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第八話 宇都宮餃子、長岡百穴、そしてラー油の問題

岡崎から豊橋へ、豊橋から浜松へ、そして静岡へ。


東海道本線をひたすら東へ進み、さらに東京方面から東北本線へと乗り継ぐ。普通列車ばかりの長旅の末、阿忠と阿強はようやく宇都宮駅にたどり着いた。


その間、二人が何度、六袋のしかみ像を持ち上げたり下ろしたりしたのかは、もはや数える気にもならない。


乗り換えのたびに荷物を抱えてホームを移動し、空いた座席を探して腰を下ろし、ようやく落ち着いたと思えば、また次の乗り換えがやってくる。


青春18きっぷとは、名前こそ青春らしいものの、実際には若さよりも忍耐力を試すための切符なのではないか。


阿強は途中から、そんなことばかり考えていた。


宇都宮駅の出口に立った頃には、二人とも天日干しにされた塩漬けの魚のように、すっかり干からびていた。


「……着いた」


阿強が言った。


「……着いたな」


阿忠も答えたが、二人ともその場から動かなかった。


足はしびれ、背中は痛み、目は乾ききっている。何より、六袋のしかみ像をもう一度持ち上げる気力が残っていなかった。


「……行くか」


「……そうだな」


それでも動かない。


三十秒ほど経った頃、二人は同時に深いため息をつき、ようやくスーツケースと六袋のしかみ像を引きずって歩き始めた。


     ◇


駅を出たところで、風が吹いた。


今度は神霊の気配を伴う、あの妙な風ではない。ごく普通の風だったが、何とも食欲をそそる匂いを運んできた。


香ばしく焼けた皮と油の香り。


どこか懐かしく、けれど微妙に違う匂いだった。


阿忠と阿強は同時に足を止め、鼻をひくつかせて同じ方向を振り返った。


「「鍋貼(グオティエ)!!」」


二人の声が見事に重なった。


その視線の先には、見覚えのある看板があった。


**宇都宮みんみん。**


次の瞬間、二人は走り出していた。


ついさっきまで干からびた魚のように動けなかったはずなのに、スーツケースを引き、六袋のしかみ像を抱えながら、この旅で一番の速さを記録したのである。


     ◇


店に入った二人は、それぞれ焼き餃子とライスを注文した。


やがて運ばれてきた餃子は、こんがりと焼き色がつき、食欲をそそる香りを漂わせている。


阿忠はさっそく一つ箸でつまみ、口に運んだ。


ぱりっ。


皮の焼け具合は申し分なかった。


ところが、噛んだ瞬間、眉をひそめる。


阿強はその表情に気づき、自分も餃子を一つ頬張った。


そして、すぐに同じ顔になった。


「……なあ、阿忠」


「……ん?」


「これ、何かおかしくないか?」


阿強は口の中のものを飲み込んでから、箸で餃子を指した。


「皮はすげえパリパリでうまいんだけどさ。噛んだら白菜とニラばっかりじゃん。肉は? 肉、どこ行った?」


阿忠は手元の餃子をじっと見つめた。


「……確かに」


「これ、野菜餃子なのか? 俺たち、知らないうちに精進料理頼んだ?」


阿忠はしばらく考え込み、ようやく口を開いた。


「……何か、ウサギになった気分」


「だろ?」


「でも……」


阿忠はもう一口食べた。


ぱりっ。


もぐもぐ。


「……うまいんだよな、これ」


阿強も黙って頷いた。


確かに肉は少ない。台湾の鍋貼と比べれば、野菜の存在感がずいぶん強い。


だが、香ばしい皮とニラの風味、それにラー油の香りが合わさると、妙に箸が進むのだった。


阿強はもう一つ餃子をつまんだ。


すると、頭の中で三成の声が響いた。


『……お前たちは何もわかっておらんな』


その口調には、なぜか上から目線の哀れみが混じっていた。


『太閤殿下の御代であれば、餃子の肉をここまで惜しむことなどなかったであろう。内府のような吝嗇な狸親父が、肉の代わりに野菜ばかり詰め込ませているに違いない』


阿強は餃子を噛みながら、目を瞬かせた。


……また家康のせいか。


三成は構わず続けた。


『ああ、哀れな関東の民よ。内府の倹約令に苦しめられ、肉の代わりに野菜ばかり食わされておるのか……さぞ辛かろう』


しばらくして、少し声の調子が変わった。


『……もっとも、身体には良さそうだが』


今度は、そばにいる福島が口を挟んだ。


『そうそう! 内府の奴なら言いそうなことだ。肉は減らせ、野菜を増やせ、そっちのほうが安上がりだってな!』


豪快に笑ったかと思うと、ふいに声が小さくなる。


『……しかし、いい匂いだな』


『……』


『これを肴に酒を飲んだら、十升はいけるぞ』


阿忠と阿強は顔を見合わせた。


阿強は箸を置き、何気なく尋ねた。


「……お前らも一皿食う?」


沈黙。


『……私には、身体がない』


三成が答えた。


続いて、福島も言った。


『……俺もねえんだよ』


少し間を置いて、悔しそうに付け加える。


『身体がありゃ、とっくに一皿奪ってるさ』


「……そっか」


阿強は再び箸を取った。


阿忠も何も言わず、残りの餃子を口へ運ぶ。


二人は黙々と食べ続けた。


三成と福島からは、それ以上何も聞こえなかった。


     ◇


食事を終えた二人は、口元についたラー油を拭い、六袋のしかみ像を持って再び宇都宮駅へ戻った。


まだ日光までは距離がある。できるだけ先へ進んでおきたかった。


阿強が自動改札機に切符を通すと、電子音が鳴り、何事もなくゲートが開いた。


ピッ。


阿強はそのまま通過した。


続いて、阿忠が切符を差し込む。


その瞬間だった。


駅の照明が、ちらりと揺れた。


最初は気のせいかと思ったが、次の瞬間、天井の照明が不規則に点滅し始めた。


ちかっ、ちかちかっ。


明滅の間隔が妙に乱れている。目で追っていると、気分が悪くなりそうな光だった。


さらに、構内放送の声までおかしくなった。


『まもなく……電車が……』


聞き慣れた日本語の女性の声が、ゆっくりと歪んでいく。


『……ギ……ギギ……』


そのうち、人間の声なのかどうかもわからなくなった。何かが喉の奥で唸り、遠くから甲高い叫び声を上げているようだった。


「……え?」


阿強は改札の向こうで足を止め、周囲を見回した。


駅の照明が激しく点滅している。


そして――


ふっと、すべての光が消えた。


一瞬、完全な闇が訪れる。


しかし、すぐに別の光が差し込んできた。


駅の照明ではなかった。青白く、冷たく、どこか古いものを感じさせる光だった。


阿強は恐る恐る顔を上げた。


「……は?」


そこにあるはずの自動改札機が消えていた。


代わりに見えたのは、不気味な灰色の岩肌だった。


コンクリートの天井も、案内表示も、駅の壁もなくなっている。目の前には巨大な岩壁がそびえ、その表面には無数の穴が口を開けていた。


まるで巨大な生き物の目が、闇の中からこちらを見下ろしているようだった。


阿強の膝から、ゆっくり力が抜けた。


別に土下座したかったわけではない。ただ、立っていられなくなったのだ。


彼はそのまま、後ろにあったスーツケースの上へ腰を落とした。


「……趙元帥」


声が少し震えていた。


「俺、休みたいです」


返事はない。


「日本の霊界って、入国管理局だけじゃなくて交通局までどうなってるんですか!?」


阿強は目の前の岩壁を指さした。


「俺たち、さっきまで宇都宮駅にいましたよね!? 改札を通っただけですよね!? 何でいきなり山の中へ物理的に転送されてるんですか!?」


その横で、阿忠が震える手でスマートフォンを操作していた。


どうやら列車の中で調べていた、宇都宮の観光スポットを確認しているらしい。


「……阿強」


「何だよ!」


「これ……」


阿忠は画面と目の前の岩壁を見比べた。


「……長岡百穴だ」


「……は?」


「長岡百穴古墳。宇都宮の史跡だって」


阿強はゆっくり振り返った。


岩壁には、全部で五十二もの横穴が並んでいる。


冷たい光の中で黒々と口を開くその穴は、どれも底が見えないほど暗かった。


阿強はしばらく黙って眺めていたが、やがて静かに言った。


「……三日、休ませてください」


「誰に言ってんの?」


「特別休暇でお願いします。年次有給休暇は減らさない方向で」


もう一度、岩壁を見た。


「……だから、帰らせてくれ」


もちろん、誰も答えなかった。


     ◇


そのとき、岩壁の前に薄桃色の霧が漂い始めた。


ただの霧ではない。


どこからともなく甘ったるい気配が広がり、空気そのものが、妙に芝居がかった雰囲気へと変わっていく。


霧の奥から、すらりとした男がゆっくりと姿を現した。


身を包んでいるのは、鮮やかな朱塗りの甲冑だった。だが、その物々しい赤備えとは裏腹に、身のこなしは妙になまめかしい。


しなやかな足取りで近づいてくる姿は、どこか舞台役者を思わせた。


男が長い前髪をかき上げると、青白い光に照らされた顔が露わになった。


驚くほど白い。


まるで、地中から掘り出されたばかりの白玉の彫像のようだった。


男は二人の前で足を止め、おもむろに袖の中から小さな磁器の器を取り出した。


中には、金属のような鈍い光沢を帯びた、濃い緑色の膏が入っている。


男は指先でそれを少量すくい取り、唇へと塗り広げた。


すると、不思議なことが起きた。


緑色だったはずの膏が、唇の上で鮮やかな紅色へと変わったのである。


阿忠と阿強は黙っていた。


目の前の男が何をしているのか、理解できなかったからだ。


男は満足げに唇を整えると、器を袖へしまい、ゆっくりと顔を上げた。


視線が阿強へ向く。


次に阿忠。


そして、足元に積まれた六袋のしかみ像へ。


まるで、こちらに目を向けてやること自体が褒美であるかのような、ひどく尊大な眼差しだった。


「……ふん」


男は口元に、かすかな笑みを浮かべた。


「今日は機嫌がいい」


阿強は何も言わなかった。


男は構わず続けた。


「特別に、この俺様の名を知る栄誉を与えてやろう」


「……」


「礼はいらん。このような機会、凡人にはそうそう与えられるものではないからな」


男は軽く顎を上げた。


「よいか。耳をかっぽじってよく聞け。背筋を伸ばし、中央にきっちり揃えろ!」


そして、満足げに頷く。


どうやら、誰も口を挟まないことを、自分への敬意だと受け取っているらしい。


「この俺様こそ……」


そこで、長い間を置いた。


「内府殿下の御麾下にして――」


沈黙。


「徳川四天王の中でも、最も若く――」


また沈黙。


「若くして破格の石高を与えられし、徳川家随一の寵臣――」


阿強は目を瞬かせた。


まだ続くのか。


「従四位下、侍従兼兵部大輔――」


男は袖を軽く払った。


「彦根井伊家の礎を築いた、栄光ある初代――」


今度の沈黙は、これまでよりもずっと長かった。


男は、二人が期待に満ちた顔で次の言葉を待っていると信じて疑っていない。


そして、満を持して口を開いた。


「異名は……」


薄桃色の霧が、ふわりと揺れる。


「**井伊の赤鬼**――!」


男はその名をしばらく空気に漂わせ、最後に大きく胸を張った。


「井伊万千代直政である!」


長岡百穴は、静まり返っていた。


五十二の横穴から、返事はなかった。


阿忠も阿強も、何も言わない。


井伊直政は、それでも満足そうだった。


しばらくして、付け加える。


「ちなみに」


阿強が顔を上げた。


「その『井伊の赤鬼』という異名は、俺様が自ら考えたものだ」


直政は得意げに笑った。


「礼には及ばん」


阿忠は、隣でぼそりとつぶやいた。


「……メスガキみたいなチャン・グンソクかよ」


井伊直政の眉が、ぴくりと動いた。


怒ったのかと思ったが、違った。


その表情はむしろ、「ふん、見る目はあるようだな」と言わんばかりだった。


直政は何も言わず、わずかに顎を上げた。


どうやら、褒められたと思っているらしい。


     ◇


『うおおおおいッ!!』


突然、福島の怒鳴り声が響いた。


今の福島は三成と同じく霊体のままなので、普通の人間には聞こえない。しかし、阿強と阿忠には耳元で叫ばれたも同然だった。


『阿強! 水だ! 水を持ってこい! 目を洗わせろ!』


「……何で?」


『何でじゃねえ! 見ただろ、今の!』


福島は、信じられないものを目撃したような勢いでまくし立てた。


『緑色の紅を唇に塗りやがったぞ、あの野郎! しかも真っ赤になった! 何の妖術だ、ありゃ!』


阿強は黙っていた。


『内府の狸親父も、よくあんな化け物をそばに置いてられたな! 三方ヶ原で信玄に追い回されて小便漏らしたのも、こいつの化粧を毎日見せられてたせいじゃねえのか!』


福島はますます調子に乗った。


『あんなもん、もはや生物兵器だろ! 内府の狸親父は職業病で膀胱までおかしくなったんだよ! だから三方ヶ原で、懐具合どころか下半身まで大赤字になったんだろうが!』


「…………」


『しかも関ヶ原じゃ、俺の手柄を横取りしやがって! あのときは兜で顔がよく見えなかったが、まさか中身がこんな妖怪だったとはな!』


そこで、三成が静かに口を開いた。


『……ふん』


福島が黙る。


『緑色から紅色に変わる高級な紅花膏か。あれほど手の込んだ品なら、一匁につき金数両は下るまい』


三成の声は、驚くほど冷静だった。


『豊臣家の勘定方ならば、真っ先に削るべき無駄な出費だ。戦の役にも立たぬ高価な紅を買い込み、しかも――』


少し間が空いた。


『唇の中央から、わずかにずれておる』


阿強は思わず直政の顔を見た。


……本当だ。


三成は容赦しなかった。


『支出に見合う仕上がりとは言い難い。さらに、あの赤備えにあの紅色を合わせるとは、色の取り合わせまで考えておらんのか』


「……そこまで見る?」


阿強が小声で尋ねる。


『当然だ。無駄な出費は一文たりとも見過ごせん。まして、これほど高価な品を使いながら、仕上がりがこれでは話にならぬ』


三成は、きっぱりと言った。


『井伊直政。お前の化粧は、費用対効果の面から見ても、見栄えの面から見ても、完全に破綻しておる!』


福島が吹き出した。


『がっはっは! そりゃいい!』


しかし、三成は笑わなかった。


あくまで真面目な声で、阿強に告げた。


『案ずるな、阿強。あの赤鬼は、もはや財政的にも、美的にも、生物学的にも破綻しておる』


「……生物学的にも?」


『構うことはない。内府の失禁しかみ像を持って、そのまま突破するのだ!』


阿強は、六袋のしかみ像を見下ろした。


それから、目の前の井伊直政を見る。


……いや、突破って。


そもそも、まだ何も始まっていないんだけど。


     ◇


そのときだった。


ふわりと、妖しい風が吹いた。


那須高原の方角から流れてきたようなその風は、薄桃色の霧をまとっていた。


そして、もう一つ。


何とも言えない匂いを運んできた。


どこか懐かしいような、けれど妙に気になる匂いだった。


阿忠と阿強は、同時に顔を上げた。


霧の向こうから、一人の女が姿を現す。


息を呑むほど美しい女だった。


五衣唐衣裳をまとったその姿は、まるで平安時代の絵巻物から抜け出してきたかのようだった。幾重にも重なる華やかな衣と、優雅な身のこなし。透き通るような肌に長く艶やかな黒髪が映え、その顔立ちは言葉を失うほど整っている。


しかし――。


阿強は、ほんの少し眉をひそめた。


……何か、匂わないか?


香水ではない。


花の香りでもない。


ほんのり獣の匂いがする。それも、どこかワキガに似た、妙に生々しい匂いだった。


阿強は、もう一度そっと鼻をひくつかせた。


……やっぱり、匂う。


彼は阿忠の隣へ少し身体を寄せた。


「……なあ」


「……ん?」


「お前も、匂う?」


阿忠は小さく頷いた。


「ああ」


「……何なんだ、あれ」


阿忠は霧の中の美女を見つめ、何でもないことのように答えた。


「玉藻前だよ」


「……は?」


「うちの趙元帥の、二千年来の古い友達」


阿強は黙った。


一秒ほど考えてから、ぼそりと言う。


「……元帥が捕まった理由、何となくわかった気がする」


阿忠はすぐに答えた。


「……それ以上は言うな」


二人は黙って、玉藻前を見守った。


     ◇


井伊直政は、玉藻前の姿を認めた途端、表情を変えた。


先ほどまでの自信に満ちた笑みが消え、目つきが鋭くなる。


直政は一歩前へ進み、彼女の行く手を遮るように立った。


「……玉藻前殿」


声が低くなった。


「この井伊直政、命を受けてここに控えております。申し訳ありませんが、お通しするわけにはまいりません」


しかし、玉藻前は止まらなかった。


ふわりとした足取りのまま、その横を通り過ぎようとする。


「玉藻前殿!」


直政がもう一度呼びかけた。


「お待ちください。俺様は、ここをお通しするわけには――」


玉藻前は、まるで何も聞こえていないかのように進み続けた。


そして、阿強のすぐ横で足を止めた。


「あら」


玉藻前が、阿強を見た。


「あなたたち、さっきみんみんで餃子を食べていたでしょう?」


阿強は目を瞬かせた。


「……え? あ、はい」


「どうだった?」


「……どうって?」


「おいしかった?」


阿強は少し考えた。


「まあ、おいしかったですよ。肉は少なめでしたけど、ニラの香りが強くて、ラー油とよく合ってました」


玉藻前は、嬉しそうに頷いた。


「そうなの。私も食べに行こうと思っていたところなのよ」


「……へえ」


その後ろで、井伊直政が声を張り上げた。


「玉藻前殿!」


返事はない。


「玉藻前殿! 俺様がお話ししているのです!」


玉藻前は、ようやくゆっくりと振り返った。


そして、直政を見た。


実に穏やかな眼差しだった。


「あら」


少し首を傾げる。


「……あなた、どなた?」


井伊直政は固まった。


先ほどまで、あれほど長い自己紹介をしていた男である。その輝かしい官位も、徳川四天王の名も、「井伊の赤鬼」という異名も、この女の前では何の意味もなかった。


「……い、井伊……」


直政は口を開いた。


「井伊万千代直政、でございます……」


「ああ、そう」


玉藻前は、それだけ答えた。


そして、何事もなかったかのように阿強へ向き直った。


「ところで、みんみんのラー油って辛い?」


「……え?」


「私、あまり辛いものは得意じゃないのよね。だったら、餃子の王将にしようかしら」


阿強は直政を見た。


直政は、まだ固まっている。


次に、玉藻前を見た。


玉藻前は、真剣な顔で返事を待っている。


阿強は少し考えてから、答えた。


「みんみんのラー油は、中辛くらいですかね。そんなに強烈じゃないですけど、餃子自体のニラの風味が結構強いんですよ」


「ふうん」


「王将のほうは、台湾で食べる餃子にちょっと近い感じですね。皮も少し厚めで、肉の存在感もありますし、タレの味も濃いめです」


玉藻前は真剣に聞いていた。


阿強も真剣だった。


そこへ、三成の声が割り込んだ。


『……阿強』


「……何?」


『あの男は、命懸けの決闘を挑んでおるのだぞ!』


「知ってるよ」


阿強は、あっさり答えた。


『ならば、なぜ悠長に餃子の話などしておる!』


阿強は玉藻前を指さした。


「……だって、この人が先に聞いてきたんだろ」


三成は黙った。


福島も、珍しく何も言わなかった。


玉藻前はしばらく考えていたが、やがて満足そうに頷いた。


「……そうね」


そして、にっこりと微笑んだ。


「じゃあ、今日は王将にするわ」


「あ、そうですか」


「教えてくれてありがとう」


「いえいえ」


玉藻前は優雅に一礼すると、そのまま歩き出した。


長い衣の裾が、霧の中へ溶けていく。


かすかな獣の匂いが、ゆっくりと遠ざかっていった。


薄桃色の霧も、彼女を追うように流れていく。


やがて、辺りは再び静まり返った。


冷たい光に照らされた長岡百穴の岩壁には、五十二の横穴が並んでいる。


そこに残されたのは、井伊直政と、阿忠、阿強。そして、六袋のしかみ像だけだった。


直政は、玉藻前が消えていった方向を見つめていた。


長い沈黙が続く。


「…………」


誰も何も言わない。


さらに、もうしばらく。


「…………」


阿強は、ようやく口を開いた。


「……あの」


直政が、ゆっくり振り返る。


「……何だ」


阿強は少しだけ首を傾げた。


「……それで、俺たち、まだ命懸けの決闘をするんですか?」


井伊直政は答えなかった。


ただ、玉藻前が去った方向をもう一度見た。


それから阿忠と阿強へ視線を戻し、最後に足元に並ぶ六袋のしかみ像を見下ろした。


**第八話 終**


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