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序章:奇跡の歌姫が背負う、優しきひみつ

初めまして、藍沢沙菜あいざわ さなと申します。

数ある作品の中から本作を開いていただき、本当にありがとうございます!

少しでも温かい気持ちになっていただけるよう頑張って執筆します。

「この1曲が、あの子たちの明日のパンになる」


 華やかなドレスの裾をそっと握りしめ、ナナは舞台裏の暗闇で、深く息を吐き出した。


 一族の会社からの支援を打ち切られ、自分の名前と、この歌声だけですべての孤児たちを養うと決めたあの日から、彼女の歌はただの芸術ではなくなった。

 自分の結婚も、普通の幸せもすべて諦めて選んだ、これが十八歳になったナナの生きる道だ。


「――それでは、お呼びしましょう。我らが歌姫、ナナ!」


 割れんばかりの拍手と歓声の中に足を踏み出すと、まばゆいスポットライトが彼女を白く照らし出す。

 ナナがそっと口を開き、最初のひと声を響かせた瞬間――満員の客席から、いっせいに音が消えた。


 それは、人間の喉から出ているとは思えない、どこか遠い森の奥から聞こえる小鳥のさえずりのような、不思議な波長を含んだ歌声。

 日々の生活に疲れ果て、トゲトゲしていた観客たちの心が、まるで温かい真綿(まわた)で包まれるようにふっと軽くなっていく。


 ふと、二階の貴賓席(きひんせき)に座る人影と視線が交差した。

 暗がりの中でもはっきりと分かる、銀糸(ぎんし)の髪を持つ高貴な青年が、射抜くような熱を帯びた瞳でナナを見つめている。


 しかし、うっとりと涙を浮かべる聴衆や熱視線を送る青年を前にしても、ナナは心の中で、愛しい子どもたちの顔だけを思い浮かべていた。

 誰も知らない孤独な覚悟を胸に、彼女だけの奇跡のステージが、今、幕を閉じた。


 万雷(ばんらい)の拍手に送られながらステージを後にし、楽屋のソファに深く体を沈めたときだった。

 余韻(よいん)に浸る間もなく、コンコン、と冷たいノックの音が響く。


「失礼いたします、お嬢様」


 入ってきたのは、一族の会社の役員でもある父の秘書、ロベルトだった。

 彼の眼鏡の奥の目は少しも笑っておらず、数枚の書類をドレッサーの鏡の前に音もなく置いた。

 そこにある数字を見たナナの手が、かすかに震える。


「これ以上、保護する孤児を増やしてどういうつもりですか? 子ども一人を、大人になるまでまっとうに養っていくのに、どれほどのお金が必要かお分かりですか? ……まあ、高尚(こうしょう)な芸術一族に生まれ、地位こそないものの、商売で大いに栄えている会社の一族のお生まれであるお嬢様には、現実の金銭感覚などわからないのでしょうが」


 丁寧な口調の裏にある、ナイフのような嫌み。

 彼は小さくため息をつき、冷徹(れいてつ)な追撃を落とした。


「お嬢様の歌声が素晴らしいのは認めましょう。ですが、あれは我々会社の『立派な劇場と宣伝』があってこそ響くもの。会社の後ろ盾を失えば、あなたはただの街角の歌うたいに過ぎませんよ。社内でも反発の声が上がっています。『なぜ自分たちの血汗で稼いだ利益が、どこの馬の骨ともしれない孤児どものパンに化けるのだ』と。 これ以上は、いくら役員であるサミュエル様の顔があろうと、会社の『社会貢献』という枠では庇いきれません」


 ロベルトが去ったあとの静かな楽屋で、ナナは置かれた数字をじっと見つめていた。

 悔しさよりも先に、ストン、と()に落ちるような冷たい納得が胸に降りてくる。


(あぁ……そろそろ、会社の名前を借りてあの子たちを育てるのは、限界なんだわ……)


 育ててくれた父母への感謝があるからこそ、これ以上、父を社内で困らせるわけにはいかない。


「だったら、私ひとりの名義でやるわ」


 ナナは鏡の中の自分をまっすぐに見つめ返した。

 会社がだめなら、この劇場で歌って稼いだ私自身の財産だけで、あの子たちを絶対に守ってみせる。


 楽屋を出て、夜の街を馬車に揺られること数十分。

 ナナが到着したのは、幼い頃から実の娘として惜しみない愛を注いでくれた、養父サミュエルの書斎だった。

 重厚なドアを開けると、デスクのランプの下で、サミュエルが複雑な表情で顔を上げた。


「ナナ。……さっき、ロベルトから報告を聞いたよ。会社の支援を断ち、自分ひとりの財産で孤児院を背負っていくと言ったそうだな」


「ええ、お父様。これ以上、会社や、何よりお父様を社内で困らせるわけにはいきません」


 サミュエルは深くため息をつき、眼鏡を外して目元を揉んだ。

 その目は、叱る色よりも、愛おしそうに娘を労う色の方がずっと強かった。


「お前のそういう、一度決めたら曲げない頑固なところは……やはり、あの方によく似ている」


 サミュエルは引き出しから、海の向こうから届いたばかりの一通の手紙を取り出した。


「海外にいるお前の実の母親エルザから手紙が来てね。 あちらで十六歳になった弟のレオンが、ピアノの才能を認められて社交界で華々しくデビューしたそうだ。 ……お前も知っての通り、エルザの一族の芸術の才能は女性にしか発現しない。男のレオンには、本来その力は流れていないはずだった。 ……だが、あの子は諦めなかったんだね。 『いつか、僕のピアノでナナ姉さんの歌の伴奏をするんだ』と、あちらの学校で、指から血が出るほどの努力を重ねていたそうだ」


 サミュールの言葉に、ナナの胸がツンと熱くなる。

 法律の壁に阻まれ、離れて暮らす母と弟。

 けれど、実の母が自身の誕生日である七月七日にちなんでつけてくれた『ナナ』という名前を呼ばれるたびに、自分は決して望まれぬ子などではないと強く誇りを持てた。


「エルザお母様も、レオンも、元気そうでよかった……」


「ああ。だがエルザは、お前がそこまでして孤児院に執着(しゅうちゃく)するのは、自分の生い立ちのせいで寂しい思いをさせたからではないかと、いつも心配しているんだ。 ……本当に自分ひとりの名義でやるのかい? 門の前で、ボロボロだったテルを救い上げたあの日から、お前はすべてを背負い込もうとしすぎる」


 サミュエルが口にしたその名前に、ナナの脳裏は一瞬で、八年前の激しい雨の夜へと引き戻された。


 ――十歳の時の、あの日。

 激しい雨が打ちつけるお屋敷の門の前に、一人の男の子がうずくまっていた。

 泥にまみれた小さな体。

 ボロボロに破れた衣服は、どこか身分の高い者が身につけるような上質な生地だった。

 そして何よりナナを驚かせたのは、その肌に刻まれた痛々しい虐待の痕だ。

 何度も冷酷に打たれたような、無数の傷と(あざ)


『もう大丈夫よ』


 激しく怯え、近づくナナを獣のような目で睨みつける男の子。

 ナナは泥まみれになるのも構わず、彼をぎゅっと抱きしめた。

 そして、幼い心にずっと残っていた「ある言葉」を耳元で優しく囁いた。


 それは、海外にいる実の母エルザがかつて熱心に読み耽っていた、古い文学書の一節だった。


『――絶望の淵にある者に、温かい大地(テラ)の祝福を。そこは誰も脅かさぬ、魂の安息の地なり』


 帰る場所もなく、心まで凍てついていた男の子。

 ナナはその「テラ」という言葉の響きをそっともじって、目の前の小さな命に贈った。


『あなたには、安心できる場所がなかったのね。 ……だったら、私のここを、あなたの温かい大地にしてあげる。 あなたのお名前はテル。今日からここが、あなたのホームよ』


 ナナの胸の中で、男の子――テルは、固く閉ざしていた心が決壊(けっかい)したように、生まれて初めて声を上げて泣いたのだった。


 ――ハッと意識が現在に戻る。

 書斎の温かいランプの光の中、十八歳になったナナは、育ててくれた父サミュエルに向かって優しく微笑んだ。


「ええ、お父様。あのときテルに『温かい大地になる』と約束したんです。 あの子だけじゃない、身寄りのない子どもたちみんなの、頼れるお母さんになると決めたんです。 だから、私は絶対に負けません」


 サミュエルはしばらく娘の強い瞳を見つめていたが、やがて諦めたように、けれど誇らしげに笑った。


「……分かった。私の負けだ、ナナ。会社の予算は出せないが、私の個人的なポケットマネーからなら、多少の融資はしてあげられる。 ロベルトには内緒でね」


「お父様……! ありがとうございます!」


 大きな味方を得て、ナナの新しい戦いが幕を開けようとしていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

少しでも「面白い!」「ナナや子どもたちを応援したい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】の評価を押していただけると、毎日の執筆の大きな励みになります!

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