第2話:不敵な青年商人と、自立の種火
ナナは思わず手に持っていたカップを震わせた。
小さな孤児院の年下の子どもたちは皆、二階の寝室で眠りについている。起こして怯えさせるわけにはいかない。
「……誰か来たみたいだ。ナナ姉さんはここにいて」
一瞬で『右腕』の鋭い顔に戻ったテルが、ナナの前に一歩踏み出した。
十四歳とは思えないほどがっしりとした背中が、どこか頼もしく、同時に焦燥感を煽る。
テルは壁に掛けられた古い護身用の杖を手に取ると、足音を殺して玄関へと向かった。ナナもその後に続く。
鉄の門の覗き窓から外を確認したテルが、ハッと息を呑んだ。
「……人間だ。血を流して倒れてる」
「えっ!?」
テルが素早く閂を外し、重い門を開け放つ。
そこには、夜の闇に紛れるようにして、一人の青年が崩れ落ちていた。
衣服は旅慣れた仕立ての良いものだったが、片方の脇腹が鋭利な刃物で深く切り裂かれており、そこから溢れ出た鮮血が地面の泥を黒く染めている。
「夜盗、か……?」
テルが青年の傷口を確かめながら呟く。
「とにかく、中へ運びましょう! テル、手伝って!」
「分かった。せーの……っ!」
二人は力を合わせ、意識を失っている青年を孤児院のリビングへと運び込んだ。
ソファに寝かせ、ナナはすぐさま救急箱と清潔な布、温かいお湯を用意する。
「テル、傷口を圧迫して血を止めて。私は消毒の準備をするわ」
「了解」
テルの無駄のない動きと、ナナの的確な指示。
これまでにも、体調を崩した孤児たちを何度も看病してきた二人だからこそ、突然の修羅場にも息がぴったりだった。
血に汚れた上着を脱がせ、傷口を綺麗に洗い流して包帯をきつく巻いていく。
幸いにも、傷は深かったものの内臓までは達していなかった。
手当てを終え、ナナが額の汗をぬぐったとき、ソファの上の青年が「うっ……」と小さく呻き声を上げた。
ゆっくりと開かれたのは、夜の湖のように冷たく、それでいて全てを見透かすような、鋭い琥珀色の瞳だった。
青年は自分の体に巻かれた包帯と、見知らぬ天井、そして目の前にいるナナとテルを視線だけで素早く往復させた。
自分の置かれた状況を一瞬で理解したのだろう。彼は痛む脇腹を押さえながら、ふっと口元を不敵に歪めて笑った。
「……手際がいいね。地獄の門番に追い返されたかと思ったが、どうやら命を拾ったらしい」
「気がついたのね。あまり動かないで、まだ傷口が開くわ」
ナナが声をかけると、青年はふむ、と目を細めてナナの顔をじっと見つめた。
「衣服の汚れも気にせず、どこの馬の骨ともしれない男の手当てか。……本当にただの優しい聖女サマなのか。それとも、何か別の下心でも――」
青年はそこで言葉を区切り、ナナの顔立ちを凝視したまま、ハッとしたようにニヤリと笑みを深めた。
「いや、驚いたね。あんた、今をときめく劇場の奇跡の歌姫、ナナだな? まさかこんな安っぽい孤児院の主だったとは。……なるほど、それじゃあこれも、パトロンの同情を引くための計算された売名行為ってわけかい?」
「なっ……! 姉さんに対して無礼だぞ。あんたは一体誰なんだ」
テルがたまらず青年の前に立ちはだかり、鋭い視線で威嚇する。
けれど、青年はテルの殺気などどこ吹く風で、ソファに背を預けたまま、懐から汚れていない一枚の名刺を指先で挟んで差し出してきた。
「おっと、怖いねぇ。俺はマルク。これでも腕の確かな商人さ。不運にも、この街に入る手前で夜盗に荷馬車を襲われちまってね。命からがら逃げてきたってわけさ」
マルクと名乗ったその青年商人は、痛むはずの体で大人の余裕を崩さない。
彼は部屋の調度品や、壁に貼られた子どもたちの拙い絵に目を向け、ふむ、と顎を撫でた。
「こんな夜更けに、使用人も雇わず歌姫本人が怪我人の血を拭いている。それにこの建物の傷み具合だ。一見華やかだが……実情は火の車、だろ? 資金源がアンタの歌一択じゃあ、あんたが喉を壊した瞬間にこのガキどもは路頭に迷う」
その言葉は、まさにさっきまでナナが馬車の中で一人で抱え込んでいた焦り、そのものだった。
(お父様からの融資もすぐになくなる。守るべき子どもたちがこれから増えていったら、本当に私の歌の稼ぎだけじゃ足りなくなる……)
核心を突かれ、ナナが小さく息を呑む。
それを見たマルクは、してやったりというように琥珀色の目を妖しく光らせた。
「タダで助けられたとは思わない主義でね。命の恩返しだ。……どうだい、歌姫さん。この俺が、あんたに『絶対に儲かる商売のやり方』を仕込んでやろうか?」
マルクの提案は、あまりにも魅力的で、そして同時に、ひどく危険な香りがした。
新しい自立への道が、今、ナナの前に開かれようとしていた。
初日の3話連続更新、ここまでお読みいただき本当にありがとうございます!
謎の青年商人マルクからの怪しい、けれど魅力的な提案。
ナナの新しい自立への道はどうなっていくのか……!?
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