濡れた双眼鏡
「おーい」声が聞こえる。高い位置から声がする。
「おかえりー、お疲れさまー」でもその声の主はあまりに遠くて、僕の位置からは見えない。バス停から降りたての僕、足は生まれたての馬の様に震える。けれど、声に力が増す。
スマホを声に掲げる。カメラを起動して、それをずっとズームする。笑顔で大きく手を振る妻がいる。
「双眼鏡、好きだなあいつ」この前、実家の整理をした時に出てきた双眼鏡。それを妻が気に入って僕の仕事の帰りに合わせて、家の2階から覗くのだ。
「僕も手を振りかえす」小さく、一回だけ。
別の日、バスは水滴に襲われていた。車体がぶつかる雨粒に轟音を出して、痛みを叫ぶ様。僕はその中で恐れも知らず、くたりとへたれて座席にもたれる。運転手と2人だけ。
バスが停車した。終点、僕が降りる場所。
バタバタと降りる。朝にはこんなに降るなんて予報はしていなかった。山の天候は移ろう。
雨が落ちる、落ちる。雨粒の音の中にまた「おーい」という音が聞こえた気がする。上を向く、見えない。部屋は暗い。そこにいるのだろうか。
分からなくなって、足が遅くなる。なんだか、疲れて。
「おかえりー、お疲れ様ー」
はっと顔をあげる。上ではない、2階ではない。目の前。それは僕の目の前にいて、首からは双眼鏡を下げる。
「ごめん、傘持ってこうと思ってたのにギリギリ間に合わなかった」
僕はその声にまた心が震える。足が力を持つ。
「双眼鏡、意味ないじゃん」
「良いじゃん、好きなんだよ」
「濡れちゃうよ」
「そんなのは良いよ」
「良くないでしょ」
「良いよ、あなたを見る為に使うものなんだから」
双眼鏡のレンズは濡れて光を乱反射する。スマホのレンズもそう。けれど、今日は見える2人ともいつもより近く、近く。間の傘はより強く固まる。やや妻の方に寄っている。




