第五話 青春18きっぷの罠、幻の手羽先、そして四百年の謝罪
名古屋へ向かう東海道本線の車内で、阿強は柿の種を噛みながら、スマートフォンの乗換案内アプリを眺めていた。
大阪を出てからというもの、乗り換えに次ぐ乗り換えである。しかも大垣では反対方向の列車に乗ってしまい、ようやく正しい方角へ進み始めたところだった。
今度こそ間違えないようにしなければならない。
そう思って、何気なく青春18きっぷの利用条件を確認した阿強は、ある一文に目を留めた。
三日間連続。
そこまでは知っている。
問題は、その三日間がいつから数えられるのかということだった。
読み進めていくうちに、阿強の口から柿の種が一粒こぼれた。
「……うそだろ」
もう一度、画面を確認する。
見間違いではない。
「靠北!」
思わず台湾語の悪態が飛び出した。
隣でうとうとしていた阿忠が飛び起き、危うく足元のしかみ像の袋を蹴り倒しかけた。
「何だよ! また何かあったのか!?」
「……阿忠」
阿強の声が、妙に沈んでいた。
「俺、また計算間違えた」
阿忠はしばらく彼を見つめた。
「……何を?」
「青春18きっぷ」
その言葉を聞いた瞬間、阿忠の表情から眠気が消えた。
「今度は何だよ。三日間乗り放題なんだろ?」
「そうなんだけど……この三日間って、好きな日に三回使えるわけじゃないんだ」
「知ってるよ。連続三日間なんだろ。切符を買ったときも言ってたじゃん」
「……うん」
阿強は画面を見たまま続けた。
「今日がもう、一日目なんだ」
阿忠は瞬きをした。
「……それで?」
「俺たち、今日の夕方から乗り始めたんだぞ。しかも、まだ名古屋にも着いてない」
「……うん」
「このまま関東へ向かったら、明日はほとんど移動で終わる。日光へ行って、また関西空港まで戻らなきゃいけないのに……」
阿強はそこで言葉を切った。
阿忠は続きを待った。
「……三日間じゃ足りないかもしれない」
車内が静かになった。
足元では、六袋のしかみ像が座席の脚に寄りかかり、きちんと並んでいる。
阿忠は阿強の顔を見た。
それから、スマートフォンの画面を見た。
もう一度、阿強の顔を見る。
「……つまり?」
「切符の有効期間が終わるまでに関西空港へ戻れなかったら、その先の運賃は別に払わなきゃいけない」
「……追加料金?」
「うん」
「……いくら?」
「まだわからない」
阿忠は目を閉じた。
深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
そして、できる限り穏やかな声で尋ねた。
「なあ、阿強」
「……何?」
「ほかにも計算し忘れたことがあるなら、今のうちに全部確認してくれないか?」
阿強は答えなかった。
阿忠も、それ以上は何も言わなかった。
列車は何事もなかったかのように、名古屋へ向かって走り続けていた。
◇
名古屋駅に到着した頃には、すっかり夜になっていた。
二人は荷物と六袋のしかみ像を抱え、重い足取りでホームを歩いた。
阿忠は時計を確認した。
「……で、今日はもう終わり?」
「少なくとも、今から無理して東へ進んでも、途中で動けなくなると思う」
「じゃあ、どうするんだよ」
阿強は少し考え、スマートフォンで駅の周辺を調べ始めた。
「今夜は名古屋で泊まろう。日本のネットカフェって、シャワーが使えるところもあるらしいし、ホテルより安そうだ」
「……風呂に入れるなら、もう何でもいい」
二人は駅を出て、目当てのネットカフェを探し始めた。
名古屋の夜は、思っていた以上に賑やかだった。
駅前には居酒屋やラーメン店、コンビニなどが立ち並び、看板の明かりが絶え間なく続いている。仕事帰りらしい人々が行き交い、どこからともなく楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
そのとき、風が吹いた。
胡椒の香りがした。
続いて、揚げた鶏肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
阿忠の足が、ぴたりと止まった。
阿強も同じように立ち止まる。
二人は顔を見合わせ、同時に匂いのする方向を振り返った。
そこには、明るい看板が輝いていた。
**世界の山ちゃん 名駅西口店。**
店の入口には客が並んでおり、扉が開くたびに、胡椒の効いた手羽先の香りが外へ流れ出してくる。
二人はしばらく看板を見つめていた。
「……阿強」
「……何?」
「風呂、後でもいい?」
「……俺も、そう思ってた」
視線が合った。
二人はどちらからともなくうなずき、少しばかりの罪悪感を抱えながら道を渡った。
◇
阿強が店の扉に手をかけた、そのときだった。
『無礼者!』
突然、頭の中に声が響いた。
阿強の手が止まる。
聞き覚えのある、ひどく不機嫌そうな声だった。
『何という匂いだ! 胡椒はこれほどまでに辛く、油も多いというのに、またそのようなものを食おうというのか!』
石田三成である。
大垣で阿忠の身体から離れたものの、どうやらそのまま二人についてきていたらしい。
今は肉体を持たないため、普通の人間の耳には聞こえない。しかし、乩童である阿強には、その声が直接頭の中へ届いていた。
『大垣で弁当を食ったばかりであろう! それなのに、また油まみれの鶏肉とは……! 身体髪膚、これを父母に受くという言葉を知らぬのか! 大事を成そうという者が、自ら身体を損ねてどうする!』
阿強は扉に手をかけたまま、心の中でつぶやいた。
――あんたも、あの年にもう少しちゃんと食べてたら、東軍に捕まらずに済んだんじゃないですか。
頭の中が静かになった。
ほんの一瞬だった。
『……なっ』
三成が何か言いかけた。
しかし、適当な反論が思いつかなかったらしい。
言葉にならない怒りだけが、阿強の頭の中でぐるぐると渦を巻き始めた。
『お、お前という奴は……! そもそも、あのときは……!』
阿強は聞こえないふりをして、扉を押し開けた。
◇
ようやく席へ案内され、二人が荷物を下ろした直後だった。
阿忠の表情が変わった。
阿強はすぐに気づいた。
大垣で三成に憑依されたときとは、まるで違う。
あのときは、顔つきが冷たく引き締まり、目元に厳しい光が宿っていた。
だが、今は違った。
血の気が多く、豪快で、ちょっとしたことで大笑いするか、怒鳴り出すかしそうな雰囲気が、阿忠の身体からあふれ出している。
阿強は買い物袋を置き、ため息交じりに尋ねた。
「……今度は誰ですか?」
「がっはっは!」
突然、阿忠が大笑いした。
あまりにも声が大きかったため、近くのテーブルにいた客が一斉に振り返る。
「尾張か! 懐かしいじゃねえか! この辺りは俺にとっちゃ、昔から馴染みの土地だ!」
阿強は眉をひそめた。
「……名前は?」
「福島正則!」
その名が響いた瞬間、阿強の頭の中で、別の声が爆発した。
『……福島正則だと!?』
三成である。
先ほどまでの食生活に対する説教など、どこかへ吹き飛んでしまったらしい。
福島は阿忠の身体を借りたまま、ふいに顔を横へ向けた。
そこに誰かが立っているかのように、目を細める。
「……佐吉?」
阿強の背筋に、奇妙な感覚が走った。
福島は、三成の存在を感じ取っている。
そして三成もまた、福島が阿忠の身体を借りていることに気づいていた。
「おお、佐吉じゃねえか! よくもまあ、この尾張までのこのこ来られたもんだ!」
『福島正則! この裏切り者め!』
「何だと!?」
『太閤殿下と北政所様から受けたご恩を忘れたのか! その口で、よくも私を佐吉などと呼べたものだな!』
福島はテーブルを叩いた。
「うるせえ! お前は昔っからそうだった! 何でもかんでも偉そうに説教しやがって!」
店内の客が、またこちらを見た。
阿強は黙ってメニューを開いた。
そこには、実に魅力的な文字が並んでいた。
**幻の手羽先。**
一人前、五本。
阿強は少し考え、二人分を注文することにした。
それから店員を呼び止める。
「すみません。幻の手羽先、二人前お願いします」
「かしこまりました」
店員は注文を確認し、席を離れていった。
その間も、福島は三成に向かって怒鳴り続けていた。
もちろん、普通の客には三成の声など聞こえない。
彼らに見えているのは、阿忠という一人の若者が、誰もいない空間に向かって激しく口論している姿だけだった。
阿強はそのことを理解していた。
理解していたが、説明する気にはならなかった。
今の彼にとっては、四百年前の恩怨よりも手羽先のほうが重要だったのである。
◇
料理が運ばれてくるまでの間も、二人の武将は言い争いを続けていた。
「お前は太閤殿下のおそばにいた頃から、何かと告げ口ばかりしやがって!」
福島が大声で怒鳴る。
「俺が何をしようと、いちいち帳面につけやがる! あのくそ真面目な顔を見るだけで、こっちは酒がまずくなるんだよ!」
『記録しておかねば、誰が貴様らの不始末を把握するというのだ!』
三成の声が阿強の頭の中で響いた。
『貴様が酒を飲んで騒ぎを起こしたとき、後始末に走り回ったのは誰だと思っている! あの伏見での一件とて――』
「ありゃあ噂だ!」
『噂ではない! 記録が残っておる!』
「また帳面か! お前はいつもそれだ!」
福島は鼻息を荒くした。
「だいたい、お前は算盤ばっかり弾いて出世したような男じゃねえか! 戦場で槍を振るってきた俺たちとは違うんだよ!」
『……算盤だと?』
三成の声が、低くなった。
『豊臣家の天下を支えてきたのは、誰だと思っている! 貴様らが戦場で槍を振るえるのも、兵糧があり、武具があり、補給の道が整っているからだ!』
「だから何だってんだ!」
『兵糧が尽きた軍勢に、何ができる! 算盤一つ満足に扱えぬ貴様に、軍勢を維持する苦労がわかるものか!』
福島は顔を真っ赤にした。
「だったら何で関ヶ原で負けたんだよ! 算盤がそんなに偉いんなら、勝ってみせりゃよかったじゃねえか!」
『私が負けたのは、貴様ら裏切り者が――!』
「またそれか! 佐吉、お前はいつまでその話をしてやがる!」
『誰のせいで、その話をせねばならなくなったと思っている!』
福島は勢いよく立ち上がった。
「この野郎!」
近くの客が、びくりと肩を震わせた。
そして数秒後、福島は誰かの反論を聞いたかのように、さらに声を張り上げた。
「何だと!? もう一度言ってみろ!」
もちろん、その反論は誰にも聞こえていない。
阿強はメニューを眺めたまま、追加の飲み物を注文するべきかどうか考えていた。
◇
やがて、注文した手羽先が運ばれてきた。
皿の上には、こんがりと揚がった手羽先が十本。
表面には胡椒と特製のたれが絡み、湯気とともに香ばしい匂いが立ち上っている。
阿強は思わず目を輝かせた。
「……おお」
『無礼者!』
その瞬間、また三成の声が響いた。
『まだ食うつもりか! これほど油の多いものを、しかも胡椒までたっぷりかけて……! 何度言えばわかるのだ!』
阿強は一本手に取った。
『聞いておるのか!』
手羽先を口へ運ぶ。
皮が、ぱりっと音を立てた。
『……おい』
阿強はそのまま噛み続けた。
『……食っておるではないか!』
阿強は答えなかった。
胡椒が効いている。
少し辛い。
しかし、鶏肉の旨味と甘辛いたれが口の中に広がり、後からもう一度胡椒の刺激が追いかけてくる。
なるほど。
これは確かに、名物になるだけのことはある。
阿強が二本目に手を伸ばしたところで、向かいに座っていた福島がぴたりと動きを止めた。
彼は皿を見つめていた。
正確には、皿の上に残っている手羽先を見つめていた。
その目が、みるみる輝き始める。
「……何だ、こいつは」
阿強は顔を上げた。
「手羽先ですよ」
「手羽先……?」
福島は一本つまみ、鼻先へ近づけた。
胡椒の香りが漂う。
「……ほう」
一口食べた。
次の瞬間、目を見開いた。
「……うまい!」
近くの客が振り返った。
福島は構わず、もう一口食べる。
「うまいぞ、佐吉! 何だこれは! こんなうまい鶏の手羽があるのか!」
『……油が多すぎる』
「黙れ、佐吉! 食ってもいねえくせに、いちいち文句をつけるな!」
福島は骨を皿へ戻し、二本目に手を伸ばした。
「この胡椒の香り! この味! 俺が尾張の小僧だった頃にこんなもんを食ってたら、関ヶ原なんぞ、この俺一人で槍を担いで突っ込んで、内府の首を蹴鞠みてえに蹴飛ばしてやったわ!」
阿強は手羽先を噛むのをやめた。
……あれ?
福島正則って、関ヶ原では東軍じゃなかったっけ。
一瞬そう思ったが、本人はあまりにも楽しそうなので、黙っておくことにした。
福島は三本目に手を伸ばしながら、阿強へ顔を向けた。
「おい、兄ちゃん! 酒はねえのか?」
「……酒?」
「当たり前だろうが! こんなうまい手羽先を、酒もなしに食えってのか!」
近くにいた店員が、そっとこちらを見た。
福島は構わず続ける。
「熱燗だ! 熱燗を持ってこい! いや、冷やでもいい! とにかく酒だ!」
阿強は慌てて店員に頭を下げた。
「すみません。ちょっと興奮してまして……」
店員は営業用の笑顔を浮かべた。
「……かしこまりました」
「いや、酒はまだ注文しなくて大丈夫です!」
「……承知しました」
店員は何とも言えない表情で、その場を離れていった。
阿強は向かいの福島を見た。
「福島の旦那」
「何だ?」
「俺たち、もう金がないんですよ。酒まで注文する余裕はありません」
福島は一瞬、きょとんとした。
それから、大声で笑い始めた。
「がっはっは! 金がねえだと!?」
そして、誰もいない横の席へ顔を向ける。
「おい、佐吉! 聞いたか! この若いのは酒一杯飲む金もねえそうだぞ! お前、兵糧を締めつけすぎじゃねえのか!」
『福島正則! それは私のせいではない!』
「お前は昔っからそうだった! 何もかも帳面で管理しやがって! 酒の一杯くらい、好きに飲ませろってんだ!」
『貴様が酒で失敗するたび、後始末をしてきたのは誰だと思っている!』
「だから、いつ俺が失敗したんだよ!」
『伏見での一件を忘れたか!』
「ありゃあ噂だ!」
『噂ではない! ちゃんと記録が――』
「また帳面か!」
福島は勢いよくテーブルを叩いた。
「お前の頭の中には、帳面しか入ってねえのか!」
周囲の客たちは、とうとう箸を止めていた。
◇
隣のテーブルでは、仕事帰りらしい二人の男性が、声を潜めて話していた。
「……なあ、聞いた?」
「何を?」
「今、関ヶ原って言ってたよな」
「言ってた。あと、太閤殿下とか、佐吉とか……」
二人はそっと福島のほうを見た。
阿忠の身体を借りた福島は、相変わらず誰もいない方向へ怒鳴っている。
「……あれ、何やってるんだ?」
「芝居じゃない?」
「こんな居酒屋の真ん中で?」
「知らないよ。でも、関ヶ原とか太閤殿下とか、妙に歴史っぽい話してるぞ」
一人がスマートフォンを取り出した。
「……福島正則、石田三成」
「お前、何調べてんの?」
「いや、気になって」
画面を眺め、少し考える。
「……ああ、なるほど。福島正則って、関ヶ原では東軍だったんだな」
「今さら歴史の勉強かよ」
「だって、あの人、高校の授業より詳しそうなんだもん」
もう一人が福島を見た。
ちょうどそのとき、福島が誰もいない空間へ向かって叫んだ。
「だから、あれは噂だって言ってんだろ!」
二人は同時に視線を戻した。
「……詳しいのはいいけどさ」
「うん」
「相手、どこにいるんだ?」
「……さあ」
別のテーブルでは、若い男性がこっそりスマートフォンを構えていた。
画面には、阿忠が一人で怒鳴り続け、その向かいで阿強が黙々と手羽先を食べている姿が映っている。
彼は友人へ短いメッセージを送った。
『名古屋の山ちゃんで、変な人が大河ドラマやってる』
すぐに返事が届いた。
『どこの山ちゃん? 俺も見たい』
そのまた隣では、若い女性たちが顔を寄せ合っていた。
「ねえ、あの背の高い人、声すごくない?」
「うん。店中に響いてる」
「でも、何か……ちょっと迫力あるよね」
「もしかして、新しいアイドルグループの人とか?」
「いやいや、あんなアイドルいるわけないでしょ」
「ひどいなあ」
すると、別の女性が福島をじっと眺めて、ぽつりと言った。
「……でも、天狗の役とか似合いそう」
「天狗?」
「うん。顔も何となく、それっぽくない?」
「……ああ」
「大河ドラマに出たら、意外と人気出るんじゃない?」
「だったら、何でこんなところで怒鳴ってるのよ」
誰も答えられなかった。
当の福島は、そんな視線などまったく気にしていなかった。
「佐吉! お前、あのときだって――!」
その隣で阿強は、次の手羽先を手に取った。
◇
八本目の手羽先が皿から消えた頃だった。
福島が、ふいに静かになった。
ついさっきまで大声で怒鳴り続けていた男が、何の前触れもなく口を閉じたのである。
阿強は少し驚いて顔を上げた。
福島は、残り二本になった手羽先を見つめていた。
先ほどまでの勢いはない。
阿強の頭の中でも、三成が黙り込んでいる。
二人の武将が同時に静かになるなど、名古屋へ来てから初めてのことだった。
店内は相変わらず賑やかだった。
客の笑い声。
食器の触れ合う音。
店員が注文を確認する声。
そして、揚げた手羽先と胡椒の香り。
何一つ変わっていないはずなのに、阿強には、目の前の席だけが急に静まり返ったように感じられた。
やがて福島が、ゆっくりと口を開いた。
「……佐吉」
それは、先ほどまでとはまるで違う声だった。
大きくもなければ、荒々しくもない。
阿強は黙って、その続きを待った。
『……何だ』
三成の返事が、頭の中に響いた。
福島は少しうつむいた。
そして、ぽつりと言った。
「……福島市松は、間違っていた」
三成は答えなかった。
福島はしばらく黙っていたが、やがてもう一度、口を開いた。
「……許してくれるか、佐吉」
その声には、先ほどまでの威勢のよさが少しも残っていなかった。
福島正則。
賤ヶ岳七本槍の一人であり、かつて豊臣家に仕えながら、関ヶ原では東軍に加わった男。
その男が今、自分を福島正則ではなく、市松と呼んだのである。
阿強は手羽先を持ったまま、動けなかった。
四百年前のことなど、彼にはわからない。
関ヶ原で二人の間に何があったのかも、歴史の教科書で知る以上のことは何も知らなかった。
ただ、福島がこの一言を口にするまでに、ずいぶん長い時間がかかったのだろうということだけは、何となく伝わってきた。
三成は答えなかった。
阿強の頭の中で、その気配だけが静かに残っている。
やがて。
『……市松』
ようやく、三成の声が響いた。
『誰が佐吉って呼んでいいと言った』
福島は顔を上げた。
三成の声は、相変わらず不機嫌そうだった。
『……この猫之助め』
福島が、瞬きをした。
それから、ゆっくりと笑った。
それは阿忠の笑顔ではなかった。
今までのように豪快に口を開け、周囲も構わず笑い飛ばすのとも違う。
もっと静かで、どこか懐かしそうな笑みだった。
「……猫之助?」
福島は小さくつぶやいた。
「おい、佐吉。それ、お前がガキの頃に勝手につけたあだ名だろうが」
『それがどうした』
「今さら持ち出すか、普通」
『私が呼んで何が悪い』
福島はしばらく三成の気配を見つめていた。
そして、笑みを浮かべたまま答えた。
「……いや。別に、悪かねえよ」
『……ふん』
三成はそれきり黙った。
相変わらず、機嫌がよさそうには聞こえなかった。
だが、福島はもう怒鳴り返さなかった。
二人の間に、短い沈黙が訪れた。
阿強はその様子を眺めていたが、何も言わず、皿に残った二本のうち一本を手に取った。
しばらく黙って食べているうちに、最後の一本だけが残った。
阿強はそれも手に取り、ゆっくりと食べ始めた。
◇
しばらくして、福島が足元の袋に気づいた。
六袋。
どれも同じような大きさで、きちんと並べられている。
「……おい、兄ちゃん」
阿強は顔を上げた。
「何です?」
「さっきから気になってたんだが、この袋は何だ?」
「ああ、これですか」
阿強は説明しようとした。
しかし、その前に三成が口を開いた。
『太閤殿下のご命令だ』
福島の表情が変わった。
「……太閤殿下の?」
『日光東照宮へ赴き、内府殿の肖像画を千枚貼りつけよとの仰せだ』
福島はしばらく黙っていた。
それから袋の一つを開き、紙を一枚取り出した。
徳川家康のしかみ像である。
福島はその絵を見つめた。
さらに、足元に並ぶ残りの袋を見た。
「……これが、千枚?」
「そうです」
阿強が答えた。
「大阪で全部印刷しました。五万円かかりましたけど」
福島は何も言わなかった。
もう一度、しかみ像へ目を落とす。
やがて紙を袋へ戻し、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺も行く」
阿強は瞬きをした。
「……え?」
「日光だ。俺もお前らと一緒に行く」
福島の声は、もう先ほどのように大きくなかった。
むしろ、驚くほど落ち着いていた。
「それが済んだら、大阪へ戻る」
阿強は黙って続きを待った。
福島は少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「……太閤殿下に、詫びを入れたい」
阿強は何も答えなかった。
世界の山ちゃんの店内では、相変わらず客たちが酒を飲み、手羽先を食べ、楽しそうに話していた。
店員たちは忙しそうにテーブルの間を行き来し、厨房からは揚げ物の香りが流れてくる。
その賑わいの中で、阿強は足元の六袋のしかみ像を見た。
それから、阿忠の顔を見る。
そこにはまだ、阿忠本人のものではない、どこか懐かしそうな笑みが残っていた。
阿強は結局、何も言わなかった。
窓の外では、名古屋の夜が明るく輝き続けていた。
第五話 了




