第十八話 鴨川、北野天満宮、そして四つん這いの男
京都駅のホームに、新幹線が滑り込んだ。
ドアが開くと、阿忠と青葉が荷物を手に降りてきた。その後ろから、リュックを背負った阿強も続く。
そして、さらにその後ろには――誰もいなかった。
少なくとも、普通の人間にはそう見える。
実際には、阿強の周囲を五人の霊体が取り囲んでいた。
石田三成、福島正則、大谷吉継、小早川秀秋。そして、縛龍索で拘束されたままの脇坂安治。
大谷は縄の端を握り、脇坂を連れて歩いていた。どうやら、彼だけは自由に行き先を選べないらしい。
戦国武将が五人も連れ立って京都駅のホームを歩いているのだから、見える人間がいたら、さぞ奇妙な光景だったに違いない。
「なあ、阿強」
阿忠が振り返った。
「みんな、ちゃんとついてきてる?」
「全員いるよ」
阿強は、うんざりしたように答えた。
「元帥が、大坂へ行く前に京都でも見物してこいってさ。で、こいつらの案内役は俺だと」
その隣で、三成が眉を寄せた。
『……見物とは、何をするのだ?』
『歩き回って、いろんなものを見るんだろ』
福島が気楽に答える。
大谷は周囲を見渡した。
『……それで、どこへ向かう?』
その後ろで、小早川秀秋が小さく呟いた。
『京都……。ここへは、以前にも来たことがあります』
その言葉に、一同が少しだけ黙った。
秀秋は空気の変化を察し、俯いた。
『……すみません。私、また余計なことを……』
「別にいいって」
阿強は肩をすくめた。
「せっかく来たんだから、昔のことばっかり考えてないで、今の京都を見て回ろうぜ。買い物はできなくても、見るくらいはできるだろ」
『……そうですね』
秀秋が小さく頷いた。
その一方で、脇坂は縛龍索でぐるぐる巻きにされたまま、黙って立っていた。
どう見ても、観光客ではなく護送される側だった。
阿強はその姿を見て、ため息をついた。
「……まったく。京都観光にまで囚人付きかよ」
そのとき、阿忠の頭の中に趙公明元帥の声が響いた。
『おい、阿忠』
「……はい?」
『お前なあ、女の子と二人で歩くんだろうが。もう少し気を利かせろ』
「……何の話ですか?」
『荷物だよ、荷物! さっさと持ってやれ!』
阿忠が青葉の方を見る。
青葉は、自分の荷物を持ったまま、少し離れたところで待っていた。
『まったく、これだからお前は鈍いんだ。そんな調子じゃ女の子に相手にされんぞ』
「……元帥!」
『いいから手伝ってやれ。荷物を受け取るときに、ちょっと手が触れるかもしれんだろ? そういうところから始まるんだよ!』
「何が始まるんですか!」
『恋に決まってるだろうが! この馬鹿弟子!』
阿忠は顔を真っ赤にし、慌てて青葉のところへ駆け寄った。
「あ、あの! 荷物、持とうか?」
青葉は彼を見た。それから何も言わずに荷物を差し出す。
「ありがとうございます」
阿忠は両手で受け取った。
その様子を見ていた阿強が、ぼそぼそと呟く。
「……やっぱり三太子のところに行けばよかった」
「……何?」
「いや、何でもない。降駕できるからって、ここまで贔屓する神様も珍しいよなあって」
青葉は二、三歩進んだところで、ふと足を止めた。
そして、誰もいない空間へ向かって、穏やかな声で言った。
「……あの、趙元帥様」
『ん?』
「中国からお越しの神様に、失礼を承知で申し上げますけど」
阿忠がぎくりとした。
青葉は、にっこり笑った。
「今のお話、全部聞こえていますよ」
『…………』
珍しく、趙元帥が黙った。
青葉は続けた。
「それに、女の子がデートするときって、相手の男の子の保護者までついてきてほしいと思います?」
阿忠はその場で固まった。
阿強も口を開けた。
少しして、趙元帥が気まずそうに咳払いした。
『……あー、そうだな。確かに、そういうものか』
「そういうものです」
『うむ。では、わしは席を外そう』
「……え?」
『ちょうど麻雀の続きをやるところだったしな』
阿忠の頭の中で、趙元帥が急に早口になった。
『阿強! 五人を連れて京都を見物してこい! 阿忠は青葉殿をしっかり案内しろ! では、わしは失礼する!』
「ちょっと、元帥――」
『健闘を祈る!』
そこで声が途切れた。
静かになった。本当に、静かになった。
阿忠は青葉の荷物を抱えたまま、京都駅のホームに立ち尽くしていた。顔はまだ真っ赤だった。
青葉はその顔を見て、とうとう吹き出した。
「ふふっ……行きましょうか」
「……うん」
「京都には、散歩するのにいい場所がたくさんありますよ」
◇
阿強は五人の霊体を連れ、阿忠たちとは別の方向へ歩き始めた。
『……ところで、観光の目的は何なのだ?』
三成が真面目な顔で尋ねた。
「だから、歩いて見て回るんだよ。気分転換」
『気分転換……』
三成は、その言葉を吟味するように繰り返した。
『私には、その必要はないと思うが』
「じゃあ俺の気分転換に付き合ってくれ」
『……それならば、仕方あるまい』
福島は、すでに楽しそうだった。
『おう、行こうぜ! 四百年以上もまともに外を歩いてねえんだ。今の京がどんなふうになってるか、見てみたいもんだ!』
大谷も小さく頷く。
『そうだな。せっかくの機会だ』
秀秋は周囲の現代的な建物を見上げ、驚いたように目を瞬かせていた。
脇坂だけは何も言わない。もちろん、縛られたままだった。
阿強は五人を振り返った。
「……よし。じゃあ行くぞ」
こうして、台湾から来た青年一人と、四百年以上前の武将五人による、奇妙な市内観光が始まった。
◇
阿忠と青葉は、鴨川の方へ向かって歩いていた。
京都の秋は、まだ深まりきってはいない。
街路樹の葉が少しずつ色づき始め、遠くの山々には薄い霞がかかっていた。行き交う人々の声も、秋の風の中ではどこか穏やかに聞こえる。
阿忠はというと、ずっと落ち着かない様子だった。何か話そうと思うたびに、言葉を選んでいるうちにタイミングを逃してしまう。
青葉の方は、そんな彼を特に気にする様子もなく、自然に話しかけてきた。
「京都は初めてですか?」
「いや、一度だけ来たことがあるよ。でも家族旅行だったから、あんまりゆっくり見られなくて」
「じゃあ、今回は少し違いますね」
「うん?」
「戦国武将の英霊が五人も同行していますから」
阿忠は苦笑した。
「同行っていうか……気づいたら五人に増えてたんだけどね」
「似たようなものですよ」
青葉は楽しそうに笑った。
そんなことを話しながら歩いているうちに、二人は鴨川のほとりへ出た。
賀茂川と高野川が合流する辺りでは、澄んだ水がさらさらと流れ、河原には広い草地が続いている。
少し離れた石の上には、白鷺が一羽、じっと立っていた。
青葉が川の方を指さす。
「あ、飛び石!」
浅い流れの中に、いくつもの石が並んでいた。中には亀の形をしたものもあり、石から石へ跳び移れば、川を渡れるようになっている。
「阿忠、渡ったことあります?」
「……いや、ないけど」
「じゃあ、渡ってみましょう」
青葉はそう言うなり、軽やかに最初の石へ跳び移った。着地すると、くるりと振り返る。
「ほら、こっちです」
「えっ、今?」
「今です」
阿忠は川の流れを見下ろした。
それから、先ほど趙元帥に言われた言葉を思い出す。
――荷物を受け取るときに、ちょっと手が触れるかもしれんだろ?
また、顔が熱くなった。
阿忠は慌てて青葉のいる飛び石へ跳び移った。そこでようやく彼女に追いつき、次の石を見てから、ぎこちなく手を差し出す。
「……手、貸そうか?」
青葉は一瞬その手を見た。
そして、何のためらいもなく握った。
「ありがとう。じゃあ、次ね」
阿忠は固まった。
青葉はその手を借りて次の石へ跳び移ると、振り返って笑った。
「……阿忠?」
「……え?」
「いつまでそこに立ってるんですか。次ですよ」
「あっ、うん!」
阿忠は慌てて次の石へ跳んだ。
青葉は笑いながら、さらに先へ進んでいった。
◇
川を渡り終えると、二人は河原の草地に腰を下ろした。
鴨川の水が、目の前を静かに流れている。
しばらく景色を眺めていた青葉が、ふと尋ねた。
「そういえば、阿忠の主神様って、中国の神様なんですよね?」
「うん。台湾では、いろんなお宮で祀られてるよ。正式には玄壇真君とも呼ばれるけど、趙元帥とか、武財神って呼ぶ人も多いかな」
「武財神……。財運の神様なんですか?」
「そう。でも、古くから疫病を祓う神様としての役目もあるんだ。除瘟剪瘧っていって、悪い病を取り除く力がある」
阿忠は、関ヶ原での出来事を思い出した。
「今日、大谷殿の病を取り除いたのも、その力だよ」
青葉は頷いた。
「見ていました。元帥様、何もおっしゃらずに、大谷殿の肩へ手を置かれましたよね」
「うん。そういうときは、あんまり偉そうなこと言わないんだよね。黙ってやっちゃう」
阿忠は少し笑った。
「普段はあんなにうるさいのに」
「ふふっ。そうなんですね」
「それで、趙元帥の話って、もともとは中国の古い物語に出てくるんだ」
阿忠は、川を眺めながら続けた。
「商の時代を舞台にした話でね。今から三千年以上も昔のことになる。あの頃はまだ神様じゃなくて、峨眉山で修行していた道士だったんだ」
「道士……?」
「うん。それが截教と闡教っていう二つの勢力の争いに巻き込まれてさ。ものすごい戦いになって、たくさんの仙人が命を落としたんだよ。趙元帥もその一人で、戦いのあと神様に封じられたんだ」
青葉は興味深そうに聞いていた。
「截教と闡教……。ずいぶん大きなお話ですね」
「すごく複雑だよ。そこから疫病を祓う神様として祀られたり、財神としての信仰が広まったりして、今の武財神になったわけ」
「なるほど……」
青葉は少し考え、それから笑った。
「それで、三千年以上もかけて、ついに日本へ遊びに来たんですね」
「そういうこと」
阿忠も笑った。
「しかもパスポートの期限が切れてるのに、こっそり入国しようとしてさ。霊界の入国管理局で引っかかって、拘留中に麻雀を始めちゃったんだから」
「……それは、また」
「そもそも、俺と阿強がポテトチップスを食べてたら、懸賞で日本行きの航空券が当たったんだ。それを聞いた元帥が、自分も行くって言い出して」
阿忠は、ため息をついた。
「黒虎将軍を台湾のお宮に置いて、自分だけ遊びに来たんだよ。おかげで俺たちは、ずっと後始末をしてる」
青葉は、一度話を整理するように指を折った。
「つまり……ポテトチップスで航空券が当たって、神様がついてきて、その神様が入国審査で捕まって、今はお二人が助けようとしているんですね?」
「……そう」
「しかも、その途中で戦国武将の英霊が五人増えた」
「……そう」
青葉は、しばらく阿忠を見つめていた。
そして、真面目な顔で言った。
「……阿忠。今回の旅行、最初から普通じゃありませんね」
「うん。最初から普通じゃなかった」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
少しして、阿忠が尋ねた。
「そういえば、青葉のところの大国主命は?」
「はい?」
「どんな神様なの?」
青葉は、少し考えた。
それから、何でもないことのように答えた。
「……うちの大国主様ですか」
「うん」
「基本的に、ヒモなんです」
「…………は?」
阿忠は思わず聞き返した。
青葉は平然としていた。
「女の人にはやたらモテるし、奥さんに助けてもらってばかりだし、勝ち目がないと見るとすぐ逃げるし……」
「……ちょっと待って」
「おまけに、お義父様が寝ている隙に、宝物を持ち出して逃げたことまであるんですよ」
「……それ、自分が仕えてる神様の話だよね?」
「はい。事実ですから」
青葉は、さらりと言った。
阿忠はしばらく黙り込んだ。
「……すごい神様だね」
「でしょう?」
青葉は、むしろ楽しそうだった。
「ちなみに、そのお義父様には、阿忠も会っていますよ」
「……え?」
「須佐之男命です」
阿忠は目を見開いた。
「……歌舞伎町の?」
「はい。ゴールデン街にいらした、あの方です」
「……えっ、青葉もあそこにいたの?」
「いましたよ」
青葉は、いたずらっぽく笑った。
「実は、歌舞伎町の頃から、皆さんのことを見ていたんです」
「……ええっ!?」
「阿忠たちの周りに、普通じゃない霊体がいるのを感じたので、気になってしまって。少し離れたところから、ずっと様子を見ていました」
「じゃあ、あのときのことも……?」
「全部です」
青葉は指を折り始めた。
「絡んできた人たちがあっという間に倒されたところも、須佐之男命を『桐生さん』とか『四代目』って呼んでいたところも……」
そして、笑いを堪えるように口元を押さえた。
「お酒を飲みすぎて、天照大神様に思いっきり叱られていたところも」
「…………」
阿忠は、しばらく何も言えなかった。
やがて、おそるおそる尋ねる。
「……じゃあ、関ヶ原でも?」
「ええ、いました」
青葉は頷いた。
「大谷殿の霊気が荒れ始めたときは、私も止めに入ろうと思ったんです。でも、趙元帥と稲荷神様が来られたので、手を出すのはやめました」
「……そうだったんだ」
「あれだけの神様がいらっしゃるなら、私が無理に飛び込む必要はありませんから」
阿忠は、青葉の顔を見つめた。
「……ずっと、俺たちの後を追ってたんだね」
「はい」
青葉は少しだけ表情を改めた。
「……嫌でした?」
阿忠は首を振った。
「ううん。別に嫌じゃないよ」
少し考えてから、付け加える。
「むしろ……ありがとう、かな」
青葉は、ふっと笑った。
「それなら、よかったです」
そして、再び鴨川へ目を向けた。
「……あ、そうそう。大国主様の話でしたね」
「……うん」
「さっきは、ああいう言い方をしましたけど」
青葉の声が、少し穏やかになった。
「本当に大事なときには、すごく頼りになるんです」
阿忠は黙って聞いていた。
「普段は女性関係も派手ですし、都合が悪いと逃げますし、昔のことを持ち出されると、すぐ機嫌を悪くなさいますけど……」
青葉は、小さく笑った。
「でも、いざというときには、ちゃんと助けてくださるんですよ」
「……そっか」
「だから、私はあの方にお仕えしているんです」
阿忠は、しばらく鴨川の流れを眺めていた。
そして、小さく頷いた。
「……うちの元帥も、似たようなものかな」
「そうなんですか?」
「普段は麻雀ばっかりしてるし、勝手に俺の恋愛の世話を焼こうとするし、何かあるたびに俺と阿強を使い走りにするけどさ」
阿忠は苦笑した。
「でも、関ヶ原で大谷殿の病を取り除いたときは、何も言わなかった。ただ手を置いて、それだけだった」
青葉は、静かに頷いた。
「……神様って、そういうものなのかもしれませんね」
「……うん?」
「普段は私たちを振り回してばかりなのに、本当に困ったときには、ちゃんとそばにいてくださる」
阿忠は少し考え、それから笑った。
「……そうだね」
二人は、そのまましばらく黙っていた。
目の前を流れる鴨川の水は、秋の日差しを受けて静かに輝いている。
白鷺が一羽、浅瀬から飛び立った。
不思議と、気まずさはなかった。
◇
しばらくして、二人は草地から立ち上がった。
特に目的地を決めることもなく、京都の街を歩き始める。
大通りを抜け、古い家並みの残る道へ入り、時折、気になった店先を覗いてみる。
そんなふうに歩いているうちに、青葉が不意に足を止めた。
「……あ」
「どうしたの?」
青葉は、前方を見つめていた。
阿忠も顔を上げる。
そこには、大きな鳥居が立っていた。
北野天満宮。
その名を認めた瞬間、青葉の表情が変わった。
「……阿忠」
「うん?」
「ここは、あまり近づかないほうがいいです」
「……え? なんで?」
「菅原道真公をお祀りしているところですから」
阿忠は首を傾げた。
「菅原道真って……学問の神様じゃないの?」
「ええ。今では天神様として広く信仰されていますけど……」
青葉は、声を少し落とした。
「日本三大怨霊の一柱でもあるんです」
「……怨霊?」
「はい。私たちが軽々しく関わっていいお方ではありません」
青葉は、迷うことなく阿忠の手を取った。
「行きましょう。ここは、余計なことに首を突っ込まないほうがいいです」
「……そんなに?」
「そんなに、です」
青葉は足早に歩き始めた。
阿忠も、慌ててついていく。
二人は鳥居から離れ、横道へ入った。
さらに角を曲がり、細い路地へ進む。
そして――。
行き止まりだった。
「……あれ?」
阿忠が足を止めた。
目の前には、高い塀がある。
青葉も周囲を見渡した。
「……道、間違えましたね」
「……うん」
二人が引き返そうとした、そのときだった。
路地の入口が、暗くなった。
何かが、そこにいた。
阿忠がゆっくり振り返る。
そして、息を呑んだ。
巨大な蜘蛛だった。
普通の蜘蛛とは比べものにならないほど大きく、毛に覆われた脚が路地の両側へ伸びている。薄暗い場所で、その体毛が鈍く光を反射していた。
蜘蛛は、入口を完全に塞いでいた。
阿忠は、蜘蛛の腹に走る傷跡に気づいた。
大きな刀傷だった。
腹部を横切るその傷は、何か途方もなく古い刃物によって刻まれたように見えた。
青葉の顔から、血の気が引いた。
「……土蜘蛛」
「……え?」
「源頼光に斬られたという、あの土蜘蛛です……」
声が震えていた。
「千年以上前の大妖怪……。あのとき、死にきれなかったんですね……」
巨大な蜘蛛が、ゆっくりと脚を動かした。
その口元から、湿った声が漏れる。
『……おお……』
何かを嗅ぎ取るように、蜘蛛が身体を揺らした。
『この人間ども……なんと旨そうな霊力だ……』
阿忠は、一歩後ずさった。
蜘蛛の口元から、粘ついた涎が垂れた。
『実に……juicy……!』
「…………」
『たまらん……。ずっと腹を空かせておったのだ……』
蜘蛛は、さらに一歩、路地の奥へ踏み込んだ。
『さあ……一口だけ……ほんの一口、かじらせてくれぇ……』
その声音には、奇妙な楽しさがあった。まるで、目の前に極上の料理を出された客のようだった。
阿忠は青葉を庇うように前へ出た。
そして、両手を合わせた。
「元帥! 元帥、聞こえますか!」
すぐに、頭の中へ声が響いた。
『うるさい!』
「……えっ?」
『危うく振り込むところだっただろうが!』
「麻雀してる場合じゃないですよ!」
『わかっておる! もう手は打ってあるから、少し待て!』
「……何を待てって――」
『じゃあな!』
声が途切れた。
阿忠は、その場に立ち尽くした。
「…………」
目の前では、土蜘蛛がじりじりと近づいてくる。
青葉が御幣を握り直した。
「……阿忠、下がって」
「いや、でも……」
そのときだった。
阿忠の足元から、何かが這い上がってきた。
冷たいものではない。むしろ、身体の奥底に眠っていた熱が、一気に目を覚ますような感覚だった。
これまで武将の霊に身体を貸したときとは、まるで違う。
人間の理屈や言葉よりも先に、獣の本能が全身を駆け巡っていく。
阿忠の背が、ゆっくりと沈んだ。
膝が曲がる。
両手が、地面についた。
そして――。
「……連れてこなかったからって、俺が来られないと思ったか?」
阿忠の口から、低い声が漏れた。
いつもの彼の声ではなかった。荒々しく、どこか獣の唸りを思わせる声だった。
「言っておくがな。稲荷の奴とは、俺のほうが古い付き合いなんだぞ」
阿忠の身体が、完全に四つん這いになった。
跪いたのではない。
両手と両足で地面を捉え、今にも獲物へ飛びかかろうとする虎の姿勢だった。
黒虎将軍。
趙公明元帥の乗騎であり、台湾のお宮に置いてこられたはずの、あの黒虎だった。
青葉は、思わず半歩下がった。
目の前には、台湾から来た一人の青年がいる。
ただし、四つん這いだ。
そしてその顔は、巨大な土蜘蛛に向かって、明らかにこう言っていた。
――お前、何様のつもりだ?
次の瞬間、黒虎が跳んだ。
◇
それは、人間の戦い方ではなかった。
地を蹴り、飛びかかり、相手を押さえ込もうとする。
土蜘蛛が横へ逃れると、黒虎は着地と同時に身体を捻り、爪を振り抜いた。
土蜘蛛が糸を吐く。
白い糸が路地の壁に張りつき、黒虎の進路を塞いだ。
だが、黒虎は地面を蹴って身をかわし、そのまま蜘蛛の懐へ潜り込む。
鋭い爪が、古い刀傷の上を抉った。
『ぎゃあああっ!』
土蜘蛛が奇怪な叫び声を上げた。
『な、何だ、この力は……! 人間の霊力ではないぞ!』
「当たり前だろうが」
黒虎は四つん這いのまま、土蜘蛛を中心にゆっくりと回り始めた。
「お前、自分が誰を相手にしてると思ってんだ?」
土蜘蛛が脚を振り上げる。
黒虎は低く身を伏せ、その下を潜り抜けた。
そして、もう一度爪を振るう。
古傷が、さらに深く裂けた。
『ぐおおっ……!』
その頃、青葉は懐から小さな鼓を取り出していた。指先で打ち鳴らすと、澄んだ音が路地に響き始める。
とん。
とん、とん。
初めはゆっくりと。
それから、少しずつ速く。
鼓の音には、ただの楽器の響きとは違うものがあった。
出雲で受け継がれてきた神楽の調べ。
一打ごとに、空気が清められていくようだった。
青葉の足元から、淡い光が広がる。その光が鼓の音に合わせて揺れ、路地の空気を満たしていった。
土蜘蛛が、ぴたりと動きを止めた。
『……何だ?』
鼓が鳴る。
とん、とん、とん。
『……おい、待て……』
青葉は答えなかった。ただ、神楽の調べを刻み続ける。
土蜘蛛が後ずさった。
『この気配……まさか……!』
その隙を、黒虎は見逃さなかった。
「よそ見してんじゃねえ!」
地面を蹴り、土蜘蛛へ飛びかかる。
爪が、再び古傷を捉えた。
『ぎゃあああっ!』
土蜘蛛が大きくよろめいた。
その瞬間、青葉を包む気配が変わった。
彼女自身の霊力とは、明らかに違う。もっと大きく、もっと古い神気が、その身体へ降りてきたのだ。
鼓の音が止まった。
青葉が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その口から低い男の声が漏れた。
『……ったく、この馬鹿娘が』
阿忠の身体を使っている黒虎が、ちらりとそちらを見る。
『よりによって外国人の前で、俺の黒歴史を洗いざらい喋りやがって……!』
その声には、怒りと呆れが入り混じっていた。
『少しは主神の面子ってものを考えろ! ヒモだの、逃げ足が速いだの、盗人だの……好き放題言いやがって!』
青葉の身体から、白い光が溢れ出した。
『……くそっ。だからって、こいつを見殺しにするわけにもいかねえしな』
声は、さらに不機嫌になった。
『万が一こいつに何かあったら、あの親父が黙ってるわけねえだろ……!』
黒虎が、低く笑った。
『……誰のことだ?』
『決まってるだろ。須佐之男命だよ!』
その名を口にした途端、声はますます苦々しくなった。
『ただでさえ昔のことで頭が上がらねえってのに、今度はこの娘を見殺しにしたなんて知れたら、何をされるかわかったもんじゃねえ!』
そして、盛大にため息をついた。
『……結局、俺が助けるしかねえじゃねえか!』
青葉の右手に、光が集まり始めた。
やがて、その光が弓の形を取る。
古い神話の時代から伝わる、白く輝く弓だった。
生弓矢。
大国主命が、かつて須佐之男命のもとから持ち出した神器である。
大国主命は、その弓を見下ろして舌打ちした。
『……ったく。よりによって、またこいつを使う羽目になるとはな』
黒虎が、ちらりと弓を見る。
『……お前、それ……』
『うるせえ! 今それを言うな!』
『まだ何も言ってねえだろ』
『言わなくてもわかるんだよ!』
大国主命は、ますます不機嫌そうに弓を構えた。
『そもそも盗んだんじゃねえ! 持って出ただけだ!』
黒虎は、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと呟く。
『……それ、盗んだって言うんじゃねえのか?』
『黙ってろ! 狙いが狂う!』
白い光が弦に集まり、一本の矢となって輝く。
土蜘蛛が、その光を見て悲鳴を上げた。
『ま、待て! それは……!』
巨大な身体が跳ね上がる。逃げようとしたのだ。
しかし、遅かった。
大国主命の指が、弦を離した。
白い光が一閃し、生弓矢から放たれた矢が、土蜘蛛の腹に刻まれた古傷の中心を寸分違わず射抜いた。
『ぎゃあああっ!』
白い亀裂が腹部から広がり、土蜘蛛の巨大な身体が宙で硬直する。
その隙を、黒虎は見逃さなかった。
『これで終わりだ!』
地面を蹴って飛びかかり、亀裂の中心へ爪を叩き込む。
次の瞬間、土蜘蛛の身体が内側から砕け散った。
脚も、胴も、頭部も、無数の光の欠片となって崩れ落ちる。欠片は地面へ落ちる前に消え、路地には何も残らなかった。
それは、亡霊が霧に溶けるような消え方ではなかった。長い年月を生き延びてきた大妖怪の存在そのものが、ここで断ち切られたのだ。
千年以上前、源頼光の刃を受けながらも生き延びた土蜘蛛。
その最期は、京都の名もない行き止まりの路地で訪れた。
◇
大国主命は、青葉の身体を借りたまま、しばらくその場に立っていた。
そして、目の前で四つん這いになっている阿忠を見下ろす。
『……おい』
黒虎が顔を上げた。
『何だ?』
『お前、趙公明の弟子か?』
黒虎は、鼻で笑った。
『違う。俺はあいつの乗騎だ』
『……乗騎?』
『弟子なら、今まさに俺の下敷きになってるぞ』
大国主命は、四つん這いの阿忠をしばらく眺めた。
『……そういうことか』
少し考えてから、尋ねる。
『……趙公明の奴、麻雀で負けたのか?』
『いや、勝ったぞ』
黒虎は平然と答えた。
『勝って機嫌がいいもんだから、弟子の恋の世話まで焼き始めた』
大国主命は、ゆっくりと自分が使っている青葉の身体へ視線を落とした。
『……その相手が、うちの娘か』
『そういうことだ』
大国主命は、深くため息をついた。
『……ったく』
少し黙る。
『まあ、いいか。うちの娘は昔からこういう性格だ。好きにさせるさ』
その言葉を最後に、青葉の身体から神気がすっと引いていった。大国主命が戻ったのだ。
黒虎も、小さく鼻を鳴らした。
『……じゃあな。あとは自分で何とかしろよ』
阿忠の身体を満たしていた獣の気配が、静かに消えていく。
次の瞬間、阿忠は四つん這いの姿勢のまま、我に返った。
「…………」
まず、自分の両手を見た。次に、地面を見る。そして、恐る恐る顔を上げた。
「……終わった?」
青葉が、髪を整えながら頷いた。
「終わりました」
阿忠は、ゆっくり立ち上がった。膝についた泥を払い、手のひらを見つめる。
「……何か、すごく疲れた」
青葉は、そんな彼をじっと見ていた。
そして、真面目な顔で言った。
「阿忠」
「……何?」
「さっき、ずっと四つん這いでしたよね」
「……知ってる」
「虎みたいでした」
「……主神の乗騎が降りてきたからね」
「……しかも、本当に虎なんですね」
「知ってるって」
青葉は阿忠の顔を見て、次に土蜘蛛が消えた場所へ目を向け、それからもう一度彼を見た。
とうとう、堪えきれなくなった。
「……ふふっ」
「……何?」
「ふふふっ……!」
青葉は口元を押さえたが、笑いは止まらない。
「ご、ごめんなさい……でも……!」
「……そんなにおかしい?」
「だって……!」
青葉は、涙が出るほど笑いながら言った。
「出雲大社で十年修行してきましたけど……今日ほど変な一日は、初めてです!」
阿忠はしばらく青葉を見つめ、それから小さくため息をついた。
「……俺もそう思うよ」
「ふふっ……!」
「でも、日本に来てから、毎日こんな感じなんだよね」
その言葉を聞いて、青葉はますます笑った。
◇
二人は行き止まりの路地を出て、京都の街へ戻った。
いつの間にか、空は夕暮れの色に変わり始めていた。街灯が一つ、また一つと灯り、秋の夕風が少し冷たく感じられる。
阿忠と青葉は、並んで歩いた。
「……ねえ、阿忠」
「うん?」
「毎日こんな感じって言ってましたよね」
「うん」
「趙元帥様は、いつになったら普通に旅行させてくれるんでしょうね?」
阿忠は少し考えた。
「……麻雀が終わってから、かな」
青葉は、間髪入れずに答えた。
「それ、永遠に終わらないじゃないですか」
「……うん」
阿忠は頷いた。
「たぶん、永遠に終わらない」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
そのまま、阿強たちと合流するため、京都の夕暮れの中を歩き始める。
そのときだった。
阿忠の頭の中に、ひどく小さな声が響いた。
『……おい、阿忠』
「…………」
『どうだ? 悪くない娘だろう?』
阿忠の顔が引きつった。
『わしの目に狂いはなかったな』
「……元帥」
『ん?』
「もう黙っててください!」
『はいはい。わかった、わかった』
趙元帥は、妙に機嫌のよい声で答えた。
『じゃあ、麻雀に戻るとするか』
そこで、また声が途切れた。
京都の夕暮れは、静かだった。
少なくとも、次に何かが起きるまでは。
**第十八話 終**




