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第十五話 静岡のホーム、今川義元、そして黒いおでん

午前七時四十九分。静岡駅、新幹線ホーム。


列車が停車し、ドアが開いた。まだ八時前だというのに、ホームにはすでに朝の光が満ちている。


阿強はリュックを背負い、車内から降りた。


中には、徳川家康から豊臣秀吉へ届けるよう命じられた、あの厄介な本が入っている。できることなら存在ごと忘れてしまいたかったが、背中の重みがそれを許してくれなかった。


腕時計を見ると、時刻はきっかり七時四十九分だった。


続いて降りてきた阿忠が、荷物を持ち直して大きく息を吸った。


「……お茶の匂いがする」


「うん。静岡だな」


昨夜の新宿で散々な目に遭った二人にとって、朝の澄んだ空気はありがたかった。


ところが、その平穏は長く続かなかった。


ギリ、ギリ、ギリ……。


ホームのベンチから、何とも嫌な音が聞こえてきた。


まるで、硬いもの同士を無理やり擦り合わせているような音だった。


二人が振り向くと、ベンチに奇妙な人物が座っていた。


ふくよかな体つきに、公家を思わせる装束。顔には白粉が塗られ、口元から覗く歯はすべて黒い。


お歯黒だった。


それだけなら、まだよかった。


男の頭は、首から上だけが百八十度も回転していたのである。


身体は前を向いたまま、顔だけがこちらを見ている。しかも、その黒い歯をギリギリと鳴らしていた。


阿忠は男を見た。


腕時計を見た。


空を見上げた。


それから、深いため息をついた。


「……静岡まで来ても、まだこんな怨霊がいるのかよ」


阿強は黙っていた。


「俺たち、どこまで行っても社畜なんだな……。何か恨みがあるなら、もう直接言ってくれよ。そろそろうちの元帥も出てくる頃だと思うし……」


すると、ベンチの男がぴたりと動きを止めた。


「……元帥?」


首がゆっくりと回り、顔が正面へ戻る。


「何じゃ、それは。新しい蹴鞠の一種か?」


男は不思議そうに首を傾げ、後ろへ声をかけた。


「軍師、そなたは知っておるか?」


その問いに応じるように、もう一つの人影が現れた。


背の高い、痩せた僧侶だった。


穏やかな顔立ちと、深く落ち着いた眼差し。長い年月をかけて世の中の浮き沈みを見届けてきたような、静かな雰囲気をまとっている。


「殿、それは拙僧も存じませぬ」


僧侶は淡々と答えた。


「せっかくですから、お二方に伺ってみてはいかがでしょう」


そう言うと、阿忠と阿強に向き直り、丁寧に一礼した。


「突然お声をかけて申し訳ございませぬ。拙僧、雪斎と申します。先ほどおっしゃった『元帥』とは、いったい何のことでございましょうか。我が主が、たいそう興味を持たれましてな」


     ◇


阿忠と阿強は顔を見合わせた。


「元帥っていうのは……俺たちが祀ってる神様です。趙公明元帥っていうんですけど」


「神?」


ふくよかな公家の男が、また首を回した。


「どこの国の神じゃ?」


「台湾です」


阿強が答えた。


「俺たち、台湾から来ました」


「台湾……」


雪斎はしばらく考え込んだ。


「申し訳ありませぬが、拙僧には聞き覚えのない土地ですな」


「海の向こうにあるんです。ここからだと、かなり遠いですよ」


「なるほど……」


雪斎が頷く。


その横で、公家の男はなおも台湾という地名を口の中で繰り返していた。


阿忠は二人から少し離れると、両手を合わせた。


須佐之男命が高天原へ戻ると約束してくれたのだ。そろそろ趙公明元帥も解放される頃だろう。


そう思い、阿忠は神を呼んだ。


一度目。


返事はない。


二度目。


やはり、何も聞こえてこなかった。


三度目、四度目、五度目。


「元帥、聞こえてますか? 俺たち、今は静岡です。もうすぐ任務も終わりますから、そろそろ降りてきてもらえませんか?」


沈黙。


六度目。


七度目。


阿忠が諦めかけながら八度目を試みようとした、そのときだった。


『……あー、聞こえるか』


突然、頭の中に声が響いた。


久那斗神だった。


相変わらず、黒いスーツを寸分の隙もなく着こなした役所の局長を思わせる声である。


ただし、今日は少しばかり疲れているようだった。


『お前のところの趙元帥から伝言だ』


「……はい」


『今は手が離せないそうだ。麻雀がまだ八回残っているらしい。全部打ち終わったら迎えに行くから、邪魔をするな、とのことだ』


阿忠は黙った。


久那斗神は、わずかに間を置いて続けた。


『それから、須佐之男命からも話は聞いている。趙元帥は大切な客人として、こちらで丁重にもてなしている。心配する必要はない』


「……あの」


『では、以上だ』


声が消えた。


阿忠は静岡駅のホームに立ち尽くした。


朝のお茶の香りが漂い、遠くから鳥の声が聞こえてくる。駅のアナウンスは、次の新幹線の発車時刻を淡々と告げていた。


阿忠は、長いため息をついた。


「……どうだった?」


阿強が尋ねる。


「元帥、まだ麻雀してるって」


「……は?」


「あと八回打ったら、迎えに来るらしい」


阿強は三秒ほど黙った。


「……そうか」


それ以上は、何も聞かなかった。


どうやら趙公明元帥にとって、霊界入国管理局での待遇は、二人が想像していたほど悪くないらしい。


そのやり取りを、公家の男と雪斎が静かに聞いていた。


阿忠は二人へ振り向き、力なく笑った。


「すみません。うちの元帥、いつもあんな調子なんです。遊んでばっかりで、全然真面目に仕事してくれなくて……」


少し考えてから、付け加える。


「大名に仕える家臣って、こんな気分だったんでしょうね。ほんと、苦労が絶えませんよ」


公家の男の頭が、ゆっくりと回った。


そして、何とも複雑な表情になった。


「……うむ」


しみじみと頷く。


「家臣の苦労というものは、確かに並大抵ではないな」


雪斎も無言で頷いた。


その頷きには、口に出さないだけで、ずいぶん多くのものが込められているようだった。


     ◇


やがて雪斎が、阿強たちの傍らへ目を向けた。


「ところで、お二方。一つお尋ねしてもよろしいかな」


「はい?」


「そちらには、武将と思しき御霊が二人、お付きになっておられるようですが……」


阿強は三成と福島を見た。


それから、これまでの経緯を簡単に説明した。


話を聞き終えると、雪斎は二人の霊体へ向き直り、丁寧に一礼した。


「失礼ながら、お名前を伺ってもよろしゅうございますか」


三成が一歩前へ出た。


『石田治部少輔三成と申す』


続いて福島も胸を張る。


『福島左衛門大夫正則だ』


その名を聞いた瞬間、雪斎の表情が変わった。


公家の男も、回りかけていた首を途中で止める。


「……石田治部少輔」


雪斎が呟いた。


「豊臣五奉行のお一人……」


「福島正則……」


公家の男が続ける。


「賤ヶ岳七本槍の……!」


二人は改めて三成と福島を見た。


そして、公家の男が深々と頭を下げた。


雪斎もそれに続く。


三成と福島は少し驚いたようだったが、すぐに礼を返した。


『海道一の弓取りの誉れ、かねがね聞き及んでおります』


福島が言った。


三成も姿勢を正す。


『今川家を支えた雪斎禅師。お噂は伺っております』


その言葉を聞くと、公家の男は嬉しそうに首を回した。


一回。


さらに、もう一回。


「いやいや、こちらこそ。石田殿、福島殿のお名前は、後の世にまで聞こえておりますぞ」


そして、ふと二人の台湾人へ目を向けた。


「しかし、なぜそのような御仁たちが、異国の若者と旅をしておられるのじゃ?」


「……話すと長いんですけど」


阿強が答えた。


「今、徳川家康から頼まれた本を、豊臣秀吉様のところへ届けに行く途中なんです」


公家の男の頭が、ぴたりと止まった。


「……徳川家康?」


「はい」


「……本を届ける?」


「そうです。太閤殿下への返礼だとかで」


公家の男は、興味深そうに目を細めた。


そして、いかにも公家らしい優雅な仕草で手を差し出す。


「ほほう。そのような品なら、少し拝見してもよろしいかな?」


阿強は嫌な予感を覚えた。


だが、目の前の人物は三成と福島にまで丁重に礼を尽くした、由緒ある武将らしい。


無下に断るのも気が引ける。


仕方なくリュックのファスナーを開け、例の本を取り出した。


「……どうぞ」


ところが、男は本を受け取ろうとはしなかった。


差し出した手を軽く動かす。


すると、本が阿強の手のひらからふわりと浮き上がった。


「……え?」


男が指先を動かすたび、ページがひとりでにめくられていく。


霊力で本を操っているのだ。


「ほほう……これはこれは」


男は満足げに頷き、悠然と読み始めた。


阿強は宙に浮かぶ本を見つめ、小さくため息をついた。


「……もう驚く気にもならないな」


本の表紙には、こう書かれていた。


『猿と主君の姪――誰にも言えない二人の物語』


副題は、


『淀城の夜も熱いぞ』


である。


「ふむ……」


男は最初のページを読み、感心したように頷いた。


「この家康という男、なかなかの目利きではないか。このような書物を見つけ出すとは……。世には、まだまだ才ある者がおるものじゃな」


ページがめくられる。


「ほう……この筆致、この細やかな描写……。関東にも、これほどの文才を持つ者がおったとはのう」


三成は黙っていた。


『…………』


その表情は、先ほどまでとは明らかに違っていた。


やがて、ぽつりと呟く。


『……徳川家康』


誰にともなく、その名を繰り返した。


『そういえば、あの男……昔は別の名を名乗っておったはずだが……』


福島が首を傾げる。


『ああ、そういやそうだったな。何て名前だったっけか』


『……どうも思い出せぬ』


福島は少し考えた。


そして、思い出したように手を打つ。


『松平元康だ! そうだろ、佐吉。昔は松平元康って名乗ってたじゃねえか。あとで徳川家康になったんだよ』


宙に浮いていた本のページが、ぴたりと止まった。


公家の男が顔を上げる。


「……待て。松平元康と言ったか?」


『おう。昔はそう名乗ってたはずだぜ』


義元はまじまじと福島を見つめた。


「……竹千代か?」


今川義元の首が、ぐるりと一回転した。


それから、目の前の本へ視線を落とす。


表紙。


副題。


最初のページ。


もう一度、じっくりと確かめる。


「……何じゃと」


低い声が漏れた。


「家康というのは……あの小僧のことか?」


先ほどまで感心しきっていた顔が、見る見るうちに険しくなった。


「まったく、何ということじゃ! あれほど目をかけてやったというのに、いつからこんなものに夢中になるようになったのだ!」


男は頭を振った。


「けしからん! 実にけしからん! 育て方を間違えたか!」


その横から、雪斎の静かな声が聞こえた。


「殿」


「何じゃ、軍師」


「先ほどは、たいそうお気に召していたご様子でしたが」


「…………」


公家の男は雪斎を見た。


「……軍師」


「はい」


「……今は、よい」


雪斎は静かに頭を下げた。


「承知いたしました。拙僧、口を慎みます」


阿強は、何も言わずに宙から戻ってきた本を受け取り、リュックへしまった。


その傍らで、三成が小さく呟いた。


『……雪斎禅師、実に見事な御仁だ』


福島も感心している。


『ああ。よくあんなことが言えるな。俺には無理だぜ』


『……私も、同じことを考えておった』


『だから、俺もそう言ってんだよ』


妙なところで、二人の意見が一致した。


     ◇


その後、一行は静岡おでんを出す小さな店に入った。


鍋の中には、黒々としたつゆが満ちていた。


湯気の向こうに、大根、卵、牛すじ、黒はんぺんなどが見える。濃い色のだしに具材が沈んでいる光景は、初めて見る者には少々驚きかもしれない。


しかし、立ち上る香りは実に食欲をそそるものだった。


阿忠と阿強はそれぞれ注文し、さっそく箸を伸ばした。


向かい側には、公家の男――今川義元と、太原雪斎の霊体が座っている。


義元は、黒いおでん鍋をじっと見つめていた。


「……何じゃ、あの黒いつゆは」


「牛すじのだしに、濃口醤油を使ってるんです」


阿忠が答えた。


「静岡おでんっていう、この辺の名物ですよ」


「……ほう」


義元は、なおも鍋から目を離さなかった。


「うまいのか?」


「うまいですよ」


阿強が大根を口へ運びながら答える。


「食べてみます?」


義元は黙った。


少し考えてから、ゆっくりと口を開く。


「……私は、霊体じゃが」


「はい。知ってます」


「…………」


義元は再び鍋へ視線を戻した。


黒いつゆの中で、具材がゆらゆらと揺れている。


その顔には、何とも言えない未練が浮かんでいた。


「殿」


雪斎が静かに声をかける。


「拙僧も霊体でございます」


「……軍師。それは承知しておる」


「では、あまり眺めても仕方ありますまい」


「……もう少しだけ見せてくれぬか」


雪斎は、それ以上何も言わなかった。


     ◇


ちょうどそのとき、店内のテレビが別の映像に切り替わった。


映っていたのは、二〇二六年ワールドカップの再放送。


日本対ブラジル。


試合は終盤に差しかかり、まもなくアディショナルタイムを迎えようとしていた。


義元の目が、テレビへ吸い寄せられた。


「……何をしておるのじゃ、あの者たちは」


「サッカーですよ」


阿強が答えた。


「ボールを蹴って、相手のゴールに入れたら点が入るんです」


義元は真剣な眼差しで画面を見つめた。


「……ふむ」


しばらく観察してから、頷く。


「ブラジルの者たちの足さばきは、なかなか蹴鞠に通じるものがあるのう。だが、日本の者たちは少々せわしない。あれでは優雅さに欠ける」


「蹴鞠とは違いますからね」


阿忠が言う。


「今のサッカーは、もっと速いんですよ」


「いや、勝負の道理は変わらぬ」


義元は胸を張った。


「落ち着き、間合い、そして陣立て。それらが肝要なのじゃ」


そのときだった。


日本のゴールキーパーが、高く上がったボールを両手で受け止めた。


義元の目が、かっと見開かれた。


「軍師!」


突然、テレビを指さす。


「あの者、手で鞠を取ったぞ!」


雪斎は画面を見た。


「はい」


「反則じゃ! 審判は何をしておる! 手を使っておるではないか!」


「殿、あれはゴールキーパーと申しまして、あの者は手を使ってもよい役目なのでございます」


「何じゃと!?」


「それより殿」


雪斎が、義元の手元へ視線を落とした。


「お手に持っておられる鞠を、お下ろしください」


義元が自分の手元を見ると、いつの間にか霊気で形作られた蹴鞠を握っていた。


「…………」


義元は、そっと鞠を下ろした。


そして、何事もなかったかのように尋ねた。


「……なぜ、あの者だけ手を使ってよいのじゃ?」


「ゴールキーパーだからです」


阿強が答えた。


「その人だけは、決められた場所の中で手を使えるんですよ。ほかの選手は駄目です」


義元は深く考え込んだ。


「……解せぬ」


首を傾げる。


「蹴鞠の美しさは、足さばきにこそある。あの一人だけが手を使えるとは、何とも不公平な決まりではないか」


さらに画面を指さした。


「そもそも、誰一人として和歌を詠んでおらぬではないか。蹴鞠とは、拍子と風雅を楽しむもの。あのように走り回るばかりでは、趣というものが……」


「だから、蹴鞠じゃないですって」


阿忠が言った。


「サッカーです、サッカー」


雪斎は静かに頷いた。


「殿。今は、この球を巡る勝負に勝てば、『天下』を取れる時代なのでございます」


義元が振り向く。


「……天下?」


「もっとも、その天下とは、スポンサー契約などのことではございますが」


「…………」


義元はしばらく考えた。


それから、真剣な顔で言った。


「軍師。今の話で、一つだけわかった」


「何でございましょう」


「天下じゃ」


雪斎は頷いた。


「それだけおわかりなら、十分でございます。つまり、勝つことが何より大切ということです」


義元は半信半疑の表情でテレビへ向き直った。


     ◇


試合はアディショナルタイムに入った。


日本の選手たちは最後まで走り続けていた。


しかし、終了間際。


ブラジルが攻め込み、決定的な一撃を放つ。


ボールがゴールネットを揺らした。


義元の頭が、ぴたりと止まった。


「…………!」


そして次の瞬間。


「な、何をしておるのじゃ!」


突然、立ち上がる。


「守りは陣形が肝要であろう! あの守将の位置がおかしい! そこではない、もっと前じゃ! いや、横か!? とにかく陣が乱れておる!」


「殿、どうかお静かに」


雪斎が声をかける。


しかし、義元は止まらなかった。


「軍師、そなたも見たであろう! 今の位置じゃ! あそこで守りを固めておれば……!」


「……確かに、守備の位置取りには少々問題があったようにも見受けられますが」


「そうであろう!」


義元は勢いよく頷いた。


試合終了。


日本の敗退が決まった。


義元はテレビを見つめたまま、しばらく動かなかった。


やがて、低い声で言う。


「……私が出れば」


阿忠が顔を上げた。


「……はい?」


「私が出れば、蹴鞠の技で……」


雪斎が即座に口を挟む。


「殿、そもそも選手登録をされておりませぬ。それに、霊体では試合に出ることもかないませぬ」


「…………」


義元は、ゆっくりと腰を下ろした。


テレビでは、先ほどの失点場面が繰り返し流れていた。


義元はそれを見つめていた。


そして、突然、泣き始めた。


声を上げて取り乱すような泣き方ではない。


肩を小さく震わせ、涙をこらえようとしているのに、どうしてもこぼれてしまう。


そんな泣き方だった。


「……日本の武者たちは、よう戦った」


絞り出すような声だった。


「最後まで……懸命に走っておった。それなのに、最後の最後で……守りきれなんだ……」


義元は袖で目元を押さえた。


そして、しばらくしてから顔を上げる。


その目には、先ほどまでとは違う色が宿っていた。


「……戦とは、そういうものじゃ」


ゆっくりと言う。


「いかに優勢でも、最後の一刻に気を緩めれば、すべてを失うことがある」


テレビの画面には、再びブラジルの得点場面が映し出されていた。


義元は、それをじっと見つめた。


「……桶狭間の私も、そうであった」


言ってから、動きが止まった。


まるで、自分が思わず口にしてしまった言葉に気づいたかのようだった。


その傍らで、雪斎が静かに口を開いた。


「……殿」


「…………」


「拙僧は生前、何度も申し上げたはずでございます」


雪斎の声は、どこまでも穏やかだった。


「陣を進める際には慎重を期すこと。物見の報せを決して軽んじぬこと。そして、たとえ優勢であろうとも、油断してはならぬこと……」


義元の手が、宙で止まった。


何かを取ろうとしたのかもしれない。


箸を持ち上げようとしたのか、それとも、口元へ運ぼうとしたのか。


しかし、そこには何もなかった。


自分が霊体であることを思い出したのか、義元はゆっくりと手を下ろした。


「……軍師」


「はい」


「……その話は、今せずともよかろう」


「拙僧はただ、昔から申し上げていたことを思い出しただけでございます」


「……軍師!」


「承知いたしました」


雪斎は静かに頭を下げた。


「拙僧、口を慎みます」


義元は黙り込んだ。


怒っているわけではなかった。


ただ、痛いところを突かれ、何も言い返せない人間特有の、何とも居心地の悪い沈黙だった。


阿忠と阿強は、何事もなかったかのようにテレビへ顔を向けた。


今は余計なことを言わないほうがいい。


それだけは、二人ともよくわかっていた。


その傍らで、三成が小さく声をかけた。


『……阿強』


「……何?」


『雪斎禅師、やはり実に見事な御仁だ』


福島も隣で頷いた。


『ああ。大した度胸だぜ』


『……まったくだ』


二人の意見が、またしても一致した。


     ◇


おでんを食べ終え、阿忠と阿強が代金を払って立ち上がろうとしたときだった。


今川義元も、静かに腰を上げた。


「……一つ、尋ねてもよいかな」


「はい?」


「先ほど話に出た、徳川家康という男じゃが……今は日光におるのか?」


「ええ」


阿強が答えた。


「日光東照宮です」


「……そうか」


義元はゆっくりと袖を整えた。


そして、何とも厳粛な顔になった。


「ならば、私も一度行かねばなるまい」


「……どこへ?」


「日光じゃ」


義元は胸を張った。


「あの小僧、征夷大将軍にまでなっておきながら、武家の威儀も人としての品格も、ろくに身につけておらぬようじゃ」


少し間を置く。


「かつて今川家で預かった者として、ここは私がきっちり教え直してやらねばならぬ」


雪斎が、そっと口を開いた。


「殿」


「……何じゃ」


「先ほどは、その書物をずいぶん熱心に読んでおられましたが……」


「…………」


義元が振り向く。


「……軍師」


雪斎は静かに一礼した。


「拙僧、口を慎みます」


義元は何も言わなかった。


ただ、ゆっくりと首を回した。


そのまま、雪斎とともに姿が薄れていく。


二つの霊体は、やがて朝の空気へ溶けるように消えていった。


向かった先は、日光。


かつて今川家で人質として暮らした松平元康――後の徳川家康が祀られる場所だった。


     ◇


静岡おでんの店を出た阿忠と阿強は、二人の霊体が消えた方向をしばらく眺めていた。


「……阿強」


「何?」


「家康がさ、義元に会ったらどうなると思う?」


阿強は少し考えた。


「……わからない」


「うん」


「でも、あんまりいい気分じゃないだろうな」


「……だよな」


二人は顔を見合わせた。


今川義元が、あの本のことで説教しに行く。


しかも、その隣には太原雪斎までいる。


日光東照宮で何が起こるのか、考えないほうがよさそうだった。


二人は荷物を持ち直し、静岡駅へ向かった。


大阪行きの新幹線に乗らなければならない。


まだ、家康から押しつけられた厄介な仕事が残っているのだ。


その途中、傍らにいた三成が、再び口を開いた。


『……あの本だが』


「三成、今はやめて」


『……いや、私はただ、あの本について……』


「大阪に着いてからにしてくれ」


『……しかし』


「大阪に着いたら、ちゃんと聞くから」


三成はしばらく黙った。


『……承知した』


それから、重々しく付け加える。


『大阪まで待とう』


その横から、福島の声が聞こえてきた。


『おい、佐吉』


『……何だ』


『お前、まだあの本のこと考えてんのか?』


『考えておらぬ』


『嘘つけ』


『……私は、ただ……』


『考えてるじゃねえか』


『…………』


三成は、それきり黙ってしまった。


静岡駅のホームには、朝の茶の香りがまだ残っていた。


遠くから、新幹線が近づいてくる音が聞こえる。


阿忠と阿強は荷物を引きながら、ホームへと歩いていった。


目指すのは大阪。


太閤秀吉へ、あの一冊を届けるために。


旅は、まだまだ続く。


**第十五話 終**

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