第1話:頼れる右腕と、小さなぬくもり
サミュエルの書斎を後にしたナナは、再び夜更けの馬車に揺られていた。
手元には、お父様がこっそりと手渡してくれた個人的な融資の書類がある。
胸に灯る温かい感謝の灯りと同時に、夜風のような冷たい現実がナナの思考を巡った。
(お父様からの個人的な融資は本当にありがたい。けれど、それも一時しのぎに過ぎず、長くは頼れない。すぐに底をついてしまうわ。私の歌の稼ぎだけで、これから守るべき子どもたちが増えていったら本当に足りるのかしら……。ただがむしゃらに歌うだけじゃダメ。これからは新しい資金源のことも、色々と考えないと……)
一人で重い現実の壁を意識し、ナナは小さくため息をついた。
馬車が止まり、明かりの消えかけた孤児院の前にたどり着く。ここが、ナナがすべてを賭けて守ると決めた場所だ。
静かに玄関の鍵を開け、中へと足を踏み入れた瞬間だった。
「――ナナ姉さん!」
パッとリビングの明かりが強くなり、ソファから一人の少年が勢いよく立ち上がった。
うたた寝をしながら帰りを待っていたのだろう、少し眠そうに目をこすりながら、嬉しそうに駆け寄ってくる。
十四歳になった、テルだった。
「遅いよ、心配したんだから。今日のステージも長引いたの?」
「ごめんなさい、テル。お父様のところに寄っていたから遅くなっちゃって」
ナナは、目の前の少年を見上げて微笑んだ。
八年前、門の前で泥にまみれて震えていたあの六歳の小さな男の子は、今や見上げるほど背が伸び、肩幅もすっかり男の子らしくなっている。
けれど、ナナの前で見せる安心しきったような純粋な笑顔だけは、あの日の少年のままだった。
「上着、貸して。今、温かいお茶を淹れるから、そこに座ってて」
テルは手際よくナナの上着を受け取ると、キッチンへと向かった。
その無駄のない動きは、今や孤児院の年下の子どもたちをまとめる、ナナの立派な『右腕』そのものだ。
すぐに、湯気の立つ温かいカップがナナの前に差し出された。
一口飲んだ瞬間、ナナは思わずほうっと甘い息をこぼした。
「……本当に美味しい。ただの庭で摘んだだけのハーブなのに、テルの手にかかると、まるで魔法みたいに疲れが消えていくわ」
「大げさだよ。ナナ姉さんが疲れてるから、そう感じるだけさ」
照れくさそうに笑うテルだが、それは決してお世辞ではなかった。
十四歳の少年が淹れたとは思えないほど、温度も、茶葉の渋みを消す蒸らし時間も、すべてが完璧に計算された極上の一杯。
ハーブの優しい香りが、凍えかけていたナナの心をほぐしていく。
「みんな、良い子に眠っているよ。さっき見回りに行ったけど、風邪をひいている子もいない。安心して」
「ありがとう、テル。あなたがいてくれて、本当に助かるわ」
「当然だよ。僕、これでももう十四だよ? ナナ姉さんを支えるって決めてるんだ」
テルは誇らしげに胸を張ったあと、ふっと思い出したように穏やかに笑った。
「それにしても、サミュエル様や一族の会社は、本当に温かいね。僕たちみたいな身寄りのない子どもたちのために、いつもたくさんの支援をくれて。サミュエル様によろしく伝えておいてよ」
テルのその純粋な言葉に、ナナの胸がズキリと痛んだ。
一族の社内で上がっている、孤児たちへの激しい反発の声。
ロベルト秘書が言い放った『どこの馬の骨ともしれない孤児ども』という冷酷な言葉。
(いいの。そんな大人の汚いドロドロした事情なんて、この子たちが知る必要はないわ)
ナナは胸の痛みを一切顔に出さず、お母さんとしての優しい嘘をまとって微笑んだ。
「ええ、本当にね。お父様も、みんなのことをいつも応援してくれているわ」
テルは満足そうに頷くと、自分の大きくなった両手を見つめた。
「あの雨の夜、ナナ姉さんが『温かい大地にしてあげる』って言って僕を抱きしめてくれなかったら、僕は今ここにはいなかった。ボロボロの衣服や体についた傷痕と一緒に、心まで腐ってたと思う。ナナ姉さんは、僕の……みんなの、世界一のお母さんだよ」
しみじみと語るテルの言葉に、ナナは少し照れくさくなってクスリと笑った。
「もう、テルの方がすっかり背が高いくらいなのに、お母さんなんて恥ずかしいわね。これからは頼れるお姉さん、って呼んでもらおうかしら?」
「え……」
テルは動きを止め、淹れたてのお茶を見つめたまま、少しの間、沈黙した。
そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳は、いつもの『甘えん坊な弟』のものではなかった。
どこか真剣な、一人の『男の子』としての強い光を宿した目で、ナナをまっすぐに見つめる。
「……僕は、いつまでも子どものままじゃないよ、ナナ姉さん」
テルの低い声に、ナナの心臓がドクン、と小さく跳ねた。
いつも子ども扱いしていたはずのテルの視線に、なぜだか胸がざわついてしまう。
その、張り詰めたような、甘い静寂を破ったのは。
――ドンドンドンドンドンドン!!!
夜の静寂を切り裂くような、孤児院の重い鉄の門を激しく叩く音だった。
「な、何ごと!?」
「……誰か来たみたいだ。ナナ姉さんはここにいて」
一瞬で『右腕』の鋭い顔に戻ったテルと、ナナは顔を見合わせる。
こんな夜更けに、一体誰が――。
静かな孤児院に、新たな嵐の予感が満ちていこうとしていた。
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