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第十四話 天然理心流対賤ヶ岳七本槍、八岐大蛇の尾、そして第二巻

ゴールデン街の細い路地で、二人の台湾人青年が向かい合っていた。


もっとも、その身体を動かしているのは本人たちではない。


阿強の身体には、新選組局長・近藤勇。


阿忠の身体には、賤ヶ岳七本槍の一人、福島正則。


二人はそれぞれ足の位置を確かめ、静かに構えを取った。


先に動いたのは近藤だった。


半歩だけ間合いを詰め、素早く手を伸ばす。あくまで相手の出方を見るための一撃だったが、その動きは無駄がなく、正確だった。


手に刀はない。それでも、腕の運びや踏み込みには、剣を振るう者特有の軌道が残っていた。


福島は身体をわずかに開いて受け止め、そのまま横へ押し流した。


互いに一歩退く。


二人は目を合わせたまま、しばらく動かなかった。


最初の一撃で、相手がどれほどの使い手なのかを理解したのだろう。


「……なかなかやるじゃねえか」


福島が口元を緩めた。


近藤は答えなかったが、その眼差しがわずかに変わった。


次に動いたのは福島だった。


先ほどとは比べものにならない踏み込みで、一気に距離を詰める。試しの一撃ではない。今度は、まともに当たればただでは済まないほどの勢いだった。


近藤は正面から受けず、身体を横へさばいた。すれ違いざま、返す腕で福島の肩を打つ。


福島は勢いのまま二歩進み、足を踏ん張って止まった。


振り返った顔には、笑みが浮かんでいた。


「いいぞ! なかなかの腕前じゃねえか!」


近藤の表情は変わらない。だが、目の奥で燃えていたものが、いっそう強くなったように見えた。


三度目は、ほとんど同時だった。


どちらかが仕掛け、もう一方が受けるのではない。


二人は同じ瞬間に踏み込み、路地の中央で激しくぶつかった。


乾いた衝撃音が建物の間に響く。


近くの小さな酒場では、店主が窓の隙間から外を覗き、何も言わずにカーテンをきっちり閉めた。


近藤と福島は、それぞれ半歩ずつ退いた。


福島は自分の手を見下ろし、何度か握り直してから、満足そうに頷いた。


「ほう、これが天然理心流か! やるじゃねえか!」


「さすがは賤ヶ岳七本槍の筆頭。噂に違わぬ腕前、お見事です」


近藤が初めて口を開いた。


その声は落ち着いていたが、言葉の奥には確かな敬意があった。


時代を隔て、出会うはずのなかった二人の武人が、こうして互いの力量を確かめている。


二人にとって、それだけで十分に胸の躍ることだった。


四度目は近藤から仕掛けた。


一撃、二撃。


福島が続けざまに受ける。


しかし、さらに踏み込んで放たれた三撃目までは捌ききれなかった。


胸を打たれ、三歩後退する。その背中が路地の壁にぶつかった。


福島は壁に身体を預け、俯いたまま笑った。


「……いい」


顔を上げる。


「いいぞ! こうでなくちゃ面白くねえ!」


次の瞬間、壁を蹴るようにして飛び出した。


五度目の交錯は、それまでよりも激しかった。


二人の足音が狭い路地に響き、互いの腕がぶつかるたび、鈍い音が返ってくる。


やがて、ある瞬間が訪れた。


どちらかが勝ったわけではない。


ただ、これ以上は踏み込まなくてもいいと、二人とも理解したのだろう。


近藤と福島は、申し合わせたかのように動きを止めた。


しばらく見つめ合う。


先に笑ったのは福島だった。


「はっはっは! いやあ、久しぶりに面白かったぜ!」


心底楽しそうな笑い声だった。


近藤も口元を緩めた。声こそ立てなかったが、抑えきれない喜びが表情に滲んでいる。


近藤と福島は互いに軽く一礼すると、それぞれ借りていた身体から静かに抜け出した。


そして――。


「…………っ!」


阿忠と阿強は、同時に顔をしかめた。


全身が痛かった。


肩、背中、腕、腹、脚。


どこか一か所ではない。身体じゅうの筋肉が、揃って悲鳴を上げているようだった。


先ほどまでの酒も、当然ながら身体から消えたわけではない。


「……おい」


阿忠は震える手を持ち上げた。


「自分の身体じゃないからって、好き放題使っていいと思ってんのか……?」


「ほんと、それ……」


阿強も壁に手をつきながら答えた。


「せめて、ちゃんと許可を取ってからにしてくれよ……」


ところが、当の二人の霊体は、少しも反省していなかった。


『次はもう少し長くやろうぜ。まだ打ち足りねえ』


福島が上機嫌で言うと、近藤も静かに頷いた。


『近藤は、いつでもお相手いたします』


そして、少し考えてから尋ねた。


『次も、あのお二方の身体をお借りするのでしょうか』


『そりゃそうだろ。ほかに身体がねえんだから』


『なるほど』


『なあに、あいつらは逃げられねえよ』


『それは心強い』


阿忠と阿強は、無言で顔を見合わせた。


二人とも、何か言いたかった。


だが、今は口を開くだけでも身体が痛かった。


     ◇


どうにか酒場へ戻った二人は、ほとんど倒れ込むようにカウンター席へ腰を下ろした。


須佐之男命は、いつの間にか阿強のリュックから取り上げた例の本を、すっかり夢中になって読んでいた。


外で何が起きていたかなど、まるで気にしていないらしい。


「ほほう……」


ページをめくる。


「へえ。あの禿げ鼠、こんな手まで使ってたのか。こりゃ驚いたな……」


その傍らにいた三成が、ふと須佐之男命の手元に目をやった。


そして、本の表紙に書かれた題名を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。


『猿と主君の姪――誰にも言えない二人の物語』


副題は、


『淀城の夜も熱いぞ』


だった。


三成は、しばらく動かなかった。


そして、突然駆け出した。


『――それを寄越せ!』


本へ手を伸ばす。


しかし、その指は表紙をすり抜けてしまった。


三成は霊体である。


実体のある本を掴むことなどできない。


それでも諦めず、須佐之男命の反対側へ回り込み、もう一度手を伸ばした。


やはり、すり抜ける。


「へえ、ここもなかなか……」


須佐之男命は楽しそうにページをめくっていた。


三成は彼の正面に回り込み、視界を遮ろうとした。


須佐之男命は、黙って本を少し高く掲げた。


三成が跳び上がる。


届かない。


須佐之男命が本を反対の手に持ち替える。


三成がそちらへ回る。


やはり掴めない。


「おいおい、こりゃまた……。あの禿げ鼠、当時はずいぶん頑張ったんだなあ」


『その「ほほう」とか「へえ」とかをやめろォ!』


とうとう三成が叫んだ。


『今すぐ、その本を置け!』


「別に音読してるわけじゃねえだろ。静かに読んでるだけだ」


須佐之男命は本から目を上げようともしない。


『その感心した声が、いちいち聞こえてくるのだ!』


「読書中の独り言まで禁止されちゃ、たまんねえな」


そう言いながら、またページをめくる。


「……おっ。信長の姪っ子のほうも、こりゃまた大したもんだ。さすが第六天魔王の姪だなあ……」


『やめろと言っておろうが!』


三成は再び飛びかかった。


その手が本をすり抜ける。


もう一度。


また、すり抜ける。


何度繰り返しても結果は同じだった。


須佐之男命はまるで気にせず、愉快そうに本を読み続けている。


『貴様……! その本を置け! それは豊臣家の……私は豊臣家の奉行として、そのようなものを見過ごすわけには……!』


「豊臣家の奉行?」


須佐之男命は、ようやく三成へ目を向けた。


「だったら、そこに書いてあることが本当かどうか、お前が一番よく知ってるんじゃねえの?」


『――――っ!』


三成は絶句した。


阿忠と阿強は、全身を痛めたまま、その光景を眺めていた。


「……三成」


阿強が、疲れ切った声で言った。


「破壊神相手に、そんなゴシップ本を取り上げようとしてどうすんだよ……」


『本を取り上げたいのではない! 豊臣家の名誉を守ろうとしているのだ!』


「でも、触れないじゃん」


阿忠が言う。


『わかっておる!』


三成の声が裏返った。


『だから余計に腹が立つのだ!』


     ◇


「うるせえなあ……」


須佐之男命は本を読みながら、面倒くさそうに片手を懐へ入れた。


そして、何かを二つ取り出すと、阿忠と阿強へ放り投げた。


「ほら。お前らにも褒美をやるから、少し静かにしてろ。俺は今、いいところなんだ」


阿忠は反射的に片方を受け止めた。


手の中にあったのは、黒っぽい塊だった。


肉のようにも見えるが、肉とは少し違う。形もはっきりせず、見たところ何なのかまるでわからない。


鼻を近づけてみると、奇妙な香りがした。


これまで嗅いだことのない香りなのに、不思議と嫌ではない。それどころか、もう一度嗅ぎたくなる。


阿強が受け取ったものも、ほとんど同じだった。


二人は顔を見合わせた。


「……食い物かな?」


「……たぶん」


そして、阿忠がひとかじりした。


続いて阿強も口に運ぶ。


二人の動きが、ぴたりと止まった。


まずかったからではない。


その正反対だった。


あまりにもうまくて、今、自分が何を食べているのか確かめたくなったのである。


甘いわけではない。


しょっぱいわけでもない。


肉のうまみとも、果物の甘さとも、まるで違う。


それなのに、舌が覚えているはずのない懐かしさと、身体の奥から湧き上がるような満足感があった。


これだ。


ずっと探していたのは、これだったのだ。


何を探していたのかなど、本人にもわからない。


ただ、これを食べてしまった今では、それまで口にしてきた食べ物が、すべてこの一口のための予行練習だったようにすら思えた。


阿忠は残りを一気に口へ放り込んだ。


阿強も、負けじと食べ切った。


そして――。


阿忠の表情が変わった。


阿強の顔からも、笑みが消えた。


「……阿強」


阿忠が口を開く。


「……何だ?」


「俺、何か……」


「……奇遇だな。俺もだ」


身体の内側で、何かが目を覚ましたようだった。


初めはかすかな熱にすぎなかったものが、たちまち全身へ広がり、筋肉を内側から引き絞るような痛みに変わっていく。


二人の身体が、小刻みに震え始めた。


「……っ、何だこれ……!」


骨も筋肉も、内臓までもが、根こそぎ作り直されているかのようだった。


血の巡りが急に速くなり、熱が皮膚の下を駆け抜ける。


そして、毛穴という毛穴から、黒いものが滲み出してきた。


粘り気のある、どろりとした液体だった。


それは汗とは到底思えない量で噴き出し、二人の肌を覆い、服を汚して床へ滴り落ちた。


同時に、凄まじい臭いが漂い始める。


人間の身体に長年溜まっていたものを、一度に絞り出したような臭いだった。


近藤が、静かに一歩退いた。


福島も、鼻を押さえて一歩下がる。


三成は露骨に顔をしかめた。


さらに、いつの間に店へ入ってきたのか、隅の席で黙々と酒を飲んでいた見知らぬ老人まで、さりげなく席をずらした。


須佐之男命だけは、相変わらず本を読んでいた。


「……ほほう、そう来たか」


まったく顔を上げない。


やがて、店の奥からマスターが出てきた。


阿忠と阿強を眺める。


床を眺める。


そして、少しだけ首を傾げた。


表情は、驚くほど穏やかだった。


「お二人とも、シャワーをお使いになりますか?」


二人は震えながら顔を上げた。


マスターは続けた。


「一回、お一人様五百円です」


阿忠と阿強は、同時に何度も頷いた。


     ◇


シャワーを浴びて戻ってきた二人は、再びカウンター席へ腰を下ろした。


身体はきれいになっていた。


だが、単に汚れを洗い落としただけではない。


身体の奥深くまで、何かがすっかり入れ替わったような感覚があった。


阿忠は試しに拳を握った。


力が入る。


これまでよりも、ずっと自然に。


それでいて、今まで感じたことのない強さがあった。


阿強も目を瞬かせた。


店の奥にある小さな飾りまで、妙にはっきり見える。視界そのものが澄み渡ったようだった。


「……何だ、これ」


阿強は呟き、何気なく隣へ手を伸ばした。


すると、指先が何かに当たった。


「……ん?」


見下ろす。


自分の手が、三成の腕に触れていた。


いつもなら、何の抵抗もなくすり抜けるはずの霊体に。


ところが今は、確かな手応えがあった。


「……え?」


三成も呆然とした顔で、自分の腕を見下ろしている。


『……阿強』


「……何?」


『今、お前……私に触れたな』


「……うん」


阿強はもう一度、三成の腕に触れてみた。


指先が止まる。


押せば、かすかな抵抗すら感じる。


「……触れる」


三成は言葉を失った。


その隣で、阿忠も手を伸ばしていた。


福島の肩を、軽くつつく。


『おい! 何しやがる!』


「……本当だ」


『何が本当なんだよ!』


「触れたんだよ。あんたに」


『そりゃ、触れば触れるだろうが。何がしたいんだ?』


「いや、だから……」


阿忠は困った顔をした。


どうやら福島には、これがどれほど妙なことなのか、まるで伝わっていないらしい。


三成は長いこと自分の腕を眺めていたが、やがて須佐之男命へ顔を向けた。


『……須佐之男命殿』


「ん?」


『先ほど、この二人に食べさせたものは、いったい何なのですか』


須佐之男命はページをめくった。


「ああ、あれか」


本から目を離さないまま、答える。


「八岐の尾っぽだよ。うまかったろ? 身体にいいんだ。姉貴も好物でな」


『…………』


三成が黙った。


阿忠と阿強も黙った。


「……今、何て言いました?」


阿強が尋ねる。


「八岐の尾っぽ」


「……八岐?」


「八岐大蛇だよ」


須佐之男命は当たり前のように答え、またページをめくった。


「へえ……ここの書き方も悪くねえな」


阿強は自分の口元を押さえた。


「……俺、さっき、八岐大蛇の尻尾を食ったんですか?」


「そうだって言ってんだろ」


「…………」


「どうだ、うまかったか?」


阿強はしばらく考えた。


「……うまかったです」


「だろ?」


「……とんでもなく、うまかったです」


須佐之男命は満足そうに頷いた。


「姉貴なんか、天下一の滋養食だって言ってるぜ。ただ、食ったあとは身体の中に溜まった悪いもんを出さなきゃならねえから、ちょっと痛むんだよな」


「……ちょっと?」


阿忠が、その言葉を繰り返した。


「あれが、ちょっと?」


「ああ、人間だとちょっと長引くのか。まあ、効き目はあっただろ?」


須佐之男命は平然としていた。


二人は顔を見合わせた。


確かに、効果はあった。


身体は明らかに変わっていたし、それまで触れられなかった霊体にも触れられるようになっている。


否定のしようがなかった。


ただし、できることなら、食べる前に教えてほしかった。


     ◇


やがて、須佐之男命は本を閉じた。


ぱたん、と音を立ててカウンターへ置くと、そのまま阿強のほうへ押しやる。


「ほら、持ってけ」


「……え?」


「あの猿に渡すんだろ? さっさと届けてやれ」


阿強は本を見下ろした。


徳川家康から、太閤への返礼として届けるよう命じられた、あの本だった。


忘れたくても忘れられない。


しかも家康からは、妙に物騒な念押しまでされている。


阿強は本を受け取り、リュックの奥へ押し込んだ。


須佐之男命は立ち上がり、衣服の乱れを軽く直した。


「さて。俺も仕事に戻らねえとな」


阿忠が顔を上げた。


「……え?」


「これ以上サボってると、姉貴が直接迎えに来そうだからな」


阿忠と阿強は顔を見合わせた。


須佐之男命が帰る。


高天原へ。


つまり、二人が探し回っていた理由が、ようやく実を結ぼうとしていた。


「……若頭!」


阿強は慌てて立ち上がった。


「ありがとうございます! わざわざ……いや、わざわざ来たのは俺たちでしたね……」


何と言えばいいのかわからなくなり、思わず頭を下げる。


須佐之男命は、そんな阿強を見て笑った。


「ご苦労だったな。お前らも、ここまで来るのは大変だったろ」


その声には、これまでになかった温かみが少しだけあった。


須佐之男命は店の扉へ歩き出す。


だが、取っ手に手をかけたところで、ふと足を止めた。


「……ああ、そうだ」


振り返る。


「あの狸にも伝えといてくれ」


「……狸?」


「あいつだよ。家康とかいう若いのに捕まって、上野に連れていかれた奴」


阿強は、嫌な予感がした。


須佐之男命は続けた。


「早いとこ第二巻を書けってな」


「……第二巻?」


「そうだ。あれだけ長いこと覗き見してたんだろ? 一冊で終わるわけがねえ」


須佐之男命は、いかにも不満そうに鼻を鳴らした。


「あの狸、なかなか文章がうまいじゃねえか。第一巻であれだけ伏線を張っておいて、続きがねえなんて許されねえだろ」


阿強は黙った。


阿忠も黙った。


その傍らでは、三成が微動だにしなくなっていた。


『…………』


「……三成?」


阿強が呼びかける。


返事がない。


「……大丈夫か?」


しばらくして、三成が口を開いた。


『……第二巻』


ひどく静かな声だった。


『……まだ、第二巻があるというのか……』


「……いや、まだ出てないと思うけど」


『……そういう問題ではない……』


三成は、ゆっくり目を閉じた。


『……少し、考える時間をくれ』


「……うん」


『あの本については、しばらく何も言わないでくれ』


「……わかった」


阿強は素直に頷いた。


今の三成に、これ以上何か言うのはさすがに気の毒だった。


須佐之男命はそんなやり取りを気にする様子もなく、扉を押し開けた。


ゴールデン街の夜風が、店内へ吹き込んでくる。


「じゃあな」


それだけ言い残し、須佐之男命は外へ出ていった。


扉が閉まる。


酒場に、ようやく静けさが戻った。


     ◇


近藤勇は、残っていたウイスキーを静かに飲み干すと、席を立った。


「それでは、私もそろそろ失礼いたします」


一同へ丁寧に頭を下げ、最後に福島へ目を向ける。


「福島殿。また、いずれ」


『おう! 次も楽しみにしてるぜ!』


「私もです」


近藤は微笑み、もう一度軽く一礼してから店を出ていった。


その姿が見えなくなると、福島は阿忠へ向き直った。


『おい、阿忠』


「……何?」


『身体を借りて悪かったな。だが、久しぶりに思い切り暴れられたぜ!』


阿忠は無言で福島を見つめた。


『いやあ、しかし面白かった! 久しぶりにいい汗をかいた気分だ!』


「…………」


阿忠は三秒ほど黙ったあと、口を開いた。


「飯、おごって」


『……あ?』


「今度、飯おごってよ」


福島が目を瞬かせる。


「俺の身体を使って、あれだけ暴れたんだから。お詫びに一回くらい飯おごってくれてもいいでしょ」


『……なるほどな』


福島は腕を組んだ。


『まあ、考えといてやるよ』


「考えるってことは、もう承諾したってことね」


『おい、待て!』


阿忠は聞く耳を持たなかった。


「三成、記録しといて」


『…………』


三成は答えなかった。


「……三成?」


『……今は、何も記録したくない』


「まだあの本のこと考えてんの?」


阿強が呆れたように尋ねた。


『……頼むから、あの本の話はやめてくれ』


「わかった、わかった。じゃあ、それは置いといて、福島が阿忠に飯をおごるってことだけ覚えといて」


三成は、しばらく沈黙した。


それから、諦めたように口を開いた。


『……承知した』


わずかな間を置いて、厳かに告げる。


『福島市松、阿忠に食事一回分の借りあり。確かに記録した』


「ありがとう、三成」


阿忠は満足そうに頷いた。


『おい! 俺はまだ承諾してねえぞ!』


福島が抗議したが、誰も聞いていなかった。


その間、マスターは何事もなかったように床を拭き終え、二人から受け取った千円をしまうと、またカウンターの奥でグラスを磨き始めた。


ゴールデン街の夜は、まだ続いていた。


阿強はリュックの紐を握り直した。


中には、あの本が入っている。


徳川家康から豊臣秀吉へ。


渡さなければならない、厄介な一冊。


そして、二人が帰るまでの道のりは、まだまだ長かった。


**第十四話 終**

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