第1話 エルディンの記憶
王城を離れてからも、さっき役人が言っていた言葉が頭から離れなかった。
エルディン・レイヴァという人間はいない。
王国には、宰相という役職もない。
通りを歩きながら、私は何度も数日前のことを思い返す。
建国祭の日、エルディンはルミナ王の傍らに立っていた。
そのあと王城へ行き、私たちは案内された部屋でエルディンと話をしている。私たちは文香さんのことを聞いた。彼はセレンの腕を見て、解析を続けない方がいいと言った。
彼の顔も、声もはっきり覚えている。
それは私だけじゃない。
ロアもセレンも、彼に会っている。
「前のときも、こうだったのか?」
隣を歩いていたロアが言った。
「前?」
「文香がエルディンに面会しようとしたときのことだ」
セレンは少し考えてから答えた。
「ああ。文香がエルディンを調べようとして、王城に行ったとき、城にはそんな人間はいないと言われたらしい」
「宰相という役職のことも言っていたか?」
「そうだね。そんな役職はないってさ」
「じゃあ、今回と同じですね」
「ああ」
セレンはそこで言葉を切る。
続きは宿へ戻ってから話すことにした。
ここは人通りが多く、誰が聞いているかわからない。不用意にエルディンの名前を口にするのはよくないと思ったからだ。
宿に着いて部屋へ入ると、エマが窓際の椅子から立ち上がった。
「おかえり!」
「ただいま」
「エルディンさんには会えたの?」
靴を脱ごうとしていた手が止まる。
エマには、城へ行く前に会いに行く相手の名前を話していた。
「……会えなかった」
「いなかったの?」
「うん。いなかったっていうか……」
どう説明すればいいのか迷っていると、カレンがこちらを見た。
「何かあったんだね」
セレンが扉を閉める。
「座って話そう」
私たちは机の周りに集まった。
エマも描いていた紙と炭を机の端へ寄せ、カレンの隣に座る。
セレンが王城で聞いたことを順番に話した。
エルディン・レイヴァという名は、王城にはいない。
数日前に私たちがエルディンに会ったことを伝えたが、城の人間は心当たりがないという。さらに、エルディンが名乗っていた宰相という役職も存在しないと言われた。
「ちょっと待ちな」
そこまで聞いたところで、カレンが口を挟む。
「名前がないだけなら、まだ分かるよ。偽名だったとか、もう職を辞したとか。でも役職までないっていうのは何なんだい?」
「私たちにも分かりません」
「その男が勝手に宰相を名乗ってた可能性は?」
「それも考えた」
セレンが答える。
「でも私たちは、エルディンに城の外で偶然会ったわけじゃない。申立所でエルディンへの面会を正式に求め、城の人間に取り次いでもらってる」
「迎えに来たのも城の兵だった」
ロアが言った。
「祭りの日には、王の傍らに立っていた」
カレンの眉が寄る。
「それだけ城の人間がやつに関わってて、今日になったら誰も知らない?」
「はい」
私がうなずく。
「今日話した人たちは、本当に知らないように見えました」
「知らないふりをしてたんじゃなく?」
「私にもそうは見えなかった」
セレンも同じように感じたらしい。
「宰相という言葉を出したときなんて、役人の方が意味を確かめてきたくらいだからね」
カレンは椅子の背にもたれる。
「気味が悪いね」
誰も否定しない。
エマが私の顔を見る。
「でも、ユイナはその人のこと覚えてるんだよね?」
「うん」
「ロアも?」
「ああ」
「セレンも?」
「覚えてるよ」
エマは少し首をかしげた。
「じゃあ、お城の人たちだけが忘れたの?」
その言葉に、私はセレンを見る。
セレンもすぐには答えなかった。
「そうだとはまだ言えないよ」
「違うの?」
「違うとも言えない」
「難しい」
「私たちにもわからないんだ」
エマが困ったような顔をしたので、セレンが少し笑った。
「今分かってるのは、私たち三人はエルディンのことを覚えているが、今日会った王城の人たちは知らなかったってこと。それだけだよ」
「王様は?」
「それは分からない」
「エルディンさん、王様の隣にいたんでしょ?」
「そうだよ」
「じゃあ王様に聞いたら分かるんじゃない?」
「そうかもしれないが、簡単に会える相手じゃないからね」
セレンが答えたあと、ロアが腕を組んだ。
「でも、それが一番早くないか?」
「ルミナ王が覚えてるならね」
「覚えてるかどうかも分からないのか」
「今は断定できることは何もないよ」
そこまで聞いていたカレンが、机を指で軽く叩いた。
「それより、あんたたちが王都に来た目的は、もう果たせたのかい?」
私はカレンを見る。
「何のことだ?」
「槍と弓の二人だよ。あいつらが王国の命令であんたたちを狙ってたのか、それを確かめに来たんだろ?」
「あ……」
エルディンのことで頭がいっぱいになっていた。
本来はこちらを確かめるために王都へ戻ってきたのだ。
「何も?」
「はい。何も分かりませんでした」
私は首を横に振った。
「城には普通に入れました」
私は王都の門で止められなかったことを思い出す。
「王城へ行っても、私たちを捕まえようとする人はいませんでした」
「だから王国全体から追われてるわけじゃない、と?」
「門兵や役人に話が通ってないだけかもしれない。それに、あの二人が誰の命令で動いてるかは分からないからな」
「結局、そこはわからないままなんだね」
カレンの言う通りだった。
王都へ戻れば、何か分かると思っていた。
でもエルディンに会うことすらできなかった。
「明日はどうする?」
ロアがセレンに聞いた。
「王城の役人が、建国祭の日の記録を確認すると言ってたな」
「また城へ行くのか?」
「ああ。少なくとも、確認の結果は聞いておきたい」
「私も行きます」
私が言うと、カレンがすぐこちらを見る。
「ちょっと待ちな」
「はい?」
「今日は何もされなかったけど、明日も安全とは限らないよ」
「それは……」
「槍の男は、セレンの家で待ち伏せまでしてたんだろ?あんたたちが王城を訪ねたと知ったら、待ち構えているかもしれない」
エマも黙って私を見ている。
「そうだとしても、もう一度だけ確認しに行く」
セレンが言った。
「記録が残ってても残ってなくても、何か手掛かりになるものが見つかるかもしれない。その先のことは、それを確かめてから考えることにするよ」
「記録が残ってなかったら、誰かが意図的に消した可能性もあるってことだね」
「ああ」
「今夜はどうするの?」
「もう出かけないよ」
「町の人に聞き込みとかもしない?」
「しない。エルディンの名前を聞いて歩くのは避けた方がいいと思ってる」
「それには賛成だ」
ロアが言った。
「俺も今日は休みたい」
「ロア、まだ傷が痛むの?」
エマが聞いた。
「前よりはましになった」
「本当?」
「ああ」
「無理したらお母さんに怒られるよ」
「何でお前の母親に俺が怒られるんだよ」
「ロアは言うこと聞かないから」
「お前には言われたくないな」
「私は言うこと聞いてるよ」
「昨日も聞かなくて怒られてただろ」
「何を?」
「もう忘れたのか」
さっきまでの話とは関係のない言い合いが始まった。
カレンが呆れた顔で二人を見る。
「ほら、ご飯にするよ。難しい話はそれからにしよう」
「お腹空いた」
エマがすぐに立ち上がる。
「さっき何か食べてただろ」
「あれはおやつ」
「結構食べてたじゃないか」
「おやつとご飯は別だもん」
エマはそう言って、机の端に置いていた紙を片付け始めた。
一番上の紙に、窓から見える町が描かれている。
屋根がいくつも並び、その奥に大きな城があった。
「これ、お城?」
「うん」
エマが紙を持ち上げて見せる。
「お城、黄色いけど、炭じゃ色までは描けないんだよね。ユイナたちが帰ってくるまでに描こうと思ってたの」
「見せるって言ってた絵はこれのこと?」
「そう。まだ途中だけど」
「上手になったね」
「ほんと?」
「うん」
エマが笑った。
私はもう一度、絵の中の城を見る。
今日、私たちはここへ行った。
数日前にも行った。
その時と同じ城だ。
同じ門を通った。
でも今日は、エルディンは最初からいなかった人として扱われていた。
「ユイナ?」
エマに呼ばれて顔を上げた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「また困ってる顔してる」
「そんな顔してた?」
「してる」
私は頬を触る。
エマが笑う。
「ご飯食べたら直るかもね」
「それで直るかな」
「私は直るよ」
「エマと一緒にしない」
カレンが言う。
部屋を出る前に、私はもう一度窓の外を見た。
屋根の向こうに、王城の上の方だけが見えている。
明日、もう一度あそこへ行く。
記録を確認すれば、何かわかるかもしれない。
そう思いたかった。
でも今は、私たち三人の記憶以外に、エルディンがいたことを示すものは何もない。




