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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第1章 灰色の村
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第5話 灰色の朝

あの押し殺したような声のあと、外で何が起きたのか、私にはよく分からなかった。

ロアが外へ出たあと、村の男が戸口の近くに立ち、家の奥にいた女性が器を棚へ戻した。誰も大きな声を出さないし、走ったりもしない。外から聞こえていた生活音も、誰かの足音も、風が布を揺らす音さえも、急に遠ざかっていく。


家の中には、灰色の火だけが残っている。器の中で揺れる炎は、相変わらず橙色にはならない。燃えているように見えるのに、壁にも床にも暖かい色は広がらない。近くにある木の台や棚の形が、薄い灰色の中でぼんやりと浮かび上がっているだけだった。


私は腰の袋へそっと手を当てる。

中に入れたガラスペンの硬さが、粗い布越しに指先へ伝わってきた。袋に入れてから、その感触を何度も確かめている。手に持っていると目立つから隠したのに、見えなくなると、今度は本当にそこにあるのか不安になる。取り出して確かめたい。そう思ったが、やめた。ここで取り出したら、また誰かに見られる。あのときの村人たちの視線を思い出すと、どうしても袋を開ける気にはなれなかった。


外が急に騒がしくなった。低い音がして、そのあと人が慌ただしく動く気配がした。私ははっと身構えたが、男も女性も動かない。聞こえていないのではなく、動かない方がいいのだと、二人の様子が物語っていた。

しばらくして、戸口の布が揺れ、ロアが戻ってきた。息を切らしている様子も、慌てた様子もない。さっきと同じように、戸口の横に立っただけだった。服が汚れてもいないし、怪我をしている様子もない。男が握っていた棒を少し下ろし、奥の女性も棚に置いたままの手を引く。それだけで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだのが分かった。


「やったか」 村の男が聞いた。

「ああ、もういない」 ロアはそれだけ答えた。


男は小さく息を吐き、棒を壁に立てかけた。女性も、ようやく棚の前から離れる。

私はロアを見る。外に何がいたのか。何をしてきたのか。聞きたかったが、口にできなかった。聞いたところで、この人が丁寧に説明してくれるとは思えない。男は私の方へ顔を向けた。


「今夜は、そこで休め」


男は、部屋の隅を指さす。古い布を重ねただけの場所で、寝床と呼べるほど整ってはいないけれど、外の灰色の地面の上で眠るよりはずっとましに思えた。


「……ありがとうございます」


遅れて返事をしたが、男は何も言わなかった。

女性が棚の奥からもう一枚、布を持ってきた。薄く擦り切れていて、ところどころ縁がほつれている。


「夜は冷えるよ」


台の上に置かれた布を、私はすぐには手に取らなかった。水も食べ物も、足に巻いた布も、すべてこの村に分けてもらったものだ。余裕はないと男も言っていた。何も返せないのに、ただもらい続けていいのだろうか。私は慌てて頭を下げた。今度は女性が、少しだけうなずく。


ロアは家の中へ入ろうとしなかった。戸口の横に立ったまま、外を見ている。男も女性も、それを不自然なこととは思っていない。座れとも、休めとも言わない。ロア自身も、そこが自分の場所であるかのように動く気配はなかった。


「ロアさんは……寝ないんですか」


聞いてから、少し後悔した。ロアはすぐには答えず、背中を向けたまま言う。


「外で寝る」

「外で?」

「ここは、村の中だから」


その言葉を聞いて、私は合点がいった。村の人たちはロアを追い返しはしないが、歓迎しているわけでもない。ロアもそれを当然のように受け止め、それ以上踏み込もうとはしないのだ。家の奥で、男が小さく咳払いをする。これ以上は聞くな、と促されているように思えた。

私は口を閉じ、部屋の隅へ移動する。布の上に腰を下ろし、膝を抱えた。病室のベッドの感触ではない。土と煙と古い布の匂いがして、窓の隙間からは灰色の草の匂いが流れ込んでくる。

夢なら、もう覚めているはずだ。腕の傷に触れると、やはりひりひりとした痛みが走る。水の冷たさも、食べ物の味も、布のざらざらした感触も、すべてが現実のものとしてそこにあった。私は体を丸め、目を閉じる。


次に目を開けたとき、部屋の中は少し明るくなっていた。

最初に見えたのは、白い天井ではなく、粗く削られた灰色の木と、そこに残る細いひびだ。やっぱり元の世界には戻っていない。ゆっくり体を起こす。床は硬く、背中も足の裏も痛む。腰のあたりにある袋を押さえ、ガラスペンがあることを確かめた。窓の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。けれど、その明るさは黄色くも白くもなく、部屋の中を薄い灰色に変えるだけだった。


外から、水を流したような音が聞こえた。

桶に水が溜まる音。器の触れ合う音。誰かが低い声で話している。村は朝になっていた。人が動き始めていて、昨日と同じように、暮らしの音がする。私は戸口の布を少し持ち上げた。

外は明るい。

けれど、空は青くなかった。

灰色の空が、昨日と同じように広がっている。光はあるのに、目に入るものはどれも灰色だった。道の向こうを、女性が桶を持って歩いている。その少し後ろを、子どもが歩く。誰もが昨日と同じ、灰色の顔のままだ。 一晩眠って目が覚めても、世界は戻らない。昨日見たものは暗さのせいでも、私の見間違いでもなかった。家も、道も、すれ違う人たちの顔も、すべて同じ灰色に沈んでいる。


「起きたか」


横から声がして、私ははっと顔を上げた。村の男だった。


「歩けるか」

「たぶん」


答えると、男は戸口の横に置いてあった小さな器を手に取り、私に差し出した。中には灰色の水が入っている。


「飲め」


私は受け取った。器を両手で持ち、水を一気に飲み干す。水面に顔を近づけたとき、器の中に自分の顔が映っていた。病室で最後に見た自分とは違う、少し幼くなった顔。髪の毛には、かすかに青緑色が残っている。

昨日と同じだ。昨日、見たものは見間違いではない。器を男に返す。


「ロアさんは、どこに……」


私が尋ねると、男は戸口の外へ目を向けた。


「村の外だ。あいつは村の中では寝ない」


挿絵(By みてみん)


その言葉を聞いて、私は戸口から外をのぞく。家並みが切れるあたりの低い石垣のそばに、ロアの後ろ姿が見えた。外の灰色の草地をじっと見つめている。夜通しそこにいたのかは分からない。ただ、やはり村の中には入らなかったのだと、その背中が示していた。少し離れた場所を通りかかった村人が、ロアに向かって軽く頭を下げる。ロアは返事をしない。村人もそれ以上は近づかず、すぐに歩き去っていく。そこにははっきりとした距離があった。


ロアがこちらを向いた。

少しだけ村の方へ歩き出すと、近くにいた村人たちが自然に道を空ける。

ロアは私たちの前まで来ると、私ではなく男の方を見た。


「行くのか」


男がそう言うと、ロアはうなずいた。

私は二人を見る。まだここがどこなのかも、どうすれば元の世界に戻れるのかも分からないのに、もう出発するつもりなのだと気づいた。


「ここにはいられないんですか」


思わず聞くと、男は静かに言った。


「すまんが、よそ者を置いてはおけない」


私は黙って男を見る。


「この村は貧しい。余裕があるわけじゃない。何かあったとき、おまえたちまで抱えきれん」


申し訳なさそうな顔をしていたが、断る意志ははっきりと感じられた。責められているわけではない。だからこそ、私は何も言い返せなかった。

朝になれば何かが変わるのではないかと、そんな子供じみた期待を抱いていたのは私だけだった。この村の人たちの日常は、この灰色の世界で成り立っている。私はそこに交じわることはできない外の人間なのだ。


「水を飲んだら、行こう」


ロアが短く言った。

私は村の外れの草地を見る。あの灰色の下から、また何かが出てくるかもしれない。

それでも、この村に残れば迷惑になる。だからといって、一人で外へ出ても行く場所はない。奥から女性が出てきて、小さな布の包みを差し出してくれた。昨日食べた、あの硬い食べ物が二つ入っている。


「行くなら、これを持っていきなさい」


私は包みを両手で受け取ると、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


ロアはもう歩き出していた。

私は慌ててそのあとを追う。足に巻いた布のおかげで昨日よりはましだったが、やはり小石を踏むたびに傷が痛んだ。包みを胸に抱え、腰の袋を何度も押さえながら歩く。村の入り口で、一度だけ振り返る。

低い屋根も、乾いた道も、軒に干された布も、誰かの家の煙も、見送る人影も。すべてが同じ灰色に沈んでいた。

寝て起きれば元に戻るなんて、やはりただの夢だったのだ。

私は前を向いた。

ロアは私を待ってはくれない。けれど、見失うほどの速さで歩いてもいない。

村を出れば、またあの虚が現れるかもしれない草原へ戻ることになる。緊張で喉が乾くのを感じながら、一歩ずつ足を動かしていた、そのときだった。

前を行くロアが、道の脇でふと足を止めた。

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