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第十九話 西本願寺、土方歳三、そして森蘭丸の書類鞄

阿強は、腹を立てていた。


京都駅で阿忠たちと別れてからというもの、ずっと文句を言い続けている。


「元帥の野郎、次は俺の番だって言ったよな? その『次』っていつだよ。今の半荘が終わってからか? この前も終わったらって言ってたし、その前だって……」


背中のリュックを揺らしながら、阿強はぶつぶつと不満を並べ立てた。


「そもそも、俺だって今日は散々働いたんだぞ。三成の腕を掴んで散弾銃みたいに使う羽目になるし、亡霊には襲われるし、関ヶ原じゃ危うく――」


そこで、ふと気づいた。


隣に誰もいない。


「……あれ?」


顔を上げると、五人の霊体はいつの間にかずっと先を歩いていた。


先頭は福島正則。その後ろを大谷吉継が続き、片手には縛龍索の端が握られている。縄の向こうでは脇坂安治が引っ張られるように歩き、小早川秀秋は辺りの景色を眺めながらその後を追っていた。


石田三成に至っては、道沿いの建物を興味深そうに見上げている。


誰一人、阿強が遅れていることなど気にしていなかった。


「……おい!!」


返事がない。


「お前らぁぁぁ!!」


それでも振り返らない。


阿強は大きく息を吸い込むと、全力で走り出した。


「待てって言ってんだろ! 薄情者ども! いや、もう人間じゃねえけど! 少しは俺を慰めるとか、そういう気遣いはないのかよ!!」


ようやく追いついた頃には、すっかり息が上がっていた。


膝に手をつき、肩で息をする阿強を見て、三成が足を止めた。


『……阿強』


「……何だよ」


『私は、お前のことを気にかけているぞ』


阿強は顔を上げた。


「……え?」


『先ほど走って追いついてきたとき、ひどく息が切れていた』


「……それで?」


三成は、いたって真面目な顔で続けた。


『体力が心配だ。乩童たるもの、もう少し身体を鍛えたほうがよいのではないか?』


「…………」


阿強はしばらく三成を見つめた。


そして、満面の笑顔を作った。


「ご心配どうもありがとうございまぁぁぁす!!」


『……礼には及ばん』


「褒めてねえよ!!」


そのやり取りを聞いて、福島が振り返った。


『おい、阿強。腹が減ってるんじゃねえか?』


「……は?」


『さっき、あっちに旨そうな店があったんだ。何を売ってるのかはわからねえけど、なかなかよさそうだったぞ』


「お前、身体ないだろ! どうやって食うんだよ!」


『俺が食うとは言ってねえ。お前が食うんだよ。俺は横で見てるから』


「……見てどうすんだよ」


『旨そうに食ってるところを眺める』


「余計に嫌だわ!!」


阿強は深くため息をついた。


もう怒る気力もなくなってきた。


「……もういいよ。で、どこ行くんだ?」


福島は待ってましたとばかりに胸を張った。


『俺についてこい! 京都の道なら、この俺が案内してやる!』


「……四百年前の京都だろ?」


『うるせえ! 京は京だ!』


そう言って、福島は先頭を歩き始めた。


     ◇


福島正則の案内は、実に騒々しかった。


『こっちだ、こっち! この道は知ってるぞ! 昔、京に来たとき何度も通ったんだ!』


足取りも軽く、道の角を指さす。


『あそこには漬物屋があったはずだ。まだやってるかな?』


三成が後ろから冷静に言った。


『市松。その店なら、とっくにコンビニになっているのではないか?』


『何でわかるんだよ! まだあるかもしれねえだろ!』


『四百年も経っているのだぞ』


『だから何だ! 見てもいねえくせに決めつけるな!』


阿強は二人の後ろで目を剥いた。


「……お前ら、よくそんなことで喧嘩できるな」


大谷は、現代の京都の街並みを静かに眺めていた。


しばらく歩いたところで、ふと足を止める。


『……ここには、昔、橋があった』


三成が振り返った。


『そうだったな』


『今はもうない』


『……四百年だ』


大谷は、かすかに笑った。


『ああ。四百年も経てば、なくなるものも多い』


小早川秀秋は何も言わず、ただ周囲を見ていた。


人々の服装も、走り抜ける車も、空へ伸びる建物も、彼の知る京には存在しなかったものばかりだ。


それでも、街角に残る古い石垣や、寺の屋根がふと視界に入るたび、どこか懐かしそうに目を細めていた。


四百年以上が過ぎた京は、かつての姿をほとんど失っている。


だが、何もかもが消えたわけではなかった。


阿強はそんな彼らを眺めながら、少しだけ歩く速度を緩めた。


「……まあ、せっかくだしな。ゆっくり見ていけばいいか」


ところが、福島は相変わらず大股で先へ進んでいる。


『おい、阿強! 何してんだ、早く来い!』


「……だから、お前が案内役のつもりになるなって!」


     ◇


そうして歩いているうちに、一行は西本願寺へたどり着いた。


立派な門をくぐり、広大な境内へ入った途端、福島の様子が変わった。


『おおっ! 阿強、こっちだ! こっちを見ろ!』


福島は大きな建物を指さし、得意満面で胸を張った。


『ここが西本願寺だ! 太閤殿下が本願寺に土地を与えられた、由緒ある場所だぞ!』


「……へえ」


『ところが、関ヶ原のあとであの古狸が余計なことをしやがってな! 本願寺を東と西に分けちまったんだ!』


「あの古狸って?」


『家康に決まってるだろ!』


福島は鼻を鳴らした。


『まったく、あの親父は昔から帳簿だの手続きだのをいじくるのが得意でな。土地でも人でも、何でも自分の都合のいいように分けたがる!』


三成は、その話を黙って聞いていた。


福島はさらに声を張り上げる。


『だがな、俺は生きてるうちに、この目でちゃんと見てるんだぞ! お前らとは違ってな!』


『……ずいぶん得意げだな』


三成が呟いた。


『当たり前だ! 佐吉、お前は関ヶ原で死んじまったから、知らねえだろ!』


三成の眉がぴくりと動いた。


大谷も、何とも言えない顔になる。


秀秋は視線を落とした。


福島は、そこでようやく気まずそうに口を閉じた。


「……お前、そういうところだぞ」


阿強が呆れた声を出した。


『……何がだよ』


「いや、もういい」


阿強は境内を見渡し、太鼓楼の方へ歩いていった。


ようやく腰を下ろせそうな場所を見つけると、リュックを下ろして座り込む。


「……ああ、疲れた」


そのときだった。


風が変わった。


秋の澄んだ空気に、突然、生臭い匂いが混じったのだ。


それは普通の風ではなかった。腐った血の匂いと、長い年月を積み重ねた憎悪が、一緒に吹きつけてくるような風だった。


『……ほう』


どこからともなく、声が聞こえた。


『なんとも旨そうな、台湾の肉体よ……』


阿強は顔を上げた。


「……は?」


次の瞬間、目の前の空間に黒い亀裂が走った。


亀裂はゆっくりと広がり、その奥から一本の腕が突き出された。


異様な腕だった。


皮膚には縫い合わせたような痕があり、継ぎ目からは黒い瘴気が滲み出している。


その手が空間の縁を掴むと、裂け目の向こうから巨大な影が姿を現した。


鬼だった。


人間をはるかに超える体格に、凄まじい妖気。周囲の空気が重く沈み、境内の景色さえ歪んだように見える。


鬼は阿強を見下ろし、ゆっくりと口を開いた。


『千年前、斬り落とされたこの腕……。その恨み、今日はお前の骨と血で晴らしてくれよう!』


阿強は一歩後ずさった。


「……三成」


『何だ』


「あれ、何?」


三成は鬼を見つめた。


その傍らで、見えない算盤の珠が激しく動き始める。


『……茨木童子だ』


「……いばらき?」


『大江山の鬼として名高い大妖怪だ。かつて羅城門で渡辺綱に腕を斬り落とされたという伝承がある』


三成の視線が、鬼の縫い合わせた腕へ移った。


『あの腕がそうなのだろう。おそらく、お前の身体に残る八岐大蛇の霊力を嗅ぎつけたのだ』


阿強は黙った。


それから、ゆっくりと尋ねる。


「……つまり、俺を狙ってる?」


『そういうことになる』


「……じゃあ、どうすんの?」


『考えている』


算盤の珠が、さらに速く動いた。


『私の術は、ああした古い大妖怪を相手にするには、少々相性が悪い。まともに戦えば――』


話が終わる前に、茨木童子が突進してきた。


「うわあああっ!」


阿強は慌てて身をかわし、リュックに手を突っ込んだ。


そして取り出したのは――。


赤い、小さなスイスアーミーナイフだった。


以前、本多忠勝を相手にしたとき、思いがけず役に立った、あの一本である。


三成が目を丸くした。


『……阿強。お前、何をするつもりだ?』


「決まってるだろ。何とかするんだよ!」


三成と大谷が茨木童子の注意を引きつけている間に、阿強はそろそろと背後へ回り込んだ。


鬼は二人の霊体に気を取られ、こちらを見ていない。


阿強はナイフの刃を出し、そっと腕を伸ばした。


そして――。


ぷすっ。


茨木童子の尻を刺した。


「…………」


反応がない。


阿強は首を傾げた。


もう一度。


ぷすっ。


それでも鬼は振り向かなかった。


「……あれ?」


三度目。


ぐいっ。


「……ん?」


阿強は手元を見た。


小さな刃が、見事に曲がっていた。


一方、茨木童子の尻には、傷どころか白い痕すらついていない。


「……嘘だろ」


三成が横目でその様子を見た。


『……阿強』


「何だよ」


『別の方法を考えたほうがいい』


「わかってるよ!!」


阿強は曲がったナイフを握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。


「……本多忠勝には通じたのに」


その間にも、大谷と三成は茨木童子を押しとどめようとしていた。


しかし、相手の妖気はあまりにも強い。


三成の術が鬼の足を止めても長くは続かず、大谷の攻撃も決定打にはならなかった。


大谷は縛龍索をしっかり握り、脇坂を後方へ下がらせながら応戦している。


『……厄介な相手だな』


『ああ。力だけでは押し切れん』


そのとき、福島が大きく息を吐いた。


『……ったく。見てられねえな』


三成が振り返る。


『市松?』


『お前ら、少し下がってろ。俺がやる』


『だが、お前には武器が――』


『武器ならある』


福島は拳を握った。


『こいつだ!』


三成が呆れたように目を細める。


『……本気か?』


『当たり前だろ!』


福島はそう叫ぶと、茨木童子へ真っ向から突っ込んでいった。


     ◇


福島正則の戦い方は、実に単純だった。


力で押す。


それだけである。


『おらああっ!』


最初の一撃が、茨木童子の顔面に叩き込まれた。


鬼の巨体が、半歩後退する。


福島はその隙を逃さず、さらに踏み込んだ。


二発目の拳。


しかし茨木童子は身体を捻ってかわすと、巨大な腕で福島を薙ぎ払った。


『ぐっ……!』


福島は二歩ほど後退したが、踏みとどまった。


そして、何事もなかったかのように胸元を払った。


『……へえ。なかなかやるじゃねえか』


茨木童子が唸る。


『貴様……ただの亡霊ではないな』


『当たり前だ! 俺は福島正則だぞ!』


福島は大声で笑った。


『何十年も戦場を駆け回ってきたんだ。この程度で倒れると思うなよ!』


再び、真正面から飛びかかる。


拳と鬼爪が激突し、黒い瘴気と霊力が火花のように散った。


その衝撃で、境内の空気がびりびりと震える。


福島は殴り合いながら怒鳴った。


『くそっ! 日本号さえ手元にあれば、こんな奴に苦労しねえのに!』


三成が横から冷静に言った。


『……日本号を母里太兵衛に譲ったのは、お前自身ではないか』


『わかってるよ! あのときは手が滑ったんだ!』


『……酒に酔って、槍を賭けたのではなかったか?』


『うるせえ! あんなに飲むつもりじゃなかったんだよ!』


『それで、手が滑ったと?』


『そうだ! 酒が悪い!』


『……随分と都合のよい言い訳だな』


『佐吉! お前は黙ってろ!!』


三成は小さくため息をついた。


『事実を言ったまでだ』


『だから黙れってんだよ!!』


二人のやり取りを聞きながら、阿強は境内の端にしゃがみ込んでいた。


右手には、刃の曲がった赤いナイフ。


目の前では、福島と茨木童子が派手に殴り合っている。


阿強はナイフを見下ろし、深々とため息をついた。


「……新しいの、買わなきゃな」


誰も聞いていなかった。


その瞬間だった。


茨木童子が福島の拳を受け流し、大きく身を翻した。


『……まずは、あの人間から喰ろうてやる!』


「……え?」


阿強が顔を上げる。


すでに鬼の巨大な手が、目の前まで迫っていた。


黒い爪が、阿強の首へ伸びる。


『阿強、逃げろ!』


三成の叫びが響いた。


だが、間に合わない。


そのとき――。


**バァンッ!!**


太鼓楼の二階で、木戸が激しく蹴り開けられた。


全員が一斉に顔を上げる。


そこには、浅葱色の羽織をまとった男が立っていた。


黒髪を後ろへ流し、腰には一本の刀。


鋭い眼差しで茨木童子を見下ろすと、男は口元に不敵な笑みを浮かべた。


『……おい、そこの鬼』


次の瞬間、男は二階から飛び降りた。


『新選組の西本願寺屯所で、ずいぶん好き勝手に暴れてくれたじゃねえか!』


風を切りながら、刀の柄へ両手をかける。


『大江山の悪鬼だろうが知ったことか!』


男の声が、境内に轟いた。


『局中法度を破った以上――』


腰の刀が、鞘から抜き放たれる。


『その場で成敗だ!!』


天然理心流。


平晴眼の構え。


男は着地と同時に、稲妻のような踏み込みを見せた。


その目は、茨木童子の異様な腕を捉えていた。


かつて渡辺綱に斬られ、後から継ぎ合わせた鬼の腕。


男は迷わなかった。


一閃。


和泉守兼定の刃が、縫い目を正確に斬り裂いた。


『ぎゃあああああっ!!』


茨木童子の絶叫が響く。


継ぎ合わせた腕が、再び宙を舞った。


鬼は自分の腕が落ちた場所を見た。


次に、目の前の男を見る。


そして、顔を引きつらせた。


『……ま、またかぁぁぁっ!!』


千年前、渡辺綱に斬り落とされ、ようやく取り戻した腕。


それが、また斬り落とされたのだ。


『お、おのれぇぇっ! 覚えておれぇぇぇ!!』


茨木童子は悲鳴を上げながら、黒い瘴気を周囲へ撒き散らした。


その背後で、空間が再び裂ける。


鬼は残った片腕で傷口を押さえ、逃げるように裂け目へ飛び込んだ。


いや、逃げるように、ではない。


**完全に逃げていた。**


『二度と来るものかぁぁぁ!!』


その捨て台詞を最後に、茨木童子の姿は消えた。


空間の裂け目も閉じ、境内には静けさが戻った。


男は何事もなかったかのように刀を鞘へ納め、羽織の埃を払った。


『……まったく。隊規も守れねえ奴め』


阿強は呆然とその姿を見つめた。


「あ、あの……」


『何だ』


「……あなた、誰ですか?」


男は阿強へ視線を向け、短く答えた。


『土方歳三。新選組副長だ』


     ◇


福島は、土方の顔をじっと見つめていた。


『……ん?』


何かを思い出そうとするように、首を傾げる。


『お前……何だか見覚えがあるな』


土方が眉を上げた。


『……俺にか?』


『いや、どっかで似たような顔を見たっていうか……』


福島はしばらく唸っていたが、突然、手を打った。


『ああ、そうだ! 近藤! 近藤って奴を知ってるか!?』


三成が後ろからぼそりと言った。


『……近藤勇だろう』


『そうそう、それだ! 近藤勇!』


福島は勢いよく土方に詰め寄った。


『お前、そいつを知ってるか?』


土方は、一瞬だけ妙な顔をした。


『……知ってるも何も』


そして、当たり前のように答えた。


『近藤勇は、新選組の局長だ』


『局長!』


福島が目を丸くする。


『じゃあ、お前は……あれか? 近藤の小姓か?』


『…………』


土方の表情が消えた。


三成が静かに口を挟んだ。


『市松。土方殿は新選組の副長だ。小姓とは違う』


『副長?』


福島が首を傾げる。


『……つまり、二番手ってことか?』


『そうだ』


『じゃあ近藤が一番上で、局長なんだな?』


『だから、そう言っている』


福島は少し考え込んだ。


それから、もう一度土方を見る。


『……で、お前とその近藤局長は、どういう関係なんだ?』


土方はしばらく黙っていた。


やがて、少し遠くを見るような目で答えた。


『……昔からの付き合いだ』


「……昔から?」


阿強が聞き返す。


『子供の頃からな。天然理心流を一緒に学んだ、兄弟弟子でもある』


福島は、ぽかんとした。


それから三成を振り返る。


『……なあ、佐吉』


『何だ』


『それって、お前と刑部みたいなもんじゃねえか』


三成は黙った。


大谷も、何も言わなかった。


二人は、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。


それだけで、十分だった。


土方はその様子を見ていたが、やがて阿強へ向き直った。


『……ところで』


「はい?」


『お前たち、近藤局長に会ったことがあるのか?』


「ありますよ」


阿強はあっさり答えた。


「新宿のゴールデン街で」


土方の表情が変わった。


それまで鋭かった眼差しが、一瞬だけ揺れた。


『……新宿?』


「はい」


『……ゴールデン街?』


「そうです」


土方は、阿強をじっと見つめた。


『……あいつ、そこで何をしていた?』


「ええと……酒、飲んでました」


『…………』


「別の神様と一緒に」


『……酒を?』


「はい」


その横から、福島が口を挟んだ。


『ああ、それから俺とも喧嘩したぞ!』


土方が顔を向けた。


『……何?』


『近藤勇と五合ほど打ち合ったんだ。結局、引き分けだったけどな!』


福島は得意げだった。


しかし、土方は何も答えなかった。


長い沈黙が流れた。


やがて、低い声が漏れた。


『……あの野郎』


阿強が顔を上げる。


土方は俯いたまま、拳を握りしめていた。


『……俺がどれだけ待ったと思ってやがる』


その声には、怒りとも悲しみともつかないものが滲んでいた。


『近藤さん……あんた、新宿で酒なんか飲んで、喧嘩までしてやがったのか……』


誰も口を挟まなかった。


土方は顔を上げると、吐き捨てるように言った。


『……あの馬鹿野郎が!!』


そして、突然叫んだ。


『絶対にぶん殴ってやる!!』


境内が、しんと静まり返った。


阿強は、しばらくためらってから尋ねた。


「……あの、土方さん」


『何だ』


「ここで、どれくらい待っていたんですか?」


土方はしばらく答えなかった。


やがて、静かに口を開いた。


『……五稜郭のあとからだ』


「……五稜郭?」


『ああ。あそこで俺の戦は終わった』


土方は、太鼓楼の方へ目を向けた。


『ここは昔、俺たち新選組が屯所にしていた場所だ。近藤さんと一緒に京を駆け回っていた頃のことを、今でも覚えてる』


その声音が、わずかに和らいだ。


『戦が終わって、気づけばまたここへ戻ってきてた。あいつも、いつか顔を出すんじゃねえかと思ってな』


阿強は何も言わず、耳を傾けていた。


『だが、何年待っても来やしねえ。近藤さんがどこにいるのかも、ずっとわからなかった』


「……向こうも、土方さんがここにいることを知らなかったんですか?」


『たぶんな』


土方は小さく息を吐いた。


『俺も知らなかった。あいつが、どこで何をしてるのか』


そして、かすかに笑った。


『……だが、今はわかった』


そう言うと、土方は羽織を整えた。


『新宿、ゴールデン街……だったな』


「はい」


『……教えてくれて、ありがとうよ』


土方は踵を返した。


そのまま、京都の街へ向かって歩き出す。


阿強は慌てて声をかけた。


「土方さん! 一人で行くんですか?」


土方は振り返らなかった。


『ああ』


「……誰か、一緒に行かなくても?」


『いらねえよ』


少しだけ間を置いて、土方は続けた。


『……こういうのは、自分で行くもんだ』


それだけ言い残し、彼は歩いていった。


浅葱色の羽織が、秋の風に揺れる。


やがて、その姿は京都の街並みの向こうへ消えていった。


阿強は、しばらく黙っていた。


「……なあ、三成」


『何だ』


「五稜郭の戦いって、いつだっけ?」


『十九世紀のことだ。今から百五十年以上前になる』


「……百五十年以上」


阿強は土方の去った方角を見た。


「ずっと、ここで待ってたのか……」


大谷が、静かに言った。


『……そういう人間もいる』


三成は何も答えなかった。


阿強も、それ以上は聞かなかった。


秋の西本願寺は、静かだった。


     ◇


そのときだった。


西本願寺の奥で、空気が小さく弾けた。


ぱんっ。


それと同時に、奇妙な風が吹き抜けた。


桜の香り。


そして、何かが焼け落ちたあとの、かすかな焦げ臭さ。


まるで、かつての安土城から風が運ばれてきたかのようだった。


阿強が顔を上げる。


いつの間にか、行く手に一人の青年が立っていた。


若い。


しかも、驚くほど整った顔立ちをしていた。


艶のある黒髪をきちんと後ろで束ね、身体にぴたりと合った上質な黒いスーツを着ている。


片手には、革製の立派な書類鞄。


立ち姿は端正そのもので、ただそこにいるだけで周囲の空気まで引き締まるような雰囲気があった。


青年は、一行を見渡した。


『……お待ちください』


その一言で、五人の武将が足を止めた。


青年は鞄を開き、中から書類を取り出した。


『織田信長公の第一秘書、森蘭丸と申します』


「…………」


阿強は首を傾げた。


「……第一秘書?」


だが、三成と福島の反応は違った。


二人は森蘭丸の姿を見るなり、ぴたりと動きを止めた。


かつて、安土城で幾度も味わった感覚。


大企業の平社員が、社長室の前で筆頭秘書と鉢合わせたときの、あの何とも言えない緊張感だった。


三成の傍らでは、見えない算盤の珠が一斉に跳ね上がった。


『……も、森殿!?』


福島も目を剥いた。


『お、お前! 蘭丸じゃねえか!』


森蘭丸は、二人を一瞥しただけだった。


表情は変わらない。


三成が慌てたように言った。


『安土城で、信長公への取次ぎを一手に引き受けていた、あの森殿ではないか……!』


『そうだよ!』


福島も声を張り上げる。


『俺が信長公に褒美をいただこうと思って行くたびに、「信長公はお忙しい」の一点張りだったんだ!』


三成も思い出したように頷いた。


『しかも、出張の経費を申請しても、なかなか通してくださらなかった……』


『そうだそうだ! あれは忘れねえぞ!』


福島は袖をまくる真似をした。


『今日こそ阿強の身体を借りて、きっちり決着をつけてやる!』


「……勝手に俺の身体を使うな!!」


阿強が即座に抗議する。


だが、森蘭丸は一切動じなかった。


書類に目を落とし、静かに口を開く。


『確認いたします』


三成と福島が、反射的に背筋を伸ばした。


『石田治部少輔殿』


『……はっ!』


『福島左衛門大夫殿』


『……お、おう!』


『大谷刑部少輔殿』


『……はい』


『小早川秀秋殿』


『……は、はい』


『脇坂安治殿』


『…………』


脇坂は縛龍索で拘束されたまま、思わず姿勢を正そうとした。


だが、縄が邪魔をして、うまくいかなかった。


森蘭丸は、何事もなかったかのように続けた。


『……そして、台湾からお越しの乩童、お一人』


「……えっ、俺も?」


阿強が目を丸くする。


森蘭丸は淡々と答えた。


『必要な情報は、すべてこちらにございます』


そう言って、書類鞄を軽く持ち上げた。


「……何なんだよ、その鞄」


『それでは、皆様』


森蘭丸は、阿強の疑問をさらりと流した。


『本日は、どのようなご用件で京都へ?』


三成の算盤が、再び猛烈な勢いで動き始める。


『わ、我々は……その……』


『はい』


『……ただ、通りがかっただけでして……』


『通過』


森蘭丸は即座に書き留めた。


『目的地は?』


「大阪です」


阿強が答えた。


蘭丸は顔を上げる。


『大阪の、どちらへ?』


「豊国神社です。太閤殿下に会いに行くところで」


一瞬、森蘭丸の筆が止まった。


『……太閤殿下』


「はい」


森蘭丸は何かを考えるように黙り込み、書類へ一行書き加えた。


そして、静かに鞄を閉じる。


『……承知いたしました』


阿強は、ほっと息をついた。


「……じゃあ、通っていいですか?」


しかし、森蘭丸は道を開けなかった。


『いいえ』


「……え?」


『信長公がお呼びです』


その場にいた全員が、固まった。


三成が、恐る恐る尋ねる。


『……信長、公が?』


『はい』


森蘭丸は、実に落ち着いた声で答えた。


『皆様には、私とともに本能寺跡へお越しいただきます』


「……本能寺?」


阿強が聞き返す。


『正確には、かつて本能寺があった場所です。ここから、それほど遠くありません』


森蘭丸は書類を確かめ、続けた。


『信長公からは、こう承っております』


そして、淡々と読み上げた。


『――あの猿の手下どもが京都を通るそうだな。少し話がある。連れてこい』


「…………」


誰も声を出さなかった。


石田三成。


福島正則。


大谷吉継。


小早川秀秋。


脇坂安治。


五人全員が、見事なまでに沈黙した。


阿強は、その顔を順番に見た。


「……なあ」


返事がない。


「……お前ら、全員、その『猿』の部下だったの?」


三成が、小さく頷いた。


『……そうだ』


福島も、いつになく小さな声で答えた。


『……ああ』


大谷は黙っていたが、否定はしなかった。


秀秋は俯いた。


脇坂も、縄で縛られたまま視線を逸らした。


阿強は、ゆっくり息を吐いた。


「……マジかよ」


そのとき、福島が突然叫んだ。


『だ、だがな!!』


全員が振り返る。


『俺はそのあと、東軍についたんだぞ!!』


三成が冷たく言った。


『……今さら、それを言ってどうする』


『いや、だから! 蘭丸にわかってもらおうと思ってだな! 俺は太閤殿下とは、その、もう……』


『福島左衛門大夫殿』


森蘭丸が、静かに遮った。


『ただいまのご発言、記録いたしました』


『……は?』


福島の顔が引きつった。


『……何を記録した?』


森蘭丸は鞄を開き、書類を読み上げた。


『福島左衛門大夫殿。太閤殿下との関係を否定する旨のご発言あり』


『……おい』


『備考――態度に不審な点あり』


『待て待て待て!!』


福島が飛び上がった。


『俺は関係を否定したわけじゃねえ!!』


『承知いたしました』


森蘭丸は、新たに何かを書き加えた。


『前言について釈明あり、と記録いたします』


『だから何を書いてんだよ!!』


三成は、もう目を合わせようとしなかった。


『……市松、もういい』


『よくねえよ! 佐吉! お前からも何とか言ってくれ!』


『……諦めろ』


『諦められるかぁぁぁ!!』


森蘭丸は書類を鞄へ戻し、きちんと閉じた。


そして、何事もなかったかのように踵を返す。


『それでは皆様、こちらへ』


一歩、前へ進む。


『信長公は、お待たせすることを大変お嫌いですので』


「…………」


誰も逆らわなかった。


阿強は、五人の武将を見回した。


「……お前ら、さっきまであんなに偉そうだったのに」


返事はなかった。


大谷は黙って縛龍索を引き、脇坂を歩かせる。


秀秋も俯いたまま、その後へ続いた。


三成は何かを計算するように算盤を動かしていたが、答えは出ていないらしい。


福島だけが、まだ納得していなかった。


『俺は無理やり連れてこられたんだ!!』


森蘭丸は振り返らない。


『俺の意思じゃねえからな!! そこはちゃんと記録しとけよ!!』


返事はない。


『おい! 聞いてんのか、蘭丸!!』


森蘭丸は、静かに答えた。


『……承知しております。ご発言はすべて記録いたします』


『だから記録すんなって言ってんだろぉぉぉ!!』


その叫び声を最後に、一行は森蘭丸に先導され、本能寺跡へ向かって歩き出した。


西本願寺には、再び秋の静けさが戻った。


**第十九話 終**

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