第6話 戻せない色
前を行くロアが、村の外へ出る手前で足を止めた。
「村外れは通らない方がいい」
少し後ろからついてきていた村の男が言う。ロアは振り返らず、道の脇へ目を向けた。
「水路の先か」
「昨夜から何度か現れている」
ロアはそれ以上何も言わず、そのまま村の外へ抜けるのをやめた。家と家の間を通る細い道へ入っていく。私は慌ててあとを追った。
朝の村からは、桶に水が入る音や、器の当たる音、低い話し声が聞こえている。人が起きて生活しているのは分かるのに、空も道も家の壁も、見えるものはやはり灰色のままだった。道にいた村人たちは、ロアが来ると自然に端へ寄る。ロアは気にする様子もなく、そのまま同じ歩幅で進んでいった。細い道を曲がると、家の間に浅い水路が見えた。水は流れているのに底が透けて見えない。灰色の水が細く流れ、石に当たって白っぽく泡立っている。
そのとき、右手の家の奥で、かたん、と乾いた音がした。
「だめ。出ちゃだめ」
女の声だった。
小さいけれど、慌てている。私は足を止めた。ロアは少し先まで進んでから、足を止める。戸口の布がわずかに開き、細い手がのぞいた。子どもの手だった。女がすぐにそれを引き戻す。けれど、閉じ切る前に中が見えてしまった。
布を敷いた床に、小さな子どもが寝かされている。顔も髪も服も灰色だった。それだけなら村の人たちと同じなのに、その子はもっと薄い。頬の線が弱くて、首から肩にかけての形がはっきりしない。布の上に置かれた腕も、目を離したら床との境目が見えなくなりそうだった。
私は思わず、戸口へ近づく。
「見ないほうがいい」
後ろから来た男が、私の前に立ちはだかった。
「その子、どうしたんですか」
男は戸口を見たまま答える。
「昨日、水路の外でやられた。水を汲みに出たときに」
「虚に?」
男がうなずいた。
それを聞いて、左腕の傷のあたりがひりついた。あの冷たくて、ざらついた感触。私はかすっただけで済んだけれど、この子は違ったのだ。戸口の向こうで、女が布を握る手に力を入れている。私から隠すというより、ロアを近づけまいとしているように見えた。ロアは少し離れた場所に立ったまま、戸口を見ている。近づかないし、声もかけない。助けられないのだろうか。 そう思ってロアを見たが、彼の顔からは何も読み取れなかった。ただ、そこへ踏み込まないことだけは決めているように見える。
家の中で、子どもがわずかに身じろぎした。
私は男の肩越しに中を見る。薄く開いた目が、私の方を向いていた。焦点が合っているのかも分からない。でも、その視線は私の髪のあたりで止まった。唇がかすかに動く。女が顔を寄せた。
「……色」
掠れた声だった。
私は動けなかった。この村の中で、私だけが浮いている。そのことは昨日から分かっているけれど、こんなふうに言葉にされると、何も言えなくなる。私は何もしていない。ただ、ここに来ただけだ。それでも、この子が失いかけているものを、私だけがまだ持ったままでいる。
気づくと、腰の袋に手が伸びていた。中にはガラスペンがある。これで何かできないか。何を描けばいいのかも分からないくせに、そう思った。ただ見ているだけなのが耐えられなかった。
袋の口を開きかけたところで、ロアの声がした。
「何をするつもりだ」
ロアだった。
私は手を止める。怒鳴られたわけではない。けれど、その一言で十分だった。いまここで出しても、どうにもならない。そう言われた気がした。私は袋から手を離す。指先が少し震えていた。戸口の向こうで、女が子どもの手を包み込む。布がゆっくり下ろされ、小さな顔が見えなくなった。
ロアが背を向ける。
「行こう」
私はすぐには動けなかった。昨日、ロアは虚を遠ざけた。私も助けられた。けれど、いったん消えかけてしまった体を、元通りにできるわけではないのかもしれない。少なくとも、今この家の中では、誰もロアにそれを求めていなかった。
「もう行ってくれ」
男が言った。責める声ではなかったが、これ以上ここに立っていても仕方がないことは分かった。私は戸口へ向かって頭を下げ、道へ戻る。
村の朝は続いていた。水を運ぶ音。器を洗う音。戸口で布を絞る音。みんな昨日と同じように動いているのに、さっき見た子どもの頬の線だけが頭から離れない。
村の出口へ向かうロアの背中を追いながら、私は腰の袋を押さえた。ロアに助けられたことは本当だ。けれど、目の前で消えかけているものに、ロアは手を出さなかった。出せなかったのかもしれない。私にも何もできなかった。
村の外へ出る前、私は一度だけ振り返りかけてやめる。見ても、あの子の顔はもう見えない。私はあの子の姿が頭から離れないまま、灰色の村をあとにした。




