第十七話 松尾山、言えなかった言葉、そして屋根の上の三人
関ヶ原を覆う霧が、大きく震えた。
趙公明元帥の金鞭と、大谷吉継の刀が正面からぶつかり合った衝撃だった。
漆黒の霊気が荒れ狂い、周囲の亡霊たちを吹き飛ばす。遠くでは稲荷神が謝将軍と范将軍を相手に残業代の交渉を続け、奪衣婆と懸衣翁も勤務時間について不満を漏らしていた。
戦場の端には、制服姿の小狐たちが整列している。全員が懸命に威厳を保とうとしていたが、尻尾だけは落ち着きなく揺れていた。
そんな騒ぎの中心で、趙元帥は大谷吉継の一撃を受け止めていた。
黒い霊気が金鞭へ押し寄せる。しかし趙元帥は一歩も退かず、そのまま大谷を押し返そうとして――ふと、動きを止めた。
力負けしたのではない。
何かに気づいたのだ。
趙元帥は大谷を見つめ、わずかに目を細めた。
「……なるほどな」
金鞭を静かに収めると、大谷の肩へ手を伸ばした。
大谷が目を見開く。
『……なぜ、手を止めた』
趙元帥は答えなかった。ただ、その肩へ掌を置いた。
次の瞬間、大谷の身体から何かが引き出され始めた。
それは霊力ではなく、彼が四百年以上抱えてきた怨みでもなかった。もっと古く、もっと深いところに刻み込まれていたものだった。
趙公明元帥。
玄壇元帥とも称されるその神には、古くから伝わる神職がある。
除瘟剪瘧。
疫病を払い、悪しき病を取り除く力。
大谷吉継を生前から苦しめていた病――ハンセン病。
晩年には視力さえ失い、人の助けを借りなければ移動もままならず、戦場へは輿に乗って赴かなければならなかった、あの病。
肉体を失ったあとも、その苦しみは魂の奥底に残り続けていた。大谷自身でさえ、もはや自分の一部だと思い込んでいたほどに。
趙元帥は、その病苦を取り除いていた。
大谷の肩から、暗く濁った気配が細い糸のように引き出されていく。それらは次々と趙元帥の掌へ吸い込まれ、跡形もなく消えていった。
『……あ……』
大谷の唇が、かすかに動いた。
身体を覆っていた黒い霊気が、少しずつ薄れていく。
関ヶ原の無念が消えたわけではない。裏切られた記憶も、失われた命も、そのまま残っている。
だが、長い年月をかけて彼を押し潰していた苦痛だけが、確かに取り去られていた。
大谷は自分の両手を見下ろした。
霊体となったその手には、もともと目立った傷などなかった。それでも、ずっと何かが重くのしかかっていた。
今は、それがない。
恐る恐る顔を上げる。
霧の向こうに山が見え、倒れた旗が見えた。遠くに立つ三成の姿も、はっきりと見える。
大谷は息を呑んだ。
四百年以上ぶりに、世界がこれほど明瞭に見えた。
趙元帥は肩から手を離した。
「……もうよかろう」
それだけ言うと、何事もなかったように背を向け、戦場の後始末へ歩いていった。
大谷吉継は、その場に立ち尽くしていた。
しばらくの間、何も言わなかった。
そして、ゆっくりと振り返った。
三成が立っていた。
『……治部』
先ほどまでとは違う、穏やかな声だった。
『来てくれたのだな』
三成は、その顔を見つめた。
『……ああ。来た』
少し間を置いて、続ける。
『四百年以上も、遅くなってしまったが』
大谷は静かに首を振った。
『構わん。俺は、ここで待っていたからな』
三成は答えられなかった。
大谷は一度、深く息を吸った。
『……治部。お前に約束したこと、覚えているか』
三成の表情が変わった。
大谷は、真っ直ぐに友を見つめた。
『約束は守ったぞ、治部』
声は静かだった。しかし、その一言には四百年以上の歳月が込められていた。
『俺は、太閤殿下にも、お前にも背かなかった』
三成は口を開いた。
何かを言おうとした。だが、声にならなかった。
言葉が見つからないのではない。言いたいことが、あまりにも多すぎたのだ。
二人はしばらく、何も言わずに向かい合っていた。
◇
その頃、関ヶ原の戦場では別の意味で異変が起きていた。
小狐たちが、とうとう動き始めたのである。
先ほどまで整列していた狐たちは、どこから持ってきたのか、白いプラスチック椅子を次々と運び込んでいた。
折りたたみテーブルに筆記用具、書類をまとめた箱。そして、どこかで見たことのある番号札の発券機まである。
小狐たちは手際よく椅子を並べ、テーブルを設置し、受付窓口を作っていく。
あっという間に、関ヶ原の戦場が屋外の市役所と化してしまった。
「はい、亡くなられた方はこちらへお並びくださーい!」
一匹の狐が声を張り上げた。
「整理券をお取りくださーい! 順番にご案内しまーす!」
西軍の亡霊たちは呆然としていた。
四百年以上、関ヶ原をさまよい続けてきた者たちである。いきなり番号札を渡されても、何が起きているのかわからない。
それでも、小狐たちは容赦しなかった。
「はい、そちらの方! 番号札を取ってからお掛けくださーい!」
亡霊の一人が、白いプラスチック椅子に腰を下ろした。
手には整理券、膝の上には申請書。
しばらく紙を見つめていたが、やがて、おずおずと手を挙げた。
「あの……」
「はい、何でしょう?」
「これは、何を書けばよいのでしょうか」
小狐は、にこやかに答えた。
「お名前、死亡年月日、それから死因をご記入ください」
「死因……」
亡霊は少し考えた。
「……戦死でござる」
小狐は書類を確認した。
「もう少し具体的にお願いします」
「……斬られ申した」
「何で斬られましたか?」
「……刀で」
「どちらの軍の方に斬られましたか?」
亡霊はしばらく黙り、ひどく言いにくそうに答えた。
「……西軍の者に」
小狐の筆が止まった。
「……はい?」
「撤退の折、味方に間違えて斬られまして……」
小狐はゆっくり顔を上げ、亡霊と書類を交互に見た。
「……では、備考欄に詳しい経緯をご記入ください」
「……承知した」
亡霊は神妙な顔で筆を取り、四百年以上前の自分の最期を、今さら書類にまとめ始めた。
その隣では、別の亡霊が整理券を握りしめていた。
「……拙者、十七番でござるが」
「はい」
「今は何番まで進んでおりますか?」
小狐が番号表示を確認する。
「三番ですね」
「……あと、どれほど待てばよいのでしょうか」
「本来は四百年以上前にお手続きいただく案件でしたので、今回は特急扱いになっております。通常より優先して処理いたしますが、三〜五営業日ほどお時間をいただきます」
亡霊は、しばらく考え込んだ。
「……その、特急扱いには追加の銭が必要でござるか?」
「必要です」
小狐は即答した。
亡霊の顔が曇る。
しかし、小狐は書類を確認してから、にっこり笑った。
「ただし、お客様は所持金がありませんので、今回は無料です」
「……おお。それはありがたい」
亡霊は深く頷き、何となく納得した顔で椅子に座り直した。
四百年以上待った身である。あと三日や五日くらい、どうということはなかった。
◇
受付の一番奥には、稲荷神が座っていた。
目の前には山積みの書類。右手には印章、左手には次の申請書。
「はい、次の方」
ぽん。
「次の方」
ぽん。
「次の方」
ぽん。
その手つきには一切の迷いがなかった。さすがは局長である。
ただし、顔からは完全に笑みが消えていた。
その横で、謝将軍が亡霊たちの列を眺めていた。
しばらくして、ふと口を開く。
『……なあ』
「何でしょう」
『こいつら、手続きが終わったらどこへ行くんだ?』
「奪衣婆のところです。その後、三途の川へ向かっていただきます」
稲荷神は、書類から目も上げずに答えた。
『三途の川? それ、どこにあるんだ?』
稲荷神の手が止まった。
「……日本の冥界に決まっているでしょう」
『じゃあ、俺たちのところにある川は?』
「そちらは忘川でしょう。管轄が違います」
謝将軍は、なるほどという顔で頷いた。
『……じゃあ、相互承認制度とかないのか?』
稲荷神は、深く息を吸った。
「……その件は、玉皇大帝と閻魔大王にお問い合わせください」
『ああ、上の話になるのか』
「そういうことです」
そのとき、横から范将軍が口を挟んだ。
『ところで、ここに立ってるだけでも手当は出るのか?』
「出ません」
即答だった。
『…………』
范将軍は黙って腕を組んだ。どうやら、まだ納得していないらしい。
出口付近では、奪衣婆が亡霊たちを一人ずつ確認していた。
そして、一人の衣服を見るなり、深いため息をついた。
「……まったく。この着物、四百年以上も洗ってないじゃないか」
懸衣翁が横から覗き込んだ。
「……そうなると、量るときは割増にしてもいいんじゃないか?」
「そうだねえ。ずいぶん手間がかかるよ」
二人は、そろって稲荷神へ視線を向けた。
「局長、どうするんだい?」
稲荷神は、書類に印章を押しながら答えた。
「……私が何とかします」
奪衣婆の目が細くなった。
「へえ。何とかする、ねえ」
「……はい」
「前にもそう言ってたねえ」
稲荷神の手が止まった。
「…………」
「こっちは、あれから四百年も待ってるんだけどね」
「その話は今しないでください!」
思わず声を張り上げる稲荷神。
懸衣翁が真顔で付け加えた。
「……では、今回の分は別途請求ということで」
「まだ何も決まっていません!」
関ヶ原の戦場に、局長の悲鳴が響き渡った。
◇
阿忠と阿強は、大きな岩の陰にしゃがんだまま、その光景を眺めていた。
先ほどまで亡霊が暴れ回っていた場所には、今や白いプラスチック椅子が整然と並び、戦死した武士たちが番号札を握って順番を待っている。
三成と福島も、二人の傍らで言葉を失っていた。
「……なあ、阿強」
阿忠が口を開いた。
「今度、日本で何か手続きすることになったらさ、稲荷神に頼んだほうが早いんじゃないか?」
阿強は、受付の奥で猛烈な速さで印章を押している稲荷神を見た。
それから、阿忠へ顔を向けた。
「……無理だろ」
「なんで?」
「俺たち、台湾人だぞ」
「…………」
阿忠は少し考えた。
「……そうだった」
二人は、再び臨時市役所へ視線を戻した。
◇
そのとき、三成がふと顔を上げた。
関ヶ原の向こう、霧の奥にそびえる松尾山。
そこに、一つの人影が見えた。
三成は、その姿を見つめた。
四百年以上もの間、決して忘れたことのない姿だった。
『……小早川筑前中納言秀秋』
声には怒りも驚きもなく、ただ、その名を確かめるような響きだった。
隣にいた大谷も、松尾山へ目を向けた。
三成が一歩踏み出す。
その足取りには、先ほどまでとは違う暗さがあった。
だが、大谷が静かに手を伸ばした。
三成の肩へ、そっと置く。
何も言わなかった。ただ、そこに手を置いていた。
そのとき、松尾山の東から鉄砲の音が響いた。
乾いた銃声が続き、山中に緊張が走る。
陣幕の向こうにいた若い武将が、びくりと肩を震わせた。
小早川秀秋だった。
その足がかすかに震えている。背後では家臣たちが何かを叫び、彼へ決断を迫っていた。
秀秋は一歩、また一歩と後ずさり、とうとう陣幕の端まで追い詰められた。
顔は涙で濡れ、軍配団扇を握る手も震えている。
そして――秀秋は、泣きながら軍配を振り下ろした。
向けられた先は、大谷吉継の陣。
松尾山から無数の兵の影が動き出し、鬨の声とともに斜面を駆け下りていく。
やがて、その光景は霧に呑まれた。
あとに残ったのは、秋の草の上に跪く一人の若者だった。
秀秋は両手を地面についたまま泣いていた。声は小さかったが、肩の震えだけは止まらない。
十数分が過ぎると、松尾山の光景が再び動き始めた。
鉄砲の音。震える足。迫る家臣たち。
泣きながら振り下ろされる軍配。
そして、草の上に跪く若者。
何もかも、先ほどと同じだった。
三成は黙って見つめていた。
大谷が、小さく息を吐いた。
『……秀秋は、ずっとこうだ。四百年以上、同じ時を繰り返している』
三成は答えなかった。
あの日の敗北。失われた仲間。豊臣家の行く末。そして、決して忘れられなかった裏切り。
あの男が、すべてを壊した。
そう思わずにはいられなかった。
だが、三成は見ていた。
鉄砲の音がするたびに震え、家臣たちに迫られ、泣きながら命令を下す若者を。
何度も、何度も。
そのたびに最後は同じ場所へ戻ってくる。
十八歳の若者が、秋の草の上に跪いて泣いている。
四百年以上も、ずっと。
三成はゆっくりと手を上げ、自分の肩に置かれていた大谷の手を握った。
『……刑部』
『何だ』
『一緒に来てくれないか』
大谷は三成の横顔を見た。
しばらくして、静かに頷いた。
『……ああ』
◇
三成はまず、趙公明元帥のもとへ向かった。
趙元帥は、稲荷神のそばで亡霊たちの様子を眺めていた。
『元帥。一つ、お願いがあります』
趙元帥が三成へ目を向ける。
『縛龍索をお借りしたい』
「……ほう?」
三成は、少し離れた場所にいる脇坂安治を見た。
『脇坂安治を縛っていただきたいのです。あの男を大坂へ連れていき、太閤殿下にしかるべき沙汰を下していただきたい』
趙元帥は、しばらく三成を見つめていた。
そして、何も聞かずに頷いた。
「……よかろう」
手を一振りする。
次の瞬間、縛龍索が宙を走った。
金色の光を帯びた縄が脇坂安治へ巻きつき、その身体を瞬く間に縛り上げる。
もともと脇坂の周囲に絡みついていた黒い怨念は、そのままだった。だが、縛龍索によって身動きは完全に封じられた。
脇坂は抵抗しなかった。ただ、静かに目を閉じた。
趙元帥は三成へ言った。
「……行ってこい」
『かたじけない』
三成は深く頭を下げた。
そして、松尾山へ向かって歩き始めた。
阿忠と阿強が続き、福島もその後ろを歩いた。最後尾には、大谷吉継がいた。
五人は、関ヶ原の霧の中を松尾山へと進んでいった。
◇
松尾山の本陣では、あの光景がまた繰り返されていた。
小早川秀秋が、草の上に跪いて泣いている。
十八歳の若者だった。
肩を震わせ、顔を俯け、かすかな嗚咽を漏らしていた。
三成はその背後まで歩み寄ったが、すぐには声をかけなかった。
しばらく、小さな背中を見つめていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
ぽん、と肩を叩く。
秀秋の身体が、びくりと跳ねた。
恐る恐る振り返った先に、三成が立っていた。
秀秋の目が、大きく見開かれる。
『……治部少輔殿……?』
次の瞬間、秀秋は慌てて姿勢を正した。
その場で正座し、深々と頭を下げる。
『申し訳ございません!』
声が震えていた。
『私は……私は、取り返しのつかないことをしてしまいました! あなたを裏切り、太閤殿下を裏切り……本当に、何とお詫びすればよいのか……』
言葉が続かなかった。
秀秋は額を地面に近づけたまま、嗚咽を漏らした。
『どうか……どうか、お許しください……』
三成は長い間、何も言わなかった。
怒りは消えていない。四百年以上前のことだとしても、忘れられるものではなかった。
やがて、静かに口を開く。
『……私には、お前を許す資格がない』
秀秋は、ゆっくり顔を上げた。
『……では、誰に……誰に許しを請えばよいのでしょうか』
三成は答えた。
『太閤殿下だ。それから、北政所様もな』
そして、隣に立つ大谷へ目を向けた。
『……刑部にも』
秀秋の目が、大谷吉継を捉えた。
『……大谷殿』
大谷は何も言わず、静かに秀秋を見つめていた。
秀秋は再び頭を下げた。
『大谷殿……あなたが松尾山の方角に備えを置いておられたこと、私は存じておりました』
大谷は黙っていた。
『私が裏切るかもしれないと、わかっておられたのに……それでも……』
言葉が続かない。
秀秋は唇を噛んだ。
『それでも、私は……』
大谷が静かに口を開いた。
『……怖かったのだろう』
秀秋は、はっと顔を上げた。
『お前は、まだ十八だった。どちらの側からも迫られ、決断を求められていた。もし俺がお前の立場だったら、どうしたか……正直、わからん』
秀秋はしばらく大谷を見つめ、やがて俯いた。
『……ですが、大谷殿は……お亡くなりになりました』
大谷は何も言わない。
『私の……せいで……』
しばらくの沈黙のあと、大谷が答えた。
『……いろいろなことが重なったのだ。お前一人のせいではない』
秀秋は、もう一度深く頭を下げた。
三成が、その姿を見つめていた。
『……秀秋』
『……はい』
『お前が裏切ったのは、私一人ではない』
秀秋は顔を上げた。
『太閤殿下は、お前を我が子のように思っておられた。北政所様も、お前を育て、見守ってこられた。そのお二人の思いを、お前は裏切ったのだ』
秀秋の目から、また涙がこぼれた。
『……はい』
『本当に悔いているのなら、私たちとともに大坂へ来い』
秀秋は目を見開いた。
『太閤殿下と北政所様に、直接お目にかかるのだ』
『……ですが……』
『お二人がお前を許されるのなら、私も許そう』
三成は、真っ直ぐに秀秋を見た。
『……どうする。来るか?』
その声が、少しだけ柔らかくなった。
秀秋は答えなかった。
長い沈黙が流れた。
背後では、もう鉄砲の音がしなかった。家臣たちの声も聞こえず、軍配を振り下ろすあの瞬間も訪れない。
四百年以上にわたって繰り返されてきた場面が、初めて止まっていた。
秀秋はゆっくり顔を上げ、涙に濡れた顔で三成を見つめた。
『……参ります』
小さな声だった。だが、はっきりと聞こえた。
『太閤殿下に何を言われようとも、参ります』
三成は、静かに頷いた。
松尾山の秋風が草を揺らした。
もう、同じ場面は繰り返されなかった。
◇
大谷が、三成の隣へ歩いてきた。
『……治部』
『何だ』
『お前は、秀秋を恨んでいると言ったな』
三成は、松尾山の向こうに広がる関ヶ原を見つめたまま答えた。
『……恨んでいる』
『それでも、ここへ来た』
『……ああ』
大谷は三成の横顔を見た。
しばらく、そのまま黙っていた。
やがて、小さく笑った。
『……それでも、お前はお前だ』
三成が振り返る。
大谷は、静かに続けた。
『だから俺は、やっぱりお前と行く』
それは、四百年以上前に言えなかった言葉だった。
戦に敗れ、命を落とし、互いに別々の場所へ取り残されたまま、ついに伝えられなかった言葉。
今、ようやく言い終えることができた。
三成は何も言わなかった。
ただ、大谷の隣に立ち、遠くの関ヶ原を眺めていた。
やがて、二人の周囲を包む霧が、少しずつ薄れ始めた。
関ヶ原の空間そのものが消えたわけではない。
遠くでは、まだ小狐たちが整理券を配り、亡霊たちを受付へ案内している。
稲荷神も相変わらず書類に印章を押し、奪衣婆と懸衣翁は、これから何日かかるのかと文句を言い続けていた。
どうやら、日本の冥界の残業は、まだ始まったばかりらしい。
その光景を遠くに残したまま、阿忠と阿強たちの足元に白い光が満ちていく。
大谷は縛龍索の端を掴み、秀秋へ目を向けた。
『行くぞ』
『……はい』
次の瞬間、彼らの姿が光に包まれた。
関ヶ原には、まだ亡霊たちの列が続いていた。
◇
気がつくと、阿忠と阿強は新幹線の座席に座っていた。
窓もテーブルも、足元の荷物も、阿強のスマートフォンも、すべて元どおりだった。
車内には規則正しい走行音が響き、窓の外の景色が流れている。
新幹線は、何事もなかったように大坂へ向かっていた。
阿忠は自分の手を見て、それから阿強の顔を見た。
「……戻った?」
「……ああ。戻ってるな」
二人は顔を見合わせた。
何から話せばいいのかわからなかった。
そのとき、後ろの座席から声がした。
「あの……さっきの場所って、関ヶ原でしたよね?」
二人が同時に振り返る。
そこに、一人の少女が座っていた。
白衣に緋袴。
神社の巫女装束を身にまとい、手には御幣を持っている。
落ち着いた表情の少女だったが、その目にはどこかいたずらっぽい光があった。
「……え?」
阿忠が間の抜けた声を上げる。
少女は小さく笑った。
「感じたんです。あの場所から皆さんが戻ってきたときに、すぐにわかりました」
それから、阿忠と阿強の傍らへ視線を移す。
普通の人間には、何もいないように見える場所だった。
だが、少女はそこへ向かって、丁寧に問いかけた。
「石田治部少輔殿と福島左衛門大夫殿も、まだご一緒ですよね?」
三成と福島が、同時に黙った。
阿強も、一瞬言葉を失った。
「……あんた、何者?」
少女は、少しいたずらっぽく笑った。
「青葉といいます。出雲大社の巫女です。今は修行の旅の途中で」
御幣を膝の上へ置く。
「……出雲大社?」
「はい」
青葉は頷き、窓の外をちらりと見た。
「お二人は大坂へ?」
「……うん。俺たちも大坂へ……」
「私もです」
青葉は、にっこり笑った。
「奇遇ですね」
阿忠が次の言葉を探していた、そのときだった。
頭の中に、聞き覚えのある声が響いた。
『……阿忠』
「……はい?」
『あの娘、なかなかいいぞ』
阿忠の顔が引きつった。
『出雲大社の巫女だ。霊を見る目もあるし、力も弱くない。お前にはちょうどいいんじゃないか?』
「……元帥?」
『うむ』
「何を言い出すんですか!?」
趙公明元帥は、まったく気にした様子もなかった。
『さっきの関ヶ原でもな、あの娘は異変に気づいておった。飛び込もうとしたところで状況を見極め、無理に手を出すのをやめた。ああいう娘は賢いぞ。無鉄砲でもない』
「ちょ、ちょっと待ってください!」
阿忠は思わず声を上げた。
「元帥、さっきまで麻雀を打ってたじゃないですか!」
『神だからな。麻雀を打ちながらでも、その程度のことはわかる』
「そんな理屈がありますか!」
『おまけに、今日は勝ったから機嫌もいい。人を見る目も冴えておる』
「頼んでもいないのに、勝手に話を進めないでください!」
すると、青葉がくすりと笑った。
「ふふっ。神様にそんなふうに褒めていただけるなんて、光栄です」
「…………え?」
阿忠の動きが止まった。
青葉は、何事もなかったように微笑んでいる。
「……い、今の、聞こえてたの?」
「はい。最初から」
青葉はあっさり答えた。
阿忠は言葉を失った。
青葉は、阿忠に向けられた神の声まで、何事もないように聞き取っていたのだ。
その頭の中で、趙元帥が愉快そうに笑う。
『ほう! わしの声まで聞こえるのか! ますます気に入ったぞ!』
青葉は、少し丁寧に頭を下げた。
「恐れ入ります、元帥様」
『うむうむ。礼儀もよいな!』
「元帥ぃぃぃ!」
阿忠が叫んだ。
青葉は肩を揺らして笑った。
「大丈夫ですよ。出雲でも、自由奔放な神様はたくさんいらっしゃいますから」
そして、少し考える。
次の瞬間、口元にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「でも、神様が弟子の恋の世話まで焼くなんて、初めて見ました」
「…………」
阿忠は、完全に言葉を失った。
その横で、阿強がぼそぼそと何かを呟き始めた。
「……いいよなあ、阿忠は」
「……え?」
「俺だって、散々働いてきたのに」
阿強は、指を折りながら数え始めた。
「身体を貸したり、勝手に憑依されたり、亡霊に追いかけ回されたり……」
そして、思い出したように付け加えた。
「さっきなんか、三成の腕を掴んで、散弾銃みたいに亡霊どもをまとめて吹っ飛ばしたんだぞ!」
傍らの三成が、すかさず顔をしかめた。
『誰が散弾銃だ!』
だが、阿強は止まらない。
「なのに元帥は、阿忠のことばっかり! 俺のことなんか、便利な道具くらいにしか思ってないだろ!」
趙元帥の声が、今度は阿強の意識にも届いた。
『……わかった、わかった。次はお前の番だ』
「また次ですか!」
阿強が食ってかかる。
「前もそう言いましたよね! その前も! 俺が散々走り回ったときも、次だって!」
『うむ。次こそ必ずな』
「いつですか、その次って!」
『阿忠の話が片づいたらだ』
「いつ片づくんですか!」
趙元帥は、少し考えた。
『……今の半荘が終わってから、考えてやろう』
「はあ!?」
阿強の声が裏返った。
「さっき打ち終わったって言ってたじゃないですか!」
『新しい卓が立った』
趙元帥は、あまりにも平然と答えた。
『では、そういうことで。理解してくれて感謝する』
「理解してねえよ!」
阿強は、両手で顔を覆った。
青葉は、その一部始終を楽しそうに眺めていた。
阿忠と阿強の言葉も、趙元帥の声も、傍らにいる三成と福島の声も、彼女にはすべて聞こえている。
一人は真っ赤になって神様と口論し、もう一人は自分がどれほど酷使されてきたかを訴えている。
しかも、その横では戦国武将の霊体が呆れ顔で立っている。
しばらくして、青葉が小さく笑った。
「……面白い主神様ですね」
阿強は、両手の間から顔を上げた。
「面白くないですよ。ただ、俺のことを人間扱いしてないだけです」
青葉は、少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「人間じゃなくて、神様のお弟子さんとして扱っているんでしょうね」
「……そうなんですかね」
「だとしたら、もっと大変そうです」
「……ですよね」
阿強は、深く頷いた。
傍らで三成が、何か言いたそうに口を開いた。
『……今日は、実にいろいろなことがあったが』
そこで一度、言葉を切る。
『この件については、黙っておこう』
福島が、にやりと笑った。
『佐吉、お前は本当に色恋の機微がわからねえな』
『……お前に言われたくはない』
三成は、苦々しい顔で答えた。
青葉は二人の霊体にも目を向け、それから改めて阿忠と阿強に尋ねた。
「それにしても、お二人は台湾からいらしたんですよね?」
「ええ、まあ……」
阿忠が頷いた。
青葉は首を傾げた。
「どうして台湾の方が、これほどたくさんの戦国武将の英霊と一緒に旅をしているんですか?」
阿強が口を開いた。
「いや、それがですね……」
だが、説明を始めようとした瞬間、またしても趙元帥の声が割り込んできた。
『それは話せば長くなるのだがな』
「……元帥?」
阿忠が嫌な予感に顔をしかめた。
趙元帥は、構わず続ける。
『とにかく、うちの阿忠は人柄のよい男だ。少し付き合ってみればわかるぞ』
「元帥ぃぃぃ!」
阿忠が叫んだ。
青葉は、その言葉まではっきり聞こえていた。
そして、とうとう吹き出した。
それは愛想笑いではなく、本当におかしくて堪えきれなくなった笑いだった。
「ふふっ……!」
一度笑い始めると、なかなか止まらない。
阿忠は、ますます顔を赤くした。
ようやく笑いを収めた青葉は、目尻を拭いながら言った。
「……わかりました。大坂までは、まだ時間がありますし。ゆっくり聞かせてください」
阿強は隣の阿忠を見た。
阿忠も、阿強を見返した。
どうやら、今度は逃げられそうになかった。
◇
青葉は、ふと窓の外へ目を向けた。
正確には、窓の向こう――新幹線の屋根の方角だった。
その表情が、少しだけ真面目になる。
「……ところで」
阿忠が顔を上げた。
「はい?」
青葉は、何でもないことのように尋ねた。
「大谷吉継殿と小早川秀秋殿、それから脇坂安治殿も……皆さん、屋根の上にいらっしゃるんですか?」
阿強は、思わず瞬きをした。
「……そこまでわかるの?」
青葉は頷いた。
「はい。三人とも、ずいぶん強い気配ですから」
阿忠も、窓の外をちらりと見た。
「……大坂で、話をつけなきゃいけないことがあるんです」
「そうなんですね」
青葉は、それ以上聞かなかった。
その頃、新幹線の屋根の上では、大谷吉継が縛龍索の端を掴んでいた。
光の中から戻ったあと、大谷はその縄を引き、拘束された脇坂安治を屋根の上へ引っ張り上げていた。
今は小早川秀秋と向かい合って正座している。
二人とも、何も話していなかった。
少し離れたところでは、脇坂安治が縛られたまま静かに前を見つめていた。
その表情には、怒りも恐怖もなかった。
長い年月の果てに、ようやく何かが終わろうとしている。そんな、言葉にしがたい表情だった。
車内で、阿強が天井を見上げた。
「……なあ、阿忠」
「何?」
「屋根の上の三人、どんな顔してる?」
阿忠は、しばらく気配を探った。
そして、首を傾げた。
「……うまく言えないな」
「何だよ、それ」
「いや……何ていうかさ」
少し考える。
「やっと、って感じかな」
阿強は、天井を見上げたまま黙った。
青葉も、静かに頷いた。
それから背もたれへ身体を預け、ぽつりと言った。
「……すごい神様ですね、あなたの主神様」
阿忠が顔を向ける。
青葉は指を折りながら続けた。
「瘟疫を祓う神様が、四百年以上も残っていた病を取り除いて、戦国武将たちの因縁を解く手助けまでして……」
そこで、いたずらっぽく笑った。
「そのうえ、弟子の恋の世話まで焼くんですから」
「…………」
阿忠は、何も言えなかった。
青葉は楽しそうに続ける。
「出雲の大国主命も、もちろん立派な神様ですけど……こんなに面白い方ではありませんよ」
その瞬間、阿忠の頭の中に、またしても趙元帥の声が響いた。
『……うむ。あの娘、話がわかるな』
阿忠は、天井を仰いだ。
「……元帥」
『何だ』
「お願いですから……」
深く息を吸う。
「もう黙っててください!」
どこからともなく、趙元帥の愉快そうな笑い声が聞こえた。
◇
新幹線は、変わらず大坂へ向かって走り続けていた。
窓の外では、秋の景色が次々と流れていく。
車内では、台湾から来た二人の青年と、出雲大社の巫女が、ようやく旅の事情を話し始めていた。
その傍らでは、石田三成と福島正則が、相変わらず言い争っている。
そして、車両の屋根の上。
現代の新幹線の風を受けながら、三人の戦国武将の霊体が、それぞれの思いを胸に黙っていた。
大谷吉継。
小早川秀秋。
そして、縛龍索に拘束された脇坂安治。
大谷と秀秋は向かい合って正座したまま、一言も交わさなかった。
四百年以上もの間、言えなかった言葉。
四百年以上もの間、聞くことのできなかった返事。
その一つが、ようやく交わされた。
残りは、まだ終わっていない。
だが、それも大坂に着けば、いずれ向き合うことになるだろう。
新幹線は、秋の空の下を西へ走り続けていた。
**第十七話 終**




