第一話 ポテチと旅券の問題
台湾には、古くから続く、少し変わった仕事がある。
道士でもなければ、法師でもない。神様に自分の身体を貸し、人間の世界で用事を済ませてもらう仕事だ。
台湾では、そうした人々を「乩童」と呼ぶ。
仕事内容だけを聞けば、いたって単純である。台湾の宮廟、つまり道教や民間信仰の神々を祀る廟に通い、神様が用事を済ませたいときに身体を貸す。神様が帰れば、その日の仕事も終わりだ。
ある意味では、究極の派遣社員と言えるかもしれない。
ただし、普通の派遣社員なら残業を断ることもできるが、乩童にはそれができない。何しろ相手は神様である。「今日は定時なので帰ります」と言ったところで、聞き入れてもらえる保証などないのだ。
台湾中部、南投県草屯鎮。
そこにある玄武宮で乩童を務めているのが、阿忠と阿強という二人の青年だった。
二人とも二十三歳。同じ年の同じ月に生まれ、誕生日だけが違う。幼い頃からの付き合いで、神様に選ばれた時期も、乩童として修行を始めた時期もほとんど同じだった。
そんな二人が働く玄武宮は、線香の煙が絶えない、ごく普通の町の廟である。
強いて特徴を挙げるなら、本殿より駐車場のほうが広いことくらいだろうか。
阿忠の仕事は、神様に憑依されること。
そして阿強の仕事は、阿忠が憑依されている間の世話と、神様が帰った後の後始末だった。
別に誰かが決めた役割分担ではない。二人で相談した覚えもなかったが、長年一緒に仕事をしているうちに、いつの間にかそうなっていた。
というのも、阿忠は霊的なものに対して、あまりにも無防備な体質なのである。神様だろうが何だろうが、とにかく入りやすい。
一方の阿強は正反対だった。こちらは少々閉ざされすぎていて、宮廟の主神である趙公明元帥でさえ、三度か四度は試さないと憑依できないことがある。
つまり、一人は誰でも入れる家で、もう一人は家主ですら入るのに苦労する家のようなものだった。
そんな二人にとって、その日もいつもと変わらない火曜日の午後になるはずだった。
少なくとも、その時点では。
◇
玄武宮の前に置かれたプラスチックの椅子に腰掛け、阿忠は足を組みながらポテトチップスを頬張っていた。
近所のファミリーマートで買ってきた、海塩味のポテトチップスである。二袋買うと一袋無料になるという特売につられ、結局六袋も買い込んでしまった。
そこへ、廟の中から阿強が出てきた。
「お前、またポテチ食ってんのか」
「うん」
「そんなに食って、元帥から何か言われないのか?」
「別に何も」
「じゃあ、何で六袋も買ってきたんだよ」
「安かったから」
阿忠はあっさり答えると、ポテトチップスの袋に手を突っ込んだ。
「あ、そうだ。これ見てみろよ」
差し出されたのは、一枚の紙だった。
阿強は受け取って、そこに印刷された文字を読んだ。
当選券だった。
翌月の関西往復航空券、二名様分。
そんな文字が、やけに大きく印刷されている。
「……何だ、これ」
「見ればわかるだろ。日本行きの航空券が当たったんだよ」
「……は?」
「だから、当たったんだって」
阿忠は手元のポテトチップスを持ち上げて見せた。
「この袋に入ってた」
阿強は当選券を見つめた。
三秒ほど黙ってから、もう一度確かめる。
「……二人分?」
「そうだな」
「何で二人分なんだ?」
「さあ? 俺にもわからん。でも二人分あるんだから、いいだろ」
阿強はしばらく当選券を眺めていたが、やがてそれを阿忠に返した。
「俺も行く」
「だろうな」
「……いいのか?」
「何が?」
「俺も行くって言ってるんだぞ」
阿忠は当選券をしまい、残っていたポテトチップスを一枚つまんだ。
「お前にはいつも後始末を押しつけてるからな。たまにはそれくらい、いいだろ」
「……そうか」
「そういうこと」
阿忠が再びポテトチップスを口に運ぶと、阿強も隣の椅子に腰を下ろした。
翌日、二人はさっそく景品の航空券を受け取りに行った。
こうして、二人の日本旅行が決まった。
もっとも、彼らにはまだ、一つ大切な仕事が残っていた。
◇
乩童が遠出をするときには、必ず主神にお伺いを立てなければならない。
特に海外へ行く場合は、なおさらである。
これは迷信ではない。職業倫理の問題だ。
もし旅先で霊的な厄介事に巻き込まれたら、主神に助けてもらわなければならない。そのためにも、いつ、どこへ行くのかを事前に報告しておく必要がある。
そういう決まりだと、二人の師匠も口を酸っぱくして教えていた。
だから阿忠も阿強も、その教えを守ることに何の疑問も抱いていなかった。
ただし、師匠は一つだけ、大事なことを教え忘れていた。
主神が報告を聞いて、自分も一緒に行きたいと言い出した場合、どうすればいいのか。
その対処法である。
阿忠は趙元帥の神像の前にひざまずき、一対の筊杯を手に取った。
筊杯とは、神様に物事の可否を尋ねるために使う、三日月のような形をした二枚一組の道具である。
「元帥。弟子の阿忠、来月、日本の関西地方へ旅行に参ります。本日はそのご報告と、お許しをいただきたく、お伺いに参りました」
そう告げて、筊杯を投げた。
二枚の筊杯が床に落ち、乾いた音を立てて転がる。
陰筊。
許可しない、という答えだった。
阿忠と阿強は顔を見合わせた。
「……もう一回やってみろ」
阿忠は筊杯を拾い、改めて投げた。
また陰筊だった。
「……もう一回」
三度目も陰筊。
二人は黙り込んだ。
線香の煙がゆっくりと立ち上る廟の中で、趙元帥の神像だけが、いつもと変わらぬ威厳に満ちた表情で二人を見下ろしている。
しばらく考え込んでいた阿強が、床に落ちた筊杯を拾い、阿忠に手渡した。
そして神像を見上げると、おそるおそる口を開いた。
「……元帥」
当然ながら、返事はない。
「もしかして……元帥も日本に行きたいんですか?」
廟の中が、さらに静かになったような気がした。
阿忠は阿強を見た。
阿強も阿忠を見た。
それから阿忠は、もう一度筊杯を両手に持ち、深く息を吸い込んだ。
「元帥。弟子がお伺いいたします。元帥も、私たちと一緒に日本へ行きたいのでしょうか?」
筊杯が投げられた。
聖筊。
今度は、お許しを示す答えだった。
念のため、もう一度投げる。
また聖筊。
阿忠は阿強を見た。
阿強は黙ってうなずいた。
三度目。
やはり聖筊だった。
三度続けて、神様からのお許しが出たのである。
二人は床に落ちた筊杯を、五秒ほど黙って見つめていた。
やがて、阿忠が口を開いた。
「……符、何枚持っていく?」
「……多めに持っていこう」
「何枚くらい?」
「とにかく、多めに」
それ以上、二人は何も言わなかった。
◇
出発の準備は、それぞれ役割を分担して進めた。
阿忠の担当は荷造りだった。
着替えに日用品、そして大量のインスタントラーメン。これは母親が「日本のインスタントラーメンなんかより、台湾のほうがずっとおいしい」と言い張り、半ば強引に詰め込んだものである。
さらに、趙元帥の小さな神像と、護身用の符を二十四枚。
神像と符は赤い布で丁寧に包み、ショルダーバッグの一番奥に収めた。
一方、阿強の担当は、日本で気をつけるべき霊的な問題について調べることだった。
パソコンの前で二時間ほど検索を続けた末、ようやく一つの古い掲示板の投稿を見つけた。
二〇〇九年に書き込まれた、台湾の乩童による日本訪問の体験談らしい。
投稿者の名前は「老狐狸不老」。日本語にすれば「年老いても老いぬ狐」といったところだろうか。
いかにも何かを知っていそうな名前だった。
肝心の内容はというと、日本の神様は系統が複雑すぎて、誰に話を通せばいいのかわからない、という愚痴が大半を占めていた。
ただ、最後の一節だけは、妙に具体的だった。
『護符は十分に用意しておくこと。正体のわからない霊には、むやみに関わらないほうがいい。日本の霊は縄張り意識が強い』
阿強はその部分をスクリーンショットに撮り、阿忠に送った。
ほどなくして、阿忠から返信が届いた。
「OK」
たった一つのスタンプだった。
阿強はしばらく画面を眺めていたが、結局、それ以上何も送らなかった。
こうして、二人は日本へ出発したのである。
◇
桃園国際空港、第二ターミナル。
午前七時四十分。
阿忠はリュックを背負い、中型のスーツケースを引きながら、出発前にコンビニで買ったおにぎりを頬張っていた。
阿強はパーカー姿で、耳にはイヤホンをつけている。片手に持っていた二杯のカフェラテのうち、一杯を阿忠に渡した。
「元帥の符、ちゃんと持ってきたか?」
「持ってる。胸に貼ってあるぞ」
「何枚?」
「十二枚」
「俺の分も十二枚ある」
「じゃあ大丈夫だろ」
阿忠はカフェラテを一口飲んだ。
「まあ、日本に行ったところで、そうそう変なことなんか起きないだろうしな」
阿強は返事をしなかった。
ただ、隣でおにぎりを食べている幼なじみを見ながら、心の中で思った。
そういうことは、帰国してから言ったほうがいいんじゃないか。
◇
同じ頃、人間の目には見えない霊界のとある場所。
趙公明元帥は、一つの白いゲートの前に立っていた。
ゲートの上には大きな看板が掲げられ、漢字、日本語、梵語の三種類で、同じ言葉が記されている。
『日本霊界入国審査』
その脇に設けられた窓口には、一匹の狐が座っていた。
いや、正確には狐ではない。一柱の神様である。
真っ白な制服をきっちりと着こなし、胸には身分証をつけていた。その表情は、長年役所勤めを続けた者だけが身につける、礼儀正しさと無関心が絶妙に同居したものだった。
稲荷神である。
「いらっしゃいませ。旅券を拝見いたします」
稲荷神は丁寧に手を差し出した。
趙公明は懐から重厚な金色の冊子を取り出し、窓口に置いた。
稲荷神はそれを受け取り、最初のページから最後のページまで、慎重に目を通した。
そして、もう一度。
今度は最後のページから順番に確認していく。
趙公明は黙って待っていた。
やがて稲荷神が顔を上げた。
「趙公明様」
「はい」
「恐れ入りますが、こちらの旅券は有効期限が切れております」
「……は?」
稲荷神は金色の冊子を開き、最後のページに記された日付を指し示した。
「更新期限は一八九〇年となっております。こちらをご確認ください」
趙公明は身を乗り出し、指された場所を覗き込んだ。
確かに、そう書いてある。
しばらくその日付を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「あの……少しくらい、何とかなりませんか?」
「申し訳ございません。当窓口では、規定に基づいて審査を行っております」
「いや、そこを何とか……」
「規定でございますので」
「……そうですか」
趙公明は少し考えた。
それから、ふと思いついたように表情を明るくした。
「そうだ。実は私、あなた方の一族の大物と知り合いなんですよ」
稲荷神は表情を変えなかった。
「さようでございますか」
「ええ。玉藻前という方なんですがね。二千年以上も前からの付き合いでして、それはもう、ずいぶん深い縁があるんです」
趙公明は親しげに笑いながら、言葉を続けようとした。
しかし、その前に稲荷神の表情が変わった。
柔らかくなったわけではない。むしろ、その逆だった。
「……趙公明様」
声は相変わらず丁寧だった。
「恐れ入りますが、一点、訂正させていただいてもよろしいでしょうか」
「え?」
「玉藻前は、我々稲荷の一族ではございません」
「……えっ?」
「玉藻前は中国から渡ってきた妖狐でございます。稲荷の一族とは何の関係もございません」
稲荷神は旅券を閉じ、窓口の上に置くと、静かに趙公明のほうへ押し戻した。
「また、当窓口とも一切関係がございませんので、今後、そのお名前をお出しになるのはお控えください」
「いや、その……」
趙公明は言葉に詰まった。
何百年、何千年と神様をやってきたが、ここまで丁寧な口調で、ここまで明確に話を打ち切られた経験は、そう多くない。
少なくとも、今すぐ思い出せるものはなかった。
「それでは、あちらのお席でお待ちください」
稲荷神が示した先には、白いプラスチックの椅子が一列に並んでいた。
すでに何人かの霊が腰掛け、何とも言えない表情で順番を待っている。
趙公明はその椅子を見た。
それから稲荷神を見た。
「……裁定が出るまで、どのくらいかかりますか?」
「案件の内容によります」
「いや、大体で結構ですので……」
「案件の内容によります」
「一日とか、二日とか……」
稲荷神は静かに趙公明を見つめた。
「……あちらのお席でお待ちください」
趙公明は口を閉じた。
それから金色の旅券を手に取り、白いプラスチックの椅子へと向かった。
◇
関西国際空港。
午後二時十七分。
阿忠と阿強は無事に入国手続きを終え、それぞれの荷物を引きながら到着ロビーへ出てきた。
周囲には日本語の案内表示が並び、旅行客や迎えの人々が行き交っている。
二人は送迎エリアへ続く出口付近で足を止め、しばらく周囲を眺めていた。
そのとき、阿忠がふと胸元に手を当てた。
符はちゃんと貼ってある。
だが、何かがおかしかった。
「……元帥?」
心の中で呼びかけてみる。
返事はない。
阿忠は眉をひそめ、もう一度、胸元の符を押さえた。
『元帥、無事に日本に着きましたよ。ちゃんとついてきてますか?』
やはり、返事はなかった。
「どうした?」
隣にいた阿強が尋ねた。
「……何か変なんだよな」
「何が?」
「元帥の気配が、妙に遠い気がするんだ」
「遠い?」
「うん。いつもなら、もっと近くに感じるんだけど……」
阿忠は胸元を見下ろし、首をかしげた。
「……時差のせいかな?」
阿強は一瞬、言葉を失った。
「神様にも時差ってあるのか?」
「知らん。俺、海外に来るの初めてだし」
「……俺も知らん」
二人は顔を見合わせた。
しばらく考えていた阿強がスマートフォンを取り出し、地図を開いた。
「まあ、とりあえず豊国神社に行こうぜ」
「そうだな。まずは豊国神社だ」
元帥がどこにいるのか、二人にはわからなかった。
それでも、せっかく日本まで来たのである。予定していた旅行を、そのまま取りやめるわけにもいかない。
二人はスーツケースを引き直し、大阪へ向かうことにした。
◇
大阪城公園、豊国神社。
午後四時。
傾き始めた日差しが木々の梢を照らし、鳥居を深い橙色に染めていた。
境内は比較的静かだった。
数人の観光客が写真を撮り、参道の脇では一人の老人が腰を下ろして休んでいる。石畳の上では二羽の鳩が、時折地面をつつきながら、のんびりと歩き回っていた。
阿忠と阿強は拝殿の前までやってきた。
「……なあ、せっかくだし、お参りしていくか?」
阿強が言うと、阿忠もうなずいた。
「そうだな。ここまで来たんだし」
そう言ってから、二人は揃って拝殿を見上げた。
「……ところでさ」
「ん?」
「日本の神様って、どうやって拝むんだ?」
阿強は阿忠を見た。
「俺に聞くなよ。俺だって初めてなんだから」
「お前、出発前に日本の神様について調べてただろ」
「調べたのは霊の話だ。参拝の作法なんか知らねえよ」
二人は顔を見合わせた。
台湾の宮廟なら、線香の上げ方も、神様への挨拶も、何をすればいいのかもわかっている。
何しろ、それが仕事なのだ。
ところが日本の神社となると、勝手が違った。
神様を相手にする仕事をしているくせに、神様へのお参りの仕方がわからないのである。
「……あ」
阿強が何かに気づき、少し離れたところを指さした。
ちょうど一人の参拝客が、拝殿の前でお参りを始めるところだった。
二人はそちらに目を向けた。
参拝客は賽銭を入れ、頭を下げた。それから二度手を打ち、静かに手を合わせて祈った後、もう一度頭を下げる。
「……なるほど」
阿忠が小さくうなずいた。
「今のを真似すればいいんだな」
「たぶんな」
「お前、ちゃんと見てたか?」
「見てたよ。二回拍手してた」
「よし」
二人は改めて拝殿の前に立ち、賽銭を入れた。
さっき見た参拝客の動きを思い出しながら、まず頭を下げ、続いて二度手を打つ。
多少ぎこちなかったが、本人たちはいたって真剣だった。
阿忠はそのまま目を閉じ、いつもの癖で、心の中から神様に挨拶した。
『日本の神様、初めまして。台湾から来ました、阿忠と申します』
それから、旅の安全を祈り、各地の神様への感謝を伝える。
自分たちはまだ若く、知らないことも多いので、もし何か失礼があれば、どうかお許しいただきたい。
そんな、ごく当たり前の願いだった。
台湾の宮廟で、幼い頃から何度も繰り返してきた挨拶である。
ただ、ここは日本の神社だった。
しかも、祀られているのは豊臣秀吉。
阿忠がそこまで深く考えていたかどうかは、定かではない。
少なくとも、次の瞬間に何が起こるかなど、想像もしていなかっただろう。
不意に、阿忠は何かを感じた。
趙元帥ではない。
もっと別の、得体の知れない何かだった。
重く、そして熱い。
まるで足元から巨大な火の塊が這い上がり、そのまま身体の内側へと入り込んでくるような感覚だった。
そこには、何百年もの歳月を経てなお消えない、強烈な感情が宿っていた。
怒りなのか、誇りなのか。
あるいは、その両方なのか。
阿忠自身にも判別できないまま、その熱は一気に全身を駆け上がっていった。
「……阿忠?」
異変に気づいた阿強が声をかけた。
阿忠はゆっくりと目を開いた。
いや、その目を開いたのは、もはや阿忠ではなかった。
青年の身体がゆっくりと起き上がり、鳥居を見渡し、参道へと視線を巡らせる。
そして最後に、大阪城のある方角を見つめた。
三秒ほど、沈黙が続いた。
「……帰ってきた」
低い声だった。
聞き慣れた幼なじみの声とは、明らかに違っていた。
阿強は思わず半歩後ずさった。
「……阿忠?」
「阿忠?」
その人物は、聞き慣れない名前を口にするように繰り返した。
「阿忠とは、誰のことだ」
阿強は息をのんだ。
同じ顔、同じ身体のはずなのに、そこにいる人物の雰囲気がまるで違う。
阿忠の喉から響いてくる声には、何百年もの時を経てきた者だけが持つ、奇妙な重みがあった。
やがて、その人物はゆっくりと振り返り、阿強をまっすぐに見据えた。
「わしは豊臣秀吉である」
一語一語を、確かめるように告げる。
「関白にして太閤。天下を統一した男よ」
阿強は頭の中で、その三つの肩書きを必死に整理した。
関白。
太閤。
天下統一。
そして、豊臣秀吉。
「ああ……豊臣秀吉……」
ようやく思い当たったらしく、阿強は小さくうなずいた。
「……あの、奥さんに毎日ぶん殴られてたっていう、天下人ですか?」
豊国神社の境内に、半秒ほどの沈黙が落ちた。
秀吉は阿強を見つめた。
その顔には、何とも複雑な表情が浮かんでいる。
今すぐ怒鳴りつけたい。だが、なぜかそうもできない。
そんな二つの感情がぶつかり合い、天下人の顔を奇妙に引きつらせていた。
「……わしは天下を統一した男だぞ」
「はいはい、それは知ってます」
「百姓の子として生まれ、関白にまで上り詰めたのだ」
「はい」
「前代未聞の大出世よ」
「はい、そうですね」
「それをお前……」
秀吉は鼻を鳴らした。
「女房が怖いだと? この豊臣秀吉が、女房ごときを恐れるとでも思うか!」
「いや、俺は別に……」
「よいか、若造。ねねの奴など、家ではいつもわしの言うことを聞いておったわ!」
秀吉の口調が、少しずつ変わり始めた。
最初は天下人としての威厳を保とうとしていたはずなのに、いつの間にか、酒の席で昔話を始めた老人のようになっている。
「嫁いできたばかりの頃は、それはもう気の強い女でな。何かにつけてわしに口答えするものだから、ずいぶん手を焼かされたものよ」
「はあ……」
「だが、そこはわしの腕の見せどころだ。きっちり言い聞かせてやったとも。亭主を立て、家のことは亭主の言いつけに従う。それがよい女房というものだとな!」
秀吉は得意げに胸を張った。
「するとどうだ。あれほど気の強かったねねも、すっかり聞き分けがよくなってな。今ではわしに逆らうことなど、まずあり得ん!」
「……そうなんですか」
「当たり前よ! 天下を治める男が、自分の家一つ治められずにどうする!」
阿強はうなずきかけた。
しかし、その途中で動きを止めた。
視線が、秀吉の肩越しに、ゆっくりと後方へ移っていく。
そこに、一人の女がいた。
いつから現れたのだろうか。
着物をまとい、髪を結い上げた、気品のある女性だった。
その表情は穏やかで、佇まいにも少しの乱れもない。
ただし、目だけは、まったく穏やかではなかった。
長年にわたって積み重なってきた何かが、その瞳の奥で静かに燃えている。
品位を失わぬよう、何百年もの間、懸命に押さえ込まれてきた怒り。
そんなものがもし目に見えるとしたら、きっとこういう顔になるのだろう。
女性は秀吉の真後ろに立っていた。
距離にして、わずか半歩。
秀吉はまだ気づいていない。
「そもそも、ねねという女はな、物わかりがよいのだ。多少わがままを言うことはあっても、あれは女房なりの甘えというものよ。本気で不満があるわけではない」
秀吉はますます調子づいていた。
「女というものは、口では何と言おうが、心の中では亭主を頼りにしておる。ねねもそうだった。わしの言うことに従っておれば間違いないと、よくわかっておったのだ」
阿強は何も言わなかった。
正確には、言えなかった。
目の前では天下人が得意げに語り続けている。
そしてその真後ろでは、天下人の知らないところで、何百年もの怒りが静かに膨れ上がっていた。
「わかるか、若造。女房というものはな――」
「……太閤殿下」
阿強はとうとう口を開いた。
「何じゃ」
「その……後ろに」
「後ろ?」
阿強はできるだけ声が震えないように気をつけながら、言葉を続けた。
「女性が、お一人いらっしゃいます」
秀吉は話を止めた。
「何を言うておる。神社なのだから、女の参拝客くらい――」
「いえ、そうじゃなくて……」
阿強は女性の顔をもう一度見た。
その表情は、先ほどから少しも変わっていなかった。
穏やかだった。
あくまでも、穏やかだった。
だからこそ、恐ろしかった。
「……その方、かなりお怒りのようなんですが」
豊国神社には、相変わらず夕日が差し込んでいた。
二羽の鳩は石畳を歩き回り、観光客たちは何も知らずに写真を撮り続けている。
風が吹き、境内の木々がかすかに揺れた。
その中で、豊臣秀吉は動きを止めた。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと背後を振り返った。
第一話 了




