第十二話 山手線、神室町、そして桐生さん
上野から新宿まで歩こうと言い出したのは、阿強だった。
そして、それを最初に後悔したのも阿強だった。
遠くに見えていた新宿のネオンは、いくら歩いてもなかなか近づいてこない。
そもそも二人は、日本へ来てからろくに休んでいなかった。神様を探しているはずが戦国武将に振り回され、競馬では金を失い、つい先ほどまで上野公園で何千匹ものタヌキを眺めていたのである。
そんな身体で東京の夜道を延々と歩こうというのが、そもそもの間違いだった。
「……阿強」
「……何だよ」
「電車、乗らない?」
阿強は足を止め、しばらく無言でスマートフォンを眺めた。
「……そうだな」
結局、二人は近くのJR駅まで歩き、山手線に乗ることにした。
改札機にSuicaをタッチしてホームへ下りると、ほどなくしてウグイス色の電車が滑り込んできた。
扉が開き、二人は疲れ切った身体を車内へ押し込んだ。
そして、目の前の光景を見た瞬間、言葉を失った。
車内は、残業を終えた東京の会社員たちで埋め尽くされていた。
誰もが俯いている。
スマートフォンを眺める者、目を閉じている者、ただ正面を見つめている者。中には、何かを見ているようで何も見ていない者までいた。
その顔に浮かんでいるのは、疲労という言葉だけでは足りない表情だった。
疲れ切っているというより、もはや疲れていることすら感じなくなっているように見える。
車内全体から、生気というものが抜け落ちていた。
まるで誰かが乗客全員の魂を取り出し、一度きれいに初期化してしまったかのようだった。
「……阿強」
阿忠が声を潜めた。
「……何だよ」
「俺たち、乗る時間を間違えたんじゃないか?」
「どうして?」
阿忠は周囲を見回した。
「……観落陰に来たみたいなんだけど」
「……は?」
「みんな、魂が抜けちゃってるみたいだろ。身体までぺしゃんこになってる感じがする」
そこで、三成が不思議そうに口を挟んだ。
『……阿忠。その観落陰というのは何だ?』
「台湾にある民間信仰の儀式ですよ。生きている人の魂を一時的にあの世へ送り、亡くなった家族や親しい人に会いに行くんです」
『……生きたまま冥府へ赴くのか』
「そういうことです」
三成は少し考えた。
『……つまり、お前はこの車内を冥府にたとえておるのだな』
「はい。なんていうか、みんな幽霊みたいで……」
三成はもう一度、車内を見渡した。
そして、ひどく真面目な声で言った。
『……私は四百年も冥府にいたが、あそこでもここまで酷くはなかったぞ』
阿忠と阿強は思わず顔を見合わせた。
『じゃあ、こいつらは何なんだ?』
今度は福島が尋ねた。
「……残業帰りの会社員だよ」
阿強が答える。
『残業? 何だそりゃ』
「仕事が終わらなくて、定時になっても帰れないんだ。上司に残れと言われて、夜遅くまで働くこともある」
『……ほう』
三成の声が急に険しくなった。
『その上役の差配には、いささか問題があるな』
「だったら日本の大企業に言ってくれよ」
『……今の私には身体がない』
「だろ? じゃあ諦めてくれ」
阿強は車内をもう一度見回した。
「……でも、確かにちょっと怖いな。俺たち、さっきからお祓いも何もしてないし……趙元帥は相変わらず麻雀してるんだろうし、少し用心したほうがよさそうだ」
『江戸の浪人だって、ここまで覇気のねえ顔はしてなかったぞ』
福島が呟く。
『……関ヶ原より酷い有様だ』
三成も同意した。
そのときだった。
すぐ隣に立っていた会社員が、ゆっくりと顔を上げた。
虚ろな目が、阿忠と阿強を捉える。
阿忠は思わず半歩後ずさった。
「……君たち」
「……は、はい?」
「……仕事帰りじゃないの?」
阿忠は少し考えた。
「……いえ、ちょっと用事があって」
「……そう」
会社員はそれだけ言うと、再び俯いてスマートフォンを眺め始めた。
二人はそれ以上何も言わなかった。
山手線は、何事もなかったかのように夜の東京を走り続けた。
◇
新宿駅。
電車を降りた二人は、地下通路を抜けて地上へ出ると、スマートフォンの地図を頼りに歌舞伎町へ向かった。
そして、しばらく歩いたところで、同時に足を止めた。
目の前に、あの赤いアーチがあった。
「歌舞伎町一番街」。
夜の闇に浮かび上がる赤い門。その向こうには眩しいほどのネオンが輝き、人の声や車の音、食べ物と酒と香水の入り交じった匂いが満ちていた。
阿忠は口を半開きにしたまま、動かなくなった。
「……阿強」
声が少し震えている。
「……わかってる」
阿強もアーチを見上げたまま答えた。
「言うなよ」
「……神室町――」
「だから言うなって!」
二人はその場で、三秒ほど黙り込んだ。
『……あの赤い門は何だ?』
三成が尋ねた。
「歌舞伎町の入口だよ」
阿強が答える。
『ほう。花街の入口みてえだな』
福島が感心したように言った。
『昔の花街に、あれほど大きな門はなかったが……』
『四百年以上経ってんだぞ、佐吉。何だって大きくなるさ』
福島の言葉に、三成は反論しかけた。
だが、そのまま黙った。
というのも、門の向こうから漂ってくる気配が、明らかに普通ではなかったからだ。
人の声とネオンの光に紛れて、何か別のものが流れている。
人間の欲望、酒の匂い、熱気。そして、そのすべての奥に、得体の知れない霊気が渦巻いていた。
『……ここは、ずいぶん霊気が濃いな』
三成が呟いた。
『大阪の夜の盛り場を思い出すぜ』
福島も珍しく真面目な声を出した。
阿強は赤い門の向こうを見た。
「……須佐之男命がここにいるって言われても、全然不思議じゃないな」
阿忠も頷いた。
二人はスーツケースを引き、門をくぐった。
そのとき、阿強が小声で言った。
「……この先の路地から桐生一馬が出てきても、俺は驚かないぞ」
「春日一番が出てきても驚かないな」
阿忠が即座に返す。
『……桐生一馬とは何者だ?』
三成が尋ねた。
「ゲームの登場人物」
『……この辺りに遊技場があるのか?』
「いや、そうじゃなくて。この街が、俺たちが子供の頃から遊んでるゲームの舞台のモデルなんだよ」
『……ほう』
三成は感心したようだった。
『では、お前たちはこの辺りの地理に詳しいのか』
「「自分の家より詳しい」」
二人の声が、見事に重なった。
福島が呆れたように言った。
『……だからお前ら、日光への行き方も知らなかったんだな』
阿忠も阿強も答えなかった。
◇
歌舞伎町へ入ってしばらくすると、巨大な建物が目に入った。
新宿東宝ビル。
阿忠は何気なく顔を上げ、そこで足を止めた。
ビルの上から、大きな怪獣の頭が覗いていたのである。
ゴジラだった。
夜の照明に照らされたその顔は、まるで本当に新宿の街を見下ろしているかのような迫力があった。
阿忠はしばらく、黙って見つめていた。
「……阿忠?」
阿強が声をかける。
「大丈夫か?」
「大丈夫。ただ、ちょっと考えてた」
「……何を?」
阿忠はゴジラの顔を見つめたまま答えた。
「……須佐之男命とゴジラが戦ったら、どっちが勝つんだろうな」
阿強も顔を上げた。
少し考える。
「……さあな」
『おい、あれは何だ?』
三成が口を挟んだ。
『屋根の上にいる、あの化け物は何なのだ』
「ゴジラ」
『……ゴジラ?』
「そう」
『あの化け物は、あの建物に住んでおるのか?』
「住んでないよ。飾りだ」
『……飾り?』
三成はしばらく考え込んだ。
『昔なら門松や注連縄を飾ったものだが、今の世では化け物を屋根に載せるのか……』
『いいじゃねえか。こっちのほうが迫力あるぞ』
福島が嬉しそうに言った。
『……お前とは、つくづく趣味が合わぬ』
三成は深いため息をついた。
◇
さらに歩いていると、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。
ソースの匂いに、焼けた生地とかつお節の香り。
たこ焼きだった。
阿忠と阿強は顔を見合わせ、ほとんど言葉を交わさないまま店先へ向かった。
それぞれ一パックずつ買い、近くで立ったまま食べ始める。
『……阿強』
三成が口を開いた。
『その食べ物は、いささか油が多すぎるのではないか』
「うるさいな。腹減ってるんだよ」
『それに、そもそもタコというものは――』
「うるさいって!」
一方、福島の反応は正反対だった。
『うおおお! 何だ、この匂いは! たまらねえな!』
阿忠のそばで、大騒ぎしている。
『俺にも食わせろ!』
「無理だろ。身体がないんだから」
『わかってる! わかってるから余計につらいんだよ!』
阿忠はたこ焼きを一つつまみ、軽く息を吹きかけてから口に放り込んだ。
「あっつ!」
思った以上に熱かったらしく、慌てて口を開け、何度も息を吐いた。
それでも、外側は香ばしく、中はとろりとしている。ソースの甘辛さとタコの歯ごたえが、空腹の身体に染み渡った。
『……なあ、阿忠』
福島が、妙に切実な声で言った。
「何?」
『どんな味だ?』
「熱い」
『それだけかよ!』
「外はちょっとカリッとしてて、中はとろとろ。タコも入ってるし、ソースとかつお節の味がする」
『……おお』
福島が唸った。
『……なあ、もっと詳しく教えてくれ』
「嫌だ」
『何でだよ!』
「聞けば聞くほど食べたくなるだろ」
福島は少し考えた。
『……それもそうだな』
珍しく、素直に納得した。
◇
それから、二人は道に迷った。
歌舞伎町には細い路地が多い。どこも人通りが多く、ネオンが眩しい。似たような看板が並び、少し歩いただけで自分たちがどちらを向いているのかわからなくなってしまう。
阿強はスマートフォンを取り出し、地図を何度も回してみた。
だが、新宿ゴールデン街への道がどうにも見つからない。
「……阿忠」
「何?」
「ゴールデン街が見つからない」
「地図は?」
「この近くだって出てるんだけど、どの路地から入るのかわからないんだよ」
二人は細い路地の入口に立ち、奥を覗き込んだ。それから隣の路地を見たが、どちらも似たような景色だった。
そのとき、福島が声を上げた。
『おい、俺に任せろ!』
阿強は眉をひそめた。
「……どうやって? お前、身体がないだろ」
『ちょっと身体を貸してもらえば済む話だ』
「……は?」
『俺は戦場で何十年も道を探してきたんだぞ。こんな小路くらい、どうってことねえ!』
阿忠は少し考えた。
「……わかった。じゃあ、頼む」
『よし、任せとけ!』
次の瞬間、阿忠の身体がぴんと伸びた。
肩の力の入り方が変わり、立ち姿にもどこか武将めいた気配が漂い始める。
福島正則が、阿忠の身体を借りたのである。
阿忠の目が左右へ動き、迷いなく一本の路地へ足を踏み入れた。
一歩。
二歩。
三歩。
そこで突然立ち止まった。
「……いるな」
阿強が顔を上げる。
「……何が?」
「水の気配だ」
阿忠の口から、福島の声が響いた。
「俺は長年、戦場でいろんなものを見てきたんだ。こういう人間じゃねえ気配には敏感なんだよ。この近くに、水に縁の深い奴がいるぞ」
「……水?」
福島は答えず、さらに狭い路地へ入っていった。
そこにはゴミ箱がいくつか並び、空き瓶を詰めた段ボール箱が積み上げられていた。
そして、その陰に何かがいた。
小さな緑色の身体に、背中には甲羅。頭の上には、水が少しだけ残った皿。
河童だった。
河童はゴミ箱の脇で膝を抱え、ぼんやりと地面を眺めていた。
「……いた!」
福島は迷いなく近づくと、河童の襟首をひょいとつかみ上げた。
「おい、お前!」
「ひゃっ!?」
河童の両足が宙に浮いた。
「須佐之男命を見なかったか! どこにいる!」
河童は足をばたつかせた。
「み、見た! 見たから放してくれ!」
「先に場所を言え!」
「ゴールデン街! ゴールデン街の中だよ!」
「どの店だ!」
「看板が壊れてる店! それ以上は知らない! だから放せって!」
福島はようやく河童を地面へ下ろした。
河童は服についた埃を払い、頭の皿を整えると、何度か大きく息をついた。
それから半歩下がり、阿強を見た。
「……あの神様を探してるんだろ?」
「そうだけど」
「だったら、気をつけたほうがいいぞ」
「……どうして?」
河童は声を潜めた。
「今日、あの人は相当飲んでる。それなのに、どこかのチンピラどもが絡んでたんだ」
「……チンピラ?」
「ああ。俺は遠くから見ただけで逃げてきた」
阿強は眉をひそめた。
「……でも、どうして神様だってわかったんだ?」
河童は阿強を見上げた。今度は、ひどく真面目な顔だった。
「……飲み方だよ」
「……飲み方?」
「普通の人間なら、あれだけ飲んだらとっくに倒れてる。ところが、あの人は違うんだ」
河童は路地の向こうをちらりと見た。
「飲めば飲むほど酔いが醒めていくんだ。しかも、目だけはどんどん澄んで、鋭くなっていく。あんな飲み方をする奴なんて、そうそういない」
「…………」
「俺は何百年もゴールデン街をうろついてるが、ああいう飲み方ができるのは、一つしか知らねえ」
河童はゆっくりと告げた。
「……神様だよ」
阿強は黙った。
河童はさらに続けた。
「それに、あのチンピラどもも……」
そこで、困ったように首を振る。
「あいつら、自分たちが何に喧嘩を売ってるのか、まるでわかってない」
それだけ言うと、河童は身を翻して路地の奥へ駆けていった。
阿強は、逃げていく緑色の背中を見送った。
しばらくして、阿忠の身体から福島の気配が離れた。
「……ん?」
阿忠は自分の手を見下ろした。
「……阿強」
「何?」
「俺、今、何かつかんでなかった?」
「河童」
「……ああ」
阿忠は少し考えた。
「……チンピラが須佐之男命に絡んでるんだよな」
「そうらしい」
「で、あいつら、自分が何をしてるのかわかってない、と」
そのとき、三成がひどく静かな声で呟いた。
『……そいつら、もう命が惜しくないと見えるな』
阿強は何も言わなかった。
◇
新宿ゴールデン街。
細い路地に、小さな酒場がひしめき合っている。
一軒に五人から十人ほどしか入れないような店が肩を寄せ合うように並び、古びた木材の匂いや暖かな灯り、壁に貼られた色褪せた看板が、まるで昭和の一角だけを今に残しているかのようだった。
阿忠と阿強はその路地を歩きながら、看板の壊れた店を探した。
しかし、古い看板も、どこか傷んだ看板も珍しくない。
二人はしばらく歩き回り、ようやく一軒の店の前で足を止めた。
理由は、看板ではなかった。
中から聞こえてくる声だった。
「……おい、聞いてんのかよ!」
男の怒鳴り声。
いかにも自分が強いと思い込んでいるような、妙に大げさな声だった。しかし、その威勢のよさとは裏腹に、どこか自信のなさも滲んでいる。
しばらく沈黙が続いた。
「……てめえ、なめてんのか!」
また怒鳴り声。
そして、また沈黙。
阿忠と阿強は顔を見合わせ、そっと店内を覗き込んだ。
狭い店だった。
カウンターの端に、一人の男が座っている。
入口に背を向け、目の前にグラスを置き、静かに酒を飲んでいた。
その周囲を、六人のチンピラが取り囲んでいる。
一人が何かを怒鳴り、別の一人がカウンターを叩く。さらにもう一人が男の肩へ手を伸ばそうとしていた。
だが、男は振り返らなかった。ただ、酒を飲み続けている。
「……阿強」
阿忠の声が、わずかに震えた。
「……見えてる」
「あの背中……」
「……わかってる。俺も同じこと考えてる」
阿強は息を呑んだ。
男の背中から、奇妙な圧迫感が漂っていた。
身体が大きいわけでも、派手な服装をしているわけでもない。ただ座っているだけなのに、周囲の空気がその男を中心に動いているような気がした。
『……阿強』
三成が低い声で呼びかけた。
『あの男、尋常な存在ではないぞ。霊気が桁違いだ』
『……ああ』
福島も声を潜めた。
『俺は五十を超える戦をくぐってきたが、あんな気配は見たことがねえ』
その直後だった。
六人のうち、一人がとうとう我慢できなくなったらしい。
「ふざけんなよ、てめえ!」
拳を振り上げ、男へ殴りかかった。
男は静かにグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
そして振り返った、その瞬間――。
最初のチンピラが倒れた。
男は相手の方へ顔を向けることさえしなかった。ただ、手首がわずかに動いたように見えた。
それだけだった。
次の瞬間には、チンピラの顔が床に押しつけられていたのである。本人も、何が起きたのかわかっていないようだった。
『……見えなかった』
三成が呟いた。
「……え?」
『今の最初の動きだ。何をしたのか、私には見えなかった』
阿強は思わず耳を疑った。
『……何十年も兵法を学び、戦場を見てきた私にも、あの一手が見切れなかったのだ』
その間に、二人目が横から飛びかかった。
男は残っていた酒を一口飲み、グラスを置く。
そして身体をほんの少し横へずらした。
次の瞬間、二人目も床に倒れていた。
動きは小さい。
結果だけが、あまりにも大きかった。
三人目は一瞬ためらったが、仲間が倒されたことに腹を立てたのか、勢いをつけて突っ込んでいく。
男の腕が動いた。
一度。
そして、もう一度。
三人目の身体は勢いよくカウンターにぶつかり、大きな音を立てて床へ転がった。
衝撃で、カウンターの上のグラスがぐらりと揺れた。
倒れそうになる。
男は何事もなかったかのように手を伸ばし、グラスを元の位置へ戻した。
そして、また酒を飲んだ。
四人目はその様子を見て、一歩後ずさった。
五人目は、何も言わずに逃げ出した。
六人目も慌てて後を追う。
ところが、出口で派手に肩をぶつけた。
がたんっ!
入口の上に掛かっていた傷んだ看板が外れ、地面へ落ちた。
看板は一度転がり、路地の真ん中で止まった。
六人目は振り返らず、そのまま走って逃げていった。
四人目もすっかり戦意を失っていた。倒れた仲間たちを見て、男と目を合わせないようにしながら、壁伝いにじりじりと出口へ向かい、最後は逃げるように店を出ていった。
近くの別の酒場では、店主が窓から顔を出していた。
騒ぎを一瞥すると小さくため息をつき、何も言わずにカーテンを閉めて、再びグラスを磨き始めた。
阿強も阿忠も、口を開けたまま呆然としていた。三成も福島も、さすがに言葉を失っている。
しばらくして、阿強がようやく我に返った。
阿忠の方を向く。
「……龍が如く」
阿忠がゆっくり頷いた。
「……うん。完全にあの戦い方だった」
「春日一番なら『勇者』のジョブがあるけどさ……」
阿強はもう一度、男を見た。
「……これは、そういうんじゃないな」
「……じゃあ、何なんだよ」
阿強は少し考え、それから静かに答えた。
「……神だよ」
男はそれ以上誰も追おうとせず、軽く手を払ってカウンター席へ戻った。
グラスを手に取り、何事もなかったかのように酒を飲み始める。
表情は、最初から最後までほとんど変わっていない。
そして、ふと横を向いた。
阿忠と阿強を見る。
「……お前ら」
低く、気負いのない声だった。
「そんなところに突っ立って、何してんだ」
二人は思わず背筋を伸ばした。
男は顎で空いた席を示した。
「飲むなら入ってこいよ」
阿忠と阿強は顔を見合わせた。
それから恐る恐る店の中へ足を踏み入れ、カウンターの空いている席に腰を下ろした。
男は二人にそれ以上構わず、静かに酒を飲み続けている。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
やがて――。
阿忠と阿強が、ほとんど同時に声をかけた。
「……桐生さん」
「……四代目」
男が、ゆっくりと振り返った。
何のことを言われているのか、まるでわかっていないようだった。
ただ、その眼差しだけは妙に鋭く、それでいて静かだった。
二人が口にした、まるで場違いなはずの呼び名。
それが不思議なほど、この男には似合っていた。
**第十二話 終**




