世界の一端
サウザンドが駆けるその視線の先に、壊走を始めた新カルネリアの兵の一人が入り込む。
最初の一人とすれ違う。
それは次々と増えていき、彼らは武器も持たずに来た道を引き返してくる。
腕を失い誰かに支えられて共に走る者。
身体は五体満足でも、心が壊れ、表情が壊れている者。
奇声を上げながら走る者、泣き叫びながら走る者。
もはや、誰も敵意を見せていなかった。
彼女が思考をするまでもなく、それは、壊走に他ならなかった。
やがてその理由を理解する。
鬼気迫る形相の、様相の異なる兵の姿が目に入る。
それは逃げていく彼らを執拗に追いかけている。
サウザンドはそれを、奥歯を噛み締めて避けてすれ違う。
次、そのまた次、走っていく間に、そんな姿を幾度も見かける。
しばらく走っていると、多くの兵に護衛され、引き返して来る集団が目に届く。
軍旗を確認し、それが恐らく、新カルネリア王国の司令官本営なのだと彼女は理解する。
助けるべきであるか、どうか。
強行して進軍をした先日の所業に、それを思い悩み、しかし足を止め、意を決して剣を握る。
魔石が輝き、サウザンドを緑色の光が包む。
狂気の表情とも思える集団が、そこへ向かってきていた。
それは恐らく、手強いサザウの衛士たちではない事を見届け、やや安堵する。
迫るその敵意の前へと、立ち塞がるように、身を置く。
「往け!はやく逃げろ!」
叫んでいた。彼女のその強い声を聞いてか、理解できないまでも、彼らは頷き、そこから離れていく。
幢子は何をしたのか。
正面から向かってくる、無秩序とも思えるその集団を、剣を構えて前にした時、その一端が彼女にも襲いかかってくる。
戦場の雑音に混じり、どこからか詩が聞こえていた。
その歌声は、どこからきたものか、わからなかった。
それでも、誰の声なのか、彼女には直ぐに分かった。
詩が、自身の中に入り込もうとしてくる。それが理解できた。
ひどい郷愁。残酷なまでの郷愁。
ただ帰りたい、その一心の感情が、心を支配しようと、詩で訴えかける。
詩の一節に、そう呼びかける、そうさせようとする、強い力が込められている。その波動を感じていた。
サウザンドの心を支配しようとしているのは、最後の姉の顔だった。
別れ。
それを決意し、それを実行する直前に見た、河内幢子の最後の顔。
他の全てを壊してでも、自分だけを救おうとした、姉の顔。
前世に置いてきたそれを、無理やり呼び覚まそうとする、耳障りな詩の支配。詩による支配。押し寄せてくる「量子の波動」。
それを止められなかった、後悔。
幾つもの感情が一斉に吹き出して、サウザンドは一端を理解する。
襲いかかってくる兵士たちを、殺してしまわないように跳ね除け、打ち払う。
魔石の光が、僅かに自身を守っている。その事を理解し、慄く。
河内幢子は、既に、詩魔法の根底を理解して、そのための最適化を始めている。
その波動に曝された、彼らは、正気で居るのだろうか。
この場に起こっている事象を鑑みるのなら、まだ、世界を壊すような事はないだろう。だが、いずれそこに、辿り着く。
河内幢子がそう成り得る人物だという事を、彼女は誰よりも知っていた。
その引き金を引かせるのが、誰なのか、何なのか。
そこまで至り、考えるのを一旦止め、再び、サウザンドは走る。
この詩の出処を、確かめる必要がある。彼女はそう意識する。
この戦争は、もう、体裁を成さないだろう。
この詩が、この地を包み続ける限り、守る側に負けはない。
攻めれば、響き続ける詩に戦意を喪失させられる。郷愁が心を支配する。
逆に守る側にしてみれば、それ以上に戦意を駆り立てるものはない。
その量子を、波動を、それを介した原理の一端を彼女は知っている。
海岸に辿り着いた異形の船から、エスコートされ、その人物はスラールの地に降り立つ。
「気味の悪い詩。嫌な気分になる。」
彼女は、砂浜を進む。側に寄り添う麗人を、煙たそうな目で見やり、差し出されたその手を払う。
「自分で歩けます。私を何だと思っているのです?」
「偉大なる導師様であらせられる。我が一族代々の総意です。」
彼女はその言葉に心底嫌そうな顔を返す。それに対して、彼は微笑みを返す。
「貴方達一族の男系の、そういう所、本当に嫌い。」
彼女は静かにその砂浜を歩く。
白い外套を羽織り、フードを目元まで隠すように被っている。
砂を踏む音だけ、暫く響く。
そうして、彼女の前に、二つの影が浮かぶ。
「導師様の、御使の方々ですかな?」
彼の言葉を聞き流し、彼女は手を掲げる。
その手のひらに浮かんだ光に呼応するように、それは発光する。
「弊社職員の方々です。そんな変な言い方止めて。」
光る手を掲げ、暫しの時が流れる。
「大体わかりました。まずは、この詩を止めないと。とても煩い。私には、とても気に障る。」
叶わぬ願いを想起する、そんな声に、やや苛立って、彼女は再び、砂浜を歩き出す。
麗人が合図をする。
それに呼応して、異形の船は大きく開かれ、「それら」が飛び出していった。




