第二十話 本能寺、土曜日魔王、そして台湾式の大宴会
阿強は、道端にぽつんと立つ石碑を見つめていた。
その隣にはアスファルトの道路が延び、向こうには現代的なビルが建ち並んでいる。信号待ちをしている小学生までいた。
どう見ても、ごく普通の京都の街角だった。
「……あのさ、森秘書」
阿強は困り果てた顔で振り返った。
「信長公が待ってるって言ったよな? でも、ここにあるのって石碑一本とビルと道路だけじゃん。天下の大魔王様は、どこにいるわけ?」
森蘭丸は革製の書類鞄を脇に抱え、涼しい顔で答えた。
『……浅はかですね』
「いきなり失礼だな!」
『人間の目に映るものが、すべてだとお思いですか?』
蘭丸はアスファルトの向こうを見つめた。
『鉄筋コンクリートで覆われようとも、本能寺がそこにあったという事実は消えません。我が織田グループの資産台帳にも、あの日の炎と焦土は、今なお明確に記録されております』
「……資産台帳?」
『信長公は、ここでお待ちです』
三成は傍らで算盤を弾きながら、青い町名表示を見上げていた。
『……元本能寺南町』
その声には、何とも言えない感慨があった。
『太閤殿下が京の町割りを改められたとは聞いていたが……まさか、信長公ゆかりの場所が、これほど姿を変えていようとは』
福島が辺りを見回した。
『……どこが本能寺なんだ?』
『だから、今からご案内すると申し上げているでしょう』
蘭丸の声には、わずかに苛立ちが混じっていた。
一行は元本能寺南町へ進み、堀川高校と高齢者施設の間に延びる、細い辻子の入口で足を止めた。
狭いながらもきれいに整備された道だった。
蘭丸はそこで書類鞄を開き、一枚の書類を確認した。
『左には若さゆえの未熟さを抱えた高校生。右には長き人生を歩んだご高齢の方々。その間に、信長公の焦土がございます』
「……何その説明」
『若き者と老いた者、生と死。その双方に挟まれた、まことに理にかなった立地です』
三成の算盤が、ぴたりと止まった。
『……生前の信長公は、天下を震え上がらせるほどのお方だったというのに』
小さく息を吐く。
『その本能寺が、今では高校と高齢者施設の間にあるとは……』
阿強が横から口を挟んだ。
「なあ、三成。信長公ってさ、高校生の恋愛を見るのと、おじいちゃんおばあちゃんと将棋を指すの、どっちが好きだと思う?」
三成は蘭丸を一瞥した。
『……私に聞くな』
「何で?」
『答えたくないのだ』
蘭丸は何も言わなかった。
ただ、書類鞄を持つ手に、わずかに力が入った。
阿強は話題を変えた。
「それにしても、きれいな路地だな。でも、こんなに狭くちゃ、福島の大槍だって振り回せないだろ」
『……大槍はもうねえよ』
福島が不満そうに呟く。
蘭丸は口元に薄い笑みを浮かべた。
『まさか』
「……え?」
『信長公が、そのような窮屈な場所で我慢なさると、本気でお思いですか?』
蘭丸は書類鞄を閉じた。
ぱんっ。
その音が、奇妙なほど大きく響いた。
次の瞬間、阿強の目の前で、景色がひび割れた。
ぱきっ、ぱきぱきっ。
ガラスが割れるような音とともに、細い辻子の両側へ亀裂が走る。
「……は?」
阿強は目をこすった。
堀川高校のコンクリートの壁が、遠ざかっていく。
反対側の高齢者施設の外壁も、まるで何者かに押し広げられるように後退していった。
いや、現実の建物が動いているのではなかった。
その場所に重なっていた、もう一つの空間が姿を現しているのだ。
現代の京都の景色が薄れ、代わりに黒く焼け焦げた土と、火の粉を散らす古い石畳が広がっていく。
そして、その奥に――。
巨大な本堂が現れた。
屋根瓦の隙間では、四百四十四年前の炎が今なお燃え続けている。
焦げた木の匂いが鼻を刺し、赤黒い火の粉が空へ舞い上がった。
かつての本能寺。
その炎に包まれた姿が、現代のビルの狭間から、ゆっくりと立ち上がってきたのだ。
「……うわああっ!?」
阿強は思わず後ずさった。
蘭丸は、いかにも当然という顔で言った。
『ようこそ、織田グループ本能寺旧本社へ』
「旧本社って言うな!!」
◇
同じ頃、堀川通。
阿忠と青葉は、信号待ちをしていた。
先ほどまでの騒動が嘘のように、京都の夕暮れは穏やかだった。
阿忠は青葉の手を握りながら、小さく息を吐く。
「……さすがに疲れたなあ」
「土蜘蛛と戦ったんですもの。無理もありませんよ」
青葉が微笑む。
「でも、黒虎将軍のおかげで、ずいぶん助かりましたね」
「うん。あとは俺の膝がもう少し丈夫だったら、完璧だったんだけど」
青葉は思わず吹き出した。
「ふふっ……まだ痛みます?」
「少しね。まさか日本に来て、四つん這いで妖怪と戦うことになるとは思わなかったよ」
「私もです」
青葉は楽しそうに笑った。
阿忠は堀川通の先を指さした。
「このまま南へ行けば京都駅の方に出るし、そろそろ阿強と合流しようか」
「そうですね。阿強たち、西本願寺でのんびりしているはずですけど……」
青葉はスマートフォンを見た。
「まだ連絡がありませんね」
そのときだった。
前方から、突然、赤い光が噴き上がった。
ごおおおおっ!!
「……えっ!?」
阿忠が顔を上げる。
堀川高校と高齢者施設の間にある細い辻子。
その奥から、夜空を赤く染め上げるほどの炎が立ち昇っていた。
二人の目の前で空間が左右へ裂け、現代の建物の影から、巨大な本堂がせり上がってくる。
屋根では炎が燃え、古い石畳の上を火の粉が舞っていた。
「……何だ、あれ!?」
阿忠は目をこすった。
しかし、景色は消えない。
「青葉! あの燃えてるお寺、見える!?」
「……見えます」
青葉の顔から、先ほどまでの笑みが消えていた。
「……でも、あれは……」
本堂の入口には、黒いスーツを着た、長い髪の美しい青年が立っている。
脇には革製の書類鞄。
そして、その後ろには――。
「……阿強!?」
青葉も目を見開いた。
「石田三成殿に、福島正則殿まで……!?」
阿忠は慌てて駆け出した。
「おーい! 阿強!!」
ところが、いくら走っても辻子の入口へ近づけなかった。
距離が縮まらない。
目の前にあるはずなのに、そこだけが別の世界に切り離されているようだった。
「……何だよ、これ!」
青葉も立ち止まった。
「結界です。あちら側に入るには、許しが必要みたいですね」
そのとき、入口に立っていた蘭丸が顔を上げた。
『……追加の来訪者を確認』
彼が書類鞄を開くと、二人の前で見えない扉が開いた。
たった今まで縮まらなかった距離が、一瞬で元に戻る。
阿忠と青葉は、思わず前へよろめいた。
蘭丸は二人を見下ろし、落ち着いた声で言った。
『台湾からの乩童、もう一名。そして、出雲大社の神職者ですね』
青葉が姿勢を正した。
「はい。出雲大社で修行しております、青葉と申します」
『承知いたしました。来訪者として登録いたします』
蘭丸は、さらさらと書類に何かを書き込んだ。
『信長公はただいま本堂でお過ごしです。猿の家臣の皆様には、速やかにお入りいただきます』
「……ちょっと待ってください」
青葉が口を挟んだ。
「私は猿の家臣ではありません」
蘭丸は顔を上げた。
一瞬、青葉を見つめる。
そして、再び書類へ目を落とした。
『大国主命にお仕えする神職者。確認いたしました』
「……ですから」
『本日の「猿の家臣」に該当する範囲は、特例により拡大しております』
「そんな勝手な――!」
阿忠がおそるおそる尋ねた。
「あの……大国主命も、秀吉殿下の家臣になるんですか?」
『定義上、本日のみ対象となります』
「……定義って、何の!?」
青葉は抗議しかけたが、蘭丸はすでに書類鞄を閉じていた。
『お二人は、こちらで少々お待ちください。お呼びいたします』
「……え?」
『信長公は、お待たせすることがお嫌いですので』
蘭丸はそう言い残し、先に本堂へ向かう武将たちの後を追った。
阿忠と青葉は、入口の脇に取り残された。
燃え続ける巨大な本能寺を見上げながら、阿忠はぽつりと呟いた。
「……何なんだよ、この会社」
青葉にも、答えられなかった。
◇
本堂へ続く廊下には、二列の武士が整然と並んでいた。
全員、鎧をまとっている。
そして、その身体は炎に包まれていた。
火は鎧の隙間から立ち昇り、兜の上で静かに揺れている。
だが、武士たちは微動だにしない。
福島はその列を眺めながら、三成と大谷へそっと顔を寄せた。
『……なあ、佐吉。刑部』
『何だ』
『四百年以上前だったら、俺たちもあっちに並ばされてたかもしれねえよな』
大谷が眉をひそめる。
『……何が言いたい』
『いやあ、太閤殿下に仕えててよかったなあって。だって、見ろよ。あいつら、全身燃えてるんだぜ? 暑そうじゃねえか』
大谷は声を潜めた。
『……市松。お前、また死にたいのか? 俺まで巻き込むな』
『何だよ、感想を言っただけだろ!』
三成は何も言わなかった。
ただ、傍らの算盤をそっと引っ込め、何も聞こえなかったふりをした。
秀秋は燃える武士たちを見つめ、顔を青くしている。
脇坂は大谷に縛龍索を引かれながら、ひたすら前方だけを見ていた。
廊下の奥には、一枚の大きな扉があった。
蘭丸がその前に立つ。
『信長公。お客様をお連れいたしました』
しばしの沈黙。
やがて、扉がゆっくりと開いた。
向こう側から、廊下とは比べものにならないほど強烈な火の光が溢れ出した。
◇
本堂の中央で、一人の男が舞っていた。
背が高く、堂々とした体格。
身につけているのは南蛮胴具足。首元には西洋風の白い襞襟が広がり、肩からは鮮やかな赤いマントが垂れている。
男が一歩踏み出すたび、周囲の炎が揺れた。
その存在感は凄まじかった。
ただそこにいるだけで、広い本堂の空気を押さえつけるほどの威圧感がある。
傍らでは、全身を炎に包まれた小姓が鼓を打っていた。
男は、その音に合わせて謡う。
『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり……』
敦盛。
男は、敦盛を舞っていた。
本堂へ入った阿強と五人の武将は、誰一人として声を出せなかった。
男は彼らを見ようともせず、舞い続ける。
やがて最後の一節を謡い終えると、ゆっくり足を止めた。
鼓の音も止まる。
男が振り返った。
その視線が、入口に立つ一行を捉える。
『……ほう』
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
『猿の軍団か』
阿強は息を呑んだ。
織田信長。
第六天魔王を名乗った男が、目の前に立っていた。
信長はゆっくりと歩み寄り、武将たちを一人ずつ眺め始めた。
『お前は……福島だったか?』
福島の背筋が伸びる。
『……はっ』
『猿のところの、ヒヒ軍団長だな』
『…………』
いつもなら大声で反論する福島が、黙っていた。
信長は次に三成を見る。
『石田……だったな。算盤ザルか』
三成の算盤が、ぴたりと止まった。
『……恐れ入ります』
『大谷。お前は義理堅い猿だな』
大谷は静かに頭を下げた。
信長の視線が秀秋へ移る。
『……ん?』
少し目を細めた。
『お前、寧々に似ているな。木下家の小猿か?』
秀秋は目を伏せたまま、小さく頷いた。
最後に、信長は縛龍索でぐるぐる巻きにされた脇坂を見た。
『……おい、ヒヒ軍団長』
福島の肩が跳ねる。
『あの縛られたヒヒは何だ?』
阿強が、おそるおそる口を挟んだ。
「あの……信長公。その人は、大坂で太閤殿下に裁いていただくために連れていくところなんです」
信長は少し黙った。
そして、面白そうに笑った。
『ほう。猿が、自分のところのヒヒを裁くのか。それはなかなか面白い』
脇坂は何も言わなかった。
信長は再び一行を見回し、やがて阿強の背負っているリュックに目を留めた。
『……おい、台湾の』
「……はい?」
『その背中の袋には、何が入っている?』
「えっ……本ですけど」
『何の本だ?』
阿強の表情が固まった。
蘭丸も、一瞬だけ口を閉じた。
信長はその反応を見逃さなかった。
『……ほう?』
目が輝いた。
『見せてみろ』
阿強は、ゆっくりとリュックを下ろした。
そして、一番奥から例の本を取り出した。
かつて家康から預かった、あの厄介な一冊である。
◇
信長は座って本を開いた。
一頁、また一頁と読み進めていく。
表情は変わらない。時折小さく頷き、たまに口元を動かすくらいだった。
阿強は、その様子を落ち着かない気持ちで見守っていた。
やがて信長の指が、ある頁で止まった。
一行の間に、妙な緊張が走る。
信長は頁を戻し、もう一度表紙を眺めた。
そこには、こう書かれていた。
**『猿と主君の姪――誰にも言えない二人の物語』**
その下には、副題。
**『淀城の夜も熱いぞ』**
信長は、ゆっくり顔を上げた。
『……おい』
誰も返事をしない。
『算盤ザル』
三成がびくりとした。
『……はっ』
信長は本を持ち上げた。
『この……茶々という女は……』
一度、言葉を切る。
『俺の、姪なのか?』
声が、わずかに揺れていた。
『お市の……娘なのか?』
三成の顔が強張った。
少しして、深く頭を下げる。
『……信長公』
『何だ』
『この算盤ザルに、一度だけ嘘を申し上げるお許しをいただけませんでしょうか……』
本堂が静まり返った。
信長は三成を見つめた。
そして、何も言わずに本を閉じた。
ゆっくり膝の上へ置く。
見上げた天井では、本能寺の炎が今も燃えていた。
しばらくして、低い声が響いた。
『……お市の娘は』
三成が顔を上げる。
『どんな女に育った?』
三成は深く息を吸った。
『……茶々様は、大変お美しいお方でございました』
声を落とす。
『お市様にも、決して見劣りなさらぬほどに』
信長は黙った。
『……そうか』
長い沈黙が続いた。
やがて、信長が呟く。
『……お市の娘が、猿のところへ嫁いだのか』
三成は慎重に答えた。
『……正室として嫁がれたのではございません。太閤殿下の側室におなりになりました』
また、沈黙が落ちた。
本能寺の炎が、ぱちぱちと音を立てている。
『……猿め』
信長は天井を見つめた。
『まったく、あの猿は……』
その瞬間だった。
信長が顔を上げた。
『猿ぇぇぇ!!』
その怒号が、燃え盛る本能寺を震わせた。
声は京都の夜空を突き抜け、山を越え、遠く大坂の霊界にまで轟く。
神託でも、念話でもない。
信長が、ただ本気で怒鳴っただけだった。
『聞こえているだろうが!! 今すぐ本能寺へ来い!! 俺の前に顔を出せ!!』
その声が消えると、本堂には再び静けさが戻った。
信長は何事もなかったように座り直し、膝の上の本をもう一度開いた。
蘭丸は書類鞄から記録用紙を取り出し、備考欄に何かを書き込んだ。
そして、静かに鞄を閉じた。
◇
その頃、阿忠と青葉は、ようやく本堂へ通された。
扉をくぐった阿忠が、最初に目にしたものは――。
阿強が、織田信長の耳にAirPods Proを装着している光景だった。
「…………は?」
阿強はスマートフォンを操作した。
次の瞬間、信長の耳に現代の音楽が流れ込む。
YOASOBIの『アイドル』だった。
少々、音が大きい。
傍らにいた炎の小姓は、なぜか鼓でそのリズムを取り始めた。
とん、ととん、とん。
敦盛とはまるで違う拍子が、炎に包まれた本堂へ響き渡る。
阿忠は阿強の袖を引いた。
「……おい、阿強」
「何?」
「何で信長公の耳にAirPodsを入れてるんだよ」
「現代の音楽を聴いてみたいって言うからさ。ちょっと聴かせてる」
「……それで、いきなりYOASOBI?」
「いいだろ。日本の音楽なんだし」
青葉も、小声で尋ねた。
「……あの、阿強。『アイドル』の歌詞って、信長公に聴かせて大丈夫なんですか?」
蘭丸が振り返った。
『信長公は、なかなか興味深いとおっしゃっております』
そして、書類に一行書き加える。
『備考欄にも記録いたしました』
「……それも記録するんですか?」
青葉は呆れたように呟いた。
蘭丸は当然という顔をした。
『職務ですので』
しばらくして、信長がAirPodsを外した。
阿強へ返す。
『……なるほど』
「どうでした?」
『悪くない』
信長は顎に手を当て、少し考えた。
『昔、猿が俺に聴かせた音楽より、よほど面白いな』
三成も福島も黙った。
何となく、秀吉がかわいそうになってきた。
そのときだった。
本堂の外で、慌ただしい足音が響いた。
◇
ばたばたばたっ!
『……信長公!!』
入口へ、小柄な男が駆け込んできた。
太閤らしい華やかな装束をまとい、丸みのある顔を真っ赤にしている。肩で激しく息をし、衣の裾はすっかり乱れていた。
豊臣秀吉。
かつて天下を統一した男が、今は息も絶え絶えになって本能寺へ駆けつけていた。
秀吉は扉の前で立ち止まり、何度か大きく息を吸った。それから衣服を整え、額の汗を拭い、何事もなかったように背筋を伸ばす。
その姿を見た福島が、三成へそっと顔を寄せた。
『……おい、佐吉』
『何だ』
『太閤殿下のあの走りっぷり、昔の中国大返しを思い出さねえか?』
三成の顔が引きつった。
『……市松。余計なことを言うな』
『いや、あのときより速かったんじゃねえか?』
『だから黙れ。殿下に聞こえるぞ』
福島は慌てて口を閉じた。
一方、秀吉は二人の囁きなど聞こえなかったかのように、静かに本堂の中央へ進み出た。
信長の前まで来ると、深く頭を下げる。
『……信長公』
信長は秀吉を見た。
『……猿』
『……はっ』
『走ってきたのか?』
秀吉の肩が、わずかに揺れた。
『……歩いて参りました』
『大坂から京までか?』
『……はい』
『歩いて?』
『……少々、早足で』
信長は、しばらく秀吉を見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
秀吉の前まで歩いていく。
次の瞬間、その髷をむんずと掴んだ。
『……うひゃっ』
秀吉の顔が上を向く。
その動きは、驚くほど自然だった。
まるで、何千回、何万回と繰り返してきたかのように。
信長は、もう片方の手を伸ばした。
ぱんっ。
秀吉の頬を叩く。
ぱんっ、ぱんっ。
さらに叩く。
『……信長、公』
ぱんぱんぱんっ。
信長の顔が、少しずつ笑いに崩れていった。
『……ははっ』
ぱんぱんっ。
『はははははっ!!』
笑い声が大きくなる。
頬を叩く手も速くなる。
もはや何をしているのかわからないほど、信長は嬉しそうだった。
そして、とうとう声を張り上げた。
『やはりな!!』
秀吉の頬を叩きながら、笑う。
『やはり、お前だったか!!』
本堂にいる全員が、息を呑んだ。
『俺の志を継げるのは、やはりお前しかいなかった!!』
三成が目を見開いた。
福島が、口を閉じた。
大谷は深く頭を下げた。
秀秋も、その場で動けなくなった。
外へ連れ出される前の脇坂も、何も言わない。
四百年以上。
その言葉を待ち続けてきた者たちが、そこにいた。
秀吉の目が赤くなっていた。
泣いてはいない。
だが、少しでも気を緩めれば、涙が溢れそうだった。
『……信長公』
『黙っておれ、猿!』
信長はまだ笑っていた。
『もう少し叩かせろ!』
『……はっ』
ぱんっ。
ぱんっ、ぱんっ。
秀吉は、抵抗しなかった。
ただ、主君に髷を掴まれたまま、その手を受けていた。
傍らで炎の小姓が、再び鼓を打ち始めた。
今度は『アイドル』の拍子ではなかった。
敦盛の調べだった。
◇
しばらくして、信長はようやく秀吉を解放した。
そして、自分の隣へ座らせると、扇子を手に取った。
『……猿』
『はっ』
『お前は、よくやった』
秀吉は頭を下げた。
『……もったいないお言葉にございます』
『だがな』
信長は扇子で膝を軽く叩いた。
『なぜ家康に負けたか、わかっておるか?』
秀吉の表情が強張った。
信長は構わず続けた。
『お前は、猿の軍団を育てきれなかったのだ』
『…………』
『何を震えておる。茶々を側室にしたから、俺にもう一度殺されると思ったのか?』
信長は鼻で笑った。
『馬鹿を言え。天下人の側室となったのだ。俺はそこまで狭量ではない』
秀吉は、何も言わなかった。
『それより問題は、お前の家臣どもだ』
信長は福島へ視線を向けた。
『お前は自分の考えを、あのヒヒ軍団長にきちんと伝えていたのか?』
『……それは』
『家康を恨む前に、己の手落ちを考えろ。あの太った古狸が、どういう男か知らなかったわけではあるまい』
信長は扇子を閉じた。
『家臣が主君の志を理解せぬまま動けば、どれほど強い軍勢を持っていようが、いずれ崩れる。お前ほどの男が、それをわからなかったとはな』
秀吉は深く頭を下げた。
『……仰せのとおりにございます』
そして、立ち上がった。
まず向かった先は、福島正則だった。
『……市松』
福島が姿勢を正す。
『……はっ』
秀吉は、いきなりその脛を蹴った。
『痛っ!?』
『この馬鹿者!!』
福島は反射的に頭を下げた。
『……申し訳ございません!』
『昔からお前には言っていただろう! 腕っぷしだけで物を考えるなと!』
秀吉は、さらに叱りつけた。
『三成の話をよく聞けと言ったのに、お前は少しも聞こうとしなかった!』
『…………』
『治部がお前を陥れたことなど、一度でもあったか? むしろ、お前の尻拭いをしていたのはあいつではないか!』
福島は黙っていた。
『それをお前は、最後の最後に家康の口車に乗りおって……!』
秀吉は大きく息を吐いた。
福島は言い返さなかった。
弁解もしなかった。
ただ、そこに立ち、かつての主君の言葉を受け止めていた。
秀吉はしばらく彼を見つめ、それから大谷の前へ移った。
『……刑部』
大谷が深く頭を下げた。
『……太閤殿下』
秀吉は、その肩へそっと手を置いた。
『苦労をかけたな』
大谷は顔を上げなかった。
『……いいえ。私は、なすべきことをしたまでにございます』
『……そうか』
秀吉は、それ以上何も言わなかった。
ただ、しばらく大谷の肩へ手を置いていた。
やがて、今度は脇坂の前へ進む。
『……安治』
縛龍索で拘束された脇坂が、わずかに身を固くした。
秀吉は、その足を蹴った。
『この大馬鹿者!』
『…………』
『考えが足りぬにもほどがある! 昔、寧々にもっと魚を食えと言われていただろうが! 頭を使わぬから、人に踊らされて得意になっておるのだ!』
脇坂は俯いたまま、動かなかった。
『……外へ出て、膝をついておれ!』
脇坂は何も言わなかった。
大谷が縛龍索を少し緩め、外へ歩けるようにする。
脇坂はゆっくり歩き出し、扉の方へ向かった。
入口に差しかかったところで、一度だけ振り返る。
そして、秀吉へ深く頭を下げた。
そのまま、外へ出ていった。
秀吉は次に、小早川秀秋を見た。
『…………』
秀秋も、秀吉を見つめていた。
しかし、秀吉は何も言えなかった。
沈黙が続く。
やがて秀秋の顔が歪んだ。
『……おじ上……!』
駆け寄り、秀吉の足へしがみついた。
『申し訳ありません……! 私は……私は、間違えました……!』
声が震える。
『本当に……申し訳ありませんでした……!』
秀吉は、しばらく動かなかった。
泣きじゃくる秀秋を見下ろし、長い時間をかけて息を吐いた。
そして、ゆっくり膝を曲げた。
秀秋の腕を取り、立ち上がらせる。
その背中を、ぽんぽんと叩いた。
だが、許すとは言わなかった。
許さないとも言わなかった。
ただ、静かに告げた。
『……寧々に会ってこい』
秀秋が涙に濡れた顔を上げる。
『……北政所様に、ですか?』
『ああ。寧々に話してこい』
『……お会いして、いただけるでしょうか』
秀吉は、小さく頷いた。
『行ってみろ。寧々の心は、俺よりずっと広い』
秀秋は何度も頭を下げた。
そして、また泣いた。
◇
最後に、三成が進み出た。
秀吉の前で膝をつき、そのまま深く平伏する。
肩が震えていた。
それまで冷静に算盤を弾いていた男が、今は声を整えることさえできずにいる。
『……太閤殿下』
秀吉は黙って待った。
『……私は……』
三成は唇を噛み、ようやく言葉を紡いだ。
『……お預かりした務めを、果たしてまいりました……』
秀吉は、その背中へそっと手を置いた。
『……ご苦労だったな、治部』
三成の肩が大きく震えた。
しばらくして、彼が顔を上げる。
目元は赤かった。
そして、震える声で言った。
『……ところで、殿下』
『……ん?』
『柿は、痰の毒でございます』
本堂が、静まり返った。
三成は秀吉の衣の裾を指さした。
『あれほど食べ過ぎてはいけないと申し上げたではございませんか。御衣にまで、柿の汁がついておりますぞ……』
秀吉は自分の衣を見下ろした。
確かに、裾に橙色の染みがある。
信長が、最初に吹き出した。
『……ぶっ』
すぐに、笑いを堪えきれなくなる。
『はっはっはっ!!』
蘭丸は無表情のままだった。
ただ、書類鞄を抱える腕に、少しだけ力が入った。
福島が呆然と呟いた。
『……佐吉。お前、今、何て言った?』
三成は真顔だった。
『柿は痰の毒だと言ったのだ』
『……今、それを言うのか?』
『殿下のお身体に関わることだぞ』
秀吉は自分の衣を見つめていた。
やがて、笑い始めた。
『……ははっ』
その笑いは、信長の豪快なものとは違っていた。
懐かしさと、嬉しさと、少しの呆れが入り混じった笑いだった。
『……治部』
『……はっ』
『お前という奴は、四百年経っても変わらんな』
三成は、まだ涙の残る目で秀吉を見上げた。
『……殿下こそ、少しもお変わりになりません』
『何がだ?』
『柿を食べ過ぎるところでございます』
『だって、うまいんだもの』
『痰の毒でございます』
『うまいものは、うまいだろう』
『……痰の、毒でございます』
三成は、一語一語を噛みしめるように言った。
秀吉は、とうとう声を上げて笑った。
『わかった、わかった! 次からは少し控える!』
『殿下は、いつもそうおっしゃいます』
『今度こそ本当だ』
『……承知いたしました。覚えておきます』
『……本当にお前は』
秀吉は笑いながら、三成の背中を軽く叩いた。
傍らで炎の小姓が打つ鼓の音も、どこか笑いを堪えているように聞こえた。
信長は扇子を膝へ打ちつけた。
『はははっ! 猿!』
秀吉が振り返る。
『この算盤ザル、育てた甲斐があったな!』
秀吉は三成を眺め、頷いた。
『ええ。働き者で、実にありがたい家臣です』
一拍置いて、付け加える。
『ただ、少々世話を焼きすぎますが』
三成がすぐに反論した。
『私は務めを果たしているだけでございます。世話を焼いているのではありません』
『同じことだろう、治部』
『違います』
『同じだ』
『……違います』
『同じだよ、治部』
三成は口を閉じた。
そして、もう一度深く頭を下げた。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
◇
やがて、信長が阿忠へ目を向けた。
『……おい、台湾の』
「……はい!?」
『トランプはできるか?』
阿忠は目を瞬かせた。
「……え?」
その瞬間だった。
阿忠の身体に、急に別の神気が満ちた。
肩の力が抜け、姿勢が変わる。
そして、口元に妙に馴れ馴れしい笑みが浮かんだ。
『……おおっ!?』
聞き慣れた声が響いた。
『お前が、あの土曜日魔王か!』
信長の表情が止まった。
『……土曜日?』
『そうそう! 第六天魔王だろ? 台湾じゃ土曜日魔王って呼ぶんだよ!』
『……どういう意味だ?』
『細かいことは気にするな! こっちでは有名なんだ!』
信長は、目の前の阿忠をじっと見つめた。
『……お前、誰だ』
『趙公明だよ! 台湾の財神だ!』
趙元帥は阿忠の身体を借りたまま、豪快に笑った。
『ちょうど麻雀が一段落したところでな。せっかくだから、一度挨拶に来たってわけだ!』
信長はしばらく黙っていた。
どうやら、第六天魔王を名乗った男にとっても、ここまで遠慮のない客は珍しいらしい。
『……財神が、俺に何の用だ』
『いやあ、昔から会ってみたかったんだよ。第六天魔王なんて、なかなか名乗れるもんじゃないだろ?』
信長は、ゆっくりと蘭丸へ顔を向けた。
『……蘭丸』
『はい』
蘭丸は即座に書類鞄を開いた。
『趙公明元帥。台湾の武財神。旅券の有効期限切れによる不法入国未遂の記録あり。現在、霊界入国管理局の収容施設に滞在中』
書類を一枚めくる。
『主な活動――麻雀』
趙元帥の笑顔が、一瞬止まった。
『……おいおい。そこまで調べてあるのか?』
『織田グループの情報網に、抜かりはございません』
蘭丸は涼しい顔で答えた。
趙元帥は、しばらく蘭丸を見つめた。
そして、大声で笑った。
『はっはっはっ! 面白い! お前のところの秘書、なかなかやるじゃないか!』
信長は、少し得意そうだった。
『当然だ』
『よし、土曜日魔王! 今度、一緒に麻雀をやろう!』
『麻雀はせん』
信長は即答した。
『トランプならどうだ?』
趙元帥の目が輝いた。
『おっ、トランプか! いいぞ!』
そして、突然、手を叩いた。
『よし! せっかくだ。宴会もやろうじゃないか!』
『……宴会?』
『台湾式の辦桌だ! 俺が全部出す!』
趙元帥は懐から、巨大な霊力の塊を取り出した。
どんっ!!
机の上に叩きつける。
霊力が黄金色の光を放ち、本堂の隅々まで照らした。
『ほう……』
信長が目を細めた。
『ずいぶん景気がいいな』
『稲荷の奴から麻雀で巻き上げた分だ! まだまだあるぞ!』
蘭丸は無言で鞄を開き、備考欄に何かを書き込んだ。
趙元帥は、すでに次の相手を呼んでいた。
『謝将軍! 范将軍! 出てこい!』
ほどなく、台湾の神将二人が姿を現した。
『お呼びでございますか、元帥』
『宴会だ! 台湾式の辦桌をやるぞ!』
趙元帥は霊力の塊を二人へ渡した。
『大鍋を使って、強火で一気に炒めろ! 信長公の料理人にも手伝わせていい!』
『……規模はいかほどで?』
『京都中だ!』
趙元帥は胸を張った。
『英霊も妖怪も、来たい奴は全員呼べ! 今日は俺のおごりだ!』
信長は、その様子を眺めていた。
そして、声を上げて笑った。
『はははっ! 面白い! 好きにやれ!』
趙元帥は満足そうに頷くと、ふと思い出したように自分の身体――正確には阿忠の身体を見下ろした。
『……おっと。そうだった』
「…………」
『阿忠、もう身体は返してやる! お前も青葉と飯でも食ってこい!』
その言葉とともに、阿忠の身体から黄金色の神気が立ち昇った。
光は彼の傍らへ集まり、やがて趙元帥自身の姿を形作る。
阿忠はふらつきながらも足を踏ん張り、自分の手足を確かめた。
「……元帥。また勝手に降りてきて……」
『細かいことはいい! 今日は宴会だ!』
「……まったく」
『それに、青葉を一人にしておくなよ!』
「だから、そういうことを大声で言わないでください!」
青葉は横で、楽しそうに笑っていた。
趙元帥は、今度こそ自分の神体で信長へ向き直った。
『さて、土曜日魔王! まずはトランプからだ!』
『……その呼び方は、どうにかならんのか』
『ならん!』
こうして、誰も予想していなかった大宴会が始まった。
◇
謝将軍と范将軍は、さっそく本能寺の炎の武士たちを集めた。
『よし、お前たち! まずは卓を並べるぞ!』
武士たちは、顔を見合わせた。
『……卓、ですか?』
『そうだ。宴会用の卓だ』
范将軍が手を振ると、霊力が凝り固まり、次々と丸い卓や椅子が現れた。
炎の武士たちは、呆然とそれを見つめた。
一人が、おずおずと言った。
『……我々は、四百年以上も立ったままでしたが』
謝将軍は頷いた。
『うむ。ご苦労だった』
『……では、今日は座っても?』
『今日は立っていなくてよい』
武士の顔が、少し明るくなる。
だが、謝将軍は続けた。
『その代わり、卓を運べ!』
こうして、本能寺の炎の武士たちは、四百四十四年ぶりに新しい仕事を与えられた。
宴会の会場設営である。
一方、厨房では、付喪神たちが大騒ぎしていた。
京に何百年も住みついてきた器物の精霊たちだ。
鍋の付喪神が火加減を調整し、包丁の付喪神が野菜を刻む。まな板の付喪神まで張り切って働いていた。
大きな鍋で油が弾ける。
じゅうううっ!!
台湾式の強火炒めだった。
香ばしい匂いが本能寺の廊下へ流れ出し、やがて境内いっぱいに広がっていく。
しばらくして、謝将軍が大皿を抱えて現れた。
照りの美しい豚肉が、山のように盛られている。
台湾の焢肉――じっくり煮込んだ、台湾風の豚肉料理だった。
『お待たせした!』
謝将軍は声を張り上げた。
『開宴だぁぁぁ!!』
◇
噂がどう広まったのかは、誰にもわからない。
だが、京都中の英霊と妖怪が、次々と本能寺へ集まり始めた。
最初に現れたのは、匂いにつられてやってきた小妖怪たちだった。
続いて、古い器物の付喪神。
さらに、どこから聞きつけたのか、昔の武将の霊までやってきた。
やがて――。
『……何だ、この騒ぎは』
稲荷神が、狐たちを連れて現れた。
本能寺の入口には、丸い卓がずらりと並んでいる。
焢肉、台湾風のおこわ、炒め物、熱々の料理。
その間を、謝将軍と范将軍が忙しそうに行き来していた。
稲荷神は、その光景をしばらく見つめた。
そして、謝将軍を呼び止める。
『……おい』
『はい?』
『この宴会に使っている霊力は、どこから出ている?』
『趙元帥からでございます』
『……趙公明が?』
『はい』
稲荷神は少し考えた。
『……あいつに、そんな霊力があったか?』
謝将軍は、実に正直に答えた。
『稲荷神様から、麻雀で勝ち取った分だそうです』
稲荷神は黙った。
その後ろで、小狐が一匹、恐る恐る尋ねた。
『……局長』
『何だ』
『我々も、座ってよろしいのでしょうか』
稲荷神は、目の前の宴会を見た。
自分が負けた霊力で並べられた卓。
自分が負けた霊力で作られた料理。
そして、その料理を嬉しそうに食べている京都の妖怪たち。
長い沈黙のあと、稲荷神は言った。
『……座れ』
『よろしいのですか!?』
『来たからには、食っていけ』
小狐たちの尻尾が、一斉に跳ね上がった。
『やったぁぁぁ!!』
狐たちは、我先に宴会の卓へ駆けていった。
稲荷神は、その後ろ姿を眺めていた。
そして、小さくため息をついた。
『……まったく。自分の金で宴会に招かれるとはな』
◇
本堂では、信長と趙元帥が向かい合って座っていた。
机の上には、トランプが広げられている。
遊んでいるのは台湾の「撿紅點」だった。
互いに札を出し合い、場の札を取って点数を競う、台湾で親しまれている遊びである。
信長は手札を見つめ、眉をひそめた。
『……おい』
『何だ?』
『この赤い札には点がつくのに、黒い札にはつかんのか?』
『そういう遊びなんだよ。赤い札を集めるから、撿紅點って言うんだ』
『……なぜ赤だ?』
『は?』
『黒ではいかんのか?』
趙元帥は肩をすくめた。
『知らん! そういう決まりなんだよ!』
信長は不満そうに札を睨んだ。
『俺は、道理の通らぬ決まりなど認めん』
『じゃあ麻雀にしようぜ。麻雀なら役にちゃんと理由があるぞ』
『麻雀はやらん』
『じゃあ撿紅點を続けろよ』
『……だが』
『細かいことを気にするな。札遊びなんて、楽しけりゃいいんだよ!』
信長は、しばらく趙元帥を睨んでいた。
やがて、低く言った。
『……札を出せ』
『はいよ!』
ぱしっ。
趙元帥が札を置いた。
信長も一枚出す。
傍らの炎の小姓は、なぜかそのやり取りに合わせて鼓を打っていた。
蘭丸は無表情で書類鞄を開いた。
そして、備考欄に記録する。
『信長公、台湾の財神・趙公明元帥と撿紅點を実施。場所、本能寺本堂』
一度、筆を止める。
『経費負担――稲荷神の霊力』
蘭丸は静かに鞄を閉じた。
◇
外の宴会は、ますます賑やかになっていた。
阿忠と青葉は、同じ卓に座っている。
少し離れたところでは、阿強が山盛りの料理を前にし、その周囲を三成、福島、大谷、秀秋が囲んでいた。
彼らは霊体である。霊力で作られた料理に手を伸ばせる者もいれば、眺めているだけの者もいる。それでも、四百年以上前の武将たちは、目の前に広がる台湾料理に興味津々だった。
主賓の卓には、秀吉が座っていた。
そして、いつの間にか――。
その隣に、一人の女性がいた。
北政所。
寧々だった。
秀秋は、彼女の姿を見た瞬間、身体を強張らせた。
寧々も、秀秋を見た。
二人の間に、長い沈黙が流れる。
やがて、寧々が口を開いた。
『……秀秋』
『……はい』
『こちらへおいで』
秀秋は、恐る恐る歩み寄った。
『……北政所様』
寧々は、自分の隣の席を示した。
『座りなさい』
秀秋は、しばらくためらった。
それから、ゆっくり腰を下ろした。
寧々は、その手をそっと取った。
ぽん、ぽん。
軽く叩く。
何も言わなかった。
秀秋も、何も言えなかった。
ただ、俯いたまま、その手を握られていた。
離れたところから、三成と大谷がその様子を見ていた。
二人とも、何も言わなかった。
◇
一方、謝将軍は大皿を抱え、卓の間を忙しそうに歩き回っていた。
『さあさあ、焢肉だ! たっぷり食べろ!』
阿強の卓にも、料理が運ばれてくる。
『うまいだろう? 我らは何千年も宴会の仕切りをやってきたのだ。まずいものなど出さんぞ!』
阿強は箸を止めた。
「……ところでさ」
『何だ?』
「今回、残業代はちゃんと出るの?」
謝将軍が答えるより先に、范将軍が現れた。
『今回は問題ない』
「……本当に?」
『趙元帥から十分な霊力を預かっている』
「……ああ、稲荷神から勝ったやつか」
『そういうことだ』
阿強は、台湾風のおこわを一口食べた。
そして、大きくため息をついた。
「……なあ、阿忠」
少し離れた卓から、阿忠が振り返る。
「何?」
「俺たち、日本に旅行に来たんだよな?」
「……うん」
「で、今は織田信長の本能寺で、台湾の辦桌を食ってる」
「……うん」
「横には石田三成と豊臣秀吉がいる」
「……そうだね」
阿強は箸を置いた。
「……これ、普通か?」
阿忠は少し考えた。
そして、焢肉を一口食べた。
「……普通じゃないね」
「だよな」
「でも、うまいよ」
阿強も、もう一度おこわを口へ運んだ。
確かに、うまかった。
◇
宴会が終わりに近づいた頃、秀吉が阿忠と阿強を呼び寄せた。
『……二人とも』
「はい?」
『このたびは、遠いところをよく来てくれた』
阿忠と阿強は、顔を見合わせた。
秀吉は笑った。
『せっかくだ。俺からも礼をしたい』
「……お礼、ですか?」
『ああ』
秀吉は、少し得意そうに頷いた。
『賤ヶ岳の戦のあと、千両の黄金を埋めておいた場所がある』
阿強の目が大きくなった。
「……千両?」
『そうだ』
「……黄金の?」
『黄金の千両だ』
阿強は、阿忠の腕を掴んだ。
「……おい、阿忠」
「……何?」
「これ、聞き間違いじゃないよな?」
「……たぶん」
秀吉は楽しそうに二人を眺めていた。
『ただし、自分たちで取りに行ってもらわねばならん』
「……え?」
『場所は金沢だ』
「……金沢?」
『そこに、俺の兄弟分がいる。あいつなら、黄金を埋めた場所を知っている』
阿強は身を乗り出した。
「その兄弟分って、誰ですか?」
秀吉はにやりと笑った。
『行けばわかる』
「……またそれかよ!!」
阿強は頭を抱えた。
「何でお前ら、みんなそういう言い方するんだよ! 最初から教えてくれたっていいだろ!!」
秀吉は、ますます楽しそうだった。
そのとき、青葉が横から顔を出した。
「……あの、私もご一緒していいですか?」
阿忠が振り返る。
「……青葉も?」
「はい」
青葉はにっこり笑った。
「私、誰のことかわかりますから」
阿強が目を剥いた。
「……えっ、誰!?」
「前田利家公ですよ」
「……前田?」
「加賀百万石の前田利家公。金沢といえば、前田家でしょう?」
青葉は少し胸を張った。
「それに、秀吉公とは、信長公に仕えていた頃からの古いお付き合いです。兄弟分とおっしゃるなら、きっとあの方です」
秀吉は、声を上げて笑った。
『はっはっはっ! よく知っている娘だ!』
青葉へ顔を向ける。
『いいぞ。お前も一緒に行くといい』
「ありがとうございます」
青葉が頭を下げた。
すると、本堂の奥から、聞き慣れた大声が響いた。
『阿忠ぅぅ!!』
阿忠がびくりとする。
『青葉も連れていけ! わしが許す!!』
「……元帥!?」
『何だ! せっかくの旅行だろ! 女の子を一人置いていくつもりか!』
「……そういう問題じゃないでしょう!」
青葉は、隣で楽しそうに笑っていた。
「……行きましょう、阿忠」
「……え?」
「金沢へ」
阿忠は、しばらく青葉を見つめた。
それから、照れくさそうに笑った。
「……うん」
阿強は二人を交互に見た。
そして、小さく呟く。
「……俺、また荷物持ちなんじゃないだろうな」
誰も答えなかった。
◇
本堂では、信長と趙元帥の撿紅點がまだ続いていた。
『……待て。俺のこの札は――』
『出せ出せ! 早く出せ!』
『その決まりには、まだ納得しておらん!』
『だから、それがルールなんだって!』
『俺は認めん!』
『じゃあ麻雀やるか?』
『麻雀はやらん!!』
本能寺の炎は、相変わらず燃え続けていた。
外では京都中の英霊や妖怪たちが、台湾式の宴会を楽しんでいる。小狐たちが料理を取り合い、炎の武士たちが追加の皿を運び、謝将軍と范将軍が声を張り上げていた。
森蘭丸は、最後まで書類鞄を手放さなかった。
阿忠と阿強、そして青葉。
三人は、そんな賑わいを背に、新たな旅へ踏み出そうとしていた。
次の目的地は、金沢。
加賀百万石の城下町。
そこで彼らを待つものが何なのか、まだ誰も知らない。
ただ一つ、確かなことがある。
少なくとも、この旅が普通の観光旅行に戻ることは、もうなさそうだった。
**大坂・日光編 完**
**第二部・金沢編へ続く**
**第二十話 終**




