↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/18

第五話 青春18きっぷの罠、幻の手羽先、そして四百年の謝罪

名古屋へ向かう東海道本線の車内で、阿強は柿の種を噛みながら、スマートフォンの乗換案内アプリを眺めていた。


大阪を出てからというもの、乗り換えに次ぐ乗り換えである。しかも大垣では反対方向の列車に乗ってしまい、ようやく正しい方角へ進み始めたところだった。


今度こそ間違えないようにしなければならない。


そう思って、何気なく青春18きっぷの利用条件を確認した阿強は、ある一文に目を留めた。


三日間連続。


そこまでは知っている。


問題は、その三日間がいつから数えられるのかということだった。


読み進めていくうちに、阿強の口から柿の種が一粒こぼれた。


「……うそだろ」


もう一度、画面を確認する。


見間違いではない。


「靠北(カオベイ)!」


思わず台湾語の悪態が飛び出した。


隣でうとうとしていた阿忠が飛び起き、危うく足元のしかみ像の袋を蹴り倒しかけた。


「何だよ! また何かあったのか!?」


「……阿忠」


阿強の声が、妙に沈んでいた。


「俺、また計算間違えた」


阿忠はしばらく彼を見つめた。


「……何を?」


「青春18きっぷ」


その言葉を聞いた瞬間、阿忠の表情から眠気が消えた。


「今度は何だよ。三日間乗り放題なんだろ?」


「そうなんだけど……この三日間って、好きな日に三回使えるわけじゃないんだ」


「知ってるよ。連続三日間なんだろ。切符を買ったときも言ってたじゃん」


「……うん」


阿強は画面を見たまま続けた。


「今日がもう、一日目なんだ」


阿忠は瞬きをした。


「……それで?」


「俺たち、今日の夕方から乗り始めたんだぞ。しかも、まだ名古屋にも着いてない」


「……うん」


「このまま関東へ向かったら、明日はほとんど移動で終わる。日光へ行って、また関西空港まで戻らなきゃいけないのに……」


阿強はそこで言葉を切った。


阿忠は続きを待った。


「……三日間じゃ足りないかもしれない」


車内が静かになった。


足元では、六袋のしかみ像が座席の脚に寄りかかり、きちんと並んでいる。


阿忠は阿強の顔を見た。


それから、スマートフォンの画面を見た。


もう一度、阿強の顔を見る。


「……つまり?」


「切符の有効期間が終わるまでに関西空港へ戻れなかったら、その先の運賃は別に払わなきゃいけない」


「……追加料金?」


「うん」


「……いくら?」


「まだわからない」


阿忠は目を閉じた。


深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。


そして、できる限り穏やかな声で尋ねた。


「なあ、阿強」


「……何?」


「ほかにも計算し忘れたことがあるなら、今のうちに全部確認してくれないか?」


阿強は答えなかった。


阿忠も、それ以上は何も言わなかった。


列車は何事もなかったかのように、名古屋へ向かって走り続けていた。


     ◇


名古屋駅に到着した頃には、すっかり夜になっていた。


二人は荷物と六袋のしかみ像を抱え、重い足取りでホームを歩いた。


阿忠は時計を確認した。


「……で、今日はもう終わり?」


「少なくとも、今から無理して東へ進んでも、途中で動けなくなると思う」


「じゃあ、どうするんだよ」


阿強は少し考え、スマートフォンで駅の周辺を調べ始めた。


「今夜は名古屋で泊まろう。日本のネットカフェって、シャワーが使えるところもあるらしいし、ホテルより安そうだ」


「……風呂に入れるなら、もう何でもいい」


二人は駅を出て、目当てのネットカフェを探し始めた。


名古屋の夜は、思っていた以上に賑やかだった。


駅前には居酒屋やラーメン店、コンビニなどが立ち並び、看板の明かりが絶え間なく続いている。仕事帰りらしい人々が行き交い、どこからともなく楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


そのとき、風が吹いた。


胡椒の香りがした。


続いて、揚げた鶏肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


阿忠の足が、ぴたりと止まった。


阿強も同じように立ち止まる。


二人は顔を見合わせ、同時に匂いのする方向を振り返った。


そこには、明るい看板が輝いていた。


**世界の山ちゃん 名駅西口店。**


店の入口には客が並んでおり、扉が開くたびに、胡椒の効いた手羽先の香りが外へ流れ出してくる。


二人はしばらく看板を見つめていた。


「……阿強」


「……何?」


「風呂、後でもいい?」


「……俺も、そう思ってた」


視線が合った。


二人はどちらからともなくうなずき、少しばかりの罪悪感を抱えながら道を渡った。


     ◇


阿強が店の扉に手をかけた、そのときだった。


『無礼者!』


突然、頭の中に声が響いた。


阿強の手が止まる。


聞き覚えのある、ひどく不機嫌そうな声だった。


『何という匂いだ! 胡椒はこれほどまでに辛く、油も多いというのに、またそのようなものを食おうというのか!』


石田三成である。


大垣で阿忠の身体から離れたものの、どうやらそのまま二人についてきていたらしい。


今は肉体を持たないため、普通の人間の耳には聞こえない。しかし、乩童である阿強には、その声が直接頭の中へ届いていた。


『大垣で弁当を食ったばかりであろう! それなのに、また油まみれの鶏肉とは……! 身体髪膚、これを父母に受くという言葉を知らぬのか! 大事を成そうという者が、自ら身体を損ねてどうする!』


阿強は扉に手をかけたまま、心の中でつぶやいた。


――あんたも、あの年にもう少しちゃんと食べてたら、東軍に捕まらずに済んだんじゃないですか。


頭の中が静かになった。


ほんの一瞬だった。


『……なっ』


三成が何か言いかけた。


しかし、適当な反論が思いつかなかったらしい。


言葉にならない怒りだけが、阿強の頭の中でぐるぐると渦を巻き始めた。


『お、お前という奴は……! そもそも、あのときは……!』


阿強は聞こえないふりをして、扉を押し開けた。


     ◇


ようやく席へ案内され、二人が荷物を下ろした直後だった。


阿忠の表情が変わった。


阿強はすぐに気づいた。


大垣で三成に憑依されたときとは、まるで違う。


あのときは、顔つきが冷たく引き締まり、目元に厳しい光が宿っていた。


だが、今は違った。


血の気が多く、豪快で、ちょっとしたことで大笑いするか、怒鳴り出すかしそうな雰囲気が、阿忠の身体からあふれ出している。


阿強は買い物袋を置き、ため息交じりに尋ねた。


「……今度は誰ですか?」


「がっはっは!」


突然、阿忠が大笑いした。


あまりにも声が大きかったため、近くのテーブルにいた客が一斉に振り返る。


「尾張か! 懐かしいじゃねえか! この辺りは俺にとっちゃ、昔から馴染みの土地だ!」


阿強は眉をひそめた。


「……名前は?」


「福島正則!」


その名が響いた瞬間、阿強の頭の中で、別の声が爆発した。


『……福島正則だと!?』


三成である。


先ほどまでの食生活に対する説教など、どこかへ吹き飛んでしまったらしい。


福島は阿忠の身体を借りたまま、ふいに顔を横へ向けた。


そこに誰かが立っているかのように、目を細める。


「……佐吉?」


阿強の背筋に、奇妙な感覚が走った。


福島は、三成の存在を感じ取っている。


そして三成もまた、福島が阿忠の身体を借りていることに気づいていた。


「おお、佐吉じゃねえか! よくもまあ、この尾張までのこのこ来られたもんだ!」


『福島正則! この裏切り者め!』


「何だと!?」


『太閤殿下と北政所様から受けたご恩を忘れたのか! その口で、よくも私を佐吉などと呼べたものだな!』


福島はテーブルを叩いた。


「うるせえ! お前は昔っからそうだった! 何でもかんでも偉そうに説教しやがって!」


店内の客が、またこちらを見た。


阿強は黙ってメニューを開いた。


そこには、実に魅力的な文字が並んでいた。


**幻の手羽先。**


一人前、五本。


阿強は少し考え、二人分を注文することにした。


それから店員を呼び止める。


「すみません。幻の手羽先、二人前お願いします」


「かしこまりました」


店員は注文を確認し、席を離れていった。


その間も、福島は三成に向かって怒鳴り続けていた。


もちろん、普通の客には三成の声など聞こえない。


彼らに見えているのは、阿忠という一人の若者が、誰もいない空間に向かって激しく口論している姿だけだった。


阿強はそのことを理解していた。


理解していたが、説明する気にはならなかった。


今の彼にとっては、四百年前の恩怨よりも手羽先のほうが重要だったのである。


     ◇


料理が運ばれてくるまでの間も、二人の武将は言い争いを続けていた。


「お前は太閤殿下のおそばにいた頃から、何かと告げ口ばかりしやがって!」


福島が大声で怒鳴る。


「俺が何をしようと、いちいち帳面につけやがる! あのくそ真面目な顔を見るだけで、こっちは酒がまずくなるんだよ!」


『記録しておかねば、誰が貴様らの不始末を把握するというのだ!』


三成の声が阿強の頭の中で響いた。


『貴様が酒を飲んで騒ぎを起こしたとき、後始末に走り回ったのは誰だと思っている! あの伏見での一件とて――』


「ありゃあ噂だ!」


『噂ではない! 記録が残っておる!』


「また帳面か! お前はいつもそれだ!」


福島は鼻息を荒くした。


「だいたい、お前は算盤ばっかり弾いて出世したような男じゃねえか! 戦場で槍を振るってきた俺たちとは違うんだよ!」


『……算盤だと?』


三成の声が、低くなった。


『豊臣家の天下を支えてきたのは、誰だと思っている! 貴様らが戦場で槍を振るえるのも、兵糧があり、武具があり、補給の道が整っているからだ!』


「だから何だってんだ!」


『兵糧が尽きた軍勢に、何ができる! 算盤一つ満足に扱えぬ貴様に、軍勢を維持する苦労がわかるものか!』


福島は顔を真っ赤にした。


「だったら何で関ヶ原で負けたんだよ! 算盤がそんなに偉いんなら、勝ってみせりゃよかったじゃねえか!」


『私が負けたのは、貴様ら裏切り者が――!』


「またそれか! 佐吉、お前はいつまでその話をしてやがる!」


『誰のせいで、その話をせねばならなくなったと思っている!』


福島は勢いよく立ち上がった。


「この野郎!」


近くの客が、びくりと肩を震わせた。


そして数秒後、福島は誰かの反論を聞いたかのように、さらに声を張り上げた。


「何だと!? もう一度言ってみろ!」


もちろん、その反論は誰にも聞こえていない。


阿強はメニューを眺めたまま、追加の飲み物を注文するべきかどうか考えていた。


     ◇


やがて、注文した手羽先が運ばれてきた。


皿の上には、こんがりと揚がった手羽先が十本。


表面には胡椒と特製のたれが絡み、湯気とともに香ばしい匂いが立ち上っている。


阿強は思わず目を輝かせた。


「……おお」


『無礼者!』


その瞬間、また三成の声が響いた。


『まだ食うつもりか! これほど油の多いものを、しかも胡椒までたっぷりかけて……! 何度言えばわかるのだ!』


阿強は一本手に取った。


『聞いておるのか!』


手羽先を口へ運ぶ。


皮が、ぱりっと音を立てた。


『……おい』


阿強はそのまま噛み続けた。


『……食っておるではないか!』


阿強は答えなかった。


胡椒が効いている。


少し辛い。


しかし、鶏肉の旨味と甘辛いたれが口の中に広がり、後からもう一度胡椒の刺激が追いかけてくる。


なるほど。


これは確かに、名物になるだけのことはある。


阿強が二本目に手を伸ばしたところで、向かいに座っていた福島がぴたりと動きを止めた。


彼は皿を見つめていた。


正確には、皿の上に残っている手羽先を見つめていた。


その目が、みるみる輝き始める。


「……何だ、こいつは」


阿強は顔を上げた。


「手羽先ですよ」


「手羽先……?」


福島は一本つまみ、鼻先へ近づけた。


胡椒の香りが漂う。


「……ほう」


一口食べた。


次の瞬間、目を見開いた。


「……うまい!」


近くの客が振り返った。


福島は構わず、もう一口食べる。


「うまいぞ、佐吉! 何だこれは! こんなうまい鶏の手羽があるのか!」


『……油が多すぎる』


「黙れ、佐吉! 食ってもいねえくせに、いちいち文句をつけるな!」


福島は骨を皿へ戻し、二本目に手を伸ばした。


「この胡椒の香り! この味! 俺が尾張の小僧だった頃にこんなもんを食ってたら、関ヶ原なんぞ、この俺一人で槍を担いで突っ込んで、内府の首を蹴鞠みてえに蹴飛ばしてやったわ!」


阿強は手羽先を噛むのをやめた。


……あれ?


福島正則って、関ヶ原では東軍じゃなかったっけ。


一瞬そう思ったが、本人はあまりにも楽しそうなので、黙っておくことにした。


福島は三本目に手を伸ばしながら、阿強へ顔を向けた。


「おい、兄ちゃん! 酒はねえのか?」


「……酒?」


「当たり前だろうが! こんなうまい手羽先を、酒もなしに食えってのか!」


近くにいた店員が、そっとこちらを見た。


福島は構わず続ける。


「熱燗だ! 熱燗を持ってこい! いや、冷やでもいい! とにかく酒だ!」


阿強は慌てて店員に頭を下げた。


「すみません。ちょっと興奮してまして……」


店員は営業用の笑顔を浮かべた。


「……かしこまりました」


「いや、酒はまだ注文しなくて大丈夫です!」


「……承知しました」


店員は何とも言えない表情で、その場を離れていった。


阿強は向かいの福島を見た。


「福島の旦那」


「何だ?」


「俺たち、もう金がないんですよ。酒まで注文する余裕はありません」


福島は一瞬、きょとんとした。


それから、大声で笑い始めた。


「がっはっは! 金がねえだと!?」


そして、誰もいない横の席へ顔を向ける。


「おい、佐吉! 聞いたか! この若いのは酒一杯飲む金もねえそうだぞ! お前、兵糧を締めつけすぎじゃねえのか!」


『福島正則! それは私のせいではない!』


「お前は昔っからそうだった! 何もかも帳面で管理しやがって! 酒の一杯くらい、好きに飲ませろってんだ!」


『貴様が酒で失敗するたび、後始末をしてきたのは誰だと思っている!』


「だから、いつ俺が失敗したんだよ!」


『伏見での一件を忘れたか!』


「ありゃあ噂だ!」


『噂ではない! ちゃんと記録が――』


「また帳面か!」


福島は勢いよくテーブルを叩いた。


「お前の頭の中には、帳面しか入ってねえのか!」


周囲の客たちは、とうとう箸を止めていた。


     ◇


隣のテーブルでは、仕事帰りらしい二人の男性が、声を潜めて話していた。


「……なあ、聞いた?」


「何を?」


「今、関ヶ原って言ってたよな」


「言ってた。あと、太閤殿下とか、佐吉とか……」


二人はそっと福島のほうを見た。


阿忠の身体を借りた福島は、相変わらず誰もいない方向へ怒鳴っている。


「……あれ、何やってるんだ?」


「芝居じゃない?」


「こんな居酒屋の真ん中で?」


「知らないよ。でも、関ヶ原とか太閤殿下とか、妙に歴史っぽい話してるぞ」


一人がスマートフォンを取り出した。


「……福島正則、石田三成」


「お前、何調べてんの?」


「いや、気になって」


画面を眺め、少し考える。


「……ああ、なるほど。福島正則って、関ヶ原では東軍だったんだな」


「今さら歴史の勉強かよ」


「だって、あの人、高校の授業より詳しそうなんだもん」


もう一人が福島を見た。


ちょうどそのとき、福島が誰もいない空間へ向かって叫んだ。


「だから、あれは噂だって言ってんだろ!」


二人は同時に視線を戻した。


「……詳しいのはいいけどさ」


「うん」


「相手、どこにいるんだ?」


「……さあ」


別のテーブルでは、若い男性がこっそりスマートフォンを構えていた。


画面には、阿忠が一人で怒鳴り続け、その向かいで阿強が黙々と手羽先を食べている姿が映っている。


彼は友人へ短いメッセージを送った。


『名古屋の山ちゃんで、変な人が大河ドラマやってる』


すぐに返事が届いた。


『どこの山ちゃん? 俺も見たい』


そのまた隣では、若い女性たちが顔を寄せ合っていた。


「ねえ、あの背の高い人、声すごくない?」


「うん。店中に響いてる」


「でも、何か……ちょっと迫力あるよね」


「もしかして、新しいアイドルグループの人とか?」


「いやいや、あんなアイドルいるわけないでしょ」


「ひどいなあ」


すると、別の女性が福島をじっと眺めて、ぽつりと言った。


「……でも、天狗の役とか似合いそう」


「天狗?」


「うん。顔も何となく、それっぽくない?」


「……ああ」


「大河ドラマに出たら、意外と人気出るんじゃない?」


「だったら、何でこんなところで怒鳴ってるのよ」


誰も答えられなかった。


当の福島は、そんな視線などまったく気にしていなかった。


「佐吉! お前、あのときだって――!」


その隣で阿強は、次の手羽先を手に取った。


     ◇


八本目の手羽先が皿から消えた頃だった。


福島が、ふいに静かになった。


ついさっきまで大声で怒鳴り続けていた男が、何の前触れもなく口を閉じたのである。


阿強は少し驚いて顔を上げた。


福島は、残り二本になった手羽先を見つめていた。


先ほどまでの勢いはない。


阿強の頭の中でも、三成が黙り込んでいる。


二人の武将が同時に静かになるなど、名古屋へ来てから初めてのことだった。


店内は相変わらず賑やかだった。


客の笑い声。


食器の触れ合う音。


店員が注文を確認する声。


そして、揚げた手羽先と胡椒の香り。


何一つ変わっていないはずなのに、阿強には、目の前の席だけが急に静まり返ったように感じられた。


やがて福島が、ゆっくりと口を開いた。


「……佐吉」


それは、先ほどまでとはまるで違う声だった。


大きくもなければ、荒々しくもない。


阿強は黙って、その続きを待った。


『……何だ』


三成の返事が、頭の中に響いた。


福島は少しうつむいた。


そして、ぽつりと言った。


「……福島市松は、間違っていた」


三成は答えなかった。


福島はしばらく黙っていたが、やがてもう一度、口を開いた。


「……許してくれるか、佐吉」


その声には、先ほどまでの威勢のよさが少しも残っていなかった。


福島正則。


賤ヶ岳七本槍の一人であり、かつて豊臣家に仕えながら、関ヶ原では東軍に加わった男。


その男が今、自分を福島正則ではなく、市松と呼んだのである。


阿強は手羽先を持ったまま、動けなかった。


四百年前のことなど、彼にはわからない。


関ヶ原で二人の間に何があったのかも、歴史の教科書で知る以上のことは何も知らなかった。


ただ、福島がこの一言を口にするまでに、ずいぶん長い時間がかかったのだろうということだけは、何となく伝わってきた。


三成は答えなかった。


阿強の頭の中で、その気配だけが静かに残っている。


やがて。


『……市松』


ようやく、三成の声が響いた。


『誰が佐吉って呼んでいいと言った』


福島は顔を上げた。


三成の声は、相変わらず不機嫌そうだった。


『……この猫之助め』


福島が、瞬きをした。


それから、ゆっくりと笑った。


それは阿忠の笑顔ではなかった。


今までのように豪快に口を開け、周囲も構わず笑い飛ばすのとも違う。


もっと静かで、どこか懐かしそうな笑みだった。


「……猫之助?」


福島は小さくつぶやいた。


「おい、佐吉。それ、お前がガキの頃に勝手につけたあだ名だろうが」


『それがどうした』


「今さら持ち出すか、普通」


『私が呼んで何が悪い』


福島はしばらく三成の気配を見つめていた。


そして、笑みを浮かべたまま答えた。


「……いや。別に、悪かねえよ」


『……ふん』


三成はそれきり黙った。


相変わらず、機嫌がよさそうには聞こえなかった。


だが、福島はもう怒鳴り返さなかった。


二人の間に、短い沈黙が訪れた。


阿強はその様子を眺めていたが、何も言わず、皿に残った二本のうち一本を手に取った。


しばらく黙って食べているうちに、最後の一本だけが残った。


阿強はそれも手に取り、ゆっくりと食べ始めた。


     ◇


しばらくして、福島が足元の袋に気づいた。


六袋。


どれも同じような大きさで、きちんと並べられている。


「……おい、兄ちゃん」


阿強は顔を上げた。


「何です?」


「さっきから気になってたんだが、この袋は何だ?」


「ああ、これですか」


阿強は説明しようとした。


しかし、その前に三成が口を開いた。


『太閤殿下のご命令だ』


福島の表情が変わった。


「……太閤殿下の?」


『日光東照宮へ赴き、内府殿の肖像画を千枚貼りつけよとの仰せだ』


福島はしばらく黙っていた。


それから袋の一つを開き、紙を一枚取り出した。


徳川家康のしかみ像である。


福島はその絵を見つめた。


さらに、足元に並ぶ残りの袋を見た。


「……これが、千枚?」


「そうです」


阿強が答えた。


「大阪で全部印刷しました。五万円かかりましたけど」


福島は何も言わなかった。


もう一度、しかみ像へ目を落とす。


やがて紙を袋へ戻し、ゆっくりと顔を上げた。


「……俺も行く」


阿強は瞬きをした。


「……え?」


「日光だ。俺もお前らと一緒に行く」


福島の声は、もう先ほどのように大きくなかった。


むしろ、驚くほど落ち着いていた。


「それが済んだら、大阪へ戻る」


阿強は黙って続きを待った。


福島は少しだけ目を伏せた。


そして、静かに言った。


「……太閤殿下に、詫びを入れたい」


阿強は何も答えなかった。


世界の山ちゃんの店内では、相変わらず客たちが酒を飲み、手羽先を食べ、楽しそうに話していた。


店員たちは忙しそうにテーブルの間を行き来し、厨房からは揚げ物の香りが流れてくる。


その賑わいの中で、阿強は足元の六袋のしかみ像を見た。


それから、阿忠の顔を見る。


そこにはまだ、阿忠本人のものではない、どこか懐かしそうな笑みが残っていた。


阿強は結局、何も言わなかった。


窓の外では、名古屋の夜が明るく輝き続けていた。


第五話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。