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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第1章 灰色の村
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第4話 ロアという男

「こいつは、たまにやって来る。村の近くに(うろ)が出れば、遠ざけてくれる。その代わりに、水と食い物を少し持っていく」 短い答えだった。

ロアは外へ顔を向けたまま、その言葉を否定しない。

私はさっきの光景を思い出す。


「あの、さっきのあれを倒せるんですか」


男は少し迷ったようだった。


「倒すのとは少し違う」


その言い方に、私は口を閉ざす。

私もそう感じていた。あれは戦っているようには見えなかった。腕を振ったわけでも、武器を使ったわけでもない。ただ触れたところから崩れていったのだ。


「こいつが近くに行くと、虚が崩れる。どういうことかは分からん。ただ、そうなる」男が言った。


私はロアを見る。ロアは何も言わない。


「……人も、そうなるんですか」


男はロアを見て、短く言った。

「さあな」


ロアが初めてこちらへ視線を向けた。何も言わない。男もそれ以上は言わない。家の奥の女性は顔を伏せたまま、器の縁に指をかけている。

村の人たちがロアから距離を取っていた理由が、少しだけ分かった気がする。虚から助けてはくれるが、近づきすぎてはいけない。そういう暗黙の空気が、この家の中にはあった。


ロアはもう外へ視線を戻している。私は手元の器に目を落とした。灰色の水面に、自分の顔らしいものが映っている。思わず、器を持つ手に力が入った。


挿絵(By みてみん)


目が覚めたときから、違和感はずっとあった。視界の端に映る青緑色の髪。自分のものとは思えない手足の感覚。着ている服すら見覚えがない。

これまでは、そんなことに構う余裕がなかった。本当は気づかないふりをしていただけかもしれない。けれど、こうして水面に映る顔を見てしまうと、もうごまかしようがなかった。

水が揺れていて、輪郭ははっきりしない。それでも分かる。髪の色が違う。顔つきも、記憶にある自分とははっきりと違っている。全体的に、少し幼くなっている気がした。


私はここで、ようやく自分の置かれた状況を思い出す。

ここはどこなのか。

どうして私はこんな姿になっているのか。そして、元の場所に戻れるのか。

病室で目を閉じたはずだった。白い天井があり、消毒液の匂いがして、腕には痛みがあって、息をするのもしんどかった。それなのに、目が覚めたら灰色の空の下にいて、知らない服を着て、知らない体で立っていた。

考えたくないことばかりで、ここまでは目の前のことだけを追っていたのかもしれない。けれど、水面に映る自分ではない顔を見たら、もう後回しにはできなかった。


「私は……元の場所に戻れますか」


自然と声が小さくなる。

元の世界、と言いかけて途中でやめた。世界という言葉を使ったところで、この人たちには通じない気がした。病室も、日本も、あの白い天井も、ここにいる人たちには何のことか分からない。私自身でさえ、そこへ本当に戻れるのか分かっていない。

村の男は、すぐには答えなかった。困惑しているわけでも、同情しているわけでもない。ただ、知らないものを見る目で私を見ている。外から来た、違う色をした、素性の分からない人間。水と食べ物を分けてもらった今になって、自分がどう見られているのかをようやく理解した。


「元の場所、とは何だ」

当然の問いだった。


私は答えようとして、言葉に詰まる。病院です、と言ってもたぶん通じない。私がいたところです、と言っても、それがどこなのかを知らない相手に説明できるはずがない。ここではない、違った場所。そう言うことはできても、それが答えになるとは思えなかった。


「……分かりません」

そう言うしかなかった。


村の男は、さらに何かを聞きたそうにする。けれど、戸口の横のロアは何も言わない。私も何も言えなかった。明確な答えがないということだけが、はっきりとそこにある。ロアも、奥の女性も、村の男も、みな口を閉ざしている。誰もすぐに答えをくれるわけではないのだと、その沈黙だけで十分に伝わってきた。

しばらくして、ロアが口を開いた。


「俺は今日ここで休ませてもらい、明日、移動する」


お前の事情は知らないが、自分はここを発つ。ついてくるか残るかは自分で決めろ。そう言われているような、事実だけの短い言葉だった。

私は少し迷ってから、ロアを見た。


「……私も行きます」


ロアはすぐには答えない。戸口の向こうを見たまま、短く返す。


「なら、外では一人にならないようにしろ」


少し間を置いて、続く。


「目立つこともするな。持ってるものも隠したほうがいい」


彼の視線が私の右手に落ちる。ガラスペン。私は反射的にそれを握りしめた。


「それもだ」


村の男が、奥の女性に視線を送った。女性は少し迷ったような素振りを見せたあと、壁に掛けてあった小さな袋を外す。手のひらより少し大きい程度の、粗い布でできた袋だ。長い紐がついていて、首から下げるか肩にかけるものらしい。袋の口は狭く、縫い目も粗い。女性はそれを私に差し出した。


「これに入れなさい」


私は袋を受け取る。

布は硬く、使い込まれて薄くなっていた。そこにガラスペンを入れていいものか迷ったが、女性は黙って私を見ている。ペンをしまおうとしたが、長さが少し合わなかった。奥まで押し込むとペン先が底に当たりそうで怖い。斜めに差し込むと、今度は軸の一部が口から覗いてしまう。完全には隠れないが、手に持っているよりは目立たない。紐を首からかけ、袋が腰のあたりにくるよう位置を直した。


「それから」


男は桶の中の布と紐を取った。


「これを足に巻いておくといい」


女性が私の前にしゃがみ込み、布を広げた。私は反射的に足を引きそうになる。見ず知らずの人に足を見られるのが嫌だった。けれど、足の裏の痛みはすでにごまかしきれず、これ以上裸足で歩くのが無理なことは自分が一番よくわかっている。

そっと布の上に足を置いた。少しざらついた感触が肌に触れる。女性は慣れた手つきで布を折りたたみ、紐で足首のあたりを縛った。靴と呼べるものではなく、ただの布切れだ。それでも床に足を戻すと、小石が突き刺さるような痛みが少しだけ和らいだ。もう片方も同じように巻いてもらう。


「ありがとうございます」


今度は、はっきりと彼女に向けて言えた。女性は小さくうなずいただけだった。

そのとき、外で声がした。短く、押し殺したような声。家の中の空気が変わり、全員がそちらを向く。ロアも外へ視線を向けた。男が壁際の杖のような棒を手に取る。


「またか」


男の声が低くなる。私は立ち上がろうとして、足元の布の感覚に慣れず少しよろけた。腰の袋の中で、ガラスペンが軽く揺れる。手を伸ばせば取り出せる。けれど、取り出したところでどうすればいいのかはわからない。

ロアが外へ一歩踏み出した。その瞬間、戸口や窓の向こうにいた村人たちの気配が一斉に引いていくのがわかった。誰も叫ばないし、走り回りもしない。ただ、息を潜めている。怯えながらも、あの存在が近くに現れることに慣れきっている。

ロアは振り返らずに言った。


「ここにいろ」


私に向けた言葉なのか、男への言葉なのかはわからない。けれど、足がすくんで一歩も動けなかった。灰色の水。灰色の食べ物。灰色の人たち。虚に触れられれば体が崩れること。全部崩れれば死んでしまうこと。ロアが近づけば虚が崩れること。聞いたばかりの事実が頭の中でばらばらに散らばって、どれもうまく繋がらない。

私は腰の袋の上から、そっと手を当てる。中にあるガラスペンの硬さが、粗い布越しに指先へ伝わってくる。この世界でどうすれば生き残れるのか、まだ何も分からない。ただ一つだけ、はっきりと分かったことがある。

水も、食べ物も、人々の暮らしも、ここにはたしかにある。けれど、そのすべてが灰色だった。

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