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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第10章 黄の王
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第11話 その線の先へ

 馬車が再び動き始めてから、しばらく誰も重心の話をしなかった。

 道はしばらく平坦で、馬車はほとんど速度を変えずに進んでいく。ときどき車輪が小さな石を踏み、床が揺れた。


 私は窓の外を見ながら、さっきセレンが言っていたことを考えていた。

 槍の男と槍。それぞれの黄には、流れが集まる場所がある。


 けれど、その場所が何なのかは分からない。

 考えても答えは出ないと分かっているのに、頭のどこかに残っていた。


「ユイナ」


 呼ばれて振り向くと、エマが向かいの席から紙を差し出している。


「見て」


 受け取る。

 描かれているのは馬だ。


 たぶん、今この馬車を引いている馬だろう。身体が少し長く、脚は四本とも違う方向へ伸びている。顔はずいぶん大きい。

 でも、ちゃんと馬に見える。


「上手になったね」

「ほんと?」

「前よりずっと馬らしいよ」


 エマが嬉しそうに笑った。

 隣に座っていたカレンがこちらを見る。


「最近ずっと描いてるんだよ。紙がいくらあっても足りやしない」

「だって、描きたいんだもん」

「分かってるよ。やめろなんて言ってないだろ」


 そう言いながら、カレンも少し笑っていた。

 私はもう一度、絵を見た。


 馬の輪郭は何度も線を重ねて描かれていた。一本の脚を描くのに、何本もの線が並んでいる。


「ここは、どうやって描いたの?」


 前脚を指した。


「どうって?」

「最初に一本描いて、それから直した?」

「うん。なんか違ったから、こっちに描いて、そのあとこっちにも描いた」


 指で三本の線を順番に示す。


「消せないからね、いっぱいになるの」

「そうだね」

「ユイナなら一回で描ける?」


 少し考えた。


「一回で描けるときもあるけど、失敗するときもあるよ」

「ユイナでも?」

「するよ」


 エマは意外そうな顔をした。


「何回も?」

「何回も」


「じゃあ同じだ」

「同じ」


 そう答えると、エマは少し笑って紙を受け取った。


「でも、ユイナの絵は線がいっぱいになってないよ」

「私は失敗した線を見せない方法を知ってるから」


「ずるい」

「ずるくないよ」


 思わず笑った。

 カレンが横から口を挟む。


「九歳の子を相手に張り合わないの」

「張り合ってません」

「今ちょっと張り合ってた」


 エマまで一緒になって言う。


「エマまで?」


 三人で笑った。

 ロアが前の方からこちらを見たが、何も言わなかった。


 セレンは壁にもたれて目を閉じている。眠っているのかと思ったが、口元が少し動いた。たぶん聞いている。

 エマがまた紙を膝に置いた。


「じゃあ、どうしたら線はいっぱいにならない?」

「うーん……」


 私はエマの横へ移動した。


「炭、借りてもいい?」

「うん」


 細い炭を受け取る。

 紙の余白に、一本だけ線を引いた。

 長くはない。ほんの指二本分くらいだ。


「これ、何に見える?」


「線」

「そう。線」


「それだけ?」

「それだけ」


 エマが首を傾げる。

 私はその隣に、もう一本引いた。今度は少し曲げる。


「じゃあこれは?」


「曲がった線」

「うん」


「何か描かないの?」

「まだ描かない」


 もう一本。


 今度は力を入れず、紙の表面をなぞるくらいに細く引いた。

 三本を並べると、エマが顔を近づけた。


「最後のは薄いね」

「薄いし、細いでしょ」


「うん」

「全部同じ炭なんだよ」


 エマが私の手を見る。


「どうやったの?」

「力を入れなかっただけ」


「それだけ?」

「それだけ」


 炭を返す。


「やってみる?」


 エマはすぐに線を引き始めた。


 一本目。

 太い。


「あ」

「もう一回」


 二本目。

 今度は途中だけ細くなった。


「今、細かった。でも最後の方は太くなった」

「途中まではできてたよ」


 三本目。

 最初は細かったが、だんだん太くなり、最後で炭が折れた。


「あっ」


 エマが炭を持ったまま固まった。

 カレンが笑う。


「力入りすぎ」

「お母さんやってみてよ」


「私は絵なんか描けないよ」

「線だけだよ」

「線くらいなら描ける」


 エマから炭を受け取り、カレンが紙に一本引いた。


 最初から最後まで、しっかり太い。

 エマが声を上げて笑った。


「お母さんの方が太い!」

「こんなもん、細くする必要あるのかい?」


「あるよ。ユイナが言ってるもん」

「急に先生扱いだね」


 カレンが炭を返す。

 エマはまだ笑っている。


 私も笑いながら、カレンの線を見る。

 真っ直ぐで、迷いがない。


「カレンの線、きれいですよ」


「太いけどね」

「太いですけど」


「そこは否定してくれてもいいんじゃない?」


「太いものは太いです」

「やっぱり張り合ってるだろ」


 またエマが笑った。

 馬車の中に、しばらく笑い声が響いた。


 昨日からずっと、黄のことばかり考えていた。

 黄の男たちに追われ、戦って、逃げて、セレンが黄を調べて。


 こうしてエマが絵を描いているのを見ていると、昨日から張りつめていた気持ちが少し緩んでくる。


 エマは何度も細い線を引いていた。

 うまくいった線には小さな丸をつけ、太くなった線はそのままにしている。


「消さないの?」


 私が聞くと、エマは首を横に振った。


「どれが失敗したか分からなくなるから」

「なるほど」

「あとで見たら、前より上手になったか分かるでしょ?」


 そんなふうに考えていたとは思わなかった。


「それは、いい考えだね」

「ユイナもやってみる?」


「私が?」

「失敗したのを残すの」


 昔なら、失敗した線はできるだけ残したくなかった。

 違うと思えば消す。気に入らなければ描き直す。

 人に見せるなら、なおさらだ。


「……たまには残してもいいかもね」

「じゃあ一緒」

「そうだね」


 エマがまた一本引く。

 今度は、最初から最後まで細く描けた。


「あ」


 エマ自身が一番先にそれに気づいた。


「できた!」

「できたね」


 紙を持ち上げてカレンに見せる。


「お母さん、見て!」

「見てるよ」


「細いでしょ?」

「細い細い」


「ちゃんと見てよ」

「見てるって」


 カレンはそう言いながら、エマが描いた紙を受け取った。

 さっきまでと違って、今度は少し長く眺めている。


「……本当に細くできてるね」

「でしょ?」

「上手になったじゃないか」


 エマが嬉しそうに私を見る。

 まるで私まで褒められたような気分になった。


「ユイナのおかげ」

「エマが描いたんだよ」

「でも教えてくれた」


 カレンが紙を返しながら言った。


「この子、人に教えてもらうのが好きなんだよ」

「お母さんは教えてくれないもん」


「絵は教えられないよ」

「じゃ料理は?」


「それはもう少し大きくなってからね」

「いつ?」


「火の前でじっとしていられるようになったら」

「じっとできるよ」


「昨日、宿で椅子から二回も落ちたのは誰だい?」

「一回だよ」


「二回」

「一回半」

「どうやって半分落ちるんだよ」


 思わず吹き出した。


「一回半って何?」

「一回はちゃんと落ちて、もう一回は途中でお母さんが助けてくれたの」


「じゃあ二回だね」

「ユイナまで!」


 エマが頬を膨らませる。

 その顔を見て、また笑う。


 やがてエマは馬の絵を描き始めた。

 今度は前脚を一本の線で描こうとしている。


 炭の先が紙へ触れる。

 ゆっくり下へ。


 途中で少し曲がった。

 エマの手が止まる。


「失敗?」


 私が聞く。


「……まだ分かんない」


 そのまま続きを描いた。

 線は最後まで途切れなかった。


「これでいい」

「直さないの?」


「うん。足、ちょっと曲がってても歩けそうだから」

「そっか」


 私はその線を見た。


 細い一本の線。

 必要なところだけを、一本で描いている。


挿絵(By みてみん)


 さっきセレンが言っていた重心が頭に浮かんだ。

 黄の流れが行き着く重心。

 あの男にも、男の槍にもあるという。


「……セレン」


 壁にもたれていたセレンが目を開けた。


「ん?」

「さっき言ってた重心って、どれくらいの大きさなんですか?」


 セレンは少し考えた。


「大きさ?」


「はい」

「緑を重心に当てるなら、どれくらい細くすればいいんだろうって思って」


 セレンもエマの紙を見た。

 すぐには答えなかった。


 エマは私たちの話には加わらず、また馬の続きを描き始めた。

 馬車は揺れながら、王都へ続く道を進んでいく。

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