第11話 その線の先へ
馬車が再び動き始めてから、しばらく誰も重心の話をしなかった。
道はしばらく平坦で、馬車はほとんど速度を変えずに進んでいく。ときどき車輪が小さな石を踏み、床が揺れた。
私は窓の外を見ながら、さっきセレンが言っていたことを考えていた。
槍の男と槍。それぞれの黄には、流れが集まる場所がある。
けれど、その場所が何なのかは分からない。
考えても答えは出ないと分かっているのに、頭のどこかに残っていた。
「ユイナ」
呼ばれて振り向くと、エマが向かいの席から紙を差し出している。
「見て」
受け取る。
描かれているのは馬だ。
たぶん、今この馬車を引いている馬だろう。身体が少し長く、脚は四本とも違う方向へ伸びている。顔はずいぶん大きい。
でも、ちゃんと馬に見える。
「上手になったね」
「ほんと?」
「前よりずっと馬らしいよ」
エマが嬉しそうに笑った。
隣に座っていたカレンがこちらを見る。
「最近ずっと描いてるんだよ。紙がいくらあっても足りやしない」
「だって、描きたいんだもん」
「分かってるよ。やめろなんて言ってないだろ」
そう言いながら、カレンも少し笑っていた。
私はもう一度、絵を見た。
馬の輪郭は何度も線を重ねて描かれていた。一本の脚を描くのに、何本もの線が並んでいる。
「ここは、どうやって描いたの?」
前脚を指した。
「どうって?」
「最初に一本描いて、それから直した?」
「うん。なんか違ったから、こっちに描いて、そのあとこっちにも描いた」
指で三本の線を順番に示す。
「消せないからね、いっぱいになるの」
「そうだね」
「ユイナなら一回で描ける?」
少し考えた。
「一回で描けるときもあるけど、失敗するときもあるよ」
「ユイナでも?」
「するよ」
エマは意外そうな顔をした。
「何回も?」
「何回も」
「じゃあ同じだ」
「同じ」
そう答えると、エマは少し笑って紙を受け取った。
「でも、ユイナの絵は線がいっぱいになってないよ」
「私は失敗した線を見せない方法を知ってるから」
「ずるい」
「ずるくないよ」
思わず笑った。
カレンが横から口を挟む。
「九歳の子を相手に張り合わないの」
「張り合ってません」
「今ちょっと張り合ってた」
エマまで一緒になって言う。
「エマまで?」
三人で笑った。
ロアが前の方からこちらを見たが、何も言わなかった。
セレンは壁にもたれて目を閉じている。眠っているのかと思ったが、口元が少し動いた。たぶん聞いている。
エマがまた紙を膝に置いた。
「じゃあ、どうしたら線はいっぱいにならない?」
「うーん……」
私はエマの横へ移動した。
「炭、借りてもいい?」
「うん」
細い炭を受け取る。
紙の余白に、一本だけ線を引いた。
長くはない。ほんの指二本分くらいだ。
「これ、何に見える?」
「線」
「そう。線」
「それだけ?」
「それだけ」
エマが首を傾げる。
私はその隣に、もう一本引いた。今度は少し曲げる。
「じゃあこれは?」
「曲がった線」
「うん」
「何か描かないの?」
「まだ描かない」
もう一本。
今度は力を入れず、紙の表面をなぞるくらいに細く引いた。
三本を並べると、エマが顔を近づけた。
「最後のは薄いね」
「薄いし、細いでしょ」
「うん」
「全部同じ炭なんだよ」
エマが私の手を見る。
「どうやったの?」
「力を入れなかっただけ」
「それだけ?」
「それだけ」
炭を返す。
「やってみる?」
エマはすぐに線を引き始めた。
一本目。
太い。
「あ」
「もう一回」
二本目。
今度は途中だけ細くなった。
「今、細かった。でも最後の方は太くなった」
「途中まではできてたよ」
三本目。
最初は細かったが、だんだん太くなり、最後で炭が折れた。
「あっ」
エマが炭を持ったまま固まった。
カレンが笑う。
「力入りすぎ」
「お母さんやってみてよ」
「私は絵なんか描けないよ」
「線だけだよ」
「線くらいなら描ける」
エマから炭を受け取り、カレンが紙に一本引いた。
最初から最後まで、しっかり太い。
エマが声を上げて笑った。
「お母さんの方が太い!」
「こんなもん、細くする必要あるのかい?」
「あるよ。ユイナが言ってるもん」
「急に先生扱いだね」
カレンが炭を返す。
エマはまだ笑っている。
私も笑いながら、カレンの線を見る。
真っ直ぐで、迷いがない。
「カレンの線、きれいですよ」
「太いけどね」
「太いですけど」
「そこは否定してくれてもいいんじゃない?」
「太いものは太いです」
「やっぱり張り合ってるだろ」
またエマが笑った。
馬車の中に、しばらく笑い声が響いた。
昨日からずっと、黄のことばかり考えていた。
黄の男たちに追われ、戦って、逃げて、セレンが黄を調べて。
こうしてエマが絵を描いているのを見ていると、昨日から張りつめていた気持ちが少し緩んでくる。
エマは何度も細い線を引いていた。
うまくいった線には小さな丸をつけ、太くなった線はそのままにしている。
「消さないの?」
私が聞くと、エマは首を横に振った。
「どれが失敗したか分からなくなるから」
「なるほど」
「あとで見たら、前より上手になったか分かるでしょ?」
そんなふうに考えていたとは思わなかった。
「それは、いい考えだね」
「ユイナもやってみる?」
「私が?」
「失敗したのを残すの」
昔なら、失敗した線はできるだけ残したくなかった。
違うと思えば消す。気に入らなければ描き直す。
人に見せるなら、なおさらだ。
「……たまには残してもいいかもね」
「じゃあ一緒」
「そうだね」
エマがまた一本引く。
今度は、最初から最後まで細く描けた。
「あ」
エマ自身が一番先にそれに気づいた。
「できた!」
「できたね」
紙を持ち上げてカレンに見せる。
「お母さん、見て!」
「見てるよ」
「細いでしょ?」
「細い細い」
「ちゃんと見てよ」
「見てるって」
カレンはそう言いながら、エマが描いた紙を受け取った。
さっきまでと違って、今度は少し長く眺めている。
「……本当に細くできてるね」
「でしょ?」
「上手になったじゃないか」
エマが嬉しそうに私を見る。
まるで私まで褒められたような気分になった。
「ユイナのおかげ」
「エマが描いたんだよ」
「でも教えてくれた」
カレンが紙を返しながら言った。
「この子、人に教えてもらうのが好きなんだよ」
「お母さんは教えてくれないもん」
「絵は教えられないよ」
「じゃ料理は?」
「それはもう少し大きくなってからね」
「いつ?」
「火の前でじっとしていられるようになったら」
「じっとできるよ」
「昨日、宿で椅子から二回も落ちたのは誰だい?」
「一回だよ」
「二回」
「一回半」
「どうやって半分落ちるんだよ」
思わず吹き出した。
「一回半って何?」
「一回はちゃんと落ちて、もう一回は途中でお母さんが助けてくれたの」
「じゃあ二回だね」
「ユイナまで!」
エマが頬を膨らませる。
その顔を見て、また笑う。
やがてエマは馬の絵を描き始めた。
今度は前脚を一本の線で描こうとしている。
炭の先が紙へ触れる。
ゆっくり下へ。
途中で少し曲がった。
エマの手が止まる。
「失敗?」
私が聞く。
「……まだ分かんない」
そのまま続きを描いた。
線は最後まで途切れなかった。
「これでいい」
「直さないの?」
「うん。足、ちょっと曲がってても歩けそうだから」
「そっか」
私はその線を見た。
細い一本の線。
必要なところだけを、一本で描いている。
さっきセレンが言っていた重心が頭に浮かんだ。
黄の流れが行き着く重心。
あの男にも、男の槍にもあるという。
「……セレン」
壁にもたれていたセレンが目を開けた。
「ん?」
「さっき言ってた重心って、どれくらいの大きさなんですか?」
セレンは少し考えた。
「大きさ?」
「はい」
「緑を重心に当てるなら、どれくらい細くすればいいんだろうって思って」
セレンもエマの紙を見た。
すぐには答えなかった。
エマは私たちの話には加わらず、また馬の続きを描き始めた。
馬車は揺れながら、王都へ続く道を進んでいく。




