#第七話 蜻蛉切、スイスアーミーナイフのキーホルダー、そして井伊の赤備え
本多忠勝は定食屋の入口に立ったまま、微動だにしなかった。
背筋を伸ばし、凜とした眼差しを阿強に向けている。先ほどの「ガンダム」という言葉が何を意味するのか、どうやら本気で説明を待っているらしい。
阿強は深く息を吸った。
……無理だ。
戦国時代の武将に巨大ロボットの話をするくらいなら、まだ日本語で道を尋ねるほうが簡単だろう。
「あの……その、本多さん」
阿強は、とりあえず話題を変えることにした。
「何か、俺たちにご用でしょうか……?」
忠勝の視線が阿強から阿忠へ移り、また阿強へ戻った。最後に足元へ向けられたその目が、六袋のしかみ像を捉える。
「貴様ら、この国の者ではあるまい」
声は低く、落ち着いていた。
「しかも豊臣の残党を二人も引き連れておる。何を企んでいる?」
阿強は目を泳がせた。
「いや、企んでるっていうか……太閤様から、ちょっと届け物を頼まれまして」
「届け物?」
「はい。日光東照宮まで、その……荷物を届けろって。徳川様のところへ……」
忠勝は黙った。何かを考えているようだったが、その表情からは何も読み取れない。
すると、すぐそばで福島正則の声が響いた。
『おい、阿強! 何をびびってやがる!』
福島は阿忠の身体から離れ、今は三成と同じく霊体のまま二人に付き添っていた。普通の通行人には聞こえない声だったが、阿強にも、忠勝にも、その威勢のよさは十分伝わっていた。
『確かに蜻蛉切は徳川家自慢の名槍だ。だがな、俺の日本号だって負けてねえぞ!』
その直後、阿強の頭の中に三成の声が響いた。
『……その日本号は、今どこにある?』
福島が黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
『……いや、その……』
さっきまでの勢いが、急になくなった。
『……酒の席で、人にやっちまった』
『そうか』
三成は、それ以上何も言わなかった。
だからこそ、福島は余計に言い返せなくなった。
忠勝は福島の声がした方へわずかに目を向けたが、表情を変えることはなかった。
◇
「届け物と言ったな」
忠勝が口を開いた。
「ならば、太閤からの書状はあるのか?」
「……ないです」
「では、届け物を見せてもらおう」
阿強は思わず阿忠の顔を見た。しかし、そこに浮かんでいるのは本多忠勝の厳しい表情だった。
相手は徳川家康の重臣である。できれば見せたくないが、ここで隠したところで、どうせ後から大騒ぎになるだけだろう。
阿強は諦めて腰をかがめ、足元の袋から一枚の紙を取り出し、忠勝へ差し出した。
忠勝はそれを受け取ると、何気なく目を落とした。
一度だけ紙に目を通したが、すぐに視線を戻し、今度はしばらく見入っていた。やがて、その目がわずかに見開かれる。
紙に描かれているのは、徳川家康だった。
しかし、忠勝がよく知る、威厳に満ちた主君の姿ではない。
顔は歪み、目は虚ろで、ひどく情けない表情をしている。
忠勝の脳裏に、遠い冬の日の記憶がよみがえった。
三方ヶ原の冬。戦場には武田信玄の旗が翻り、徳川軍は敗走を余儀なくされた。
あの日のことは、今なお鮮明に覚えていた。主君を守るために戦いながら、それでも防ぎきれなかった敗北。敵の圧倒的な勢いと、辛うじて撤退していく味方の姿。
忘れようにも忘れられない記憶だった。
「……これは」
忠勝の声が、初めて揺れた。
「これは……三方ヶ原……」
彼はゆっくり顔を上げ、紙が取り出された袋を見た。
その隣にも袋がある。
さらに、その隣にも。
全部で六袋。
「……何枚ある?」
阿強は答えた。
「……千枚です」
「……千?」
「はい。A4のカラーコピーで」
忠勝は、もう一度しかみ像を見下ろした。
主君の情けない表情が用紙の中央にきっちり配置され、カラーで鮮明に印刷されている。あの敗戦の記憶を、誰にでもわかるような形で再現してあるのだ。
忠勝はゆっくり息を吸い、状況を一つずつ理解し始めた。
まず、この絵が三方ヶ原の主君を描いたものであること。
次に、その絵が丁寧にカラー印刷されていること。
さらに、同じものが千枚も存在すること。
そして最後に――
**その千枚を、日光東照宮に貼りつけようとしていること。**
忠勝の顔から、さっと血の気が引いた。しかし次の瞬間には、怒りで頬が赤く染まり始めた。
「……石田」
低い声だった。
「……福島」
阿強は嫌な予感がした。
忠勝は紙を握りしめ、ついに声を荒らげた。
「貴様ら、豊臣の亡霊どもめ!」
駅前の通行人が振り返った。
「昨夜は名古屋で手羽先など食っておきながら、成仏もせず、海の向こうから台湾の乩童まで連れてきおって!」
忠勝の怒りは、ますます激しくなった。
「よりにもよって、内府様が三方ヶ原でさらされた、あの屈辱の姿を千枚も刷り上げたというのか! しかも、それを日光東照宮に貼りつけるだと!?」
阿強は小さくなっていた。
「いや、あの……俺たちは頼まれただけで……」
「黙れ!」
忠勝は、しかみ像を持つ手を震わせた。
「主君の不名誉を、これほどまでに執拗に広めようとは……何という卑劣な策! 拙者がいる限り、そのような真似は断じて許さん!」
言い終わると、忠勝は一歩後ろへ退き、腰を落として構えた。
定食屋の入口付近にいた通行人が、そろそろと距離を取り始める。一人が下がると隣の人も下がり、さらにもう一人。
気づけば、その場には人垣に囲まれた半円形の空間ができていた。
誰も事情を知らない。ただ、ここに近づくと面倒なことになりそうだということだけは、全員が察していた。
阿強は忠勝の構えを見て、深く息を吸った。
「……あの、本多さん」
「何だ」
「じゃあ……ここから先は、本多さんにお任せしてもいいですか?」
忠勝の眉が動いた。
「……何?」
「いや、俺たちが通れないなら、太閤様にそう報告するしかないですよね」
阿強はできるだけ丁寧な声で続けた。
「本多さんに止められましたって。そうしたら、太閤様ご本人に来てもらうしかないですし……」
忠勝の構えが、ぴたりと止まった。
阿強は、少しだけ希望を抱いた。
これで引いてくれるかもしれない。
しかし、甘かった。
「……よかろう」
忠勝は低い声で言った。
「その猿めに度胸があるなら、自ら来るがよい。拙者、本多平八郎忠勝、いささかも恐れはせぬ!」
そして、間髪を入れずに踏み込んだ。
◇
本多平八郎忠勝。
生涯五十七度の合戦に出陣しながら、一度も傷を負わなかったと伝えられる、戦国屈指の猛将。
徳川家康からも、その武勇を高く評価された男である。
だが、今の忠勝には、一つだけ重大な問題があった。
**使っている身体が、阿忠のものだった。**
阿忠。
台湾・草屯の玄武宮に仕える乩童。
二十三歳。
幼い頃から阿強と一緒に育ち、喧嘩を始めれば、決まって互いに拳を振り回してきた。
つまり阿強は、この二十三年間、阿忠の拳を嫌というほど見てきたのである。
忠勝が踏み込んだ。
右の拳が飛んでくる。
阿強は、ひょいと身体を左へずらした。
拳が空を切る。
忠勝はすぐに体勢を立て直し、今度は左から拳を繰り出した。
阿強は、反対側へ身をかわした。
それも当たらなかった。
忠勝はさらに拳を繰り出したが、阿強はそれもかわした。何度か攻撃を繰り返した末、忠勝は一度距離を取った。
阿強は息を切らしていたが、こちらからは一度も手を出していない。
別に阿強が強いわけではなかった。
ただ、阿忠の身体には、本多忠勝本人のような速さも力もない。いくら戦場で鍛え上げた技量があっても、二十三歳の乩童の肉体で再現できる動きには限界がある。
しかも阿強は、その身体がどう動くのかを誰よりもよく知っていた。
阿忠が拳を振り上げれば、次にどちらから攻撃してくるのかがわかる。肩の動きを見れば、狙いもおおよそ読めた。
そんなことは、子供の頃から数えきれないほど経験している。
もはや、考えるより先に身体が勝手に動いていた。
一方、周囲の通行人たちは、ますます困惑していた。
いったい喧嘩なのか、それとも何かの撮影なのか。誰にもわからない。
ただ、双方とも妙に真剣なことだけは確かだった。
◇
やがて忠勝が動きを止め、何もない空間へ右手を伸ばした。
その手の中に、長大な槍が現れた。
蜻蛉切。
本多忠勝の名とともに語られる、天下三名槍の一つである。
その鋭い穂先を見た瞬間、阿強の顔色が変わった。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってください!」
声が裏返りかけた。
「本多さん! ここ駅前ですよ! そんなもの出しちゃ駄目でしょ! 危ないって!」
忠勝は答えず、静かに蜻蛉切を構えた。
阿強は慌てて後ずさりしながら、ポケットへ手を突っ込んだ。
自分でも何を探しているのかわからない。スマートフォンか、財布か、それとも趙元帥に助けを求めるための何かか。
そのとき、指先が小さな金属の感触に触れた。
阿強は反射的にそれをつかみ、取り出した。
全長五センチほどの、赤いスイスアーミーナイフだった。
キーホルダーになっていて、折り畳み式の小さな刃のほかに、ハサミや爪やすり、つまようじまでついている。さらに、草屯玄武宮のお守り袋が一緒にぶら下がっていた。
阿強は、なぜ自分がこれを取り出したのかわからなかった。
だが、ほかに何もない。
彼は小さな刃を引き出し、忠勝へ向けて掲げた。
「……ちょっと、本当にやめてくださいよ!」
忠勝が、その手元を見た。
赤い小さなナイフ。
五センチほどの、頼りない道具。
戦場で何千もの敵を相手にしてきた忠勝にとって、本来なら気にするほどのものでもない。
しかし――
その刃を見た瞬間、忠勝の表情が変わった。
かちゃん。
何かが地面に落ちた。
阿強は思わず足元を見た。
**蜻蛉切だった。**
忠勝が手放したのである。
わざと置いたのではない。握っていた指から力が抜け、長槍がそのまま岡崎の路上へ落ちたのだ。
阿強は目を見開いた。
「……え?」
忠勝が、一歩後ずさった。
その目は、阿強の顔など見ていなかった。ただ、彼の手の中にある小さな刃だけを、じっと見つめていた。
先ほどまでの威圧感が、嘘のように消えている。
恐怖――というには、少し違った。
もっと深いところに刻み込まれた何かが、突然呼び起こされたようだった。
生涯五十七戦、無傷。
幾多の修羅場をくぐり抜けながら、戦場で傷一つ負わなかった男。
ところが晩年、仏像を彫っていた際、手元の小刀で指を傷つけてしまったことがある。
それまで戦場で負傷したことすらなかった忠勝は、ほんの小さな傷を軽く考えていた。
しかし、傷口は化膿し、やがて全身に及んだ。
五十七度の合戦を生き抜いた猛将は、敵の刃ではなく、仏像を彫るための小刀がもたらした傷によって命を落としたのだった。
「……お、お前」
忠勝の声が震えた。
「その……それを……」
阿強はナイフを持ったまま、固まっていた。
「……はい?」
「……しまえ」
その一言を絞り出すだけで、精いっぱいのようだった。
「……それを、しまってくれ……」
阿強は何も聞き返さなかった。
ただ、素直に刃を折り畳み、キーホルダーをポケットへ戻した。
忠勝は長い息を吸った。
一度。
そして、もう一度。
まるで胸の奥から何かを必死に押し戻そうとしているかのようだった。
周囲の通行人たちは、呆然としていた。
目の前で起きたことを整理すると、こうなる。
一人の若者が、たった五センチほどの小さなナイフを取り出した。
すると、もう一人の若者が持っていた大きな槍を落とし、真っ青になって後ずさった。
そして、小さなナイフをしまうよう頼んだ。
……何だ、これは。
人垣の中で、誰かが小声で尋ねた。
「……あの人、大丈夫?」
隣の男性が首を傾げる。
「何か、すごく怖いものを見たみたいだけど……」
「何を?」
「……さあ」
男性は阿強のポケットを見た。
「あの小さいナイフ、かな」
阿強の頭の中で、三成がぼそりとつぶやいた。
『……本多忠勝は、小刀が怖いのか?』
すぐそばで、福島が小さく答えた。
『……ああ』
少し間が空く。
『俺、あいつがどうやって死んだか知ってる』
『……』
『……佐吉』
『何だ』
『その話は、やめとこうぜ』
三成は、それ以上何も尋ねなかった。
◇
本多忠勝は、ゆっくりと腰をかがめ、地面に落ちた蜻蛉切を拾い上げた。
何度か深呼吸を繰り返し、ようやく表情を整える。そして、再び背筋を伸ばした。
戦場を生き抜いてきた武将の威厳を、どうにか取り戻したらしい。
「……拙者は、これにて失礼する」
阿強は瞬きをした。
「……どこへ?」
「報せに参る」
忠勝は、低い声で答えた。
「この先、宇都宮で我が兄弟たちが待っておる」
阿強が何か尋ねようとした、そのときだった。
忠勝の気配が阿忠の身体からすっと抜け、姿を消した。同時に、握られていた蜻蛉切も霧のように消えていった。
次の瞬間、阿忠は定食屋の入口で、ぽかんとした顔をして立っていた。
「……あれ?」
自分の手を見下ろし、指を動かす。
それから手首を回した。
「……俺、今、誰に憑かれてた?」
阿強は答えた。
「本多忠勝」
「……え?」
「本多平八郎忠勝」
阿忠はしばらく黙った。
「……俺、あの人と喧嘩した?」
「ちょっとな」
「……負けた?」
「負けてない」
阿強は少し考えた。
「でも、勝ってもない。最後は俺が追い払った」
阿忠の目が丸くなった。
「……どうやって?」
阿強はポケットから、赤いスイスアーミーナイフのキーホルダーを取り出した。
阿忠は、五センチほどの小さなナイフと、そこにぶら下がる玄武宮のお守り袋を見た。それから阿強へ視線を戻し、三秒ほど黙った。
「……これで?」
「これで」
再び、沈黙。
二人は顔を見合わせたまま、何も言わなかった。
やがて阿強が、思い出したようにスマートフォンを取り出した。
「……そういえば、本多さん、次の人が宇都宮で待ってるって言ってたな」
「次の人?」
「うん。兄弟だってさ」
阿強はスマートフォンで徳川四天王について調べ、画面に並んだ名前を眺めた。
「……井伊直政、かな」
「誰?」
「井伊直政」
その瞬間、あたりが妙に静かになった。
もちろん、駅前の通行人たちが黙ったわけではない。ただ、三成と福島が、同時に声を失ったのである。
やがて、阿強の頭の中に三成の声が響いた。
『……井伊直政』
低く、押し殺したような声だった。
『関ヶ原で東軍の先陣を切って仕掛けてきた男だ……』
そこには、怒りとも、悔しさともつかない感情が入り混じっていた。
『……あの男とは、まだ決着がついておらん』
福島は何も言わなかった。
しばらくして、ようやく声を上げた。
『……おい、阿強の兄ちゃん』
「……何?」
『本多忠勝は、お前に任せたぞ』
阿強は眉をひそめた。
「……はい?」
『あいつは、お前のその天下無双の宝刀が怖いんだろ? だったら、次に来たってお前が何とかできるさ!』
福島は勢いを取り戻したらしく、豪快に笑った。
『がっはっは! 井伊直政のほうは俺に任せろ! あんな赤鬼、俺が一発ぶん殴って吹っ飛ばしてやる!』
阿強は何も言わなかった。
三成も、一瞬だけ黙っていた。
そして、実に落ち着いた声で尋ねた。
『……市松』
『何だよ』
『さっき本多忠勝が目の前にいたとき、なぜそれを言わなかった?』
『…………』
福島は黙った。
完全に黙った。
さっきまでの威勢のよさが、きれいさっぱり消えていた。
阿忠は足元に並ぶ六袋のしかみ像を見下ろし、それから阿強へ顔を向けた。
「……なあ」
「何?」
「とりあえず、飯にしようぜ」
阿強は定食屋の入口を見た。
店は、まだ開いている。中からは、温かい料理の匂いが漂ってきていた。
「……そうだな」
阿強はスマートフォンをしまった。
「食ってから考えよう」
二人は六袋のしかみ像を持ち直し、定食屋へ入っていった。
宇都宮は、まだずっと先にある。
**第七話 終**




