第二十一話 大判十枚、乗り遅れたバス、そして一条戻橋
本能寺の大宴会は、結局、夜が明ける頃まで続いた。
四百四十四年もの間、炎に包まれて立ち続けていた武士たちは、今や後片付けに追われていた。台湾からやってきた謝将軍と范将軍の指揮のもと、丸卓を運び、食器を集め、残った料理を妖怪たちに配っている。
稲荷神の狐たちは、すっかり満腹になったらしく、境内の隅で尻尾を枕にして丸くなっていた。
その傍らでは、森蘭丸が革製の書類鞄を片手に、後片付けの進捗状況を確認している。
信長と趙元帥はというと、まだ本堂でトランプを続けていた。
『その赤い札だけ点がつく理由を、もう一度説明しろ!』
『だから、そういう遊びだって言ってるだろ!』
どうやら、決着は当分つきそうになかった。
そんな本能寺の一角で、阿忠と阿強が荷物をまとめていると、大谷吉継が二人のもとへ歩いてきた。
『……台湾の若者たちよ』
阿強が顔を上げた。
「大谷殿。どうしました?」
『私は金沢へは行かぬ。ここに残ることにした』
その隣には、小早川秀秋が立っていた。
昨夜、寧々の隣に座らせてもらったときから、秀秋はどこか落ち着かない様子だった。救われたような表情を見せたかと思えば、すぐに俯いてしまう。
大谷はそんな秀秋を一瞥した。
『この者が北政所様ときちんと向き合えるまで、しばらく傍についてやろうと思う』
秀秋が顔を上げた。
『……大谷殿』
『何だ』
『私は……』
大谷は静かに首を振った。
『今は何も言わずともよい。言いたいことがあるなら、まず北政所様に話せ』
秀秋は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。
阿強は二人を見つめてから、大谷へ向き直った。
「……大谷殿は、それでいいんですか?」
『何がだ』
「せっかく関ヶ原から出られたのに、また誰かの世話をすることになるじゃないですか」
大谷は少し考えた。
そして、笑った。
難しいことなど何もないという、ごく穏やかな笑みだった。
『四百年以上も待ったのだ。今さら少し待つ時間が延びたところで、どうということはない』
阿強は何も言えなくなった。
大谷は阿忠へ目を向けた。
『台湾の若者。世話になったな』
「いえ。こちらこそ」
阿忠は深く頭を下げた。
「今回の旅で皆さんと出会えたこと、俺たちは本当に嬉しく思っています」
大谷は一瞬、意外そうな顔をした。
それから、また微笑んだ。
『……そうか』
しばらく沈黙が続いた。
やがて大谷は、二人の肩を軽く叩いた。
『行ってこい。金沢でも、よい旅をな』
◇
一方、脇坂安治の運命は、もう少し複雑だった。
本堂の前で、信長が彼を呼び止めた。
『……おい、安治』
脇坂は慌てて頭を下げた。
『……はっ』
『お前は残れ』
たった一言だった。
しかし、そこには逆らう余地など一切なかった。
信長はそれだけ告げると、再び本堂へ戻っていった。
代わりに前へ出てきたのは、黒いスーツ姿の森蘭丸である。
いつもの書類鞄を開き、一枚の書類を取り出した。
『脇坂安治殿。信長公のご指示により、本日からの業務内容が決定いたしました』
『……業務?』
『はい。まず第一週は本能寺本堂の床清掃。第二週は回廊に配置されている炎の武士の点呼。第三週からは備品管理の研修に入っていただきます』
脇坂は黙った。
しばらくして、おそるおそる尋ねた。
『……清掃、でございますか?』
『床清掃です』
蘭丸は即答した。
『本能寺の床は四百年以上、十分な清掃が行われておりません。相当な作業量が見込まれますので、あらかじめご了承ください』
『……しかし、私は武将で――』
『元武将です』
蘭丸は書類を一枚めくった。
『現在の役職は見習い清掃員となっております』
『…………』
『何かご質問は?』
脇坂は口を開いた。
だが、何も出てこなかった。
そのとき、彼の身体に巻きついていた縛龍索が、するすると解け始めた。
縄は最後に一度だけ光を放ち、趙元帥のもとへと戻っていく。
脇坂は自分の手首を見た。
自由だった。
関ヶ原からここまで連れてこられ、ようやく拘束が解かれたのである。
しかし、その目の前には森蘭丸が立っていた。
手には勤務表。
『では、まず清掃用具の保管場所をご案内いたします』
『……はい』
脇坂は小さく答えた。
縛龍索からは逃れられた。
だが、森蘭丸の勤務表から逃れられるかどうかは、まったく別の問題だった。
◇
阿忠と阿強が出発の挨拶をしていると、ふいに三成の声が響いた。
『……待て』
阿強は振り返った。
三成の霊体が、いつの間にか傍らに立っていた。
手には、いつもの算盤。
「どうした、三成?」
『私も同行する』
「……金沢まで?」
『そうだ』
算盤の珠が、ぱちりと鳴った。
『お前たち二人に、前田利家殿から千両の黄金を受け取らせるというのは、どうにも不安が残る』
「……何が不安なんだよ」
『まず、黄金の保管状態を確認せねばならぬ。数量の照合も必要だ。運搬経路についても、十分な検討が――』
「旅行だぞ!? 軍資金の輸送作戦じゃないんだから!」
『千両もの黄金を扱うのだぞ。むしろ軍資金の輸送より慎重であるべきだ』
「……もういいや」
阿強はため息をついた。
「どうせ今までだって、ずっと俺の頭の中にいたんだし。行きたいなら一緒に来いよ」
『勘違いするな。私は自らの判断で同行するのだ。お前についていくしかないわけではない』
「はいはい。自主的に同行する三成様ね」
『そのとおりだ』
三成は満足そうに頷いた。
すると、横から大きな声がした。
『俺も行くぞ!』
福島正則だった。
阿忠が目を丸くする。
「市松も?」
『ああ。前田利家殿とは、もう四百年以上会ってねえからな。ちょいと顔を見に行きたい』
いつもの豪快な口調だったが、その声は少しだけ静かだった。
三成は福島を見た。
何も言わなかった。
ただ、算盤を弾く手を止めた。
その話を聞いていた秀吉が立ち上がった。
『……そうか。犬千代に会いに行くのか』
懐かしそうな笑みが浮かぶ。
『だったら、俺からもよろしく伝えてくれ。あいつも、さぞ退屈しているだろう』
福島は大きく頷いた。
『任せてくだせえ、太閤殿下!』
秀吉は笑ってから、大谷へ顔を向けた。
『刑部。お前からも何か伝えることはあるか?』
大谷は少し考えた。
『……前田利家殿に、よろしくお伝えください』
そこで一度、言葉を切った。
『あの方は、あまりにも早く逝かれました。もし、もう少し長く生きておられたなら……関ヶ原も、また違ったものになっていたかもしれませぬ』
静かな声だった。
三成は何も言わなかった。
福島も黙っていた。
しばらくして、三成の算盤が一つ鳴った。
『……承知した。必ず伝えよう』
◇
そこへ、蘭丸が戻ってきた。
片手には書類鞄。
もう片方の腕には、ずっしりと重そうな布包みを抱えている。
『阿忠殿。阿強殿』
「……はい?」
『信長公から、お二人にお渡しするものがございます』
蘭丸は布包みを近くの卓へ置き、丁寧に開いた。
中から現れたのは、大きな金貨だった。
一枚、二枚、三枚。
全部で十枚。
古い時代の金の輝きを宿した、ずっしりとした大判である。
阿強は目を丸くした。
「……えっ?」
『路銀です』
蘭丸は、実にあっさりと言った。
『信長公より、旅費としてお預かりしております』
「……これ、全部?」
『はい。十枚ございます』
阿強は大判を一枚手に取ろうとした。
しかし、途中で手を止めた。
何だか触るのが怖かった。
「……三成」
『何だ』
「これ、いくらするんだ?」
三成の算盤が、恐ろしい速さで動き始めた。
ぱちぱちぱちぱちっ!
『……ふむ』
「……待て。やっぱり言うな」
『なぜだ』
「金額を聞いたら、今夜眠れなくなりそうだ」
阿忠が横から口を挟んだ。
「だいたいでいいよ。旅行代金に足りるかどうかだけ教えて」
三成はしばらく算盤を弾いていた。
やがて、珠を一つ戻した。
『金沢で十分に食べ歩き、よい宿に泊まり、帰りの旅費を支払っても、まだ相当な余裕が残る』
「……どのくらい?」
『相当な余裕だ』
「だから、どのくらい?」
『……大変な余裕だ』
阿強は両手を上げた。
「わかった! もう聞かない!」
蘭丸は何事もなかったように書類鞄を開き、受領欄へ印をつけた。
『なお、信長公から前田利家殿への伝言もございます』
三成と福島の表情が引き締まった。
秀吉も、ゆっくりと顔を上げる。
蘭丸は書類へ目を落とし、いつもと変わらぬ事務的な口調で読み上げた。
『犬千代に会いたいな』
それだけだった。
蘭丸は書類を閉じた。
『以上です』
そして、深く一礼した。
『では、どうぞお気をつけて』
それ以上、何も付け加えずに立ち去っていく。
残された一行は、しばらく黙っていた。
秀吉が、ぽつりと呟いた。
『……信長公が、そうおっしゃったのか』
誰も答えなかった。
秀吉は蘭丸が去った方を見つめ、それから静かに笑った。
『……そうか』
三成は算盤を懐へ収めた。
福島も、珍しく何も言わなかった。
阿強は布包みを丁寧に結び直し、リュックの奥へしまった。
金沢へ持っていくものが、また一つ増えた。
黄金十枚と、短い伝言。
どちらが重いのかは、阿強にはまだわからなかった。
◇
本能寺を後にした一行は、現代の京都の街へ戻った。
金沢行きのバスまでは、まだ時間がある。
青葉は三人の顔を見回し、嬉しそうに言った。
「さて、金沢へ向かう前に、皆さんを案内したいところがあるんです」
阿強は警戒した。
「……何ですか?」
「京都のおいしいもの、まだほとんど食べていないでしょう?」
阿忠が首を傾げた。
「昨日、本能寺であんなに食べたのに?」
「それは台湾料理でしょう?」
青葉は微笑んだ。
「せっかく京都まで来たんですから、京都のものも食べていってほしいんです」
「……でも、金沢行きのバスは午後二時過ぎですよ」
「大丈夫です。ちゃんと時間を見ながら回りましょう」
阿強は青葉を見た。
それから阿忠を見た。
最後に、時計を確認した。
「……まあ、まだ朝だしな」
三成が小さく呟く。
『出発時刻だけは、決して忘れるなよ』
「わかってるって!」
福島はすでに、食べ物の話だけで嬉しそうだった。
『京都のうまいものか。いいじゃねえか!』
『お前は食べられぬだろう』
『うるせえ、佐吉! 見るだけでも楽しいんだよ!』
そう言った福島は、あとでこの言葉を少し後悔することになる。
◇
最初の目的地は、出町ふたばだった。
朝の鴨川にはひんやりとした風が吹き、川面に差し込む陽光がきらきらと揺れていた。
橋を渡り、青葉の案内で商店街へ入ると、通りの先に長い行列が見えてきた。
「……何、あれ?」
阿強が足を止めた。
店先から延びた列には、買い物袋を提げた年配の女性もいれば、スーツ姿の男性や、小さな子供を連れた母親もいる。
青葉は嬉しそうに言った。
「出町ふたばです。ここの名代豆餅は、ぜひ食べてほしくて」
「……この人たち、みんな豆餅を買うために並んでるんですか?」
「そうですよ」
「何分くらい?」
「今日は三十分くらいでしょうか」
阿強は列を見た。
もう一度、時計を見る。
「……三十分」
「並ぶ価値はあります」
青葉はきっぱり言った。
三成が傍らに姿を現した。
『たかが餅を買うために、これだけの人間が時間を費やすのか』
「たかが、じゃありませんよ」
青葉は少しだけ胸を張った。
「食べればわかります」
阿忠が笑った。
「じゃあ、並ぼうか」
こうして一行は、京都の和菓子屋の前で列に加わることになった。
福島は列の横を歩きながら、先ほど買い物を終えた人の包みをじっと見ていた。
店の袋から、白く丸い豆餅がのぞいている。
柔らかそうな餅の表面には、赤えんどう豆がいくつも顔を出していた。
『……なあ、阿忠』
「何?」
『あれ、うまそうだな』
「まだ食べてないからわからないけど、たぶんうまいよ」
『……俺は食えないんだよな』
「……そうだね」
福島は黙った。
その表情があまりに残念そうだったので、阿忠は少し考えてから言った。
「金沢に着いたら、前田利家殿に相談してみようか。誰か身体を貸してくれる人がいれば、食べられるかもしれないし」
福島が顔を上げた。
『本当か!?』
「いや、できるかどうかは知らないよ」
『何だよ! 期待させるな!』
三成が横から口を挟んだ。
『市松。食欲だけで生者の身体を借りようとするな。少しは慎め』
『……佐吉』
『何だ』
『お前だって食いたいだろ?』
三成は口を閉じた。
算盤を懐にしまう。
そして、何も言わなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
◇
ようやく順番が来た。
青葉は慣れた様子で豆餅を注文し、阿忠と阿強にも一つずつ渡した。
手のひらに収まる、ふっくらとした白い餅。
その表面には、ほどよく塩気の利いた赤えんどう豆が散りばめられている。
阿忠は、さっそく一口かじった。
そして、動きを止めた。
「…………」
阿強が横から覗き込む。
「どうした?」
阿忠は何も答えなかった。
ただ、豆餅を見つめている。
柔らかい餅の中から、上品な甘さのこし餡が広がる。そこへ赤えんどう豆のほのかな塩気と、しっかりした歯ごたえが重なった。
甘い。
だが、くどくない。
むしろ、豆の塩気が次の一口を誘ってくる。
阿忠は、ようやく口を開いた。
「……やばい」
青葉が満足そうに微笑んだ。
「でしょう?」
阿強も一口食べた。
そして、黙った。
阿忠を見る。
もう一口食べる。
それから青葉を見る。
「……これ、何でこんなにうまいんですか?」
「お餅と餡の甘さ、それに赤えんどう豆の塩気が絶妙なんです」
阿強は残りをじっと見つめた。
「……もう一個買えばよかった」
「まだ食べ終わってないでしょう?」
「食べ終わる前に、次が欲しくなるんですよ」
青葉は声を上げて笑った。
そのとき、福島が二人の顔を交互に見ながら呟いた。
『……やっぱり、食えないのはつらいな』
三成も、小さく頷いた。
『……まったくだ』
阿強は振り返った。
「……三成」
『何だ』
「今、何て言った?」
『何も言っておらぬ』
「絶対に言っただろ」
『気のせいだ』
「じゃあ、その算盤は?」
三成の算盤の珠が、恐ろしい速さで動いていた。
ぱちぱちぱちぱちっ!
『……これは、待ち時間の損益を計算しているだけだ』
「食べたいんだろ?」
『……黙れ』
「三成も食べたいんだ!」
『黙れと言っている!』
福島が大声で笑った。
『はははっ! 佐吉、お前も俺と同じじゃねえか!』
『市松! お前まで騒ぐな!』
阿強はもう一度豆餅をかじった。
二人の亡霊を前にして食べる豆餅は、何だかいつも以上においしく感じられた。
◇
次に向かったのは、錦市場だった。
京都の台所と呼ばれる細長い商店街には、さまざまな店が軒を連ねている。
魚介の香り、漬物の酸味、焼き物の香ばしさ。
店先には色鮮やかな惣菜や京野菜が並び、行き交う人々の声が狭い通路へ響いていた。
阿忠と阿強は、すっかり目を輝かせていた。
「……ここ、全部食べ物の店?」
「全部ではありませんけど、食べ物のお店が多いですね」
「すげえ……」
阿強が周囲を見回した。
「ここ、全部回ったら何時間かかるんだろう」
「全部回っていたら、金沢行きのバスに間に合いませんよ」
青葉が笑いながら答えた。
「今日は、私のおすすめだけにしましょう」
最初に連れていかれたのは、『こんなもんじゃ』だった。
店先では、小さく丸い豆乳ドーナツが、次々と油から引き上げられていた。
甘く香ばしい匂いが漂っている。
「ここの豆乳ドーナツ、おいしいんですよ」
青葉は出来たてを受け取り、阿強に渡した。
「熱いうちに食べてください。できれば三十秒以内に」
「……何で三十秒?」
「冷めてもおいしいですけど、揚げたては格別なんです」
阿強は小さなドーナツを指先でつまんだ。
まだ温かい。
一口かじると、薄い表面がかりっと崩れ、その奥から柔らかい生地が現れた。
ふわりと広がる、大豆の優しい香り。
油っこさは思ったほど強くなく、むしろ軽い食感だった。
「……あれ?」
もう一口。
「……これ、豆腐みたいな味がするのに、豆腐じゃない」
「豆乳を使っていますからね」
青葉が説明した。
「普通のドーナツとは、また違うでしょう?」
阿忠も一個食べた。
目を閉じ、ゆっくり噛んでから、深く頷いた。
「……癒やされる」
阿強が振り返った。
「何だよ、それ」
「いや、本当に。何か、癒やされる味がする」
青葉は嬉しそうだった。
「気に入ってもらえてよかったです」
その傍らで、三成が阿強のスマートフォンを覗き込んでいた。
『……ところで、そろそろ出発時刻を気にした方がよいのではないか』
「大丈夫だって。まだ時間あるし」
『先ほどの豆餅でも三十分を費やしたのだぞ』
「三成」
『何だ』
「食べられないからって、ひがむなよ」
『ひがんでなどおらぬ! 私は時間管理について述べているのだ!』
「……食べたいんだろ?」
『…………』
三成はしばらく黙った。
そして、珍しく素直に答えた。
『……食べたい』
阿強が目を丸くした。
『私も、その豆乳ドーナツとやらを食べてみたいのだ』
あまりに率直だったので、阿強は返す言葉を失った。
やがて、少し照れくさそうに言う。
「……いつか食べられる方法が見つかったら、俺がおごるよ」
三成は阿強を見た。
『……そうか』
「うん」
『……覚えておこう』
その返事は、どこか嬉しそうだった。
福島が横から割り込んだ。
『おい! 俺の分も忘れるなよ!』
「……はいはい。市松の分もな」
◇
錦市場をもう少し歩いたところで、青葉が突然足を止めた。
「あっ。これも食べていきましょう」
阿強は嫌な予感がした。
「……今度は何ですか?」
青葉が指さした先には、赤く艶やかな小さなタコが並んでいた。
脚を揃えた小ダコの頭が、どれも不自然なほど丸く膨らんでいる。
「たこたまごです」
「……たこ、たまご?」
「小さなタコの頭に、うずらの卵を詰めて甘辛く煮たものですよ」
阿強はじっとタコを見た。
「……待ってください」
少し顔を近づける。
「この丸いところ、全部卵が入ってるんですか?」
「そうですよ」
「……どうやって?」
「頭の中に詰めるんです」
「いや、それはわかるんですけど……」
阿強は、ますます真剣な顔になった。
「そもそも、何でタコの頭にうずらの卵を入れようと思ったんですか?」
青葉は少し考えた。
そして、あっさり答えた。
「おいしいからじゃないでしょうか」
「……そんな理由で!?」
「食べてみればわかりますよ」
阿忠が横から顔を出した。
「阿強、お前が先に食べてみろよ」
「何で俺が先なんだよ!」
「一番興味ありそうだから」
「興味があるのと、最初に食べたいのは別の話だろ!」
「まあまあ。とりあえず食べてみろって」
青葉は笑いを堪えながら、小さな串を阿強へ差し出した。
阿強はしばらくタコを見つめていた。
やがて覚悟を決め、一口で頬張る。
ぷりっとしたタコの歯ごたえ。
甘辛い味が口いっぱいに広がったかと思うと、今度は中のうずらの卵がほろりと崩れた。
卵黄のまろやかなコクが、タコの旨味に重なっていく。
「…………」
阿強は黙った。
阿忠が覗き込んだ。
「……どう?」
阿強は答えない。
ゆっくり噛み、飲み込んだ。
そして、真剣な顔で言った。
「……邪悪だ」
「……は?」
「こんなものを考えた人間は、絶対に何かがおかしい」
青葉が笑い出した。
「そんなに変ですか?」
「……でも」
阿強は、残った串を見つめた。
「……めちゃくちゃうまい」
阿忠はすぐに手を伸ばした。
「じゃあ俺も!」
一口食べる。
そして、黙った。
阿強と目が合う。
二人とも、何も言わなかった。
青葉は腕を組んで、満足そうに頷いている。
やがて阿強が、店の人へ向き直った。
「……もう一本ください」
「僕も、もう二本!」
阿忠まで手を挙げた。
青葉が時計を確認する。
「あの、皆さん。そろそろバスの時間が……」
「大丈夫!」
阿強は即答した。
「食べるのに一分もかからないから!」
「でも、移動時間が――」
「あと二本だけ!」
阿忠も嬉しそうに頷く。
「そうそう! これで最後!」
二人は追加のたこたまごを受け取り、あっという間に食べ始めた。
その横では、福島が悲しそうな顔をしている。
『……佐吉』
『……何だ』
『俺、霊体になったことを、これほど悔やんだ日はねえよ』
三成は少し考えた。
『……同感だ』
阿強が吹き出した。
「お前ら、とうとう意見が一致したな!」
『黙れ!!』
三成と福島が、見事に声を揃えた。
◇
午後二時三十八分。
京都駅八条口。
阿強はスマートフォンの時計を見た。
次に、バス乗り場を見た。
目の前では、一台の高速バスがゆっくりと動き始めていた。
金沢方面行き。
車体が少しずつ遠ざかっていく。
阿強は立ち止まった。
「…………」
阿忠も立ち止まった。
青葉は、いつもの穏やかな顔でバスを見送っている。
阿強はもう一度スマートフォンを見た。
14:38。
「……青葉」
「はい?」
「あれって……」
「金沢行きですね」
「……十四時三十五分の?」
「そうです」
「……俺たちの?」
「はい」
バスが交差点を曲がった。
そして、見えなくなった。
阿強は、ゆっくりと空を見上げた。
「…………」
やがて、大きなため息が漏れた。
「……三分」
「三分ですね」
青葉が頷く。
「……たった三分」
「そうですね」
「……たこたまごを、あと二本食べなければ」
阿強はそう呟き、青葉へ顔を向けた。
「そもそも青葉が、食べなきゃ後悔するって言ったから!」
「実際、おいしかったでしょう?」
「……おいしかったです!」
「買わなかった方がよかったですか?」
「……それは嫌です」
「じゃあ、よかったじゃないですか」
「よくないですよ! バスに乗り遅れたんですから!」
青葉は涼しい顔で微笑んでいた。
阿強は今度こそ阿忠を睨んだ。
「……阿忠、お前のせいだ!」
「何で俺なんだよ!?」
「もう二本って言っただろ!」
「最初にもう一本って言ったのはお前だろ! 俺は一本足しただけだ!」
「でも、二本って言ったのはお前じゃん!」
「それを食べようって言ったのは誰だよ!」
「…………」
二人は睨み合った。
どちらも、自分が悪かったとは思っていない。
そのとき、三成が静かに口を開いた。
『……錦市場のせいだ』
阿強と阿忠は、同時に三成を見た。
そして――。
「そうだ! 錦市場のせいだ!」
見事に声が揃った。
青葉は呆れたように三人を見比べた。
「……市場のせいにするんですか?」
『原因を整理した結果だ』
三成は真顔で答えた。
『あれほど多くの食べ物を、あのような狭い通りに並べておくのが悪い』
「そうそう!」
阿強が大きく頷いた。
「しかも、どれもうまそうなんだよ!」
「買わずに通り抜ける方が無理だよな!」
阿忠も力説した。
青葉はとうとう吹き出した。
「ふふっ……もう、三人とも!」
福島は腹を抱えて笑っていた。
『ははははっ! 佐吉! お前、とうとうこいつらと同じになっちまったな!』
『……何のことだ。私は客観的に分析しただけだ』
三成は澄ました顔で算盤を弾いた。
その場にいる誰よりも、自分の結論に満足しているようだった。
しばらくして、阿強が青葉へ尋ねた。
「……それで、次のバスは?」
青葉はスマートフォンを操作した。
「今から乗れる便ですと、夜行バスがありますね。京都駅中央口から二十三時四十分発です」
「……二十三時四十分」
阿強は時計を見た。
「……あと九時間以上もあるじゃん!」
「そうですね」
「……何するんだよ、九時間も!」
青葉は少し考えた。
それから、にっこり笑った。
「だったら、もう一か所ご案内しましょうか」
阿忠が顔を上げた。
「……どこ?」
「一条戻橋です」
三成の算盤が止まった。
福島も、ふと笑うのをやめた。
阿強だけが首を傾げていた。
「……橋?」
「はい。ここから少し距離がありますけど、市バスで近くまで行けますよ」
「……そこに何があるんですか?」
青葉は、少しだけ意味ありげに微笑んだ。
「行けばわかります」
阿強は頭を抱えた。
「……またそれかよ!!」
◇
京都駅から市バスに乗り、一条戻橋・晴明神社前の停留所で降りる。
堀川通を歩いていくと、間もなく小さな橋が見えてきた。
一条戻橋。
一条通が堀川を渡る、その場所に架かる橋だった。
現代の道路に囲まれた、ごく普通の橋に見える。
近くを車が走り、歩道を自転車が通り過ぎていく。
観光客で賑わう大きな寺社とは違って、ここだけなら何も知らずに通り過ぎてしまいそうだった。
阿強は橋を見た。
次に、青葉を見る。
「……ここ?」
「はい」
「……ただの橋じゃないですか」
「そう見えますよね」
青葉は微笑んだ。
阿忠は橋の欄干へ近づき、下を流れる堀川を覗き込んだ。
水面には夕方の光が映り、小さな波紋が広がっている。
「……古い橋なの?」
「橋そのものは新しくなっていますけど、ここは平安時代から知られている場所なんです」
「平安時代?」
「ええ。千年以上も前から、いろいろな話が残っているんですよ」
青葉は橋の向こう側へ目を向けた。
「亡くなった人が生き返ったという伝説もありますし、鬼や陰陽師にまつわる話もあります」
「……陰陽師?」
阿強が反応した。
「安倍晴明とか?」
「そうです。この近くには晴明神社もありますから」
「へえ……」
阿強はもう一度橋を見た。
さっきより、少しだけ見え方が変わった気がした。
「それで、何でここに?」
青葉は答えなかった。
代わりに、空を見上げた。
西の空が、ゆっくり橙色に染まり始めている。
「……暗くなるまで、少し待ってみましょう」
「……え?」
「せっかく来たんですから」
阿忠は青葉の横顔を見た。
「青葉、何か知ってるの?」
「聞いたことがあるだけですよ」
青葉は静かに答えた。
「昔から、この辺りには夜に近づかない方がいいという話があるんです」
「……どうして?」
「人の世と、そうでないものの世界。その境目が、夜になると近づいてくるからだそうです」
阿強は橋を見つめた。
「……それ、かなり危なくない?」
青葉が振り返る。
「阿強さん」
「はい?」
「八岐大蛇の尾を食べた人が、今さら何を怖がっているんですか?」
「…………」
阿強は少し考えた。
「……まあ、そう言われると」
福島が腹を抱えて笑い出した。
『はははっ! そりゃそうだ! お前、あれを食ったんだもんな!』
『市松。笑い事ではないぞ』
三成が低い声で言った。
阿強が振り返る。
「……三成?」
三成は橋の向こう側を見つめていた。
『……一条戻橋か』
「知ってるの?」
『名は聞いたことがある。私が生きていた頃にも、ここには古い怪異の話があった』
「……どんな?」
『詳しくは知らぬ。だが、夜になると人ならざるものが通るという噂はあった』
三成は言葉を切った。
そして、ゆっくりと算盤を懐に収めた。
『……妙だな』
阿忠も顔を上げた。
「……何が?」
『何かがいる』
三成の声から、いつもの理屈っぽさが消えていた。
『気配は薄い。だが、確かにいる。橋の向こうだ』
福島も、もう笑っていなかった。
『……俺にもわかる』
低い声だった。
『普通の亡霊じゃねえな。もっと古い何かだ』
「……古い?」
阿忠が尋ねた。
「どのくらい?」
福島はしばらく黙った。
やがて、ぽつりと答えた。
『……俺たちより、ずっと古い』
◇
夕陽が沈み始めた。
堀川の水面から橙色の光が薄れ、代わりに深い青が広がっていく。
街灯が一つ、また一つと灯った。
車は相変わらず通っていたし、遠くからは人の話し声も聞こえていた。
それでも、橋の周辺だけが少しずつ静かになっていくようだった。
阿忠は欄干に手を置いた。
「……青葉」
「はい」
「本当に何か来るの?」
青葉は答える前に、橋の向こうを見た。
「……わかりません」
そう言って、御幣を取り出した。
「でも、何も来なければ、それが一番です」
阿強は顔をしかめた。
「……だったら、最初から来ない方がよかったんじゃ」
『静かにしろ』
三成が遮った。
阿強は驚いて振り返った。
三成は橋を見つめたまま、動かなかった。
福島も、その横に並んでいる。
二人の武将が、無言で同じ方向を見ていた。
阿忠も、ようやく気づいた。
空気が変わっている。
冷たくなったわけではない。
風が止まったわけでもない。
ただ、そこにあるはずのない何かが、ゆっくり近づいてくる感覚があった。
生者と死者の境界に触れるとき、乩童が感じ取る、あの独特の気配。
しかし、今回は一つではなかった。
二つでも、三つでもない。
無数だった。
「……青葉」
阿忠が声を潜めた。
「……あれ」
「ええ」
青葉は頷いた。
御幣を握る指に、わずかに力が入る。
「……私にも感じられます」
阿強は二人の顔を見た。
それから、橋の向こうへ目を向けた。
「……何が?」
誰も答えなかった。
やがて、夜が訪れた。
京都の街灯が消えたわけではない。
通りから車がなくなったわけでもない。
それなのに、一条戻橋の向こう側だけが、別の夜に沈んでいく。
現代の街並みの奥で、もう一つの景色が重なり始めていた。
遠くの建物が、少しずつ霞んでいく。
舗装道路の輪郭が曖昧になり、橋の向こうに、見覚えのない闇が広がった。
そして、その闇の中から、何かが歩いてきた。
最初に見えたのは、一つの大きな影だった。
人間の形には見えない。
ひどく背が高く、長い腕のようなものを揺らしながら、ゆっくり進んでくる。
その後ろに、二つ目の影。
さらに、三つ目。
小さなものもいた。
地を這うようなものもいた。
何本もの脚を持つものも、空中を漂うものもいた。
いずれも、こちらを見ているのかさえわからない。
ただ、黙って進んでくる。
阿強は息を呑んだ。
「……おい」
返事はなかった。
影は、さらに増えていく。
十、二十と数えようとして、阿強は途中で諦めた。
橋の向こう側を、さまざまな形をしたものたちが埋め尽くしていく。
音がない。
足音も、話し声も、衣擦れの音さえ聞こえない。
それなのに、確かに何かの行列が近づいていた。
阿忠は、自分の心臓が激しく打っているのを感じた。
青葉は御幣を構えたまま、静かに立っている。
福島は、いつの間にか一歩前へ出ていた。
『……佐吉』
返事はなかった。
『……あれ、何だ?』
三成は答えない。
いつもなら、何かしらの説明を始める男だった。
どんな状況でも計算し、分析し、理屈を探す。
だが、今は算盤に触れようともしなかった。
その目は、ただ橋の向こうを見つめている。
無数の影が、夜の一条戻橋を渡り始めた。
三成が、ようやく口を開いた。
その声は、ほとんど呟きだった。
『……百鬼夜行』
**第二十一話 終**




