第十一話 警視庁出動、謎の上様、そしてニンジン事件
上野公園を埋め尽くしたタヌキの群れは、なおも増え続けていた。
数十匹どころか、数百匹でも済まない。こちらの数を確かめている間に、振り返った先ではまた新たな群れが増えている。芝生にも、茂みにも、石灯籠の脇にも、鳥居の陰にも、見渡す限りタヌキだらけだった。
阿忠と阿強は上野東照宮の社殿の外に立ち尽くし、身動きも取れずにいた。
「……阿強」
「何だよ」
「俺たち、逃げたほうがいいかな」
阿強は周囲を見回した。右もタヌキ、左もタヌキ。後ろを振り返っても、やはりタヌキだった。
「……逃げ道がないな。四方八方、全部タヌキだ」
「……じゃあ、やめとくか」
阿忠はあっさり諦めた。
その傍らでは、三成と福島も目の前の光景に呆れていた。
『……私は戦場で、ありとあらゆる混乱を目にしてきた。だが、これは……』
珍しく、三成の言葉が途中で途切れた。
『俺もこんなのは見たことねえな。しかし、ずいぶん賑やかじゃねえか』
福島が感心したように言った。
『賑やかで済むか! これは兵乱だぞ!』
『兵乱だって賑やかなもんだろ?』
『……お前と話していると、頭が痛くなる』
『死んでるくせに、頭痛なんかするのかよ』
三成は答えなかった。
◇
やがて、上野公園の外からサイレンの音が聞こえ始めた。
一台ではない。
何台もの警察車両が列をなし、赤色灯を点滅させながら次々と到着する。拡声器から指示が飛び、車のドアが開くと、警察官たちが一斉に降り立った。
警視庁が動いたのだ。
その数、三百人以上。
それぞれ装備を整え、厳しい表情で公園入口に整列している。誰もが目の前の事態に戸惑いながらも、前例のない大規模な動物の集結に対応しようとしていた。
上野動物園からも十数名の飼育員や動物の専門家が応援に駆けつけ、捕獲網やケージなどを携えて慎重に公園の外周へ近づいていく。
すると、外側にいたタヌキたちも動き始めた。
しかも、その動きが妙に揃っている。
一匹が立ち上がると、隣も立ち上がる。前列が向きを変えれば、後列も同時に向きを変えた。警察官たちより、よほど統率が取れているように見えた。
そして、タヌキたちは一斉に地面へ顔を伏せた。
何をするのかと思えば、それぞれ落ち葉を一枚拾い上げ、頭の上に載せたのである。
「……阿強」
「……見てる」
次の瞬間。
ぽんっ!
白い煙が一斉に立ち上った。
煙はたちまち警察官たちの後ろへ流れ込み、そこで人の形を取り始める。
やがて煙が晴れたとき、三百人の警察官の背後には、さらに三百人の警察官が立っていた。
制服も同じ。装備も同じ。顔まで、元の警察官とそっくりだった。
動物園から来た専門家たちの横でも同じことが起こり、十数人だったはずの一団が、気づけば二十数人に増えていた。
阿強はしばらく、その光景を見つめていた。
「……阿忠」
「何?」
「今、人数を数えようとしたんだけどさ……」
「うん」
「同じ顔の人間が何人いるのか、もうわからなくなった」
阿忠は黙って頷いた。
その頃、現場指揮官も同じ問題に直面していた。
「よし、点呼を取る! 田中!」
「はい!」
「はい!」
まったく同じ声が、二か所から返ってきた。
指揮官は顔を上げた。
目の前には、同じ顔の田中巡査が二人いる。
「……どっちが本物だ!」
「私です!」
「私です!」
指揮官はしばらく二人を見比べた。
だが、どう見ても同じ顔だった。
『……何ということだ』
三成が低く唸った。
『この指揮系統の混乱ぶり……私が軍勢を率いておったなら、断じて許さぬところだ』
『おい、佐吉』
福島が呆れたように言った。
『お前、今は別に軍勢を率いてねえだろ』
『わかっておる! だが、こんな有様を見せられては、隊列を組み直さずにはいられんのだ!』
『だったら、あっちへ行って並べてこいよ』
『……それができれば苦労はせん!』
◇
混乱は上野公園の中だけに収まらなかった。
大量のタヌキが周辺の道路にまで押し寄せたため、上野一帯の交通はたちまち麻痺した。
交差点では車が立ち往生し、クラクションが鳴り響く。信号が青になっても車は進まず、赤になっても横断歩道にはタヌキの群れが残っていた。
やがて主要な交差点に警察官が配置され、交通整理が始まった。
誘導灯を振り、車を止め、歩行者を通す。その動きは、いかにも手慣れていた。
ただし、少々おかしなところがあった。
ある警察官のズボンの後ろからは、茶色くふさふさした尻尾が伸びている。
別の警察官の頭には、丸くて毛深いタヌキの耳がついていた。
さらに別の警察官は、頬からもみあげにかけて茶色い獣毛が残っている。
どうやら変化の術が、いささか甘かったらしい。
だが、当の本人たちはまるで気づいていない。
誘導灯を右へ振れば尻尾も右へ揺れ、左へ振れば左へ揺れる。タヌキの耳は、車のクラクションが鳴るたびにぴくぴくと動いた。
頬に毛が残った警察官も、何食わぬ顔で車を誘導している。
それでも交通整理そのものは、実に見事だった。
「……阿強」
「……何だよ」
「あの警察官、尻尾が……」
「見えてる」
「……あっちのは耳があるぞ」
「それも見えてる」
「……あの人、顔に毛が生えてないか?」
阿強は深いため息をついた。
「……全部、見なかったことにしよう」
阿忠も素直に頷いた。
当然ながら、そんな光景を目撃した通行人たちが黙っているはずもない。
SNSには、上野周辺で撮影された写真や動画が次々と投稿され始めた。
> 「上野の警察、勤務中にコスプレしてない?」
>
> 「え、尻尾かわいいんだけど」
>
> 「これ本当に警察官?」
>
> 「耳まで生えてる人いるぞ」
>
> 「いや、仕事中にコスプレはまずいだろ」
>
> 「でも交通整理めっちゃうまい」
>
> 「上野で何かイベントやってる?」
>
> 「知らん」
>
> 「……何が起きてるんだよ」
福島はその様子を見て、妙に感心していた。
『なあ、佐吉。あの尻尾の生えた奴を見ろよ』
『何だ』
『尻尾のねえ警察官より、よっぽど上手に車をさばいてるじゃねえか』
『……そこが問題ではない』
『仕事ができりゃ、尻尾くらいあってもいいだろ』
『だから、そういう話ではない!』
◇
一方、NHKの生中継も続いていた。
女性アナウンサーは、すでに三本目のマイクを手にしていた。
一本目は奪われた。
二本目も奪われた。
そして三本目。
今度こそ渡すものかと、両手でしっかり握り、胸の前に抱え込んでいる。
その様子を、一匹の小さなタヌキがじっと見つめていた。
三秒。
タヌキは首を傾げた。
それから、マイクを諦めた。
どうやら、別の獲物を見つけたらしい。
「……え?」
次の瞬間、タヌキはカメラマンへ向かって駆け出した。
「ちょっ、ちょっと待って!」
カメラマンが慌てて後ずさる。
しかし、タヌキは構わず足元へ飛び込み、カメラに前脚を伸ばした。
「うわっ! やめて! カメラは駄目だって!」
カメラマンは機材を抱えて逃げ回った。
中継映像が大きく揺れる。
上野公園の木々と街灯が、画面の中で激しく行き来した。
それでも、生中継は途切れなかった。
NHKの副調整室では、ディレクターがモニターを見つめていた。
タヌキがカメラマンを追いかけている。
カメラマンは必死に逃げている。
画面は盛大に揺れている。
ディレクターは深く息を吸い、決断した。
「……続けて」
周囲のスタッフが振り返る。
「……このまま、ですか?」
「続けて」
ニュースなのである。
内容がどれほど荒唐無稽でも、今まさに起きていることを伝えるのが仕事だった。
現場では別のカメラマンが、慌てて女性アナウンサーへレンズを向け直した。
映像が切り替わる。
アナウンサーは三本目のマイクを胸に抱えたまま、何事もなかったかのように中継を続けた。
「……現在も現場の混乱は続いています。NHKでは引き続き、上野公園の状況を生中継でお伝えします」
その背後では、最初のカメラマンとタヌキがまだ追いかけっこをしていた。
◇
そのときだった。
上野東照宮の社殿の奥から、低い声が響いた。
栄誉権現の声ではない。
それまで聞こえていた騒音とは、明らかに異なる響きだった。決して大きな声ではないのに、周囲の空気を静かに押さえつけるような威厳がある。
「……権現」
社殿の奥で酒を飲んでいた栄誉権現が、ぴたりと動きを止めた。
手にしていた盃を下ろし、居住まいを正す。
「……これは、上様」
その声には、先ほどまでの酔っ払いじみた気軽さがなかった。
「何を騒いでおる」
「……いや、それがですな」
栄誉権現は小さく咳払いをしてから、何やら弁解を始めた。
阿強は社殿の入口から中を覗き込んだ。
奥まではよく見えなかったが、普段はふてぶてしいあの狸が、妙にかしこまっていることだけはわかった。
やがて社殿の奥が静かになった。
そして――。
阿忠の身体に、何かが触れた。
「……え?」
胸の奥を、ひやりとした気配が通り抜ける。
憑依された、というほど重苦しくはない。ほんの一瞬、誰かが肩に手を置き、通りすがりに身体を借りていったような、不思議な感覚だった。
気づけば、阿忠の背筋が自然と伸びていた。
足が前へ出る。
もう一歩。
自分では動こうとしていない。それなのに、身体は迷いなく社殿へ向かって歩いていく。
「……阿忠?」
阿強が呼びかけたが、返事はなかった。
阿忠はそのまま社殿へ入っていった。
阿強も慌てて入口に近づき、中の様子を窺った。
そこでは、栄誉権現が再び盃を手にしていた。
入ってきた阿忠を見ると、老いた狸はかすかに頭を下げた。
次の瞬間、阿忠の右手が伸びた。
そして――。
ひょいっ。
栄誉権現の鎧の襟元をつかみ、そのまま片手で持ち上げたのである。
全身に甲冑をまとった、あの大きな老狸を。
片手で。
あっさりと。
栄誉権現の四本の脚が、宙に浮いた。
老狸はしばらく無言でぶら下がっていたが、やがて何とも困ったような顔になった。
「……上様」
「何じゃ」
「……できれば、もう少し違う持ち方をしていただけませぬか」
しかし、阿忠の手は緩まなかった。
「余の問いに答えよ」
阿忠の口から声が出た。
ただし、それは阿忠の声ではなかった。
低く、落ち着いていて、逆らうことなど最初から考えさせないような声だった。
「この騒ぎ、いったい何が発端じゃ」
栄誉権現は、宙ぶらりんになったまま事情を説明し始めた。
大井競馬場のこと。
十三番の大介のこと。
騎手に蹴られ、脚を痛めたこと。
そして、腹を立てて法螺貝を鳴らし、四国八百八狸をはじめとする大勢の仲間を呼び集めたこと。
話し終えると、社殿は静まり返った。
阿忠の手がゆっくりと下がる。
栄誉権現はようやく床に足をつけ、鎧の襟元を整えた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、阿忠の口から再び声が響いた。
「……なるほどな」
栄誉権現が顔を上げる。
「では、余も手を貸そう」
社殿の入口でそれを聞いていた阿強は、思わず息を呑んだ。
『……三成』
阿強は心の中で、そっと呼びかけた。
『あれ、誰なんだ……?』
三成の返事も、ひどく小さかった。
『……徳川家の、相当やんごとなき御方じゃ』
「……徳川家?」
『それ以上は聞くな。今は余計なことを口にせぬほうがよい』
阿強は社殿の奥を見つめた。
『……なあ、佐吉』
今度は福島が声を潜めた。
『あの御方、相当なもんだな』
『……ああ。あの威圧感は尋常ではない』
三成も、静かに同意した。
阿強は頭を抱えたくなった。
戦国武将の霊に振り回されるだけでも十分だったのに、今度は名前もわからない徳川家の大人物まで出てきてしまったのである。
しかも、よりによって阿忠の身体を借りて。
「……勘弁してくれよ」
阿強は誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
深夜、大井競馬場。
青いキャップをかぶった騎手は、厩舎の外で立ち尽くしていた。
その周囲を、千人を超える人影が取り囲んでいる。
スーツ姿の男、ジャケットを羽織った若者、ジャージ姿の中年。ごく普通の人間に見えるが、よく見れば耳の位置が妙に高い者や、ズボンの後ろが不自然に膨らんでいる者もいる。頬や顎に獣毛を残したままの者までいた。
全員、タヌキが人間に化けた姿だった。
騎手は人垣の中心で、がたがたと震えている。
ところが、包囲している側にも、少々問題があった。
「……なあ」
一人の男が、隣にいる仲間へ小声で尋ねた。もちろん、これもタヌキである。
「そもそも、あの人間は誰なんだ?」
隣のタヌキは首を傾げた。
「さあ。俺もよく知らん」
「……知らないのか?」
「総師の法螺貝が鳴ったから、仲間と一緒に駆けつけたんだよ」
そこで、大きなため息をつく。
「ったく……仙台からここまで来るのに、どれだけ走ったと思ってんだ」
そう言いながら、足をぷるぷると震わせた。
「まだ脚がだるくてしょうがねえ……」
そこへ、後ろから別のタヌキが割り込んできた。
「ああ、あの人間なら知ってるぞ。大介を蹴った騎手だってさ」
「……大介?」
「総師が可愛がってる馬だよ。いい子なんだぞ」
「へえ……そりゃ蹴っちゃいけねえな」
一同は真剣に頷いた。
「……で、俺たちは何をすればいいんだ?」
先ほどのタヌキが尋ねた。
「そりゃあ……大介を蹴っちゃいけないって、あの人間にわからせるんだろ」
「なるほど」
「うん」
「……その後は?」
説明していたタヌキが黙り、しばらく考え込んだ。
「……帰っていいんじゃないか?」
「……だったら何で千匹も集まったんだ?」
「そりゃお前、総師の法螺貝が鳴ったら集まるもんだろ?」
「……まあ、そうか」
誰も反論しなかった。
そこへ、少し年老いたタヌキが口を挟んだ。
「で、どうするんだ? 噛むのか?」
年老いたタヌキは、自分の前歯を指で触った。
「俺、最近この歯がぐらぐらしててな。強く噛んだら抜けそうなんだよ」
「俺も噛むのは勘弁してほしいな」
別のタヌキが言った。
「血を見ると気分が悪くなるんだ」
「……じゃあ、どうする?」
「とりあえず……囲んで見てるか?」
「……そうだな」
「まずは見てよう」
結局、千匹を超えるタヌキたちは、騎手を取り囲んだまま、じっと見つめることにした。
騎手は、その相談をすべて聞いていた。
最初は何が何だかわからなかったが、だんだん事情が見えてきた。
どうやら自分が大介を蹴ったことが、問題になっているらしい。
しかも、相手は何百人、いや千人以上もいる。
騎手は恐る恐る片手を上げた。
「……あ、あの……」
タヌキたちが一斉に振り返った。
「……ひっ」
騎手は肩をすくめた。
「ぼ、僕……大介に謝ります!」
誰も答えなかった。
「そ、それから、ニンジンもあげます!」
今度は何匹かのタヌキが、興味深そうに耳を動かした。
「……ニンジン?」
「は、はい!」
騎手は必死に頷いた。
「い、一本じゃありません! たくさんです! ものすごくたくさん!」
千人分の視線が集まる。
騎手は半歩後ずさった。
「う、上野中のニンジンを……!」
その言葉に、先ほどの年老いたタヌキが首を傾げた。
「……上野にそんなにニンジンがあるのか?」
すると、別のタヌキが答えた。
「さっき青果市場の前を通ったけど、結構あったぞ」
「……足りるか?」
「たぶんな」
「じゃあ、まずこいつの上司に電話させようぜ」
「そうだ!」
「電話だ、電話!」
タヌキたちの意見が、ようやく一致した。
騎手は震える手でスマートフォンを取り出し、上司の番号を押した。
◇
同じ頃、都内の高級マンション。
その部屋の主は、広々としたリビングの真ん中で呆然と立ち尽くしていた。
周囲には、三十匹とも四十匹ともつかないタヌキがいる。
しかも、全員が好き勝手にくつろいでいた。
一匹はソファの上で丸くなって眠っている。
別の一匹は冷蔵庫を開け、中の食品を熱心に物色していた。
さらにもう一匹は、高価そうなウイスキーが並ぶ棚の前で、ふらふらと揺れている。
その前脚には、一本の瓶が抱えられていた。
ラベルには、大きくこう書かれている。
**「30年」**
しかも、その中身はすでに半分以上なくなっていた。
「ああ……」
酔っ払ったタヌキが、うっとりと目を細める。
「……いい酒だなあ……」
部屋の主は何も言えなかった。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面には、騎手の名前が表示されている。
「……何だ!」
苛立ちを抑えきれない声で電話に出た。
だが、向こうから事情を聞くうちに、表情がみるみる変わっていく。
「……何だと?」
しばらく沈黙する。
「……ニンジン?」
さらに何か説明されたらしい。
部屋の主は目の前のタヌキたちを見回した。
ソファ。
冷蔵庫。
酒棚。
そして、三十年もののウイスキー。
とうとう叫んだ。
「買う! 買えばいいんだろ!!」
電話の向こうで騎手が何か言った。
「とにかく帰ってもらえ! 帰ってくれるなら何でもいい!」
声が裏返る。
「上野中のニンジンでも何でも買ってやる! ニンジンだ! 全部だ!!」
そう怒鳴ると、電話を切った。
深く息を吸い、ゆっくり振り返る。
リビングのテーブルにあった果物は、すっかりなくなっていた。
テーブルの下に置いてあった菓子の籠も空になっている。
しかも、何匹かのタヌキが買い物袋を広げ、残った食品を手際よく詰め込んでいた。その動きには、妙な熟練ぶりがあった。
「……都会の人って優しいんだなあ」
一匹がしみじみと呟いた。
「こんなうまいもの、好きなだけご馳走してくれるなんて」
「また来ようぜ」
隣のタヌキが頷く。
「この住所、ちゃんと覚えとこう」
すると、例の三十年ものを抱えたタヌキが、ふらふらと近づいてきた。
「……おれも……」
ひどく幼い、舌足らずな声だった。
「……また来る……これ、おいしい……」
部屋の主は、そのタヌキを見た。
半分以上空になった三十年もののウイスキーを見た。
そして、もう一度深く息を吸った。
スマートフォンを握り直す。
今度は、農林水産省に電話をかけるつもりだった。
◇
上野東照宮の社殿の外。
騒ぎは、少しずつ収まり始めていた。
芝生を埋め尽くしていたタヌキたちは、次々と姿を消していく。阿波へ、土佐へ、山陰へ、そして日本各地へ。
何千匹もの群れが一匹、また一匹と夜の闇へ溶け込んでいく様子は、まるで潮が引いていくかのようだった。
警察官たちも、ようやく隊列を立て直そうとしていた。
もっとも、こちらには別の問題が残っている。
本物と、タヌキの化けた偽物を見分けなければならないのだ。
そこで、現場指揮官はもう一度点呼を始めた。
「田中!」
「はい!」
「はい!」
やはり二人が返事をする。
しかし、今度は違いがあった。
片方の田中巡査の尻尾が、返事をした拍子にぴこりと揺れたのである。
「……お前だ!」
指揮官が叫ぶ。
「そっちの田中! 尻尾が出てるぞ!」
「……あっ」
偽物の田中は慌てて尻尾を押さえた。
他にも、返事をした途端に耳がぴくりと動く者や、頬の獣毛を隠そうとしてかえって目立つ者がいた。
もちろん、中には人間と見分けがつかないほど見事に化けたタヌキもいる。
それでも警察官たちは、まず尻尾や耳などが出ている者から、一人ずつ選り分けることにした。
少なくとも、何人かはこれで見分けられそうだった。
その頃、阿忠が社殿から出てきた。
自分の右手を見下ろし、指を開いては握り、手首を何度か回した。
「……阿強」
「何だよ」
「俺、さっき何か持ち上げなかった?」
阿強は頷いた。
「持ち上げた」
「……何を?」
「栄誉権現」
「…………」
「片手で」
阿忠はもう一度、自分の手を見た。
「……俺が?」
「いや、お前の身体を使った別の人が」
「……誰?」
阿強は少し迷った。
「……詳しくは知らない。徳川家の、ものすごく偉い人らしい」
阿忠はしばらく考えた。
「……そうなのか」
「うん」
阿忠はさらに自分の手首を回した。
「……もう出ていったのかな」
「たぶんな。さっき、お前から離れていくみたいな人影が見えたから」
「……そっか」
阿忠は小さく息を吐いた。
妙に身体が軽い。何とも言えない爽快感があった。
そこへ、栄誉権現が社殿から出てきた。
その隣には、一人の武将の姿があった。
先ほどまで阿忠の身体を借りていた存在が、今度は自らの輪郭をはっきりと現している。
上野東照宮の冷たい灯りに照らされたその姿には、言葉にしがたい威厳が漂っていた。
その人物は二人を見た。
「……もう発つのか」
阿強は慌てて背筋を伸ばした。
「は、はい! 歌舞伎町へ行って、人を探すつもりです」
相手は静かに頷いた。
一方、栄誉権現は手にしていた酒を最後の一口まで飲み干すと、満足そうに息を吐いた。
「……げふっ」
それから、急に真面目な顔になった。
「そうだ。大介から、お前さんたちに伝えてくれと頼まれていたんだ」
阿忠と阿強が同時に振り返った。
「……何ですか?」
「大介は来月もレースに出るそうだ。次こそ絶対に勝つから、もう一度自分に賭けてくれってさ」
『いやいやいやいやいやいやいやいや!!』
三成の叫び声が、阿強の頭の中に響き渡った。
それは、四百年にわたって守り抜いてきた兵站の理念も、財政規律も、「賭博は身を滅ぼす」という信念も、何もかもが一瞬で吹き飛んでしまいそうな絶叫だった。
『断じてならん! もう二度と、競馬の話を私にするなァァァッ!!』
阿強は無言でリュックの紐を引き締めた。
「……それじゃ、俺たちはそろそろ行きます」
阿忠も深く頭を下げる。
「いろいろありがとうございました」
栄誉権現は前脚をひらひらと振った。
その隣の人物も静かに頷き、何も言わずに社殿の奥へ姿を消した。
二人が歩き出そうとした、そのときだった。
遠く、上野の街のどこかから、妙に聞き覚えのある声が響いた。
『余の顔を見忘れたか!』
阿強が足を止めた。
続いて、別の声が聞こえる。
『う、上様!? 上様がこのようなところにおられるはずがない!』
『ええい、上様の名を騙る不届き者め!』
そして――。
『成敗!』
阿忠と阿強は同時に足を止め、顔を見合わせた。
「……阿強」
「……何だよ」
「今のって、もしかして……」
「……うん」
二人は、もう一度顔を見合わせた。
「「……暴れん坊将軍!?」」
しばらく、言葉が出なかった。
やがて阿忠が、恐る恐る口を開いた。
「……あの騎手、どうなるんだろうな」
阿強は少し考えた。
「……知らん。見に行かないほうがいい」
「……そうだな」
タヌキたちがニンジンの話で納得したからといって、騎手が大介を蹴った事実まで消えるわけではない。
もっとも、あの声の主がどこで何をしているのか、二人には確かめるつもりもなかった。
阿忠と阿強はスーツケースを引き直し、新宿の方角へ歩き始めた。
◇
その夜のNHK深夜ニュース。
女性キャスターは、いつもどおり落ち着いた表情でニュースを読み上げていた。
髪もきちんと整っている。
ただし、よく見ると、襟元に茶色い毛が何本か付着していた。
「警視庁は本日、上野公園で多数のタヌキが確認された件について、上野動物園で飼育されていたタヌキが複数脱走したことによるものと発表しました。脱走したタヌキは、すべて無事に捕獲されたということです」
キャスターは原稿から目を離さず、続けた。
「また、現場で一部の警察官にタヌキの耳や尻尾のようなものが確認された件について、警視庁は、勤務中の仮装やコスプレを厳に慎むよう、所属職員への指導を徹底するとしています」
原稿を一枚めくる。
「続いて、農林水産省からのお知らせです」
キャスターは、相変わらず平然としていた。
「本日深夜から、上野周辺でニンジンの需要が急増しています。農林水産省によりますと、現在、全国の流通在庫を確認するとともに、関係事業者と連携して緊急の供給調整を進めており、明日には通常の供給体制に戻る見通しです」
さらに続ける。
「なお、ニンジンの供給量は十分に確保されているとして、農林水産省は消費者に対し、買いだめを控え、落ち着いて行動するよう呼びかけています」
読み終えると、キャスターはほんの少し間を置いた。
「以上、深夜のニュースをお伝えしました」
カメラが切り替わる。
スタジオの照明が落ちた。
なお、最初にタヌキに奪われたマイクは、この時点でも発見されていなかった。
◇
阿忠と阿強は、上野から新宿へ向かう夜道を歩いていた。
二人とも、電車代を惜しんだことを少しばかり後悔していた。
それでも、ここまで歩いたのだからと、そのまま足を進める。
東京の街灯が路面を明るく照らし、時折吹く夜風が、疲れた身体に心地よかった。
「……阿強」
「何だよ」
「さっき、大介が来月は絶対に勝つって言ってただろ」
「……うん」
「どう思う?」
阿強は少し考えた。
「……三成はさっき散々叫んだから、今は目を閉じて精神を落ち着けてるんじゃないかな」
阿忠は何とも言えない顔になった。
「……三成さん?」
返事はなかった。
「……大丈夫ですか?」
長い沈黙。
やがて、阿強の意識に三成の声が響いた。
『……少し、時間をくれ』
普段の三成とは思えないほど、疲れ切った声だった。
『……今は、競馬と払戻金の話を一切聞きたくない』
「……わかった」
阿強は素直に頷いた。
『……すまぬ』
三成はそれきり黙った。
しばらく、二人の足音だけが続いた。
ところが――。
『……でもよ』
福島が、ひどく小さな声で口を開いた。
『……もし本当に、大介が来月勝ったとしたら……』
『福島正則ゥゥゥッ!!』
三成の怒声が、夜の静けさを吹き飛ばした。
『い、いや! もしもの話だろ!?』
『その「もしも」がいかんと言っておるのだ!!』
『だから、仮の話じゃねえか!』
『仮定であろうと、賭博の話はするなァァッ!!』
阿強は深いため息をついた。
阿忠も何も言わなかった。
それからどれほど歩いただろう。
ようやく新宿のネオンが、遠くに見え始めた。
歌舞伎町は、もうすぐそこだった。
その先に、須佐之男命がいるはずだった。
**第十一話 終**




