名前の消えた表札
家には一つ、表札がある。二世帯住宅っていうのもあるのだから、二つ以上あってもおかしくない。それ以上あっても別におかしくない。
「何を考えてたの?」女性の声が背後から聞こえる。
「ん、いや別に」僕の手には綺麗な表札がある。加えて、目の前には名前の消えた表札がある。
「たださ、この表札ってこんなに文字が消えかかっていたんだなって思ってて」
「墨で木に書いていたんだっけ?木が日に焼けて文字が隠れてるね」
表札には長い年月が刻まれている。同じ文字が書いてあるはずの僕の手の中の表札はとても軽く感じる。
「父がこの家を買った時に、墨を入れたらしい。ほら、うち父親が木工職人で母親は習字教室の先生だろ?」
「うん、納得」
「良いよな」
妻はその僕の言葉にゆっくりと深く頷く。僕はその姿を見て、表情を隠すように前を向き直す。
「おい、忠司!」
「どうした?親父」嗄れた声の父親が遠くから言葉を飛ばす。
「表札を忘れた。つけたままにしとったやつ」
「これだろ?」
見えなくなった表札、それを僕は父親に渡す。
「すまんな。離れへの引っ越しも手伝ってもらって、佳代子さんも」柄にもなくぺこりと頭を下げる。妻には特にこの人は頭が低い。そうこうしているうちに、父親はペタペタとサンダルを鳴らして去った。
「良いよな、やっぱり」
「墨、渡しに行く?」
「いんや、板を買いにいこうかな。墨はその後」
家には一つ、表札がある。二世帯住宅なら二つあってもおかしくない。ならば僕の家に表札が三つになっても良い。




