第十話 栄誉権現、大井競馬場、そして上野公園タヌキ騒動
東北新幹線「やまびこ」は、東京へ向かっていた。
阿忠と阿強は並んで座り、それぞれ窓の外を眺めていた。どちらも口を開こうとしない。
脚にはまだ疲れが残っているし、背中も痛い。おまけに、財布の中身は日本へ来たときよりずいぶん心細くなっていた。
「……阿強」
しばらくして、阿忠が口を開いた。
「何だよ」
「俺たちの日本旅行なんだけどさ……」
「うん」
「これって、普通なのかな」
阿強は少し考えた。
「普通じゃないな」
「だよな」
それだけ言うと、二人はまた窓の外を眺めた。
その傍らでは、三成と福島が相変わらず言い合っていた。二人の声は、阿強の意識にもはっきりと届いている。
『……あの家康のことだが』
『狸だろ』
『狸なのは承知しておる。私が言いたいのは、あの男が口にした言葉のことだ』
『何だよ』
『……私の忠義を高く買っていた、と』
『それがどうした』
『…………』
『おい、黙るなよ』
『……いや。別に何でもない』
『じゃあ、何でわざわざ言ったんだ』
三成は少し間を置いた。
『……人が口にする言葉が、必ずしも本心とは限らぬのでな』
今度は福島が黙った。
しばらくして、呆れたように鼻を鳴らす。
『お前って奴は、昔からそうだよな。生きてるときも考えすぎだったが、死んでからもまだ考えてやがる』
『お前は考えなかったから負けたのだ』
『考えたって負けるときは負けるんだよ!』
『…………』
『…………』
それ以上、二人は何も言わなかった。
新幹線は何事もなかったかのように、東京へ向かって走り続けた。
◇
夕方、上野駅。
空が少しずつ暗くなり、駅前の街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
広場にはまだ大勢の人が行き交っている。仕事帰りの会社員、旅行客、ベビーカーを押す家族連れ。宇都宮で戦国武将の軍勢に追い回されていたことなど、まるで嘘のような、ごく普通の東京の風景だった。
阿忠と阿強はスーツケースを引いて改札を出ると、駅前で大きく息を吸った。
「……東京だ」
「東京だな」
とりあえず何か腹に入れようと、二人は近くのコンビニへ向かった。
買ったのは、おにぎりと缶コーヒー。
店の外で立ったまま食べ始めたものの、会話はほとんどなかった。一日中歩き回り、神様だの武将だのに振り回された後では、喋ることさえ面倒だった。
そんな二人のところへ、一人の男がふらふらと近づいてきた。
いや、近づいてきたというより、流れ着いたと言ったほうが正しい。
足取りはおぼつかなく、身体は左右に揺れている。それでも倒れず、酔っ払った勢いだけで前へ進んでくるような歩き方だった。
年の頃は四十代か五十代。
くたびれたスーツに、曲がったネクタイ。片手にはコンビニの袋を提げ、顔は酒のせいか真っ赤になっている。
男は二人の前まで来ると、ふらりと足を止めた。
「……おい、若いの」
呂律が少し怪しい。
「お前さんたち……狸の匂いがするな」
阿忠と阿強は顔を見合わせた。
「……はい?」
男は目を細め、二人をじっと見つめた。
「ついさっき、家康に会っただろ」
阿強は半歩後ずさった。
その拍子に、視線が男の腰へ落ちる。
そして、見てしまった。
スーツのズボンの後ろから、茶色くふさふさした尻尾が一本、はみ出していたのである。
しかも、その尻尾はゆっくりと左右に揺れていた。
阿強は思わず、食べかけのおにぎりを握り締めた。
「……何でわかるんですか?」
男は近くの手すりにもたれ、街灯の下で顔を上げた。
その瞬間、阿強は妙な違和感を覚えた。
普通の酔っ払いとは、どこか違う。
酒臭い中年男には違いないのだが、その顔には、人間が一生かけても刻めないような長い年月の気配があった。
何千年も酒を飲み続けてきた者がいるとすれば、きっとこんな顔をしているのだろう。
どこがどう違うのか、うまく説明することはできない。
ただ、間違いなく何かが違った。
『……阿強』
三成の声が聞こえた。
普段の三成なら、相手が何者であろうと遠慮なく口を挟むはずだ。
しかし今は、妙に慎重だった。
福島も黙っている。
『……あの男の名を尋ねよ』
三成が低い声で言った。
阿強はもう一度、男の顔を見た。
それから尻尾を見て、再び顔へ視線を戻した。
「……あの、失礼ですが、どちら様でしょうか?」
男はコンビニの袋を持ち替え、中から缶ビールを一本取り出した。
ぷしゅっ。
プルタブを開け、一口飲む。
それから、会社名でも告げるような気軽さで答えた。
「栄誉権現」
「……え?」
「四国八百八狸の総師だ。今は上野東照宮にいる」
そう言って、またビールを飲んだ。
上野東照宮に祀られる、あの「御狸様」だった。
三成と福島が、同時に黙った。
一秒ほどして、三成が口を開いた。
『……この御方の噂は、私も聞いたことがある』
『……俺もだ。関ヶ原じゃ、内府の側についてやがったな』
『黙れ、市松。今はその話ではない』
『お前が先に言い出したんだろうが』
「……あの」
二人のやり取りには構わず、阿忠が恐る恐る尋ねた。
「上野東照宮の神様なんですよね? 須佐之男命がどこにいるか、ご存じありませんか?」
栄誉権現はビールを飲みながら少し考えた。
「ああ、須佐之男か」
「はい!」
「歌舞伎町にいるって話は聞いたぞ」
阿忠と阿強は顔を見合わせた。
「歌舞伎町!?」
「ただし、詳しい場所までは知らん。あの辺りには、うちの連中もあまり近づかないからな」
「……どうしてですか?」
「人が多すぎる。匂いもごちゃごちゃしていて、狸には落ち着かん場所なんだよ」
栄誉権現は、いかにも面倒そうに肩をすくめた。
阿忠と阿強は無言でスマートフォンを取り出し、旅の予定を確認した。
家康からもらった新幹線の切符は、もともと東京から先へ向かうためのものだ。
しかし、須佐之男命を探すなら、ここで東京を離れるわけにはいかない。
「……三日くらい、延ばすか」
「そうだな」
二人は顔を見合わせて頷いた。
東京での滞在を三日延ばすことに決め、切符の変更については後で考えることにした。
◇
「ところでよ」
栄誉権現の視線が、阿強のリュックへ向いた。
「家康から、あの本を預かっただろ?」
阿強の手がぴくりと動いた。
反射的にリュックへ伸びかけた手を、慌てて止める。
「……何の本ですか?」
「とぼけなくてもいいって。あの本だよ」
栄誉権現は、どこか得意げに笑った。
「俺が書いたんだからな」
「…………はい?」
阿強は目を瞬かせた。
「……あなたが、書いたんですか?」
「そうだよ。三年くらいかけてな」
栄誉権現はビールをもう一口飲んだ。
「家康が出版を手伝ってくれるって言うから待ってたんだが、あいつ、いつまで経っても動きやしねえ。結局、世に出るまで何十年もかかったんだぞ」
「…………」
阿強は黙ってリュックを下ろした。
ファスナーを開け、荷物の一番奥から例の本を引っ張り出す。
表紙を返すと、そこには見覚えのある書名が並んでいた。
**『猿と主君の姪――誰にも言えない二人の物語』**
副題は――。
**『淀城の夜も熱いぞ』**
栄誉権現は表紙を覗き込み、満足そうに頷いた。
「ああ、それそれ。なかなかいい出来だろ?」
「…………」
「序文は家康が書いたんだが、本文は全部この俺の手によるものだ。何しろ、当時の事情については、俺が直接見聞きしたことも多いからな」
「……直接?」
「そりゃそうさ。あの頃のことなら、そこらの歴史家より詳しいぞ」
栄誉権現は胸を張った。
阿強は何も言わず、本をリュックへ押し戻した。
そして、ファスナーを閉める。
じじじっ。
そのとき、頭の中から声が聞こえた。
『……阿強』
三成だった。
ひどく静かな声だった。
怒っているわけではない。
だが、何かを必死にこらえていることだけはわかった。
『……その本は……』
「……うん」
『……狸が書いたのか』
「……うん」
『……太閤殿下と、淀殿のことを……』
「……そうらしい」
『……狸が……』
そこまで言って、三成は黙った。
阿強には、三成が何を考えているのかわからなかった。
ただ、もし今の三成に身体があったなら、きっと片手で顔を覆っているだろうとは思った。
長い沈黙の後、三成がようやく口を開いた。
『……阿強』
「何?」
『その本の表紙だけは、私に見せるな』
「……わかった」
阿強は素直に頷いた。
「ちゃんと伏せて置いておくよ」
三成はそれ以上、何も言わなかった。
◇
「そういや、お前さんたち」
栄誉権現はビールを飲み干すと、空き缶をくしゃりと潰した。
近くのゴミ箱に放り込んでから、何でもないことのように尋ねる。
「これからどこへ行くつもりだ?」
「とりあえず泊まるところを探して、明日、歌舞伎町へ行こうかと……」
阿強が答えた。
「ふうん」
栄誉権現は頷いた。
そして、思い出したように言った。
「そういや今夜、大井競馬場でナイターをやってるんだよな」
「……競馬ですか?」
「ああ。今日の十三番、大介が勝つぞ」
阿強は足を止めた。
「……大介?」
「馬の名前だ。今のオッズ、知ってるか?」
「……いくらですか?」
栄誉権現はにやりと笑った。
「五百五十五・二倍」
「…………」
「二百円だけ単勝に賭けてみろ。当たれば十一万一千四十円だ」
阿強は頭の中で計算した。
二百円。
十一万一千四十円。
今の手持ちより、はるかに大きな金額だった。
「……でも、どうして勝つってわかるんですか?」
栄誉権現は不思議そうに首を傾げた。
「昨日、本人に聞いたからだよ」
「……本人?」
「大介だよ。昨日会って話したんだが、今夜は絶対に勝つって約束してくれた」
あまりにも当然のような口調だった。
そして、その瞬間。
『賭けろォォォッ!!』
福島の声が阿忠のそばから炸裂した。
『大井競馬場なら俺も知ってるぞ! 十一万一千四十円だと!? それだけあれば酒が何本買えると思ってやがる! 賭けろ!』
『ならん!!』
間髪入れず、三成が怒鳴った。
『それは軍資金だ! 賭博は国を滅ぼすもと。たとえ二百円であろうと――』
『何言ってやがる! 四国八百八狸の総師が勝つって言ってるんだぞ!』
『誰が保証しようと、賭博は賭博だ! 古来、博打に身を持ち崩した武将がどれほど――』
『賭けろ! 賭けろ! 賭けろォ!!』
『市松! 少しは黙らんか!』
『お前こそ、いちいちうるせえんだよ!』
二人の言い争いを聞いていた栄誉権現が、ふと思い出したように付け加えた。
「そういや大介の奴、昨日はずいぶん調子がよさそうだったな。飯もたっぷり食ったし、よく眠れたって言ってたぞ。今日は絶対に速く走れるって」
『…………』
三成が黙った。
福島も黙った。
阿強は嫌な予感がした。
『……二百円……』
三成が呟いた。
『……十一万一千四十円……』
「……三成?」
『投入額に対する払戻金は……』
「……おい」
『いや、待て。これは兵站上、検討する価値が……』
「三成!?」
『……軍資二百円で、十一万一千四十円。仮に的中した場合、その回収倍率は……』
「三成! 何を考えてるんだよ!」
『計算しておるだけだ!』
三成は、いかにも心外そうに言った。
『計算することと、賭博を認めることは別だろう!』
「…………」
三秒ほど沈黙が続いた。
そして――。
『……ただし、大介が本当に勝つのであれば……』
阿強は阿忠を見た。
阿忠も阿強を見た。
二人は同時にポケットへ手を入れた。
ちゃりん。
それぞれ二百円を取り出す。
「……試してみる?」
阿忠が言った。
「……試してみるか」
阿強が答えた。
栄誉権現は満足そうに頷くと、何事もなかったかのようにコンビニへ戻り、缶ビールをもう一本買ってきた。
◇
大井競馬場。
夜のレースが行われる場内には、明るい照明が灯り、大勢の観客が詰めかけていた。
場内放送が響き、馬たちの足音が遠くから聞こえてくる。
十三番、大介。
単勝オッズは五百五十五・二倍。
人気はほとんどなかった。
阿忠は十三番に二百円を賭けた。
阿強も同じく、十三番に二百円を賭けた。
栄誉権現はその横でビールを飲みながら、いかにも余裕ありげに出走を待っていた。
やがてゲートが開いた。
一斉に馬たちが飛び出していく。
「……おっ!」
十三番、大介。
悪くないスタートだった。
最初のうちは三番手につけている。
「いける!」
阿忠が声を上げた。
「大介! そのまま!」
阿強も思わず拳を握った。
しかし――。
大介の足取りが、少しずつ鈍り始めた。
三番手。
四番手。
さらに後ろへ下がっていく。
「あれ……?」
「……ちょっと待て」
二人は身を乗り出した。
だが、大介はなかなか前へ出られない。
それどころか、後続の馬に次々と抜かれていった。
そして、ゴール。
十三番、大介。
**九着。**
場内放送が、淡々と結果を告げた。
阿忠は手元の馬券を見た。
阿強も自分の馬券を見た。
二人は同時に顔を上げた。
栄誉権現を見る。
栄誉権現は缶ビールを持ったまま、前方を見つめていた。
何も言わない。
「…………」
「…………」
「…………」
やがて、阿忠が静かに口を開いた。
「……最初から気づくべきだった」
その声には、妙な落ち着きがあった。
「狸みたいな奴の言うことは、信用しちゃいけないんだ」
栄誉権現の耳がぴくりと動いた。
「……大介は、俺に嘘なんかつかねえよ」
どこか傷ついたような声だった。
「俺があいつを小さい頃から見てきたんだ。あいつが俺を騙すわけが……」
「……格好つけなくていいですから」
阿忠が言った。
「尻尾、出てますよ」
栄誉権現は自分の腰元を見下ろした。
スーツのズボンの後ろから、茶色い尻尾が一本、ふさふさと伸びている。
「……おっと」
慌てて押し込んだ。
そのとき、福島がぼそりと呟いた。
『……だから言ったじゃねえか』
「……何を?」
『一番の藤吉郎を買っときゃよかったんだよ』
阿強が振り返った。
「……藤吉郎?」
『そうだよ』
「何で藤吉郎なんだよ」
福島は、何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりだった。
『太閤殿下のお名前だぞ!』
「…………」
『藤吉郎って名前を見たら買うに決まってるだろうが。それが忠義ってもんだ!』
栄誉権現が静かに言った。
「……藤吉郎なら、今日は七着だったぞ」
『…………』
福島は黙った。
一方、三成の反省は終わっていなかった。
『……だから私は、賭博はするなと……』
ぶつぶつと呟く声が、阿強の頭の中に響いている。
『貴重な軍資金を……二百円も……』
「……三成」
『……私は確かに、払戻金を計算した。だが、あれは冷静な判断ではなかった……』
「三成ってば」
『……まったく、何という失態だ。数字に惑わされるなど、石田治部少輔ともあろう者が……』
阿強はため息をついた。
「……賭博はよくないって、さっき自分で言ったよな?」
『言った』
「なのに、結局賭けさせたじゃないか」
『…………』
三成はしばらく黙っていた。
そして、心底悔しそうに答えた。
『……十一万一千四十円という数字に、目がくらんだのだ』
「…………」
『あの数字を口にしたこと自体、今では後悔しておる』
阿強は、それ以上何も言わなかった。
◇
栄誉権現はしばらく、ゴールした馬たちの方を見つめていた。
やがて、手に持っていたビール缶をぐしゃりと潰す。
「……行くぞ」
阿忠と阿強が顔を上げた。
「……どこへ?」
「大介に聞きに行く」
栄誉権現の声からは、いつの間にか酔ったような響きが消えていた。
「あいつが約束を破るとは思えねえ。何があったのか、本人に確かめる」
そう言うと、さっさと歩き始めた。
阿忠と阿強は顔を見合わせ、慌てて後を追った。
◇
深夜、大井競馬場の厩舎。
栄誉権現は人目につかない場所まで二人を連れていくと、迷う様子もなく柵へ手をかけた。
その瞬間、周囲の気配がふっと薄れた。
遠くに聞こえていた人の声も、足音も、まるで一枚の薄い膜を隔てた向こう側へ遠ざかったかのようだった。
栄誉権現は何事もなかったかのように柵を乗り越えた。
阿忠も後に続く。
最後に阿強が登ろうとしたが、途中で足を滑らせた。
「うわっ!」
「おい、阿強!」
阿忠が慌てて手を伸ばし、どうにか受け止める。
二人は柵の向こう側にしゃがみ込み、しばらく息を整えてから、先へ進んだ栄誉権現を追いかけた。
厩舎は静まり返っていた。
馬たちの寝息と、ときおり聞こえる蹄の音だけが、薄暗い通路に響いている。
栄誉権現は馬房を一つずつ確かめながら進み、やがて十三番の馬房の前で足を止めた。
「……大介」
そこには、栗毛の馬が一頭いた。
目の周りは赤く、どこか疲れた様子だった。
栄誉権現の姿を見ると、馬はゆっくりと頭を下げ、低く鼻を鳴らした。
「……どうしたんだ」
栄誉権現は、静かな声で尋ねた。
「お前、俺に約束しただろ。今日は勝つって」
大介は俯いたまま、動かなかった。
しばらくして――。
ぽたり。
目から涙がこぼれた。
人間のように声を上げて泣くわけではない。
大きな身体をじっと動かさず、ただ耐えていたものが堪えきれなくなったかのように、涙を落としていた。
『……ごめんなさい』
声が聞こえた。
阿忠と阿強にも、はっきりと聞こえた。
霊力を通じて伝わってくる、大介の声だった。
『……騎手の人に、怒られたんだ』
栄誉権現は黙って聞いていた。
『……食べすぎだって……』
大介の声が震える。
『……食べるばっかりで、ちっとも走れないくせにって……』
「…………」
『……それで……蹴られた……』
大介は右の前脚を、ほんの少し持ち上げた。
『……ここが、すごく痛いんだ……』
脚が小刻みに震えている。
『……力が入らなくて……走ろうとしても、うまく走れなかった……』
栄誉権現は、その脚をじっと見つめた。
しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねる。
「……騎手は誰だ」
『……青い帽子の人……』
栄誉権現は頷いた。
それから大介の顔を見る。
「……わかった」
声は、驚くほど穏やかだった。
「大介、お前はもう休め。あとは俺が何とかする」
大介は小さく鼻を鳴らした。
栄誉権現はそれ以上何も言わず、踵を返した。
阿忠と阿強も、黙って後に続く。
厩舎を出たところで、三成が口を開いた。
『……阿強』
「……何?」
『嫌な予感がする』
すると、珍しく福島も頷いた。
『……奇遇だな。俺もだ』
『…………』
『…………』
四百年以上も言い争ってきた二人の武将が、珍しく同じ意見に達していた。
それだけで、阿強は何かとんでもないことが起こる気がした。
◇
深夜、上野公園。
昼間の賑わいはすっかり消え、園内には帰りそびれた酔客や、ベンチで眠り込んでいる人がちらほら残るばかりだった。
栄誉権現は二人を連れて公園を進み、上野東照宮の鳥居をくぐった。
そこで、足を止める。
阿忠と阿強も立ち止まった。
栄誉権現は何も言わなかった。
くたびれたスーツの上着を脱ぐと、無造作に地面へ放り投げた。
続いてネクタイを引き抜き、シャツのボタンに手をかける。
一つ、また一つと外していく。
その途中で、異変が起きた。
男の肩先に、何もない空間から一枚の甲冑が浮かび上がったのだ。
かすかな金属音とともに、鎧の部品が次々と姿を現した。
肩を覆う。
胸を包む。
腰へと重なっていく。
栄誉権現はそんなことなど気にも留めず、シャツを脱ぎ捨てた。
その下では、すでに一領具足が形を成し始めていた。
土佐の戦場を思わせる、長宗我部家の武者が身につけたような甲冑だった。
鉄と革を組み合わせた胴が身体を包み、草摺が腰の周囲に整然と垂れる。袖が肩を覆い、各部を結ぶ緒が、見えない手に締め上げられるようにぴんと張った。
最後に金属の留め具が、かちりと音を立てた。
先ほどまで酔っ払いの中年男だった人物が、今や戦場へ出陣する武将の姿で、上野東照宮の境内に立っていた。
阿忠と阿強は言葉を失った。
だが、変化はそれで終わりではなかった。
甲冑に包まれた姿が、ゆっくりと揺らぎ始めたのだ。
人間の輪郭が薄れ、背丈が縮み、肩が丸くなる。
茶色い毛並みが現れ、顔つきも少しずつ変わっていった。
そして最後に姿を現したのは、一匹の年老いた狸だった。
野生の狸よりもはるかに大きい。
毛並みには白いものが交じり、長い年月を生きてきたことがうかがえる。
だが、その目だけは違った。
先ほどまでの酔っ払いの濁った目ではない。
澄んでいて、鋭い。
その奥には、人間には想像もつかないほど長い歳月を見てきた者の光が宿っていた。
栄誉権現はゆっくりと歩き始めた。
そして、上野東照宮の社殿へ入っていく。
奥へ進むと、まるで勝手知った場所であるかのように腰を下ろした。
どこからともなく一升瓶を取り出し、栓を抜く。
とく、とく、とく。
酒を注ぎ、一口飲んだ。
何も言わない。
ただ、静かに目を閉じた。
その直後だった。
――ぶおおおおおお。
どこからともなく、法螺貝の音が響いた。
低く、古く、山野の奥深くから吹き寄せてくるような音だった。
それが上野公園の夜空へ広がり、遠くへ遠くへと流れていく。
阿忠と阿強は社殿の外に立ち尽くしていた。
何かを言おうにも、言葉が出てこない。
やがて、木々の向こうで何かが動いた。
がさり。
最初は、数匹だった。
公園の茂みから。
石灯籠の陰から。
鳥居の向こう側から。
小さな狸たちが、次々と姿を現した。
十匹。
二十匹。
気づけば数十匹に増えていた。
しかし、それで終わりではなかった。
阿波から、土佐から。
山陰、山陽から。
日向、豊後、薩摩から。
近江、尾張、美濃からも、狸たちが次々と東京を目指して駆けてくる。
さらに北へ、東へ。
遠く青森に至るまで、日本各地の狸が一斉に動き始めていた。
山を越え、川を渡り、街を抜ける。
そして――。
上野公園の芝生に、何千匹もの狸が集まった。
騒ぐものはいない。
鳴くものもいない。
ただ、整然と並んでいる。
まるで命令を待つ軍勢のように。
阿強はその光景を呆然と見つめていた。
やがて隣の阿忠へ顔を向ける。
「……阿忠」
「……何?」
「俺たち、何かとんでもないことに巻き込まれてないか?」
阿忠はしばらく考えた。
「……俺たちは、ただついてきただけだろ」
「……そうだけど」
「……うん」
「……あの騎手、どうなるんだ?」
阿忠は芝生に並ぶ狸たちを見た。
それから、ゆっくりと答えた。
「……騎手のことは、狸たちが何とかするんじゃないか」
少し間を置く。
「……たぶん」
二人は、それ以上何も言わなかった。
◇
その頃、東京各地の監視カメラには、奇妙な光景が映り始めていた。
新宿の、とある裏路地。
一人のスーツ姿の男が、スマートフォンを眺めながら歩いていた。
男が路地へ入った、そのとき。
ぽんっ。
小さな音とともに、白い煙が立ち上った。
煙が晴れると、路地から二人の男が出てきた。
二人とも、まったく同じスーツ。
同じ顔。
同じ鞄。
そして、同じようにスマートフォンを取り出した。
「もしもし、俺だけど。悪い、今日はちょっと帰りが遅く……」
「もしもし、俺だけど。悪い、今日はちょっと帰りが遅く……」
二人は同時に口を閉じた。
互いの顔を見つめる。
三秒ほど沈黙が続いた。
やがて二人は、申し合わせたように電話を切った。
そして、何も言わず、反対方向へ歩いていった。
◇
大井競馬場の駐車場。
レースを終えて私服に着替えた騎手が、青いキャップをかぶり、自分の車へ向かって歩いていた。
車の前まで来ると、ポケットから鍵を取り出す。
ドアを開けた、その瞬間。
ぽんっ。
白い煙が立ち上った。
そして、車の横に二人の騎手が現れた。
同じ顔。
同じ服。
どちらも青いキャップをかぶっている。
二人は顔を見合わせた。
「…………」
「…………」
片方の騎手が、妙な違和感を覚えて帽子を脱いだ。
中に何かが入っている。
取り出してみると、それは松ぼっくりだった。
「……は?」
騎手は松ぼっくりを見つめた。
もう一度、見つめた。
それから隣にいる自分と同じ顔の男を見た。
何が起きているのか、まったく理解できなかった。
◇
都内の、とある居酒屋。
一人の客がトイレへ入っていった。
しばらくして、二人出てきた。
二人とも同じ顔をしていた。
しかも、トイレの個室は一つしかない。
一人は自分の手を見下ろした。
もう一人は、その男の顔を見た。
そして二人同時に、背後のトイレを振り返った。
個室は一つ。
間違いなく、一つだった。
二人は何も言わなかった。
◇
山手線の車内。
スーツ姿の男が、座席に腰かけてスマートフォンを眺めていた。
次の瞬間、その隣にまったく同じ顔の男が現れた。
服装も同じ。
髪形も同じ。
持っているスマートフォンまで同じだった。
二人は並んで座り、何事もないように画面を眺めている。
隣の乗客は左を見て、右を見て、もう一度左を確認すると、黙って少しだけ席をずらした。
誰も何も言わない。
ここは山手線である。
こうした奇妙な出来事が、東京のあちこちで次々と起こり始めていた。
◇
上野公園。
いつの間にか、NHKの中継車が到着していた。
屋根のアンテナが伸び、照明が灯る。
公園の入口では、女性アナウンサーがマイクを手に、カメラへ向かっていた。
「上野公園では今夜、大規模なタヌキの目撃情報が相次いでいます。現在、現場では――」
そのときだった。
小さな狸が一匹、足元を駆け抜けた。
「あっ――」
狸はアナウンサーの手からマイクを奪い、そのまま走り去っていった。
「…………」
アナウンサーは、空になった自分の手を見つめた。
三秒ほど沈黙する。
カメラマンは慌ててカメラを振り、逃げていく狸を追った。
小さな狸は公園の芝生まで走ると、その場にちょこんと座った。
そして、前脚でマイクを挟み込んだ。
顔を上げる。
夜空を見つめる。
「……キュウッ!」
狸が一声鳴いた。
次の瞬間。
公園中から、一斉に声が返ってきた。
何千匹もの狸が、同時に鳴いたのである。
その様子は、NHKの生放送で全国へ流れていた。
◇
上野東照宮の社殿の外。
阿忠と阿強は、目の前で起きている騒ぎを黙って眺めていた。
社殿の奥では、栄誉権現が相変わらず酒を飲んでいる。
日本酒の香りが夜風に乗って漂い、上野公園の草木の匂いと混ざり合っていた。
「……阿強」
阿忠が口を開いた。
「……何?」
「明日は歌舞伎町で須佐之男命を探すんだよな」
「……うん」
「歌舞伎町って、どこにあるか知ってる?」
「知ってるよ。新宿だろ」
「……どうやって行く?」
阿強は少し考えた。
それから、何でもないことのように答えた。
「歩こう」
「…………」
「金がもったいないし」
二人はしばらく黙った。
やがて阿強が、思い出したように口を開く。
「……なあ、三成」
『……何だ』
「さっきの二百円なんだけどさ……」
『その話は、もうしたくない』
三成の声は、妙に重かった。
『あれは、私がこの数百年の間に下した判断の中でも、最も非合理的なものだった』
「でも、お前、賭博はよくないって言ってたじゃないか」
『言ったとも』
「なのに、結局賭けさせたよな」
『…………』
三成は長い沈黙の後、重々しく答えた。
『……数字に惑わされたのだ』
「……数字?」
『十一万一千四十円。あの数字が、あまりにも魅力的で……』
「…………」
『……今となっては、あの数字を口にしたことすら悔やまれる』
阿強はため息をついた。
その横で、福島がまだぶつぶつと言っていた。
『……だから藤吉郎を買っとけって言ったんだよ……』
「……まだ言ってる」
『藤吉郎なら絶対に勝てたのに……太閤殿下のお名前だぞ……』
すると、社殿の奥から声が響いた。
「藤吉郎は七着だったぞ」
『…………』
福島が黙った。
上野公園では、狸たちがまだ続々と集まっていた。
NHKの生中継も続いている。
さきほどマイクを奪われた女性アナウンサーは、いつの間にか予備のマイクを手にしていた。
表情ひとつ変えず、カメラへ向かって中継を再開する。
「……先ほど、取材用のマイクが正体不明の動物に持ち去られるという事態が発生しました。現在、現場の状況は――」
その瞬間。
さっきの小さな狸が、最初のマイクをくわえたまま駆けてきた。
そして――。
**二本目のマイクも奪っていった。**
**第十話 終**




