第三話 しかみ像千枚、青春18きっぷ、そして弁当の尊厳
大阪城公園の豊国神社を出た阿忠と阿強は、しばらく無言で歩いていた。
阿忠は相変わらず右耳をさすっている。
四百年前の天下人に身体を貸した挙げ句、その正室に頬を張られ、耳まで引っ張られたのである。本人には何一つ記憶がないというのに、痛みだけがしっかり残っていた。
納得がいかないにもほどがある。
「……なあ、阿強」
「何だ?」
「本当に千枚も印刷するのか?」
「太閤殿下がそう言ったからな」
「一枚じゃ駄目なのか?」
「俺に聞くなよ」
阿忠は深いため息をついた。
二人は大阪城公園を離れ、近くのセブン‐イレブンへ向かった。
幸い、店を見つけるまでにそれほど時間はかからなかった。
見慣れた赤と緑の看板を見上げ、阿強は足を止めた。
「ここなら印刷できるはずだ」
阿忠は何も答えず、痛む右耳を押さえながら店内へ入った。
◇
阿強はまっすぐマルチコピー機へ向かった。
スマートフォンには、先ほど秀吉が見せた徳川家康の「しかみ像」が保存されている。
せっかく現れた肖像画を無駄にしてはならないと、秀吉が去る前に慌てて撮影しておいたものだった。
まさか本当に千枚も印刷する羽目になるとは、そのときは思っていなかったのだが。
阿強は機械の案内に従って画像を送り、用紙のサイズと印刷設定を選んだ。
A4。
カラー。
千枚。
表示された料金を見て、阿強の手が止まった。
**五万円。**
しばらく画面を見つめていたところへ、飲み物売り場をうろついていた阿忠が戻ってきた。
「どうした?」
「……これ」
阿強は画面を指さした。
阿忠は表示された数字を見た。
二人とも何も言わなかった。
やがて阿忠が、ひどく疲れた声で尋ねた。
「……俺たち、今いくら持ってる?」
二人は財布を取り出し、手持ちの現金を確かめた。
合計、十万円。
日本へ来たばかりの二人にとって、それは決して少ない金額ではない。
だが、目の前の機械は、その半分を一度に要求していた。
「……なあ」
阿忠が口を開いた。
「やっぱり印刷するの、やめないか? 元帥に相談してみようぜ」
「……頼む」
阿忠は目を閉じ、意識を集中させた。
『元帥。元帥、聞こえますか?』
返事はなかった。
『元帥、ちょっと困ったことになってるんです。日本に着いた途端、知らない神様に憑依されて、今度は五万円も払えって言われて……』
しばらく待っていると、ようやく何かが伝わってきた。
ただし、それは神様からのありがたいお告げではなかった。
文字だった。
しかも、相当な勢いで次々と頭の中へ流れ込んでくる。
阿忠は目を開け、その内容を必死に整理しようとした。
一字一字の意味はわかる。
ところが、全部つなげると、どうにも理解しづらい。
「……阿強」
「どうした?」
「お前、学校で国語の成績よかったよな?」
「お前よりはな」
「ちょっと聞いてくれ」
阿忠は頭の中に届いた言葉を、そのまま阿強に伝えた。
阿強は眉をひそめた。
一度聞き、もう一度ゆっくり繰り返してみる。
そして、ようやく口を開いた。
「……これ、悪口だぞ」
「それは俺にもわかる」
「かなり本気で怒ってるな」
「だから、何て言ってるんだよ」
阿強は少し考えた。
「要するに、元帥は今ものすごく忙しいから、俺たちで勝手に何とかしろってことらしい」
「……それだけ?」
「いや、あと俺たちの先祖までまとめて罵倒してる」
阿忠は黙った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……あの人、拘留されてるくせに、俺たちの先祖を罵倒する余裕はあるんだな」
阿強は何も答えなかった。
そのとき、二人の間を風が通り抜けた。
店内のエアコンから吹いてくる、普通の風ではない。
冷たいわけでも、強いわけでもなかったが、二人にはそれが何なのか、すぐにわかった。
霊的な気配だった。
しかも、どこか不機嫌そうな。
阿忠と阿強は同時に顔を上げ、互いを見つめた。
それから、そろってコピー機へ視線を戻した。
「……印刷しよう」
阿忠が言った。
「……そうだな」
阿強もうなずいた。
どうやら、ここで五万円を惜しむことは許されないらしい。
◇
ところが、いざ料金を支払おうとすると、もう一つ問題が発生した。
「……紙幣、使えないのかよ」
阿強はコピー機の案内を見て、顔をしかめた。
現金で支払う場合は硬貨が必要だが、電子マネーのnanacoも利用できるらしい。
さすがに五万円分の小銭を用意する気にはなれない。
結局、二人は店員に事情を説明し、nanacoを使って支払うことにした。
阿強は財布から、一万円札を五枚取り出した。
まず、一枚目。
手渡す前に、じっと眺める。
それから深く息を吸い、店員に差し出した。
二枚目。
少しだけ表情が暗くなった。
三枚目。
もはや笑顔の欠片もない。
四枚目を差し出す頃には、目から光が消えかけていた。
そして、五枚目。
阿強はしばらく紙幣を見つめていた。
その表情は、長年連れ添った友人と、今まさに永遠の別れを告げようとしている男のようだった。
「……阿強?」
隣にいた阿忠が声をかけた。
「……何でもない」
そう答えた阿強は、最後の一万円札を店員に差し出した。
何度かに分けて必要な金額をチャージすると、二人はコピー機へ戻った。
画面には、印刷を開始するための案内が表示されている。
阿強は指を伸ばし、ためらいながら操作を進めた。
やがて、機械が動き始めた。
ウィーン、ウィーン。
最初の一枚が、排紙口から滑り出てくる。
そこに描かれていたのは、徳川家康だった。
三方ヶ原の敗戦を戒めるために描かせたという逸話で知られる、あの情けない表情の肖像画である。
しかめ面で腰を下ろす天下人。
A4サイズ、フルカラー。
印刷したばかりの紙は、まだほんのり温かかった。
阿強はその一枚を見つめ、何も言わなかった。
ウィーン、ウィーン。
機械は容赦なく動き続けた。
◇
印刷が三百枚ほど進んだ頃だった。
ピピピピッ。
突然、電子音が鳴り響いた。
画面には、用紙の補充を求める案内が表示されている。
コピー機が停止した。
レジにいた店員Aは顔を上げ、機械の様子を確かめると、バックヤードへ入っていった。
しばらくして、新品のA4用紙を抱えて戻ってくる。
店員Aはコピー機のそばにしゃがみ、給紙トレイを開いた。
そして、用紙を補充しようとしたところで、ふと排紙口に目を向けた。
そこには、約三百枚もの紙が整然と積み重なっていた。
どれも同じ絵である。
しかめ面で座っている、一人の男。
その表情は、ひどく情けない。
しかも全部、フルカラーだった。
店員Aは二秒ほど固まった。
それから何も言わずに用紙を補充し、トレイを閉じた。
立ち上がって一歩下がると、阿忠と阿強の顔を見た。
生まれてから一度も、こんな客に出会ったことがない。
そんな目だった。
しかし、店員Aは何も尋ねなかった。
そのままレジへ戻り、何食わぬ顔で仕事を再開したのである。
ただし、その直後。
隣にいた店員Bへ顔を寄せ、何かを小声でささやいた。
店員Bは顔を上げ、コピー機へ目を向けた。
一度見て、もう一度見た。
それから、ちょうど品出しのために戻ってきた店員Cへ、同じように何かを伝えた。
店員Cもコピー機を見た。
そこで、飲み物を選んでいた客の一人が、三人の店員がそろって同じ方向を気にしていることに気づいた。
何事かと思って振り返る。
別の客も、その様子につられて顔を向けた。
さらに、もう一人。
こうして、誰が呼びかけたわけでもないのに、コピー機の周りには少しずつ人が集まり始めた。
当の機械は、そんなことなどお構いなしである。
ウィーン、ウィーン。
徳川家康のしかめ面が、次々と出てくる。
五百枚を超えた頃には、いつの間にか小さな人だかりができていた。
その中から、一人の子供が前へ出てきた。
大人たちの間をすり抜け、つま先立ちになって排紙口を覗き込む。
「ねえ、ママ」
「なあに?」
「あの紙の人、誰?」
母親も身を乗り出して絵を見た。
しばらく眺めてから、首をかしげる。
「……さあ、誰かしら」
「すごく困った顔してるね」
「……そうね」
子供は納得したようにうなずくと、そのまま真剣な表情で家康の肖像画を見つめ続けた。
やがて、一人の客が好奇心に負け、スマートフォンを取り出した。
写真を撮ろうとしたのだろう。
その瞬間、レジにいた店員Aが、何も言わずに視線だけを向けた。
客は静かにスマートフォンをしまった。
ただし、目だけはコピー機から離さなかった。
ウィーン、ウィーン。
家康はまだまだ増え続けている。
六百枚ほど印刷したところで、再び用紙を補充することになった。
その際、一枚の肖像画の角が引っかかり、少し折れてしまった。
阿強は即座に反応した。
おそらく、生まれてから今までで最も素早い動きだった。
折れた紙をそっと取り出し、慎重に角を伸ばすと、何事もなかったかのように元の束へ戻した。
その一連の動作を、店内の人々が黙って見つめていた。
阿強はふと顔を上げた。
周囲から注がれる視線に気づく。
しばらく、誰ともなく目が合った。
しかし阿強は何も言わなかった。
再びコピー機へ向き直り、ただ排紙口を見つめ続けたのである。
ウィーン、ウィーン。
徳川家康の受難は、まだ終わらなかった。
◇
千枚目のしかみ像が排紙口から滑り出てきたのは、午後五時四十七分だった。
阿強はようやく機械から離れ、印刷された紙を整え始めた。
一千枚のA4用紙。
重さだけでも相当なものである。
二人はそれを何束かに分け、店で用意した袋に詰めていった。
合計、六袋。
阿忠が三袋、阿強が三袋を抱え、ようやく出口へ向かった。
それまでコピー機の周囲を取り囲んでいた人々は、二人が通るのに合わせて、自然と道を開けた。
まるで何か特別な儀式が終わったかのようだった。
二人が店を出ると、残された客たちは小声で話し始めた。
「……さっきの、何だったんだろう」
「さあ……」
「何でみんな見てたの?」
「いや、みんなが見てたから、つい」
「でも、あの絵、何だったんでしょうね」
「わからないわねえ」
「……ずいぶん困った顔の人だったな」
「そうですね」
結局、誰一人として答えを知らなかった。
◇
店を出ると、大阪の街には夕暮れが迫っていた。
阿忠と阿強は六袋のしかみ像を抱えたまま、しばらく歩道に立っていた。
「……で、次は?」
阿忠が尋ねた。
「日光東照宮だろ」
阿強はスマートフォンを取り出した。
「まずは行き方を調べないとな」
検索結果を見た瞬間、彼の表情が曇った。
新幹線と特急列車を乗り継ぐ経路。
所要時間はおよそ四時間半から五時間。
料金は一人二万円前後。
「……高すぎる」
阿強は即座に候補から外した。
次に表示されたのは、夜行バスを使う経路だった。
こちらも数千円はかかる。
「……まだ高いな」
阿忠は隣から画面を覗き込んだ。
「さっき五万円も使ったんだから、もう普通に帰らないか?」
「帰ったら切腹だぞ」
「……続けてくれ」
阿強はさらに安い方法を探した。
そして、一つの名前を見つけた。
**青春18きっぷ。**
「……何だ、これ?」
阿強は説明を読み始めた。
全国のJR線の普通列車や快速列車が乗り放題。
年齢制限なし。
ちょうど今は、発売期間も利用期間も重なっているらしい。
しかも、三日間用なら一万円である。
阿強の目が輝いた。
「阿忠、これだ!」
「何が?」
「青春18きっぷ! 一万円で三日間乗り放題だって!」
「……二人で?」
「たぶん!」
阿忠の表情が明るくなった。
「それなら安いじゃん!」
二人はさっそく駅へ向かった。
ところが、切符を買う段階で、思いがけない事実が判明した。
青春18きっぷは、一枚につき一人しか使えないのである。
つまり、二人分で二万円。
しかも、利用できるのは連続した三日間だった。
阿忠は券売機の前で阿強を見た。
「……一万円って言わなかったか?」
「一人一万円だった」
「……二万円じゃん」
「でも三日間乗り放題だぞ」
「……本当に得なのか?」
「新幹線より安い」
その言葉には、不思議な説得力があった。
結局、二人は青春18きっぷを一枚ずつ購入した。
そして、まだ少しでも距離を稼げるうちに出発しようと、普通列車に乗り込んだのである。
◇
列車が大阪を離れてから、しばらく経った頃。
阿忠は窓際の座席に身体を預け、ようやく眠ろうとしていた。
その隣で、阿強がスマートフォンを操作している。
何となく気になり、改めて目的地までの経路を確認していたのだ。
画面を下へスクロールする。
さらに下へ。
そこに表示された内容を見て、阿強の指が止まった。
**乗り換え、十回前後。**
**普通列車での移動時間、合計十二時間以上。**
しかも、今から出発する場合は、途中で日付をまたぐことになる。
阿強は五秒ほど画面を見つめた。
「……阿忠」
「何だよ」
「ちょっと、まずいことがわかった」
「今度は何だ」
「……日光まで、十二時間以上かかるらしい」
阿忠は目を開けた。
「……は?」
「乗り換えも十回くらいある」
阿忠はゆっくりと身体を起こした。
「……今、何て言った?」
「普通列車を乗り継いで、十二時間以上。しかも、今日中には着かない」
数秒間、沈黙が続いた。
「……お前」
阿忠が口を開いた。
「買う前に確認しなかったのかよ!」
「いや、安いからいいと思って……」
「何で値段だけ見て買ってんだ!」
「俺だって日本に来るの初めてなんだぞ! そんなこと、わかるわけないだろ!」
「俺も初めてだよ!」
「だったらお前も確認しろよ! さっき自分で買うって言っただろ!」
「お前がちゃんと調べてると思ったからだよ!」
「俺はお前も見たと思ってた!」
二人は車内でにらみ合った。
窓の外では、街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
やがて阿忠が、ひどく疲れた声でつぶやいた。
「……切腹したほうが早いんじゃねえの」
「……俺もそう思う」
「じゃあ、何でまだ乗ってるんだよ」
阿強はスマートフォンをしまった。
「……もう新幹線に乗る金がないから」
阿忠は何も言わなかった。
そのまま窓際に寄りかかり、目を閉じた。
しばらくしてから、再び口を開く。
「……阿強」
「何だ?」
「次から何か買うときはさ」
「うん」
「説明の一番下まで読んでくれないか?」
「……わかった」
「ありがとう」
「どういたしまして」
列車はがたごとと音を立てながら走り続けた。
足元には、六袋のしかみ像がきれいに並べられていた。
◇
京都を過ぎ、米原で乗り換える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ホームには冷たい風が吹いている。
阿忠と阿強は六袋のしかみ像を抱え、次の列車を待っていた。
長時間の移動ですっかり疲れてしまい、二人とも口数が少なくなっている。
風が吹き、阿忠の髪が乱れた。
しかし、直す気力すらなかった。
次の列車が来るまで、あと十八分。
二人はただ黙って待ち続けた。
やがて列車が到着し、二人は再び車内へ乗り込んだ。
◇
その車両は、ひどく空いていた。
座っているのは阿忠と阿強、それに窓際の席で静かに外を眺めている、一人の老婆だけである。
老婆は白髪をきちんと整え、背筋を伸ばして座っていた。
二人が六袋もの荷物を抱えて乗り込んできても、特に気にする様子はない。
阿忠は座席に腰を下ろすと、ほとんどすぐに眠ってしまった。
身体がゆっくりと傾き、座席の背もたれに寄りかかる。
その拍子に、足元の袋の一つが倒れた。
袋の口から数枚のしかみ像が滑り出し、床に散らばる。
徳川家康。
天下を統一した将軍の、あまりにも情けない顔が、普通列車の床に転がっていた。
老婆はふと視線を落とした。
床に散らばった家康の肖像画を一度見て、それから静かに顔を上げた。
何も言わず、再び窓の外へ目を向ける。
阿強は腰をかがめ、落ちた紙を一枚ずつ拾い集めた。
阿忠を起こさないよう、できるだけ音を立てずに袋へ戻していく。
すべて拾い終えると、袋を座席の脇に置き直した。
そして自分も背もたれに身体を預け、目を閉じた。
列車は変わらず揺れ続けていた。
◇
大垣駅。
午後七時十二分。
阿忠と阿強は、荷物と六袋のしかみ像を抱えてホームに降り立った。
目的地へ向かうには、ここで岐阜・名古屋方面の列車に乗り換えなければならない。
阿強はスマートフォンの画面を見ながら、次の列車を探した。
何度もスクロールしているうちに、二人ともすっかり疲れ切ってしまった。
そして、これがいけなかった。
阿強は発車案内をろくに確かめないまま、ホームに入ってきた列車を指さしたのである。
「阿忠、あれだ。乗るぞ」
「……本当に?」
「たぶん」
「また『たぶん』かよ……」
文句を言いながらも、阿忠は六袋のしかみ像を抱えて列車に乗り込んだ。
やがて扉が閉まり、列車が動き始める。
阿忠は空いている座席に腰を下ろした。
そのとき、車内の案内表示が目に入った。
**米原方面。**
阿忠はしばらく文字を見つめた。
それから隣の阿強へ顔を向ける。
「……なあ」
「何だよ」
「この電車、米原に行くって書いてあるぞ」
「うん」
「……米原って、さっきいた駅じゃなかったか?」
阿強は顔を上げた。
表示を見た。
もう一度見た。
それから、そっとスマートフォンに目を落とした。
「…………」
「なあ、阿強」
「…………」
「おい」
「……ちょっと待て」
「何を?」
「今、確認してる」
阿忠は阿強の顔を見つめた。
阿強は画面を操作した。
そして、ようやく顔を上げた。
「……逆だった」
「…………」
「……すまん」
阿忠は何も言わなかった。
列車は容赦なく、さっき来た方向へ走り続けている。
やがて阿忠が、低い声で尋ねた。
「……俺たち、今どこに向かってるんだ?」
「……米原方面」
「それは見ればわかる!」
阿強はうつむいた。
「……次の駅で降りよう」
◇
結局、二人は途中の駅で引き返し、再び大垣へ戻ってくる羽目になった。
大垣駅に戻った頃には、すっかり夜も更けていた。
二人はホームのベンチに腰を下ろした。
足はしびれていた。
腹も減っていた。
おまけに、さっきまで必死に稼いだ移動距離の一部が、完全に無駄になってしまった。
阿忠は頭上の駅名表示を見た。
「……なあ、阿強」
「何だ」
「今、どこにいる?」
「……大垣」
「大垣って、どこだ?」
「岐阜県」
「岐阜県って、どの辺だ?」
「……日本の真ん中辺り」
「俺たちが行くのは?」
「栃木県」
「……あと、どれくらい?」
阿強はスマートフォンを取り出し、ルートを調べ直した。
普通列車だけでは、今夜のうちに日光へ着くことはできない。
途中で一晩過ごし、翌朝また移動を続ける必要があった。
阿強は画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……まだ、かなりかかる」
阿忠は何も答えなかった。
しばらくの間、ホームに響く列車の音だけが二人の間を通り過ぎていった。
やがて阿忠が口を開く。
「……腹減った」
「……俺も」
「何か食うもの、ないのか?」
「駅にコンビニがある」
「……弁当買おう」
「……そうだな」
二人はベンチから立ち上がった。
六袋のしかみ像を抱え直し、駅のコンビニへ向かう。
足のしびれは、まだ完全には取れていなかった。
◇
コンビニへ入ると、阿強は迷わず弁当売り場へ向かった。
唐揚げ弁当。
幕の内弁当。
焼肉弁当。
どれも、今の二人にはたまらなく魅力的に見えた。
阿強は十秒ほど真剣に品定めをした末、唐揚げ弁当に手を伸ばした。
そのときだった。
ふいに、何かが店内を通り抜けた。
空調の風ではない。
もっと冷たく、もっと鋭い、得体の知れない気配だった。
阿強は動きを止めた。
この感覚には、覚えがある。
ゆっくりと振り返る。
阿忠が、弁当売り場の脇に立っていた。
ただし、その顔は先ほどまでの阿忠とは明らかに違っていた。
豊国神社で秀吉に憑依されたときの、燃え上がるような威圧感とも違う。
今、目の前にいる人物は、ひどく冷静だった。
眉間には深いしわが刻まれ、視線は鋭く、口元は固く結ばれている。
感情に任せて怒鳴るのではなく、相手の非を一つずつ数え上げ、筋道を立てて追及してきそうな顔だった。
阿強は小さくため息をついた。
またか。
そう思ったものの、今さら驚いたところで仕方がない。
阿忠の身体は、どうやら日本の神様や霊にとって、ずいぶん居心地がいいらしい。
阿強は手に取ろうとしていた弁当をいったん棚に戻し、真正面から尋ねた。
「……あんた、誰だ?」
阿忠の身体が、ゆっくりとこちらを向いた。
その口から、聞き慣れない声が響く。
「……石田三成だ」
阿強は一秒ほど黙った。
石田三成。
その名前には聞き覚えがある。
ついさっきまで阿忠の身体を借りていた豊臣秀吉と、何か関係があったはずだ。
ただし、今はそれよりも大事な問題があった。
腹が減っているのである。
「……関ヶ原の戦いで、私は――」
三成が口を開いた。
「ちょっと待って」
阿強が手を上げた。
三成は言葉を止めた。
阿強はそのまま弁当売り場へ向き直り、先ほど選んだ唐揚げ弁当を手に取った。
そして買い物かごへ入れる。
「……おい」
背後から、低い声がした。
阿強は振り返った。
「何?」
三成は阿忠の身体を借りたまま、まっすぐ阿強を見つめていた。
「……人が話している最中に、弁当を選ぶというのは、少々無礼ではないか?」
阿強は手元の買い物かごを見た。
それから三成の顔を見る。
三秒ほど考えた末、もう一度弁当売り場へ向き直った。
唐揚げ弁当を取り出し、元の棚へそっと戻す。
三成は小さくうなずいた。
どうやら、ようやく礼儀をわきまえたと判断したらしい。
阿強は何も言わなかった。
大阪で五万円を使い、普通列車に何時間も揺られ、さらに乗り間違えて大垣まで戻ってきた。
足はまだしびれている。
腹も空っぽだった。
それなのに今、自分は大垣駅のコンビニで、唐揚げ弁当を買うことすら許されずにいる。
目の前では、四百年前の武将が咳払いを一つした。
石田三成。
彼は実に真面目な顔で、これから何か重大な話を始めようとしていた。
阿強は黙って、その続きを待つことにした。
第三話 了




