゃん、と何かを卓に打ちつける音がした。


『ポン! 八筒!』


阿忠は目を閉じたまま、眉をひそめた。


……麻雀?


『謝の奴も范の奴も、パスポートはまだ切れてねえから……』


向こうで牌をかき混ぜる音が続く。


『ああ、はいはい、わかってるって。自分たちで呼べばいいだろ……』


どうやら趙元帥は、阿忠への返事を途中で放り出し、卓の向こう側と何やらやり取りしているらしい。


そして――。


『へっへっへ……ツモ! 対々和! よっしゃ、いただきぃ!』


ぷつん。


神託は、そこで途切れた。


阿忠はゆっくりと目を開けた。その顔には、何とも言えない疲労が浮かんでいる。


「……どうだった?」


阿強が尋ねた。


「元帥は……」


「うん」


「謝将軍と范将軍を、自分たちで呼べって」


「……それだけ?」


「あと、二人のパスポートはまだ期限切れじゃないって」


「……今、どこにいるんだよ」


阿忠は目を伏せた。


「まだ入国管理局。手続きが終わってないらしい」


二人は顔を見合わせ、そのまま三秒ほど黙った。


阿強は小さく息を吐き、ポケットの中を探り始めた。


鍵、スマートフォン、小銭。


そして、指先が見覚えのある小さな金属に触れた。


「……あった」


取り出したのは、赤いスイスアーミーナイフのキーホルダーだった。


阿強はそこから、長さ五センチほどの小さな刃を引き出した。


岡崎では、この小さな刃を見た本多忠勝が、あの蜻蛉切を取り落とした。だが、目の前の井伊直政にも同じ手が通用するとは限らない。


阿強は深く息を吸った。


「……よし。じゃあ、これで――」


『待て、阿強』


突然、三成の声が頭の中に響いた。


いつもの皮肉交じりの声ではなく、珍しくはっきりとした警戒が感じられた。


『井伊の赤備えを侮るな。武田の赤備えにも劣らぬ精鋭だ。あの軍勢の恐ろしさは、私自身がよく知っておる』


「……そんなに?」


『ああ。決して油断するな』


そのとき、井伊直政の姿がふっと揺らいだ。


輪郭が崩れ、全身が薄桃色の煙へと変わっていく。しかし、消えたわけではない。


煙は古墳の岩壁の前で大きく広がると、やがて一か所に集まり、再び人の形を取り始めた。


そこに現れたのは、先ほどまでの口紅を塗った美男子とは、まるで別人のような武将だった。


全身を覆う鮮烈な朱色の甲冑から、周囲の空気を押し潰すような殺気が立ち上る。その手には、穂先だけで六十から七十センチほどもある大身槍が握られ、青白い光を受けた刃は冷たい輝きを放っていた。


――井伊の赤鬼。


関ヶ原で東軍の先鋒を務め、西軍の武将たちを震え上がらせた男。


阿強はスイスアーミーナイフを構えたが、その手がほんの少し震えていた。


やはり、相手が違う。


本多忠勝のように、小さな刃物を見ただけで怖がってくれるとは思えなかった。


そのとき、直政の背後から音が響いた。


がしゃん、がしゃん。


さらに、規則正しい蹄の音が重なっていく。


一人ではない。何十、何百という騎兵の足音だった。


古墳の岩壁の向こうから、朱色の甲冑をまとった騎馬武者たちが次々と姿を現した。兜も胴も袖も、すべてが赤い。冷たい光に照らされた騎兵の群れは、まるで燃え盛る炎が岩壁からあふれ出してきたかのようだった。


井伊の赤備え。


直政自身もまた、いつの間にか朱色の馬具をつけた軍馬にまたがっていた。その馬も、背後の騎兵たちが乗る馬と同じくらいの大きさだった。


阿強はその光景を見つめ、ゆっくりとスイスアーミーナイフを畳んだ。


怖くなったからではない。


あることに気づいたからだった。


三秒ほど騎兵隊を見つめ、もう一度確かめる。


そして――。


「……ぶっ」


吹き出した。


「……ぶはっ!」


阿忠も騎兵隊を見た。


そして、阿強よりも大きな声で笑い始めた。


「ぶはははははっ!!」


何しろ、井伊の赤備えが乗っている馬は、どれも木曽馬だったのだ。


体高は、おおむね百二十から百三十センチほど。現代の大柄な競走馬を見慣れた目には、どうにも小さく映る。


それも、赤い甲冑を着た武士たちが、揃いも揃ってその背中にまたがっているのである。


阿強はとうとう、腹を抱えてしゃがみ込んだ。


「ひっ……ひひっ……阿忠! あれ見ろよ!」


「見てる! 見てるって!」


「百円! あれ、百円で動くやつだろ!!」


「ぶはははっ! 何だよそれ!」


「あの……あの、デパートの入口にあるやつ! 百円玉入れたら、ウィーン、ウィーンって揺れる……!」


笑いすぎて、言葉が続かない。


阿強は片手で腹を押さえ、もう片方の手で騎兵隊を指さした。


「お、おうまが……ウィーン、ウィーンって……!」


ついには、子供向けの電動遊具から流れてきそうな調子で、童謡『おうま』の旋律まで口ずさみ始めた。


阿忠もとうとう膝を折った。


「ぶははっ! やめろ、阿強! 余計にそう見えるだろ!」


「だって……百円! 一回百円だぞ!」


「あああっ! デパートの入口にある、あの子供が乗るやつだろ!?」


「そう! それ! あれが徳川四天王の騎兵隊って……ぶはははは!」


二人は完全に笑い崩れた。


その拍子に、六袋のしかみ像のうち三袋が地面へ倒れたが、もはや誰も気にしなかった。


阿強の頭の中で、三成が息を呑んだ。


『…………』


どうやら、笑うのをこらえているらしい。


半秒。


本当に、半秒だけだった。


『……ふっ』


堪えきれなかった。


『ふふ……だから、何度も言っておるだろうに……』


三成の声には、いつもの冷静な分析口調が戻っていた。ただし、明らかに笑いを含んでいる。


『見ろ、あの馬の脚を。あれでは荷が重すぎる。武者どもは、甲冑を着た自分たちがどれほど重いのか、まるでわかっておらん……』


言い終わるより早く――。


がくん。


騎兵隊の中ほどで、一頭の木曽馬が突然、前脚から崩れ落ちた。


ゆっくり倒れたのではない。その場で膝をついたのだ。


「うわっ!」


背中に乗っていた武士が勢いよく放り出され、地面に叩きつけられた。


がしゃあん!


朱色の甲冑が派手な音を立て、兜がころころと転がっていく。


井伊直政が振り返った。


「なっ……!」


その端正な顔が、わずかに引きつる。


「お、おい! 何をしておる! 早く立て!」


木曽馬はどうにか立ち上がったが、四本の脚はまだ小刻みに震えていた。


『……ぷっ』


福島が噴き出した。


『い、いかん……笑うな、俺……』


その声まで震えている。


『俺は賤ヶ岳七本槍の筆頭だぞ……こんなことで……』


しかし、我慢できなかった。


『がっははははははっ!!』


福島は霊体の肩を大きく揺らしながら、井伊直政に呼びかけた。


『おい、万千代! 悪いことは言わねえ。あの台湾の若造の言うとおり、馬から降りて歩いたほうがいいんじゃねえか?』


直政の眉間に皺が寄った。


『お前の長え脚が馬の腹からぶら下がってるのを見てるとな、いつ靴底が地面に擦れるか、こっちが心配になってくるんだよ! せっかくの軍靴がすり減っちまったら、赤字じゃ済まねえぞ!』


「……貴様」


『なあ、正直に言ってみろよ』


福島は笑いながら、さらに追い打ちをかけた。


『関ヶ原で俺の手柄を横取りしに突っ走ったときも、ひょっとしてその長え脚で地面を蹴って、馬の助走を手伝ってたんじゃねえのか!?』


阿忠は横で腹を抱えた。


「ぶはっ……!」


『がっははははは! そりゃ速えわけだ! 馬が走ってんじゃねえ、万千代が走ってんだ!』


直政の胸が大きく上下した。


一度。


二度。


そして――。


「……ばっ……」


大身槍を握る手が震えた。


「馬鹿野郎ォォォッ!!」


その怒声が、長岡百穴の岩壁に響き渡った。五十二の横穴が、まるで一斉に声を返したかのように唸る。


「豊臣の残党どもめ! 台湾から来た無礼者どもめ!!」


直政は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「馬が小さくて何が悪い! 内府殿下も、かつてはこのような馬に乗っておられたのだぞ! これこそ我らが軍馬! 関東の正規軍用標準物資なのだ!」


『ぶふっ……標準物資!』


福島がまた笑った。


「そこ! 俺様の脚を見るなァァッ!!」


阿強と阿忠は、ますます笑い転げた。


直政は大きく息を吸い、背後の騎兵隊へ向かって槍を振り上げた。


「井伊の赤備え、聞け!」


騎兵たちが一斉に姿勢を正す。


「助走は禁止だ!」


一瞬、妙な沈黙が流れた。


「馬を走らせるな! 歩かせたまま前進せよォッ!!」


騎兵隊は、何とも言えない空気の中で動き始めた。


     ◇


そのとき、福島の霊体が朱色の光を放った。


先ほどまで笑い転げていた福島だったが、その気配が一変する。それまで抑えられていた霊力が一気に膨れ上がり、四百年前の戦場を駆け抜けた猛将の威圧感が辺りを満たしていった。


『……さて』


福島の声から笑いが消えた。


『そろそろ、俺も本気でやるか』


阿忠が顔を上げた。


「……福島さん?」


『小僧、そこを動くなよ。今度は俺様が相手をしてやる』


福島はゆっくりと肩を回した。


『いつまでも、あんな揺れる木馬を見て笑ってるわけにもいかねえからな』


そう言いながらも、その口元にはまだ笑みが残っていた。


次の瞬間、福島の全身から凄まじい気迫が噴き上がる。


阿忠は思わず胸元に手を当てた。


身体を占めていたわけではない。けれど、いつもすぐそばにあった重苦しい武将の気配が一気に離れたせいか、妙に身体が軽く感じられた。


「……阿強」


「何だよ」


「俺、今……風呂に入ったみたいな気分」


「入ってねえよ」


「わかってる。でも、何かすげえさっぱりした」


阿強は何とも言えない顔で友人を見た。


その目の前で、福島の霊気が大きく燃え上がった。


     ◇


長岡百穴の前に、福島正則が立っていた。


阿忠の身体を借りた姿ではない。霊力を解き放ち、四百年前の武将そのものの威容を取り戻した姿だった。


賤ヶ岳七本槍の一人にして、太閤秀吉のもとで数々の戦場を駆け抜けた猛将。その剛力は、生前から広く知られていた。


福島は井伊直政を見据え、にやりと笑った。


『さあ、万千代。四百年ぶりに相手をしてやるぜ!』


直政は馬上から福島を睨みつけた。


その表情には、先ほどまでの怒りに加え、武将としての鋭い闘志が宿っていた。


「……望むところだ」


直政は手綱を引き締めると、鐙から足を外し、馬の背から軽やかに飛び降りた。着地と同時に大身槍を構え直し、その穂先を福島へ向ける。


小さな軍馬の背にいたときとは、まるで別人だった。


地面に立った直政の姿からは、赤備えを率いて戦場を駆け抜けた猛将の威圧感が、はっきりと伝わってくる。


福島はそれを見て、さらに笑みを深めた。


『そうこなくちゃな!』


次の瞬間、地面を蹴った。


朱色の光が一直線に走る。


直政の大身槍が閃き、長大な穂先が青白い光を反射した。


があんっ!


二つの霊体が激突した。


その音は、金属同士がぶつかる音とは違っていた。もっと低く、もっと重い。霊力そのものがぶつかり合い、空気の奥底まで震わせるような響きだった。


古墳の岩壁がかすかに揺れる。


福島は半歩後退した。槍を受け流した右腕に、霊力の衝撃が残っている。しかし、倒れはしなかった。


『へえ、やるじゃねえか、万千代! 四百年経っても腕は鈍ってねえらしいな!』


「黙れ!」


直政の大身槍が再び閃いた。


今度は先ほどより速い。鋭い穂先が福島の脇腹を狙って突き出される。


福島は身をひねって刃をかわすと、そのまま直政の右腕へ掌底を打ち込んだ。


だが、直政も素早かった。槍の柄でその一撃を弾き、間髪入れずに間合いを取り直す。


『おっと!』


福島は笑った。


『関ヶ原で俺の手柄を横取りしたときから思ってたが、お前、動きだけは速えよな!』


「貴様、まだその話をするか!」


『まあな! だが、俺は今、お前みてえに揺れる木馬に乗ってるわけじゃねえからな!』


「……また木馬と言ったな!」


『言ったぜ?』


福島はにやりと笑った。


『揺れる木馬! 揺れる木馬! 揺れる木馬ァ!』


「き、貴様ァァァッ!」


直政が槍を大きく振り回した。


その一撃は、もはや狙いを定めた攻撃ではなかった。純粋な怒りに任せた、力任せの一振りだった。


福島は笑いながら横へ跳んだ。


『ほら見ろ! 怒るとすぐ大振りになる!』


「止まれ!」


『そんなだから、関ヶ原で勝ったところで、俺に見下されるんだよ!』


「貴様こそ黙って立ち止まれェッ!」


二人の霊体は古墳の前で激しくぶつかり合った。


福島には武器がない。頼れるのは、長年の戦場で培った勘と持ち前の剛力、そして決して止まらない口だけだった。


一方の井伊直政は大身槍を自在に操っているものの、福島の挑発にいちいち反応するせいで、どうしても攻撃が荒くなる。


双方とも、実に真剣だった。


そして双方とも、実に見苦しかった。


     ◇


その一方で、三成は井伊の騎兵隊に向き合っていた。


とはいえ、阿強には三成が何をしているのか、よくわからなかった。ただ、周囲の空気に何かが流れ始めたことだけは感じられた。


目には見えない力が騎兵隊の周りを巡り、その直後から異変が起き始めた。


ある馬は突然、手綱を受けつけなくなった。別の馬に乗った武士は、甲冑が急に重くなったかのように前のめりになる。さらに、何でもないはずの地面が妙に滑りやすくなり、騎兵たちは次々と体勢を崩した。


「うわっ!」


「馬が言うことを聞かん!」


「な、何だこの重さは!?」


がしゃん!


どさっ!


騎兵たちが一人、また一人と馬から転げ落ちていく。


阿強は呆然とその光景を見つめた。


「……三成」


『何だ』


「これって……術なのか?」


『術と言えば術だな。資源配分を少々逆向きにしてやっただけだ』


「……それ、どういう意味?」


『敵の兵站を崩した。それだけのことだ』


阿強はもう一度、騎兵隊を見た。


また一人、落馬していた。


「……お前、いつから術なんか使えるようになったんだよ」


『昔から使えるぞ』


「……え?」


『ただ、滅多に使わぬだけだ』


「何で?」


三成は少しも迷わなかった。


『そろばんのほうが役に立つからな』


阿強は返す言葉を失った。


その間にも、また騎兵が落馬した。今度は馬が膝をつき、乗っていた武士が頭から地面へ突っ込む。


三成は、いかにも満足げに呟いた。


『……やはり、脚が長すぎる』


     ◇


阿忠と阿強は戦場の端へ退き、目の前で繰り広げられる大混乱を眺めながら、謝将軍と范将軍への連絡を試みていた。


阿忠は懐から、三日月形の木片を二つ取り出した。


台湾の廟で神意を問うときに使う「筊杯(ジャオベイ)」である。


両手に筊杯を包み込み、阿忠は心の中で祈った。


――謝将軍、范将軍。今すぐ応援に来ていただけますか。


それから、二つの筊杯を地面へ投げる。


ころん、ころん。


どちらも丸みのある面を上にして止まった。


陰筊(インジャオ)。


神意を問う儀式では、否定を表す組み合わせだった。


「……嘘だろ」


阿忠は筊杯を拾い上げた。


――お願いします。今すぐ来ていただくことはできませんか。


もう一度、地面へ投げる。


ころん。


またも陰筊だった。


阿忠は顔をしかめた。


「謝将軍……謝将軍、聞こえますか? 応援が必要なんですけど……」


返事はない。


阿強も意識を集中させた。


「范将軍! 范将軍、俺たち今、宇都宮にいるんです! 聞こえますか!?」


やはり返事はなかった。


その間にも、前方では福島と井伊直政の戦いが続いている。


『はあっ!』


福島の気合いとともに、直政の大身槍が大きく弾かれた。しかし、福島の腕にも衝撃が伝わり、わずかに動きが鈍る。


「謝将軍!!」


「范将軍!!」


二人は声を揃えて呼びかけた。


そのとき――。


『……ああ、もう!』


突然、返事が来た。


『しつこいって! 何度も呼ぶなよ! 今そっちへ向かってるところだって!』


謝将軍の声だった。しかも、ひどく疲れている。


「謝将軍!?」


「今どこですか!?」


『だから、まだ入国審査が終わってねえんだよ!』


謝将軍は声をひそめた。まるで、誰かに聞かれないように話しているかのようだった。


『こっちの日本の狐どもが、いちいちうるさくてさ! あれを出せ、これを出せって、追加書類ばっかり要求しやがる!』


「……まだ書類ですか!?」


『そうだよ! あの稲荷の神なんか、閻魔大王よりよっぽど話が通じねえぞ! ちょっと待て、今また呼ばれ――』


ぷつん。


切れた。


阿忠と阿強は顔を見合わせた。


「……向かってるって」


阿忠が言った。


「それは聞こえたよ」


阿強は額を押さえた。


「問題は、いつ着くかだろ!」


その前方では、再び福島と井伊直政が激突した。


どおんっ!


長岡百穴の岩壁が大きく震えた。


     ◇


戦いが最も激しくなった、そのときだった。


「……そこまでじゃ」


低い声が響いた。


決して大きな声ではなく、怒鳴ったわけでもない。それなのに、その一言で辺りの音がぴたりと止まった。


まるで梵鐘が鳴ったかのようだった。ただし、それは音量の問題ではない。声そのものに、重く、深い響きがあったのだ。


福島が動きを止め、井伊直政も槍を下ろした。騎兵隊が静まり返り、三成の術による異変も収まっていく。


全員が、声のした方向を振り返った。


長岡百穴の岩壁の向こうから、二つの人影が歩いてくる。


先頭に立つのは、本多忠勝。徳川四天王の一人にして、天下無双と謳われた猛将だった。


その忠勝が守るようにして連れてきた人物は、正直なところ、かなり小柄だった。


丸みを帯びた体つきに、落ち着いた足取り。顔には、数えきれないほどの出来事を見てきた者だけが持つ、穏やかな表情が浮かんでいる。


陰気な古墳の前に現れたというのに、その歩き方は戦場へ向かう武将というより、庭を散歩する老人のようだった。


阿強はそっと阿忠へ近づいた。


「……なあ」


「……ん?」


「……あれ、青く塗ったらドラえもんじゃねえか」


阿忠は口元を押さえ、必死に笑いをこらえながら大きく頷いた。


二人の視線など気にも留めず、その人物は静かに歩みを進めた。


やがて本多忠勝の横に立つと、周囲をゆっくりと見渡す。


地面に倒れた騎兵、槍を下ろした井伊直政、拳を握ったままの福島正則。そして、少し離れたところにいる阿忠と阿強。


すべてを一度見回してから、その人物は穏やかに口を開いた。


「……わしは、征夷大将軍」


そこで、ほんの少し間を置く。


「徳川家康じゃ」


長岡百穴が、静まり返った。


     ◇


家康の視線が、三成の霊体へと向いた。


「……治部少輔」


その声には、敵意も嘲りもなかった。


「お主も来ておったか」


三成は答えなかった。


家康はしばらくその姿を見つめていた。どこか懐かしむような、それでいて何かを惜しむような眼差しだった。


「……治部少輔。お主が、あれほどまでに太閤への忠義を貫かねば……」


家康は静かに続けた。


「わしは、その忠節を高く買っておったのじゃがな。……惜しい男よ」


三成は沈黙した。


阿強は、不思議な感覚を覚えていた。


普段なら、何かにつけて小言や皮肉を言ってくる三成が、今だけは何も言わない。


言い返せないのではない。反論する言葉が見つからないわけでもない。


ただ、何かを言葉にしてしまえば、かえって意味が失われてしまう。そんな沈黙だった。


だが、福島正則は違った。


家康の姿を見つめ、二秒ほど黙っていたかと思うと、突然、怒声を上げた。


『……この、腹黒狸め!』


朱色の霊気が激しく揺れる。


『俺の領地! 俺の城! 全部奪いやがって!』


福島は拳を握り締めた。


『おまけに、うまいこと俺を乗せて、太閤への恩まで裏切らせやがった!』


その顔が怒りに歪む。


『今度こそ、もう一遍死なせてやる!!』


福島が家康へ飛びかかろうとした。


その瞬間、三成の声が冷たく響いた。


『……市松』


福島の動きが止まる。


『太閤殿下の御命令と、お前個人の恨み。どちらが大事だ?』


福島は歯を食いしばった。


拳を握る手が震え、肩もまだ小刻みに揺れていたが、それ以上は進まなかった。


家康はその様子を静かに見守り、何かを確かめたかのように小さく頷いた。


     ◇


「さて」


家康は阿強へ顔を向けた。


「太閤は、お主らに何を持たせたのじゃったかな」


阿強は慌てて六袋のしかみ像を見た。


「え、ええと、それは――」


答えるより早く、一枚の紙が袋からふわりと浮かび上がった。


誰も触れていない。それなのに、紙は自ら宙を舞い、阿強の横を通り過ぎ、阿忠の前を横切って、家康の手元へと飛んでいった。


家康はそれを受け取り、静かに目を落とした。


そこに描かれていたのは、三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康だった。


引きつった表情に、虚ろな眼差し。何とも言えない情けない姿が、A4用紙のど真ん中に、きっちりと位置を合わせてカラー印刷されている。


余白まで整った、見事な中央揃えである。


家康はしばらく、その紙を眺めていた。


本多忠勝は横で身じろぎもせず、井伊直政も何も言わない。


阿強は生唾を飲み込んだ。


……まずい。


これは、絶対にまずい。


さっきまで家康は穏やかだった。しかし、自分の恥ずかしい肖像を一千枚も印刷され、それを日光東照宮に貼りつけようとしていると知ったら、いくら何でも――。


「……ふっ」


家康が笑った。


阿強は目を瞬かせた。


家康はもう一度しかみ像を見ると、今度は声を出して笑い始めた。


「ほっほっほ……太閤も、相変わらずじゃのう」


無理に笑っているわけではなく、怒りを隠している様子もない。


本当に、おかしそうに笑っていた。


「なるほどのう」


家康は紙を持ち上げた。


「太閤は、これをわしの東照宮いっぱいに貼らせようというわけか」


「……は、はい」


阿強は恐る恐る答えた。


家康はもう一度頷き、その肖像を丁寧に折り畳んだ。


「……よかろう」


「……え?」


「わしが手伝ってやろう」


阿強は耳を疑った。


「……はい?」


家康は本多忠勝へ向き直った。


「平八郎」


「はっ」


「この一千枚のしかみ像、そなたが日光東照宮へ運び、残らず貼ってまいれ」


本多忠勝は、わずかに動きを止めた。


目の前には、六袋のしかみ像。


主君の命令は絶対である。それはわかっている。わかっているのだが――。


「……はっ。承知仕りました」


本多忠勝は深く頭を下げた。


すると、地面に置かれていた六袋のしかみ像が、まるで重さを失ったかのように、ゆっくりと浮かび上がった。


袋は宙で整然と並び、そのまま本多忠勝の前へ移動する。


忠勝は六袋を見た。


それから、阿強を見た。


阿強は反射的に半歩後ずさった。


本多忠勝は何も言わなかった。ただ無言で六袋を引き受けると、日光東照宮の方角へ歩き去っていった。


     ◇


家康は再び阿強へ向き直った。


「さて、お主ら」


「……はい!」


「切符を出してみよ」


「……切符?」


「そうじゃ」


阿強は慌ててポケットを探り、二人分の青春18きっぷを取り出した。


家康はそれを受け取ると、表と裏をゆっくり眺めた。


「ふむ……」


しばらくして、その手元に淡い光が灯った。


眩しい光ではなかった。ただ、二枚の切符の輪郭がぼんやりと揺れ、紙の形が変わっていく。


やがて光が消える。


家康は何事もなかったかのように切符を返した。


「ほれ」


阿強は受け取った。


そして、手元を見下ろす。


「……え?」


東北新幹線「やまびこ」。


東海道新幹線「のぞみ」。


阿忠と阿強の二人に、それぞれ必要な乗車券と特急券が用意されていた。


阿強は呆然と切符を見つめた。


「……し、新幹線?」


家康は穏やかに頷いた。


「異国から来た若者たちよ。ご苦労であったな」


その声は、先ほどまでと変わらず落ち着いていた。


「これで、少しは楽に旅ができよう」


「……あ、ありがとうございます!」


阿忠も慌てて頭を下げた。


「ありがとうございます!」


家康は二人を見て満足そうに微笑んだが、ふと思い出したように口を開いた。


「……そうじゃ。もう一つ、頼みがある」


「……はい?」


「太閤へ、わしからの返礼を届けてもらいたい」


家康は袖の中へ手を入れ、一冊の本を取り出した。


見たところ、ごく普通の本だった。


「これを、太閤に渡してくれ」


阿強は両手で受け取った。


「……わかりました」


その瞬間、光が走った。


     ◇


気がつくと、二人は宇都宮駅に立っていた。


自動改札機に明るい照明、聞き慣れた日本語の構内放送。行き交う乗客たちの間に、何事もなかったかのように現代の駅の風景が広がっている。


阿忠と阿強は、改札口の内側で呆然と立ち尽くしていた。


手には、それぞれ新幹線の切符。


あれほど苦労して運んでいた六袋のしかみ像は、もうない。井伊の赤備えも、福島と直政が激突した古墳も、五十二の横穴も、すべて消えていた。


阿忠がゆっくりと口を開いた。


「……戻ってきた」


阿強も頷いた。


「……戻ってきたな」


二人は顔を見合わせ、深いため息をついた。


だが、阿強の手には、まだ一冊の本が残っていた。


家康から預かった本である。


「……そういえば」


阿強は本を持ち上げ、表紙を確認した。


そこには、妙に意味ありげな文字が並んでいた。


『猿と主君の姪――誰にも言えない二人の物語』


そして、その下に小さく副題が記されている。


『淀城の夜も熱いぞ』


阿強の手が震えた。


もう一度、書名を見る。


猿。


主君の姪。


淀城。


……まずい。


これは、絶対にまずいやつだ。


阿強は即座にリュックを開けると、本を一番奥へ押し込んだ。上から荷物をかぶせ、ファスナーを勢いよく閉める。


じじじっ!


さらに、もう一度しっかりと引っ張った。


そのとき、頭の中に三成の声が響いた。


『……阿強』


「……何?」


『今、内府から預かったものは何だ?』


「……別に」


『何の本だ?』


「……大した本じゃないよ」


『だから、何の本かと聞いておる』


「ただの本だって」


三成は黙らなかった。


『石田治部少輔三成が尋ねておるのだぞ。内府が太閤殿下へ届けよと命じた、その本の名を申せ』


「だから、ただの本だってば!」


三成はしばらく黙った。


そして、低い声で言った。


『……お前、何か隠しておるな』


「隠してない!」


『心の臓の鼓動が速くなっておる』


「そ、それは……さっきまで戦ってたから疲れてるんだよ!」


『……ほう』


「……何だよ」


三成はなおも何かを尋ねようとした。


そのときだった。


『……二人とも』


突然、声が聞こえた。


阿忠と阿強は同時に身体を強張らせた。


どこから聞こえてくるのかわからない。しかし、その穏やかで、ゆったりとした口調には聞き覚えがあった。


徳川家康だった。


『……一つ、覚えておくがよい』


駅の構内放送がいつもどおり流れ、周囲の乗客も誰一人として足を止めない。


家康の声だけが、二人の耳に静かに届いていた。


『お主らに切腹を命じられるのは、太閤だけではないぞ』


阿強の背筋が凍りついた。


『この征夷大将軍、徳川家康も……命じることができるのじゃ』


少し間が空いた。


『……平八郎に介錯を申しつけることも、な』


ぷつん。


声が消えた。


宇都宮駅は何事もなかったかのように動き続けていた。


電車の到着を告げる構内放送が流れ、乗客たちが行き交っている。


その中で、阿忠と阿強だけが固まっていた。


『……それで、阿強』


三成の声が再び頭の中に響いた。


『さっきの本だが――』


阿強は何も答えなかった。


ただ、リュックのファスナーをもう一度、力いっぱい引っ張った。


**第九話 終**


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