第二話 賢妻、しかみ像、そして切腹の脅し
ぱんっ。
豊国神社の拝殿前で、豊臣秀吉が固まった。
そして、ほとんど同じ頃。
日本の霊界にある入国審査場でも、趙公明元帥が動きを止めていた。
もっとも、こちらは頬を張られたわけではない。
趙公明は先ほどから、待合室に並べられた白いプラスチックの椅子でうとうとしていた。
周囲には、自分と同じように審査結果を待っている霊たちが座っている。誰もが所在なさげな顔をしており、何をするでもなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
お役所の待合室というものは、人間界でも霊界でも大して変わらないらしい。
そこには、いつ終わるとも知れない順番待ちが生み出す、独特の絶望感が漂っていた。
そのときだった。
趙公明の意識に、鋭い痛みのようなものが走った。
阿忠からの救難信号である。
もちろん、電話が鳴ったわけでも、誰かが呼びかけたわけでもない。乩童と主神の間には、普通の人間には理解できない霊的なつながりがあり、緊急事態には互いの気配を感じ取ることができるのだ。
今回の信号は、まるで針で意識を突かれたように鋭かった。
焦り、混乱、切迫感。
その奥には、「元帥、どこにいるんですか! 早く来てくださいよ!」という、阿忠らしい必死の訴えまで感じられる。
趙公明は慌てて立ち上がり、辺りを見回した。
窓口では、稲荷神が別の案件を処理している。こちらに背を向け、手元の書類をめくっているところだった。
今なら、あるいは。
趙公明は何食わぬ顔で、入国ゲートの方へ一歩踏み出した。
もう一歩進み、さらに足を運ぼうとした、そのとき。
「趙公明様」
背後から声がした。
趙公明はぴたりと足を止めた。
稲荷神は振り返ってすらいない。
「お席にお戻りください」
「いや、ちょっと身体を動かそうと思っただけでして……」
「お席にお戻りください」
取りつく島もなかった。
趙公明は仕方なく引き返し、元の椅子に腰を下ろした。
しかし、阿忠からの信号は途切れない。それどころか、時間が経つにつれてますます切迫したものになっていく。
おまけに、ときおり何かに打たれたような衝撃まで伝わってきた。
どうやら、ただ事ではない。
趙公明は入国ゲートをじっと見つめた。
三秒ほど考えた末、もう一度立ち上がる。
今度は歩いて近づくような真似はしなかった。
一気に駆け出したのである。
ところが、ゲートまであとわずかというところで、周囲から何かが飛び出してきた。
小さな狐だった。
一匹や二匹ではない。白い制服を着て、胸に身分証をつけた小狐たちが、カウンターの陰や廊下の曲がり角から、次々と姿を現した。
中には、いったいどこに隠れていたのか見当もつかない場所から飛び出してくる者までいる。
どの狐も膝ほどの背丈しかないが、表情だけは稲荷神とそっくりだった。
礼儀正しく、冷静で、融通が利かなそうな顔である。
小狐たちは瞬く間に趙公明を取り囲んだ。
趙公明は足を止め、自分を囲む小さな制服姿を見下ろした。
「……これは、正式な逮捕ということですか?」
「はい」
一匹の小狐が、外見からは想像もつかないほど落ち着いた声で答えた。
「不法越境未遂です。処分が加重されますので、ご同行をお願いいたします」
趙公明は入国ゲートを見た。
それから、周囲の小狐たちに目を向ける。
阿忠からの救難信号は、今も途切れることなく届いていた。
趙公明は深いため息をついた。
どうやら、今度こそ本当に打つ手がなくなったらしい。
◇
豊国神社では、何事もなかったかのように夕日が境内を照らしていた。
鳩は相変わらず石畳を歩き回り、観光客たちも写真を撮り続けている。
そんな平和な光景の中で、高台院の手だけが、まだ宙に上がったままだった。
たった今、秀吉の頬を張ったその手である。
彼女の表情は、先ほど秀吉が振り返ったときと、少しも変わっていない。
穏やかだった。
ただ、その穏やかさには、どこか恐ろしいものがあった。
四百年もの間、言いたいことを胸にしまい込み、ようやく本人を目の前にした女性の、実に品のよい微笑みである。
その少し離れたところで、阿強はしゃがみ込んでいた。
怖くて腰が抜けたわけではない。
長年、阿忠が神様に憑依されるたびに後始末をしてきた経験から、今は自分が口を出す場面ではないと判断したのだ。
夫婦喧嘩、それも四百年越しの夫婦喧嘩に、部外者が割って入ったところで何の役にも立たない。
ならば、せめて邪魔にならない場所にいたほうがいい。
そう考えた阿強は、先ほど買っておいたカフェラテを袋から取り出し、蓋を開けて一口飲んだ。
目の前で繰り広げられているのは、本物の大河ドラマである。
しかも観覧無料だ。
「ち、違うのだ、ねね!」
一方、天下人は必死だった。
「わしは茶々のところへなど行っておらんぞ!」
高台院は何も言わなかった。
「本当じゃ! あちらにも行っておらん。お前は何か誤解しておるのだ。わしを信じてくれ!」
秀吉の声には、先ほどまでの威厳など欠片も残っていなかった。
何度説明しても相手に信じてもらえず、何とか説得しようと必死になっている男の声である。
その様子を眺めていた阿強が、何気なく口を挟んだ。
「ああ、それ、阿忠も前に同じこと言ってましたよ」
秀吉が振り返る。
「何?」
「二人の彼女に同じような言い訳して、一時間以上も説明してましたけど、結局どっちにも振られました」
ぱんっ。
「お前は黙っておれ!」
秀吉が阿強を怒鳴りつけた。
阿強は何も答えず、カフェラテを一口飲んだ。
「そもそもじゃ、ねね!」
秀吉は慌てて高台院に向き直った。
「わしはお前がどこにおるのか知らなかったのだ。高台寺におるなど、どうしてわかる? あの寺はわしが建てたものではないのだからな!」
ぱんっ。
再び、乾いた音が響いた。
高台院は振り上げた手をゆっくり下ろすと、初めて口を開いた。
「……あの高台寺は、私が殿の菩提を弔うために建てたお寺でございます」
声は静かだった。
それだけに、かえって恐ろしい。
「殿は、そのこともお忘れになったのですか?」
秀吉は口を開きかけたまま、半秒ほど固まった。
「い、いや……知っておったぞ。もちろん知っておった」
「では、どうして今のようなことを?」
「それは、その……」
「その?」
「……少し、忘れておっただけじゃ」
高台院は黙って秀吉を見つめた。
たったそれだけで、秀吉は思わず半歩後ずさった。
もちろん、天下人である本人は、そんなことを認めるつもりなど毛頭なかっただろう。
阿強はその光景を、心の中にしっかりと記録した。
豊臣秀吉。
関白にして太閤、天下統一を成し遂げた男。
妻に睨まれ、半歩後退。
阿強はもう一口、カフェラテを飲んだ。
◇
それからしばらくの間、秀吉は言い訳をしては頬を張られ、頬を張られては再び言い訳をするという、実に忙しい時間を過ごすことになった。
途中、何度か阿強に向かって「黙れ!」と怒鳴ることもあった。
もっとも、その頃の阿強は、ほとんど何も言っていない。
ただ少し離れたところにしゃがみ、カフェラテを飲んでいただけである。
「お前、今うなずいたであろう!」
秀吉が突然、阿強を指さした。
「見ておったぞ!」
「え? 俺ですか?」
「ほかに誰がおる!」
「いや、ちょっと考え事をしてただけです。うなずいてませんよ」
「嘘を申せ。今、笑ったであろう!」
「笑ってません」
「口元が緩んでおったぞ!」
「ラテがおいしかったんです」
「そんな言い訳が通じると思うて――」
ぱんっ。
今度の一撃は、阿強に向けられたものではなかった。
高台院が、余計なところを向いている夫に注意を与えたのである。
しまいには耳までつまみ上げられ、天下人は思わず情けない悲鳴を漏らした。
秀吉はようやく高台院に向き直ると、咳払いを一つして、何とか天下人としての威厳を取り戻そうと懸命に表情を整えた。
その努力が実を結んだかどうかは、本人の名誉のためにも触れないでおこう。
◇
やがて、高台院の手が止まった。
何もかも許したわけではない。
ただ、四百年もの間に積もり積もった言い分を、ひととおり伝え終えたのだろう。
境内には再び静けさが戻り、遠くから観光客の話し声と、鳩の鳴き声が聞こえてきた。
秀吉は阿忠の身体を借りたまま、しばらく黙って立っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……秀頼は、どうしておる」
その声を聞いた瞬間、阿強は口元に運びかけていたカフェラテを止めた。
先ほどまでの、必死に言い訳を重ねていた男の声ではなかったからだ。
「わしの息子じゃ。秀頼は……立派に育ったか?」
秀吉は高台院を見つめた。
「豊臣の天下は、今も続いておるのか。世は太平になったのであろう?」
阿強は秀吉を見て、それから高台院へ視線を移した。
高台院は答えなかった。
「……あの」
阿強は手に持っていたカフェラテを少し下ろした。
「俺、そういうのはよく知らないんですけど……」
秀吉がこちらを向く。
「何じゃ?」
「いや、俺、台湾人なんで。日本の歴史って、そこまで詳しくないんですよ」
「豊臣秀頼を知らぬのか?」
「徳川幕府なら知ってます。でも秀頼って人のことは、正直よくわからなくて。高校の歴史でも、そこまで習わなかったんです」
秀吉はしばらく阿強を見つめていたが、やがて高台院へ向き直った。
「……ねね」
高台院は静かに夫を見返した。
「秀頼は、どうなったのじゃ」
その問いを聞いた高台院の目から、先ほどまでの怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは、もっと深く、もっと重い何かだった。
四百年という歳月の中で、幾度も思い返し、ようやく胸の奥に収めてきたもの。
それを今、もう一度取り出さなければならない。
高台院はしばらく夫を見つめてから、静かに口を開いた。
「……前田利家殿が亡くなられた後、家康殿が動き始めました」
秀吉は動かなかった。
「関ヶ原の戦いがあり、大坂冬の陣、そして夏の陣がございました。私は、そのすべてを見ておりました」
高台院はそこで言葉を切った。
「殿は……ご覧になれませんでしたね」
秀吉は何も答えない。
高台院は静かに息を整えると、最後まで語り終えた。
「秀頼様と茶々様は、大坂城で自害なさいました」
その瞬間、秀吉の表情から、何かが消えた。
豊国神社の境内には、先ほどと変わらず夕日が差し込んでいる。
観光客の話し声も、鳩の羽音も、遠くを走る車の音も、何一つ消えたわけではない。
それでも、秀吉の耳にはもう届いていないようだった。
阿忠の身体を借りた天下人は、ただそこに立ち尽くしていた。
高台院も、それ以上は何も言わなかった。
阿強は持っていたカフェラテをそっと地面に置いた。
つい先ほどまで、目の前で繰り広げられる四百年越しの夫婦喧嘩を、面白がって眺めていた。
けれども、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
秀吉は一言も発しない。
誰も、口を開こうとはしなかった。
その静かな境内で何が起きているのか、行き交う観光客たちは誰一人として知らなかった。
◇
沈黙は長く続いた。
あまりにも長かったので、阿強はそのうち、秀吉がこのまま阿忠の身体から出ていかなくなるのではないかと心配し始めた。
だが、何と声をかければいいのかわからない。
そうしているうちに、秀吉がようやく動いた。
ゆっくりと背筋を伸ばし、深く息を吸い込む。
その顔には、四百年という歳月を経てもなお消えることのなかった感情が、再び形を取り始めていた。
悲しみだけではない。
怒りだけでもなかった。
どうしても飲み込むことができず、かといって捨て去ることもできない。結局は胸の奥に抱えたまま、生きていくしかないもの。
死してなお、秀吉の中にはそんな思いが残っていた。
「……四百年も経ってしまったのじゃな」
秀吉はぽつりと言った。
「今さら、何もかも手遅れよ」
阿強は黙っていた。
秀吉はしばらく目を伏せていたが、やがて鼻を鳴らした。
「……だがな」
その声には、先ほどまでとは違う力が戻っていた。
「わしは、どうにも腹の虫が収まらん」
阿強は顔を上げた。
「わしの息子は敗れた。それはもう、どうにもならぬことじゃ」
秀吉は口元を歪めた。
「だが、あの狸親父だけは、ただでは済まさんぞ」
阿強は嫌な予感がした。
そして、その予感はすぐに現実となった。
秀吉の手元に、突然、一枚の絵が現れたのである。
「……何ですか、それ」
阿強は目を細め、絵に描かれた人物を覗き込んだ。
そこには、一人の武将が座っていた。
顔をしかめ、どこか憔悴したような表情を浮かべたその男には、天下を争う武将としての威厳など、ほとんど感じられない。
むしろ、ひどい目に遭って帰ってきたばかりの男が、放心しているように見えた。
徳川家康。
三方ヶ原の敗戦を戒めるために描かせたという逸話で知られる、あの有名な「しかみ像」である。
そんな説明はともかく、絵の中の家康が、実に情けない表情をしていることだけは間違いなかった。
阿強は思わず吹き出しそうになった。
先ほどカフェラテを地面に置いていなければ、危うくむせ返っていたところである。
「……これ、家康ですか?」
「ほかの誰に見える!」
秀吉は絵を高々と掲げた。
「あの狸親父、今はどこに埋まっておる?」
「え?」
「墓じゃ! 徳川家康の墓はどこにある!」
阿強は慌ててスマートフォンを取り出し、Googleで検索した。
検索欄に「徳川家康 墓」と入力すると、すぐに検索結果が表示された。
「……ああ、ありました」
「どこじゃ!」
「日光東照宮ですね。栃木県です」
「栃木じゃな!」
秀吉の目が輝いた。
その光り方を見て、阿強はますます嫌な予感がした。
何かを思いついたときの秀吉というのは、きっと生前もこんな顔をしていたのだろう。
「よし!」
秀吉は満面の笑みを浮かべ、絵を阿強に突きつけた。
「これを千枚刷れ!」
「……はい?」
「千枚じゃ、千枚! それを持って日光へ行き、あの狸親父の墓の周りを、この絵で埋め尽くしてやるのだ!」
阿強はしばらく秀吉を見つめていた。
それから、何も言わずにスマートフォンのメモアプリを開いた。
画面に文字を打ち込む。
『しかみ像 × 1000枚』
入力し終えると、三秒ほど画面を見つめた。
「……あの、太閤殿下」
「何じゃ?」
「千枚も印刷するなら、コンビニに行かないと駄目ですね」
「こんびに?」
秀吉は首をかしげた。
「何じゃ、それは」
「ええと……何でも売ってる店です」
「何でも?」
「まあ、大抵のものはありますね」
秀吉は腕を組んで考え込んだ。
「ふむ。城下町の市のようなものか?」
「それよりすごいですよ」
「ほう? どれほどすごいのじゃ?」
阿強は少し考えてから答えた。
「二十四時間、閉まらないんです」
秀吉は黙った。
三秒ほど、その意味を考えていたらしい。
そして、ぽつりと言った。
「……わしも行ってみたい」
阿強は目を閉じた。
どうやら、日光へ行く前に、もう一つ仕事が増えそうだった。
◇
やがて秀吉は、阿忠の身体から離れることにしたらしい。
ただし、その前に、どうしても言っておきたいことがあるようだった。
「よいか、若造」
阿強は顔を上げた。
「はい?」
「わしはお前たちのことを、いつでも見ておるからな」
「……はい」
「決して怠けるでないぞ」
「わかりました」
阿強は素直にうなずいた。
だが、秀吉はそれだけでは気が済まなかったらしい。
「お前たちは日本のことを、ろくに知らぬようじゃが……」
「まあ、そうですね」
「それでも、切腹が何かくらいは知っておろう?」
阿強はうなずきかけたまま、動きを止めた。
「……え?」
秀吉は答えなかった。
ただ、満足げな笑みを浮かべる。
次の瞬間、阿忠の身体から、ふっと何かが抜けていった。
豊臣秀吉は去ったのである。
◇
阿忠は豊国神社の拝殿前に立ち尽くしていた。
何が起きたのかわからない。
ただ、右耳が妙に痛かった。
「……あれ?」
ゆっくりと手を上げ、耳に触れてみる。
じんじんとした痛みが、指先から伝わってきた。
「……俺の耳、どうしたんだ?」
阿強は立ち上がると、ズボンの膝についた埃を払い、足元に置いていた空のカフェラテのカップを拾い上げた。
「何でもない」
「……阿強」
「本当に何でもないって」
「じゃあ、何でこんなに痛いんだよ」
「……ちょっと引っ張られただけだ」
阿忠は眉をひそめた。
「誰に?」
阿強は少し考えた。
「……ある女性に」
「女性?」
「うん」
「どんな女性だよ」
阿強は、つい先ほどまでそこにいた高台院の姿を思い浮かべた。
「……賢妻」
阿忠は三秒ほど黙って阿強を見つめた。
「……お前、さっきまで何してた?」
「ドラマ見てた」
「は?」
「大河ドラマ」
阿忠は意味がわからないという顔をした。
そこで、阿強が手に持っているカップに気づく。
「……それ、何飲んでたんだ?」
「カフェラテ」
「……飲み終わってるじゃねえか」
「うん」
「お前、俺が何かに憑依されてる間、ラテ飲みながらドラマ見てたのかよ!」
阿強は空になったカップを片づけながら、平然とうなずいた。
「目の前で本物の大河ドラマやってたんだぞ。テレビで見るより、ずっと面白かった」
「お前なあ……!」
阿忠は文句を言いかけた。
だが、阿強の表情を見て、言葉を止めた。
いつものようにふざけているようで、どこか様子が違っていたからだ。
「……でもさ」
阿強は空のカップを見つめた。
「ちょっと、悲しかったな」
阿忠は何も言わなかった。
阿強も、それ以上は説明しなかった。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
豊国神社の境内には、夕日が静かに差し込んでいた。
やがて阿忠が、阿強の手元にあるスマートフォンへ目を向けた。
画面には、メモアプリが開いたままになっている。
そこに書かれた文字を見て、阿忠は首をかしげた。
「……何だ、これ」
「ん?」
「この『しかみ像、千枚』ってやつ」
「ああ、それか」
阿強は画面を一瞥した。
「任務」
「……誰からの?」
「太閤殿下」
阿忠は黙った。
阿強は続けた。
「ちゃんとやれって。さぼったら切腹らしいぞ」
阿忠はさらに黙った。
その沈黙は、かなり長かった。
境内に差し込む夕日の角度が、少しずつ低くなっていく。
ようやく阿忠が口を開いた。
「……日光東照宮って、どこにあるんだ?」
「栃木県」
「……栃木?」
「うん。ここからだと、新幹線と電車を乗り継いで、だいたい五時間くらいかな」
阿忠はしばらく考え込んだ。
「……切符、買わないと駄目だよな」
「そりゃ、そうだろ」
「……金、かかるよな」
「当然だな」
また沈黙が落ちた。
阿忠はゆっくりと阿強のほうを向いた。
「……なあ」
「何だ?」
「太閤殿下、誰が金を出すかは言ってたか?」
「いや」
阿強は首を横に振った。
「何も言ってなかった」
阿忠はスマートフォンの画面を見つめた。
『しかみ像 × 1000枚』
その文字を、何度も読み返す。
日光までの交通費。
千枚分の印刷代。
そして、そもそも何のためにこんなことをしなければならないのか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなってきた。
しばらくして、阿忠はようやく口を開いた。
「……くそっ」
豊国神社の夕日が、ようやく完全に沈んだ。
第二話 了




