第十六話 関ヶ原、大谷吉継、そして残業代の問題
新幹線は岐阜羽島を過ぎ、米原へ向かっていた。
窓の外では、建物の数が少しずつ減り、田畑の向こうに低い山並みが見え始めている。
阿忠は座席に深くもたれ、目を閉じていた。昨夜からの疲れがまだ残っているのか、時折、眠りに落ちかけては小さく頭を揺らしている。
その隣で阿強はスマートフォンを眺めていた。
三成と福島も、今日は珍しく静かだった。二人とも霊体の姿を見せているものの、口を開こうとしない。
こんなに平穏な移動時間は、今回の旅では初めてかもしれない。
阿強がそう思った、その瞬間だった。
光が差した。
窓から差し込む陽光ではない。
前からも、後ろからも、足元からも。四方八方から湧き上がった白い光が、瞬く間に車内を覆い尽くした。
「……っ!」
阿忠が目を開く。
阿強も思わずスマートフォンを握り直した。
次の瞬間、座席の感触が消えた。
足元の床も、窓も、天井も。
新幹線そのものが、光の中へ溶けるように消えていく。
「おい、何だよ、これ!」
阿強が叫んだときには、もう遅かった。
二人は、見知らぬ荒野に立っていた。
秋の草が風に揺れ、低い丘が幾重にも連なっている。遠くには霧が立ちこめ、その向こうで何かが動いていた。
足元は湿った土だった。
風には、鉄のような匂いが混じっている。それが血の匂いだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。
「……阿強」
阿忠がゆっくり口を開いた。
「ここ、どこだ?」
「……俺に聞くなよ」
阿強は周囲を見渡した。
さっきまで乗っていた新幹線も、座席も、荷物も見当たらない。ただ、冷たい風が吹いている。
ふと、阿強は傍らに立つ三成へ目を向けた。
三成は、動かなかった。
霧の向こうを見つめたまま、まるで時間が止まってしまったかのように立ち尽くしている。
「……三成?」
返事はなかった。
福島も同じだった。いつもの豪快な笑みは消え、その表情はひどく険しかった。
「福島……?」
阿忠が声をかける。
「ここって……」
『……関ヶ原だ』
福島の声は低かった。
『慶長五年、九月十五日。忘れようったって、忘れられるわけがねえ』
阿忠と阿強は、思わず顔を見合わせた。
関ヶ原。
その名を知らないわけではない。だが、どうして自分たちが、そんな場所に立っているのか。
答えを探す間にも、霧の向こうから音が聞こえてきた。
鬨の声。
甲冑の擦れ合う音。
馬の嘶き。
そして、地面を震わせる無数の足音。
霧の中に、人影が浮かび上がった。
旗が見える。槍が見える。兵たちが走り、ぶつかり、倒れていく。
それは、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いだった。
ただし、そこは現実の関ヶ原とは違っていた。
あの日の戦いが土地に刻みつけられ、四百年以上もの間、消えることなく繰り返されてきた場所だった。
ただの幻ならば、足元の泥の冷たさも、風に混じる血の匂いも、これほど生々しいはずがない。
阿強は息を呑んだ。
三成は、一言も発しなかった。
そして、霧の奥に、一人の武将が現れた。
◇
その武将は、戦っていなかった。
すでに西軍の陣は崩れ、旗が次々と倒れていた。遠ざかる鬨の声が、敗北の時を告げている。
それでも、その男は逃げようとしなかった。
血のついた甲冑を身にまとい、崩れゆく戦場の中に立っていた。足取りは揺らがず、背筋も伸びたままだ。
何かを待っているようにも見えた。
男は、ふと阿忠と阿強のほうへ顔を向けた。
見知らぬ服装の若者たちを見て、少し驚いたようだった。
だが、二人の傍らに立つ三成の姿を認めた瞬間、その表情が凍りついた。
「…………」
三成が、ようやく口を開いた。
『……刑部』
呼びかけは、驚くほど小さかった。
男は三成を見つめた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、確かめるように呟いた。
『……治部、なのか?』
阿強は二人を見比べた。
「……三成、あの人は?」
三成は、男から目を離さずに答えた。
『大谷刑部少輔吉継』
そこで一度、言葉を切った。
『……私の、無二の友だ』
阿強は、もう何も聞かなかった。三成の声を聞けば、それ以上の説明は必要なかった。
だが、大谷吉継の目が次に捉えたものは、別の人物だった。
阿忠の傍らに立つ福島正則。
大谷は、その姿を見つめた。
長い沈黙のあと、低い声で名を呼んだ。
『……福島左衛門大夫正則』
福島の身体が、かすかに強張った。
『……平馬』
その瞬間だった。
大谷の表情が変わった。
四百年以上もの間、押し込められてきた何かが、一気に溢れ出したかのようだった。
大谷は地を蹴った。
霊体とは思えない勢いで福島へ駆け寄り、その胸倉を掴む。
そして、拳を振り上げた。
◇
鈍い音が響いた。
福島の身体が後ろへよろめく。だが、大谷は止まらなかった。
もう一度、拳を振るう。
さらに、もう一度。
『市松ッ!』
叫び声が、霧の中へ響き渡った。
『お前、わかっているのか! 俺たちは同じ豊臣家に仕え、北政所様にも世話になってきた仲じゃないか!』
福島は、拳を受けたまま顔を上げた。
『同じ釜の飯を食ってきた俺たちが、どうしてあの日、敵味方に分かれなければならなかった!』
もう一撃。
福島は避けなかった。
『佐吉との揉め事だろう! あいつとの私怨で、どうして東軍へ行った!』
大谷は福島の胸倉を掴んだまま、顔を近づけた。
『あの日、東軍の陣にお前の旗があるのを見たとき、俺がどんな気持ちだったかわかるか!』
福島は答えなかった。
大谷の拳が、再び振り下ろされる。
福島は二歩退いた。それでも、反撃しなかった。
大谷が殴るたび、甲冑に細かな亀裂が走った。霊体であっても、その衝撃は確かなものだった。
阿忠は動けなかった。
阿強も、何も言えなかった。
三成は、二人を見つめていた。
福島と大谷。ともに豊臣家に仕え、互いを知り尽くしていたはずの二人。
その間に、四百年以上前の戦が横たわっている。
三成は何か言いかけた。しかし、結局、言葉を呑み込んだ。
大谷の拳は、次第に重みを失っていった。
一撃ごとの間隔が長くなり、やがて、振り上げた腕が途中で止まった。
大谷は荒い息をつきながら、福島の前に立っていた。
福島は倒れなかった。傷ついた甲冑のまま、ただ、そこに立っていた。
長い沈黙が流れた。
やがて大谷が、俯いたまま尋ねた。
『……どうして、やり返さない』
福島はすぐには答えなかった。いつもの豪快な笑い声も、乱暴な冗談もなかった。
『……お前に殴られても、仕方ねえと思ってるからだ』
静かな声だった。
大谷は顔を上げた。
福島は続けた。
『だから、好きなだけ殴れ。俺はやり返さねえ』
大谷は振り上げかけた拳を、ゆっくりと下ろした。
福島は、その拳から目を逸らさなかった。
何かを言いかけた大谷だったが、結局、言葉にはならなかった。
そこには、勝ち負けで片づけられないものが残っていた。
そのとき、霧の向こうに立つ一人の武将が、大谷の目に入った。
◇
脇坂安治だった。
少し離れた場所に、黙って立っている。
その身体には、黒い靄のようなものが絡みついていた。まるで、見えない何本もの腕が、彼をこの場所へ引き留めているかのようだった。
関ヶ原で命を落とした西軍の兵たち。その無念が、四百年以上もの間、この戦場に残り続けていたのだ。
大谷は、脇坂を見つめた。
『……脇坂安治』
脇坂は答えなかった。
大谷は、一歩踏み出した。
『お前は、市松とは違う』
声には、先ほどまでの激しさとは別のものが宿っていた。
『あいつは佐吉への怒りに目を曇らせた。だから俺は殴った。あいつも、殴られる理由がわかっているから、黙って受けた』
大谷は、さらに一歩近づく。
『だが、お前は違う』
脇坂の表情は変わらない。
『お前は考えた。戦の前から、どちらにつくべきかを計っていた。わかったうえで、あの道を選んだ』
脇坂は、何も言わなかった。
『恐ろしかったからではない』
大谷の声が低くなる。
『お前は、自分で選んだんだ』
その言葉が霧に溶けた瞬間、大谷の身体に異変が起きた。
足元から、暗い靄が立ち上る。甲冑の隙間を黒い気配が這い上がり、やがて身体全体を覆い始めた。
それは単なる怒りではなかった。
四百年以上、行き場を失っていた無念だった。
大谷の姿が、少しずつ暗く染まっていく。
黒い。
だが、ただの黒ではない。光そのものが吸い込まれるような、底の見えない暗さだった。
同時に、周囲の戦場が揺れ始めた。
それまで決まった形で繰り返されていた残影が、乱れていく。
倒れる旗。
駆ける兵。
飛び交う叫び声。
それらが異様な速さで重なり合い、戦場のあちこちから亡霊の兵たちが溢れ出し始めた。
脇坂の顔に、初めて表情が浮かんだ。
恐怖でも、後悔でもなかった。いずれ、この時が来ると知っていた者の顔だった。
大谷は、脇坂の目の前まで歩み寄った。
『……どれほど待ったと思う』
声が、地の底から響くように低くなっていた。
『四百年以上だ。俺は、ずっと待っていた』
脇坂が、ようやく口を開いた。
『……わかっている』
『わかっている、だと?』
大谷の身体から黒い霊気が吹き上がる。
『だから、お前はここにいたんだろう』
脇坂は答えなかった。
『怨念に縛られて逃げられなかったんじゃない。いつか、この時が来るとわかっていたからだ』
大谷を包む暗闇が、さらに深まった。
その背後に、無数の影が重なり始める。
関ヶ原で散った西軍の兵たち。
主君の名を叫びながら倒れた者。
敵へ槍を向けたまま息絶えた者。
故郷へ帰れなかった者。
彼らの無念が、大谷吉継という一つの霊体へ流れ込んでいた。
『……刑部』
三成が呼びかけた。
返事はない。
『刑部、もうよせ……!』
大谷は振り返らなかった。
一歩進むたびに、地面が震える。
霧が荒れ狂い、戦場の残影から亡霊の兵が次々と這い出してくる。
そして、関ヶ原を包んでいた空間そのものが、崩れ始めた。
◇
「……まずいぞ!」
阿強が叫んだ。
亡霊の兵たちが、四方から押し寄せてきていた。
彼らに明確な敵意があるわけではない。ただ、戦場に染みついた無念が大谷の霊気によって呼び覚まされ、生きた者の気配へ向かって集まっているのだ。
「阿強!」
「わかってる!」
以前なら、二人にできることはほとんどなかった。霊体に助けてもらうか、逃げるか。
だが、今は違う。
阿強は傍らの三成へ手を伸ばした。
そして、その腕をがっしりと掴む。
指先に、確かな手応えがあった。八岐大蛇の尾を食べたことで、二人は霊体に触れられるようになっていた。
「三成! お前、術が使えるだろ!」
『……使えるが、それがどうした!』
「じゃあ撃て!」
『……何を?』
「術だよ、術! あいつらを吹っ飛ばせ!」
阿強はそう言うなり、三成の腕を引っ張り、迫ってくる亡霊の群れへ向けた。
『おい、何をする!』
「いいから、撃つんだよ!」
『待て! 私は鉄砲ではないぞ!』
「今は似たようなもんだろ!」
『何が似たようなものだ! 離せ!』
「離したら撃てないだろ!」
『私の術は、そんな仕組みでは――』
「撃てぇぇぇ!」
三成は一瞬、絶句した。
だが、目の前では亡霊の兵たちが次々と距離を詰めている。
『……くそっ! 腕を動かすな!』
三成は掌を開き、術を放った。
その瞬間、淡い光が霊体の手から迸った。
阿強が掴んでいるのは三成の腕。実際に術を放っているのも、三成本人だった。
阿強は、ただその腕を亡霊へ向けているだけである。
轟、と空気が震えた。
三成の掌から放たれた霊力が散弾のように広がり、迫っていた亡霊たちをまとめて押し返した。
「効いた!」
阿強が叫ぶ。
『当然だ! 私が撃ったのだからな!』
「よっしゃ、もう一発!」
阿強は三成の腕を掴んだまま、今度は別の亡霊の群れへ強引に向け直した。
『おい! やめろ!』
「今度はあっちだ!」
『だから動かすな! 狙いが定まらん!』
「ちゃんと狙ってるだろ!」
『誰がだ! お前が勝手に腕を動かしているだけではないか!』
「いいから撃て!」
『私はお前の鉄砲ではないと言っておろうが!』
もう一度、霊力が放たれる。
亡霊たちが押し返される。
阿強が喜ぶ。
三成が怒鳴る。
その繰り返しだった。
一方、福島は阿忠の前に立っていた。
亡霊の兵が突っ込んでくるたび、福島はその身体を張って押し返している。
『おらぁ! こっちは俺に任せろ!』
「任せるから、絶対に憑依しないでよ!」
阿忠が叫んだ。
『何だと!?』
「この前、あんたに身体を貸して、どれだけひどい目に遭ったと思ってるんだよ! もう二度とごめんだ!」
『今はそんなこと言ってる場合か!』
「だから、前で防いでくれればいいんだよ!」
『お前、俺に指図してんのか!』
「飯おごってくれるんだろ! だったら先に働いて返してよ!」
『……くそっ!』
福島は舌打ちした。
『わかったよ! 守りゃいいんだろ、守りゃ!』
そして、再び亡霊の兵へ飛びかかった。
◇
そのときだった。
再び、光が差した。
だが、今度は二人をこの場所へ引きずり込んだ光とは違う。
どこか懐かしい。
台湾の廟で、香煙の向こうに感じる、あの気配。
阿忠は、はっと顔を上げた。
「……まさか」
光の中心に、人影が現れた。
甲冑。
手にした金鞭。
そして、その背後には、天兵天将の気配。
強烈な霊力が関ヶ原の空間へ広がり、周囲の亡霊の兵たちを一斉に押し退けた。
「……元帥!」
阿忠が叫んだ。
「元帥ぃぃぃ!」
趙公明元帥が、そこに立っていた。
ただし、その表情には緊迫感がなかった。
まるで、麻雀卓から立ち上がり、ちょっと様子を見に来ただけのような顔をしている。
「……お前ら、何を騒いでいる」
「騒いでるんじゃありません! 大変なんですよ!」
阿忠が半泣きで叫んだ。
「ようやく来てくれたんですか!」
「うむ。打ち終わったのでな」
趙元帥は平然と答えた。
「少し顔を見に来た」
「……麻雀のほうが先だったんですね」
「何か言ったか?」
「何でもありません!」
趙元帥は周囲を見渡した。
黒い霊気に包まれた大谷吉継。
その正面に立つ脇坂安治。
戦場をさまよう無数の亡霊。
そして、今にも崩れそうな残影の空間。
「……なるほど」
短く頷いた。
「厄介なことになっておるな」
それから、目を閉じた。
「少し待て」
何かを呼びかけるように、静かに意識を集中させる。
すると、遠くから声が聞こえてきた。
それも、一人や二人ではない。
◇
『……ったく、また残業かよ』
最初に聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
謝将軍。
『パスポートの件は、もう片づいたんじゃなかったのか? ようやく入国できたと思ったら、また呼び出しかよ……』
続いて、范将軍の声も聞こえてきた。
二人とも、ひどく不満そうだった。
そして、関ヶ原の反対側から、別の気配が現れた。
稲荷神だった。
その後ろには、小さな狐たちがついてきている。
最初は一匹、二匹。それが十匹、二十匹と増えていき、気づけば数えきれないほどの小狐たちが戦場の端に集まっていた。
どの狐も、きちんと入国審査官の制服を着ている。
帽子を被り、襟元を整え、まるでこれから一斉に窓口業務を始めるかのような格好だった。
そして、全員が足を止めた。
目の前には、四百年以上前の関ヶ原。
黒い霊気に包まれた武将。
あちこちをさまよう亡霊の兵たち。
小狐たちは、三秒ほど黙った。
「……ここ、どこですか?」
最初の一匹が尋ねた。
「関ヶ原だそうです」
隣の狐が答える。
「大昔の合戦場だとか」
「……どうして、そんなところへ?」
「局長が麻雀で負けたからです」
「……はい?」
「借りを返すために、応援を出すことになったそうです」
小狐たちは顔を見合わせた。
「……局長、いくら負けたんですか?」
「かなりです」
「かなり?」
「ものすごく、です」
しばらく沈黙が流れた。
やがて別の狐が、おずおずと口を開いた。
「……それで、私たちは何をすればいいんでしょう?」
「現場を押さえるように、と言われています」
「……どうやって?」
「さあ……」
「私、普段は入国審査しかしてませんけど」
「私もです。密入国の霊を何度か捕まえたことはありますけど、合戦場の鎮圧なんて……」
「私は捕まえたこともありません。判子を押す係です」
「私なんて書類整理専門ですよ」
別の狐が胸を張った。
「書類を整理する速さなら、入国管理局で一番なんですが……」
その狐は、戦場を見渡した。
黒い霊気をまとった大谷。
走り回る亡霊の兵。
震える大地。
「……これは、書類整理じゃありませんね」
誰も反論しなかった。
狐たちは一斉に稲荷神へ顔を向けた。
「局長!」
稲荷神は、嫌な予感がしたように目を閉じた。
「……何ですか」
「どうすればいいんですか!」
稲荷神は深く息を吸った。
それから、できる限り威厳のある声で命じた。
「……そこに並んでいなさい」
「はい!」
「とにかく、堂々としていること。威厳があるように見えれば、それで結構です」
「それならできます!」
小狐たちは元気よく返事をした。
だが、一匹が手を挙げた。
「……あの、局長」
「今度は何ですか」
「これ、残業代は出るんでしょうか?」
「…………」
稲荷神は、ゆっくり目を閉じた。
三秒。
そして答えた。
「……その件は後ほど」
「はい!」
「まずは整列!」
小狐たちは一斉に背筋を伸ばした。
帽子の位置を直し、胸を張り、目つきを鋭くする。
確かに、遠目にはずいぶん威厳がある。
ただし。
どの狐も、尻尾だけは楽しそうに揺れていた。
◇
稲荷神は、趙公明元帥のもとへ歩いていった。
その顔には、麻雀で散々な目に遭った者特有の疲労が滲んでいる。
「趙元帥」
「おお。来たか」
「……お約束は、現場の鎮圧に協力するという話だったはずですが」
「うむ」
「亡霊の引き取りまで、こちらで請け負うとは申しておりません」
趙元帥が答える前に、横から謝将軍が口を挟んだ。
『亡霊を引き取るなら、残業代が必要だぞ』
范将軍も頷いた。
『これだけの数だ。しかも越境業務だろ。割増賃金は当然だ』
稲荷神の眉が、ぴくりと動いた。
「……待ってください」
『何だよ』
「誰が、あなた方に亡霊の引き取りを頼みました?」
謝将軍が首を傾げた。
『……頼んでないのか?』
「頼んでおりません!」
稲荷神の声が大きくなった。
「この方々は日本の亡霊です! 日本の冥界で、所定の手続きに従って処理します。勝手に台湾へ連れていかれては困ります!」
范将軍は腕を組んだ。
『つまり、越境して亡霊を引き取るなってことか』
「その通りです!」
『じゃあ、俺たちは何しに来たんだ?』
「鎮圧の応援です!」
『応援か』
謝将軍が頷いた。
『なるほど。それなら残業代が必要だな』
「…………」
稲荷神のこめかみが、ぴくりと動いた。
范将軍が続ける。
『海外出張扱いだから、もちろん割増で』
「ですから!」
稲荷神は、とうとう声を張り上げた。
「日本の亡霊には、日本の手続きがあるのです! 管轄外の方々に勝手に引き渡すわけにはまいりません!」
『わかってるって』
謝将軍が両手を上げた。
『俺たちは、ただここで立ってるだけだ』
『立っているだけでも、残業代は要る』
范将軍が即座に付け加えた。
稲荷神は、深く息を吸った。
「……すでに奪衣婆と懸衣翁にも連絡しています」
謝将軍と范将軍が顔を見合わせる。
「日本側の亡霊は、日本側の冥界の担当者が引き受けます。くれぐれも越境しての勝手な引率はおやめください」
稲荷神は、さらに念を押した。
「さもなければ、我らが天照大神と、そちらの玉皇大帝との間で、正式なお話し合いが必要になりますから!」
謝将軍が肩をすくめた。
『そんな大げさな話にするなよ』
范将軍は頷いた。
『そうそう。俺たちは立ってるだけだ。ただし残業代は――』
「その話は、後にしてください!」
◇
ほどなくして、二つの霊体が現れた。
奪衣婆と懸衣翁だった。
奪衣婆は関ヶ原の戦場を見渡した。
続いて、あちこちにいる亡霊の兵たちを眺める。
数えようとしたらしい。
一、二、三……。
すぐに諦めた。
「……多いねえ」
ぽつりと言った。
「これ、片づけるのに何日かかるんだい?」
懸衣翁も難しい顔をした。
「……ところで、残業代はどういう計算になる?」
稲荷神は、何も言わなかった。
しばらくしてから、力なく答えた。
「……私が何とかします」
奪衣婆の眉が、ゆっくり上がった。
「へえ。何とかする、ねえ」
「……はい」
「前にもそう言ったじゃないか」
「…………」
「そのときの分、こっちは四百年も待ってるんだけどねえ」
稲荷神の顔色が変わった。
「それは今、持ち出さないでください!」
奪衣婆は、鼻を鳴らした。
「都合の悪いことになると、いつもそうだよ」
懸衣翁が静かに頷く。
「……では、今回の分は別計算ということで」
「まだ何も決まっていません!」
◇
阿忠と阿強は、関ヶ原の真ん中に立っていた。
戦場の向こうでは、趙公明元帥と漆黒の霊気をまとった大谷吉継が、互いに一歩も退かず向かい合っていた。
少し離れたところでは、稲荷神が謝将軍と范将軍を相手に、残業代と管轄権について言い争っている。
奪衣婆と懸衣翁は勤務時間について不満を述べ、小狐たちは戦場の端に整列したまま、懸命に威厳を保とうとしていた。もっとも、尻尾だけは相変わらず落ち着きなく揺れている。
その間にも、亡霊の兵たちは戦場をさまよい続けていた。
阿忠は、しばらくその光景を眺めていた。
それから、阿強へ顔を向けた。
「……なあ、阿強」
「……何?」
「俺たち、どっか隠れたほうがよくない?」
阿強は、周囲を見回した。
黒い霊気。
亡霊の兵。
神々の怒鳴り声。
残業代の交渉。
そして、今にも崩れそうな関ヶ原。
「……そうだな」
静かに頷いた。
「隠れよう。終わるまで待とう」
二人は近くにあった大きな岩を見つけ、その陰へ身を滑り込ませた。
三成が、呆れたように二人を見た。
『……お前たち、隠れるのか?』
「うん」
阿強が即答した。
「何か文句ある?」
三成は、しばらく考えた。
『…………』
それから、小さく頷いた。
『……いや、ない』
少し間を置いて、付け加える。
『私も入れてくれ』
福島が、その横から顔を出した。
『おい、俺も入れろ!』
こうして四人は、大きな岩の陰に並んで身を潜めた。
二人の台湾人と、二人の戦国武将。
関ヶ原の戦いを知る者も、知らぬ者も。
今だけは、全員の意見が一致していた。
――こんな騒ぎには、巻き込まれないほうがいい。
岩の向こうでは、神々の言い争う声が、まだ聞こえていた。
だが、そのさらに奥で。
趙公明元帥と、漆黒の霊気をまとった大谷吉継が、静かに向かい合っていた。
二人の間に、目に見えない力が満ちていく。
やがて――。
その力がぶつかった瞬間、関ヶ原を覆う霧が、大きく震えた。
**第十六話 終**




