第十三話 若頭、天然理心流、そして電池切れのスマホ
須佐之男命は阿忠と阿強を見比べると、手にしていたグラスをカウンターに置いた。
「……桐生さん?」
先ほど阿忠が口にした呼び名を繰り返し、妙な顔をする。
「どこの店のホストだ? そんなにいい男なのか? 悪いが、俺はホストクラブには行かねえぞ」
阿忠と阿強は顔を見合わせた。
「いや、そうじゃなくて……」
阿強が説明しかけたところで、須佐之男命がもう一つの呼び名を思い出した。
「……四代目、だったか」
グラスを持ち上げ、ウイスキーを一口飲む。
「高天原一家の話か?」
「……え?」
「だったら違うな。うちの総長は今も姉貴だ。あいつは初代からずっと総長をやってる。俺のことなら、若頭と呼べ」
阿強は、言いかけた言葉をそのまま飲み込んだ。
高天原一家。総長。若頭。
日本神話の神々が、いつの間にか妙な組織になってしまった。
しかし、目の前の男は至って真面目だった。
「……わかりました、若頭」
須佐之男命は満足そうに頷いた。
「で、お前らはわざわざ俺を探しに来たのか?」
「はい」
阿忠が答える。
「実は、お願いしたいことが――」
「その前に三杯だ」
「……はい?」
「話は三杯飲んでからにしろ」
須佐之男命はカウンターの奥からグラスを二つ取り出すと、ウイスキーをなみなみと注ぎ、二人の前へ差し出した。
阿忠と阿強は揃ってグラスを見下ろした。
琥珀色の液体から、芳醇な香りが立ち上っている。
二人は顔を見合わせた。
……福沢諭吉の匂いがする。
しかも、一人や二人ではなさそうだった。
「……これ、高いやつじゃないですか?」
阿強が恐る恐る尋ねた。
「さあな。うまけりゃ何でもいいだろ」
須佐之男命はあっさり答えると、二人の肩越しに目を向けた。
誰もいないはずの空間に向かって、顎をしゃくる。
「おい、そっちの二人も遠慮するな。もうすぐ約束してる奴も来るんだ。一緒に飲もうぜ」
三成が阿強の意識の中で、ぴたりと黙った。
『……阿強』
「……何?」
『この御方には、私の姿が見えておるのか?』
福島も驚いていた。
『おいおい、俺のことも見えてんのかよ』
須佐之男命は鼻で笑った。
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ?」
◇
三成と福島は、しばらく互いの気配を探るように沈黙した。
生前なら、顔を見合わせていたところだろう。
やがて三成が、阿強の意識の奥から声をかけた。
『……少し、身体を借りるぞ』
「……え、今?」
『酒を勧められて断るのも、無礼というものだ』
「……さっきまで競馬のことで怒ってたくせに」
『あれとこれとは話が違う』
阿強が返事をする前に、身体の感覚がふっと遠のいた。
同じ頃、福島も阿忠へ声をかけていた。
『おい、阿忠。ちょっと身体を借りるぜ』
「……また?」
『酒だぞ、酒! それも、とんでもなくうまそうな酒だ!』
「……ほどほどにしてくださいよ」
『わかってる、わかってる!』
もちろん、福島の「わかってる」ほど信用できない言葉もなかった。
二人の身体が、ほぼ同時に背筋を伸ばした。
阿強の表情には三成特有の生真面目さが現れ、阿忠の顔には福島らしい豪快な笑みが浮かぶ。
二人の武将は、それぞれ借りた身体の手を伸ばし、目の前のグラスを取った。
そして、一口。
しばらく、誰も口を開かなかった。
酒が舌に触れた瞬間、言葉にできない幸福感が全身へ広がったのである。
ただうまい、というだけではない。
自分でも気づかないうちに、ずっと待ち望んでいた何かに、ようやく出会えたような感覚だった。
「……認めよう」
三成が阿強の口を借りて呟いた。
「この酒は、確かに……」
「……うめえ」
福島は阿忠の口で、それだけ言った。
いつもなら大声で騒ぐ男が、珍しく静かだった。
須佐之男命は二人の顔を見て、満足そうに頷いた。
「だろ?」
そして、空になったグラスに二杯目を注いだ。
今度は、どんな酒なのかわかっている。
それでも、口に含んだ瞬間の味わいは期待を超えていた。香りが鼻へ抜け、喉を通る余韻がいつまでも残る。
三成は思わず目を閉じた。
福島も目を閉じている。
二人とも、もはや自分が他人の身体を借りていることなど忘れているようだった。
須佐之男命は、そんな二人を眺めながら三杯目を注いだ。
三成も福島も、今度は何も言わずに飲み干した。
「……見事な酒だ」
「……ああ。こりゃ生きてるうちに飲みたかったぜ」
二人の声には、心からの満足が滲んでいた。
ところが、その幸福な時間は長く続かなかった。
『……では、身体を返すぞ』
三成の気配が、阿強の意識の奥へ引いていく。
福島も名残惜しそうに阿忠の身体から離れた。
ようやく身体の主導権を取り戻した阿強は、目の前の空になったグラスを見下ろした。
「……あれ?」
阿忠も自分の口元を押さえている。
「……何か、もう酒が回ってない?」
「……俺もそう思う」
そのとき、須佐之男命が二人のグラスに新しくウイスキーを注いだ。
「よし。次はお前らだな」
阿強が顔を上げた。
「……ちょっと待ってください」
「何だ?」
「もう三杯飲んだじゃないですか!」
須佐之男命は、不思議そうな顔をした。
「飲んだのは、さっきの二人だろ?」
「……身体は俺のなんですけど!?」
「細かいことを気にするな。お前らはまだ一杯も飲んでないだろ」
「細かくないですよ!」
須佐之男命は笑って、グラスを二人の前へ押し出した。
「ほら、飲め」
阿強はグラスを見た。それから阿忠を見ると、阿忠もまったく同じ顔をしていた。
「……若頭、俺たち、もう結構……」
「飲め」
「いや、だから――」
「飲め」
結局、二人は一杯目を飲んだ。
先ほど三成と福島が飲んだ酒と同じ、見事なウイスキーだった。
しかし、すでに三杯分の酒が身体に入っている二人には、味を楽しむ余裕などほとんどなかった。
須佐之男命は容赦なく二杯目を注いだ。
「……まだですか?」
「三杯と言っただろ」
「……そうですけど」
そして三杯目。
阿強はグラスを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……阿忠」
「……何?」
「……俺、もう駄目かもしれない」
「……俺も」
「ほら、最後だ」
須佐之男命は楽しそうだった。
二人は観念して、最後の一杯を飲み干した。
これで、三成が阿強の身体を借りて三杯。
阿強本人が三杯。
福島が阿忠の身体を借りて三杯。
阿忠本人が三杯。
つまり、二人の身体には、それぞれ六杯分のウイスキーが入ったことになる。
しかも、先に三杯飲んだ武将たちは、すでに身体から離れている。
酒の味を存分に楽しんだのは、三成と福島。
その後始末を引き受けるのは、阿忠と阿強だった。
「……阿強」
阿忠が口を開いた。声が少し頼りない。
「……何だよ」
阿強の声も、妙にふわふわしていた。
「俺、今……」
「……わかってる」
「……まだ何も言ってない」
「言わなくてもわかる」
二人はそれきり黙った。言葉にしてしまうと、何か重大な事実を認めることになりそうだった。
その頃、三成は阿強の意識の中で、長いこと考え込んでいた。
『……私は……』
「……何だよ」
『長年、兵站と物資の配分について考えてきたが……』
阿強は目を閉じた。
『今回の、この酒の配分については……』
「……三成」
『……何だ』
「今、喋らないで。余計に酔いが回る」
『……しかし、私にも異論がある』
「わかった。異論があるのはわかったから、俺が酔いを醒ましてからにしてくれ」
三成は不服そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
一方、福島はまだ酒の余韻に浸っていた。
『……あの酒は、何だったんだろうな』
阿忠が額を押さえる。
「……そんなにうまかったんですか?」
『関ヶ原の後にも酒は飲んだ。太閤殿下から賜った酒だって飲んだことがある。だが、あれは……』
「……あれは?」
福島はしばらく考えた。
『……言葉にできねえ』
「……何で?」
『言葉にしたら、普通の酒になっちまいそうなんだよ』
阿忠は答えなかった。
今はもう、何も考えたくなかった。
◇
そのとき、店の扉が開いた。
決して大きな音ではなかった。それなのに、その瞬間、店内の空気がわずかに変わったような気がした。
入ってきたのは、一人の男だった。
背が高く、がっしりとした体格で、足取りには少しの迷いもない。どこか生身の人間とは異なる気配をまとっていたが、それ以上に印象的だったのは、その眼差しだった。
怒りでも、殺気でもない。
もっと静かで、もっと強いものだ。
まるで胸の奥で、消えることのない火が燃え続けているようだった。
男はカウンターの須佐之男命を見つけると、軽く頭を下げた。
「お待たせしました」
「調布からじゃ遠いだろ。もう遅いぞ」
須佐之男命が答える。
「途中で少々用事がありまして」
男は落ち着いた声で言った。
「片づけてまいりました」
「そうか。まあ、座れよ」
男はカウンターへ近づいたが、席に着く前に阿忠と阿強へ目を向けた。
そして、その傍らへ視線を移す。
阿強の意識に寄り添っていた三成。
阿忠のそばで酒の余韻に浸っていた福島。
男には、その二人の姿が見えていた。
一瞬、目の色が変わる。
男はその場で姿勢を正し、深く頭を下げた。
「近藤勇と申します。武蔵国多摩郡上石原村の出にございます」
そして、二人の武将へ向かって、改めて礼をした。
「石田治部少輔殿。福島左衛門大夫殿。お名前は、かねがね伺っております」
三成も福島も、すぐには答えなかった。
これまでの旅で、二人は厄介者扱いされ、幕府方の武将から追われ、豊臣の残党と呼ばれてきた。
それが今、目の前にいる幕末の武士は、何のためらいもなく二人へ頭を下げている。
『……近藤殿』
三成が、珍しく少し揺れる声で応じた。
『ご丁寧に痛み入る。石田治部少輔三成、身に余るご挨拶、かたじけない』
福島は豪快に笑った。
『おう! 幕末にも大した武士がいたもんだな! 近藤殿、そう堅苦しくするな!』
近藤は顔を上げ、ようやく笑みを浮かべた。
「恐れ入ります」
それから阿忠と阿強を見た。
「ところで、こちらのお二方は?」
「台湾から来た乩童だ」
須佐之男命が答えた。
「俺に用があって来たらしい。詳しい話は本人たちに聞いてくれ」
近藤は頷き、カウンター席に腰を下ろした。
須佐之男命が差し出したウイスキーを受け取り、一口飲む。そのまま、静かに話を聞く姿勢になった。
『……阿強』
三成が囁いた。
「……何?」
『あの近藤という男……感じるか?』
「……何を?」
『あの者から漂ってくるものだ。殺気ではない。もっと別の……』
「……別の?」
三成は少し考えた。
『……志だ』
阿強は近藤を見た。
『ひどく純粋な志を感じる。何か一つのものに生涯を懸けた人間だけが持つ、あの気配だ。久しく感じておらなんだ』
福島も静かに頷いた。
『……ああ。あいつ、生きてた頃は、さぞ熱い男だったんだろうな』
須佐之男命はその言葉を聞くと、わずかに口元を動かした。
「だから、こいつとは酒が飲めるんだよ」
◇
阿忠は小さく咳払いをした。
六杯分のウイスキーが身体に入っている今、咳払い一つにも少々気合いが必要だった。
「……あの、若頭」
「何だ?」
「そろそろ、本題に入ってもいいですか?」
「おう、聞こう」
須佐之男命がグラスを傾ける。
阿忠は一度深呼吸した。
「俺の主神は、趙公明元帥といいます」
「……ほう」
「実は、元帥がパスポートの期限切れと不法入国未遂で、霊界入国管理局に拘束されているんです」
須佐之男命の手が止まった。
阿忠は続けた。
「それで、久那斗神から言われたんです。あなたを見つけて高天原へ連れ戻し、ちゃんと仕事に復帰してもらえれば、元帥を釈放するって」
須佐之男命はしばらく黙っていた。
それから、手にしたグラスをゆっくり回した。
「……何だ、そんなことか」
「……そんなこと?」
阿強が思わず聞き返した。
「俺はちょっと遊びに出てきただけだぞ。何も、こんな大げさに人を寄こさなくたっていいだろ」
「……若頭」
「何だ?」
「数百年も帰ってないんですよね?」
「そうだな」
「……それは、ちょっと遊びに出たとは言わないと思います」
須佐之男命は肩をすくめた。
「俺にとっちゃ、ちょっとだよ」
阿強は返す言葉を失った。
「高天原の会議なんて、退屈でしょうがねえんだ。知ってるか?」
もちろん、二人は知らなかった。
「毎回、姉貴が喋るんだよ。同じような話を延々とな。みんな頷いて、会議が終わって、次に集まったときもまた同じ話だ」
須佐之男命はうんざりしたように手を振った。
「たまには休んだっていいだろ? 俺が一回サボったくらいで、何でこんな大騒ぎになるんだか」
阿強は頭を抱えそうになった。
数百年の無断欠勤を、「一回サボった」で済ませる神様が、目の前にいる。
「……じゃあ、せめて連絡くらい入れられなかったんですか?」
「連絡?」
「自分がどこにいるか、知らせるだけでもいいじゃないですか」
須佐之男命は不思議そうに眉を上げた。
「用があるなら、俺のスマホに電話すりゃいいだろ」
そう言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を覗き込み、指で触れる。
もう一度触れる。
それから、スマートフォンを二人へ見せた。
画面は真っ暗だった。
うんともすんとも言わない。
阿強はしばらく、その黒い画面を見つめた。
「……若頭」
「何だ?」
「最後に充電したの、いつですか?」
須佐之男命は考えた。
少し考えた。
さらに考えた。
「……さあな」
「…………」
「ずいぶん前だった気がする」
阿強は無言でリュックを開けた。
中からモバイルバッテリーとケーブルを取り出し、須佐之男命のスマートフォンへつなぐ。
しばらくして、画面が明るくなった。
「……お」
須佐之男命が感心したように声を上げた。
「やるじゃねえか」
阿強が何か答えようとした、そのときだった。
ピコン。
通知が一件。
続いて、もう一件。
ピコン、ピコン。
さらに三件、四件。
そして――。
ピコンピコンピコンピコンピコンピコン!
通知音が、機関銃のように鳴り始めた。
画面にはメッセージが次々と現れ、消えるより先に新しい通知が押し寄せてくる。
何百年分もの連絡が、一度に届いているかのようだった。
「……若頭」
阿強が声をかけた。
「……何だ?」
「これ、相当まずいんじゃ……」
答えが返ってくる前に、着信音が鳴り響いた。
須佐之男命は画面を見た。
それまで余裕たっぷりだった顔が、何とも言えない表情になった。
「……ああ」
阿強は恐る恐る尋ねた。
「……誰ですか?」
「……姉貴」
須佐之男命は小さく息を吐き、電話に出た。
「……もしもし」
次の瞬間。
『――――――――!!』
店内の空気が震えた。
いや、正確には、電話の向こうから響いてきた声が凄まじかったのである。
女性の声だった。
しかも、ただ怒っているという程度ではない。
何百年もの間、行き場を失っていた怒りが、ついに持ち主を見つけたかのような声だった。
須佐之男命は反射的にスマートフォンを耳から離した。
スピーカー通話にはしていない。それなのに、阿忠と阿強にも、近藤にも、三成にも福島にも、その怒声ははっきり聞こえていた。
近くの酒場では、店主たちがカーテンの隙間から外を覗き始めた。
先ほどの喧嘩騒ぎではない。今度は、どこからともなく響いてくる女性の怒声の出所を探しているのである。
須佐之男命は少し困ったような顔をした。
「……姉貴、そこまで怒ることねえだろ」
『――――――!』
「いや、だから、充電を忘れてただけだって」
『――――――――!!』
「わかった、わかった。飲み終わったら帰るから……」
電話の向こうの声が、さらに大きくなった。
須佐之男命は眉をしかめた。
「それに、天叢雲剣だって渡したじゃねえか。少しくらい休みをくれたっていいだろ……」
『――――――――――!!』
須佐之男命は諦めたように息を吐いた。
スマートフォンを耳へ戻し、黙って話を聞き始めた。
阿忠と阿強は、隣でじっとしていた。
誰かが怒られているところを間近で見るときの、あの何とも言えない気まずさだった。
気の毒だとは思う。
しかし、自分が怒られているのでなくて本当によかった、とも思う。
そんな沈黙だった。
『……阿強』
三成が、消え入りそうな声で囁いた。
「……何?」
『今の声は……』
「……うん?」
『……天照大神、であろうな』
「……たぶん」
三成はしばらく黙った。
『……私は、この件について一切意見を述べぬことにする』
「……賢明だな」
阿強は即座に答えた。
『……俺もだ』
福島の声まで小さくなっていた。
『俺も何も言わねえ』
その隣では、近藤勇が静かにウイスキーを飲んでいた。
姿勢は崩れず、表情も変わらない。
こういうときに余計なことを口にしないのが、最も賢明だと知っている人間の沈黙だった。
電話は、いつまでも終わらなかった。
須佐之男命は時折相槌を打ち、言い訳をしようとしては、再び黙らされていた。
やがて、阿強のモバイルバッテリーの表示が変わった。
残量が減っていく。
さらに減る。
そして、とうとう――。
**0%。**
同時に、スマートフォンの画面が暗くなった。
電話が切れた。
店内に、ようやく静寂が戻った。
須佐之男命はスマートフォンをしばらく見つめ、それから何事もなかったかのようにカウンターへ置いた。
モバイルバッテリーを外し、阿強へ差し出す。
「ありがとな」
声は、実に穏やかだった。
阿強は受け取った。
残量表示を見る。
**0%。**
もう一度見る。
やはり、**0%。**
深く息を吸った。
「……どういたしまして」
「悪かったな。うちの姉貴、ちょっと話が長くてさ」
「……お姉さんですからね」
「そうなんだよ」
須佐之男命は頷いた。
「姉貴は話が長えんだ」
そう言うと、再びグラスを手に取り、何事もなかったかのように酒を飲み始めた。
阿強は空になったモバイルバッテリーを見つめたまま、しばらく動けなかった。
◇
そのとき、近藤勇が静かにグラスを置いた。
視線の先には、阿忠の傍らにいる福島正則の霊体があった。
「福島左衛門大夫殿」
「……おう、何だ?」
「近藤から、一つ不躾なお願いがございます」
その声は、あくまで礼儀正しかった。
福島は興味深そうに近藤を見た。
「言ってみな」
近藤は姿勢を正した。
「福島殿は豊臣家に仕えられた御方。対して近藤は、徳川幕府に忠節を尽くしてまいりました」
「……ほう?」
「立場を異にする武士として、一度、手合わせを願いたく存じます」
三成が阿強の意識の中で、ぴたりと黙った。
『……阿強』
「……何?」
『あの男、口では立場の違いを申しておるが……』
「……うん」
『目が違う』
阿強も近藤を見た。
確かに、その眼差しは政治的な敵対関係を語る者の目ではなかった。
目の前にいるのは、天然理心流を極めた剣客。
そして、その視線の先にいるのは、賤ヶ岳七本槍の筆頭として名を馳せた武将だった。
数百年もの時を隔てて、決して出会うはずのなかった二人。近藤の目に宿っているのは敵意ではなく、腕の立つ相手と出会った武人がどうしても抑えられない、純粋な高揚だった。
福島も、それを見抜いたらしい。
しばらく近藤を見つめたあと、突然笑い出した。
『はっはっは! 何が豊臣だ、徳川だ! そんなもんはいいから、素直に俺と一戦やりてえって言えよ!』
近藤は、少しだけ笑った。
福島はさらに声を上げた。
『いいぜ! 俺だって長いこと身体を動かしてねえんだ! 久しぶりに腕が鳴るってもんよ!』
そう言うと、阿忠へ顔を向けた。
『おい、阿忠。ちょっと身体を借りるぞ』
阿忠は目を見開いた。
「……また!?」
『ああ、ちょっとだけだ』
「だから、毎回勝手に決めないでくださいよ!」
『今回はちゃんと聞いただろ?』
「聞いただけですよね!?」
『じゃあ、いいか?』
「よくないです!」
『ありがとな! 借りるぜ!』
「まだ同意してないって!!」
だが、時すでに遅し。
阿忠の身体から、酔いでふらついていた気配が消えた。
代わりに肩がぐっと上がり、背筋が伸びる。
福島正則が、またしても身体を借りてしまったのだった。
その様子を見ていた近藤勇は、今度は阿強へ向き直った。
「それでは、私も少々お身体をお借りいたします」
深々と頭を下げる。
阿強は思わず身構えた。
「……え?」
「失礼いたします」
「ちょっと待って、俺まだ――」
「誠にありがとうございます」
「まだ何も言ってないんですけど!?」
近藤は穏やかな顔で答えた。
「お伺いしても、お断りになるでしょうから」
「……それはそうですけど!」
阿強は思わず叫んだ。
「わかってるなら、何で聞くんですか!」
「礼儀です」
「……礼儀って何だよ!」
近藤は真面目な顔のまま、軽く頭を下げた。
「ごもっともです」
「納得してる場合じゃ――!」
そこで、阿強の声が途切れた。
三成の霊体が阿強の意識から離れ、すっと傍らへ姿を現したのである。
続いて、近藤勇の霊体が阿強の身体へと入り込んだ。
阿強の背筋が伸び、足の置き方が変わり、視線が鋭くなる。
さっきまで酒に酔っていた二人の台湾の若者が、まるで別人のような立ち姿になっていた。
もっとも、身体の中に酒が六杯分入っている事実まで消えたわけではなかった。
近藤は阿強の身体を使い、ゆっくりと立ち上がった。
その向かいで、福島も阿忠の身体を借りて立ち上がる。
「福島殿」
近藤が静かに告げた。
「参りましょう」
「おう! 待ってたぜ!」
二人は揃って店を出て、ゴールデン街の路地へ向かった。
それを見送る三成には、もちろん身体がない。ただ、傍らに立って眺めているだけだった。
しばらく沈黙したあと、三成はぽつりと呟いた。
『……何だか、急に思えてきた』
須佐之男命が顔を上げる。
「……何がだ?」
『……身体がないというのも、案外悪くないものだな』
須佐之男命は一瞬、三成を見つめた。
そして、笑った。
いつもの不敵な笑みではなかった。心底おかしそうに、思わず笑みがこぼれたような顔だった。
この夜、二人の前で初めて見せた、本当に楽しそうな笑顔だった。
◇
ゴールデン街の路地。
二人の台湾の若者が、向かい合って立っていた。
一方の身体には、賤ヶ岳七本槍の筆頭、福島正則。
もう一方の身体には、天然理心流の剣客、新選組局長・近藤勇。
二人は互いの間合いを測るように足を運び、それぞれ静かに構えを取った。
その様子を、近くの酒場の店主が窓から眺めていた。
しばらく見つめる。
小さくため息をつく。
そして、何も言わずにカーテンを閉めた。
再びカウンターへ戻り、グラスを磨き始める。
こんな騒ぎは、ゴールデン街では今夜が初めてというわけでもなかった。
**第十三話 終**




