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畫界アルカディア  作者: 三島 唯奈
第1章 灰色の村
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第7話 村を出る

村の境界を越えたあとも、見送る村人たちの視線が背中に刺さっているようで、どうしても落ち着かない。

振り返ると、低い屋根が重なり合う家並みがまだ遠くに見える。傾いた壁。家々の間に渡された細い竿と、そこに干されたままの灰色の布。朝になっても、そこに鮮やかな色彩が戻る様子はない。か細い煙が灰色の空へと上っていき、やがて輪郭がぼやけて消える。水路のせせらぎも、誰かが桶を置く乾いた音も、一歩進むごとに遠ざかる。


足を止めてはいけない。そう自分に言い聞かせながら土を踏みしめる。布を巻いただけの足裏は、小石を踏むたびに昨日の傷が容赦なく疼く。それでも、裸足よりはずっとましだ。胸元に抱えた小さな包みには、村の女性から渡された固い灰色の食べ物が二つ入っている。腰元では、ガラスペンを入れた袋が歩くたびに小さく揺れている。数歩先を行くロアは、一度も振り返らない。私を待つ素振りも見せない。だが、小石につまずいて足が遅れても、一定の距離以上は離れない。歩幅を合わせているのか、ただ彼の歩調がそうであるだけなのか。尋ねる気にもなれず、私はただ黙ってその背中を追い続ける。


家の壁越しに響いていた微かな生活音。水を汲む音や、布を払う音、湿った咳、押し殺した話し声。それらは歩みを進めるごとに風にかき消され、やがて完全に途絶える。今や耳に届くのは、乾いた草を分ける自分の足音と、前を行くロアの規則正しい靴音だけだ。

腰の袋にそっと触れる。布越しに、ガラスペンの硬い感触が指先に伝わる。しかし、それが慰めになるわけではない。私が持っているものは少ない。持っているだけで何かが分かるわけでも、今夜の寝場所が安全になるわけでもないのだ。


「どこへ行くんですか」


喉がひどく乾いていて、声にするまでに少し時間がかかる。

ロアは立ち止まらない。広がる灰色の草地を一瞥し、わずかに進路を変える。


「この先に、休める場所がある」


風に遮られるような、短い答えが返ってくる。


「安全な場所ですか」

「安全とは言えないが、外で寝るよりはましだ」


その言葉に、私は何も言い返せない。安全ではない。それでも、そこへ行くしかない。この灰色の世界では、一晩眠る場所さえ確かではないのだと思い知らされる。


「残ったら、だめなんですか」


口をついて出る言葉を止められない。

ロアの足がピタリと止まる。つられて私も足を止める。灰色の草地に、布を巻いた足が僅かに沈み込む。彼がゆっくりと振り返るまでの数秒間が長く感じられ、言わなければよかった、という後悔が胸をかすめる。


「……あの村に、残りたかったのか」


責める響きは微塵もない。だから、余計と言葉に詰まる。私はロアの向こうに広がる草地を見る。家並みが切れた先には、同じ灰色の地面と、どこまで続くのか分からない空だけがある。次に人に会えるのか、夜になったらどこで眠るのか、何も分からない。村に残りたいわけではない。けれど、あの何も分からない場所へ今すぐ歩き出す覚悟もない。


「……分かりません」


ひどく情けない声が出る。

私の曖昧な答えに、ロアは何も言わない。ただ一度だけ、村の方へ視線を投げる。


「あの村も、安全というわけじゃない」


その言い方に、私はうつむく。

分かっている。村に残ればいいと言い切れるほど、あそこが安全ではないことは、私にも分かり始めている。けれど、村の外へ出れば何があるのか、私は何も知らない。


「じゃあ、どこへ行くんですか」


声が思ったより強く出た。

ロアは答えない。


「今日、どこで寝るんですか。水はありますか。食べ物は。さっきみたいに、誰かに分けてもらえるんですか」


自分でも、何を聞いているのか分からなくなっていく。


「知らない場所へ行くのが、怖いんです」


ようやく、そこまで言えた。

ロアは黙っている。私は村の方を見る。灰色の家並みは、少し離れただけで輪郭がぼやけている。あの中のどこかに、薄く消えかけた子どもがいる。あの村は安全ではない。長くは置けないとも言われた。それでも、家があり、人がいて、水があった。だが、外には今のところ何もない。その差が、ただただ恐ろしい。


「あなたは、平気なんですか」


意図せず、責めるような声になる。

ロアは私を見たままだ。


「……俺だって、平気なわけじゃない」


短い答えだった。

そんな返答が来るとは予想しておらず、私は言葉を失う。悲しくないのか、何も感じないのか、そういうことを聞きたかったのだと思う。けれど、ロアが平気そうに見えるのが恐ろしい。どこへ行くのかも分からないのに、当然のように歩いている。その背中についていくしかない自分が、嫌でたまらない。


「私も、平気じゃありません」


私は言う。


「私の知っている当たり前は、こんなものじゃありませんでした。水だって、もっと澄んで透き通っていたし、夜はちゃんと安全な場所で眠るものだと思っていました。服を着替えて、明日も当たり前のように同じ場所で目が覚めるのが、普通だったんです」


言っているうちに、声が少しずつ頼りなくなっていく。

どれも、ここでは意味のない言葉に聞こえる。けれど、私にとっては、それが昨日までの普通だ。


「でも、ここに来てからは、何も分かりません。村から一歩出たら、次に人がいる場所があるのかも、夜にどこで眠ればいいのかも……」


私は唇を噛む。


「だから、外に行くのが怖いんです」


ロアはしばらく私を見ている。


「怖くても、あそこには残れない」


静かな声だった。


「分かっています」と、私は答える。

「今は、とにかく歩くしかない」


慰めにはならない。けれど、置き去りにするための言葉にも聞こえない。ロアは、水や寝床を保証してくれる人ではない。ただ、立ち止まるより歩く方がましだと知っている人なのだと思う。ロアがまた前を向く。


「遅れるなよ。暗くなる前に、休める場所まで行くぞ」


私はもう一度だけ村を見る。

風が吹き、家と家の間に渡された灰色の布が揺れている。灰色でも、あの村には暮らしがあった。その外には、何があるのか分からない。私は包みを抱える手に力を込め、ロアのあとを追う。

灰色の草地は、村から離れるほど広くなる。家の壁がなくなると、空の低さが圧迫してくるように感じる。青くない空が、どこまでも同じ調子で広がっている。草も、土も、石も、遠くに見える低い木立も灰色で、輪郭はあるのに、どこからどこまでが道なのか見分けにくい。


ロアはときどき進む向きを変える。

私には、ただ灰色が重なっているようにしか見えない。木も石もある。小さな起伏もある。それでも、何を目印にして歩いているのか分からない。

ロアは迷わない。何度か足元を見て進んでいく。


「何を見て歩いているんですか」


ロアは少しだけ足元へ目を落とす。


「……道だ」

「これが、道なんですか」


思わず聞き返す。私には、草が少し倒れている場所と、土が少し露出している場所が続いているようにしか見えない。


「草の切れ目とか、土の硬さとか、そういうのでだいたいの見当はつく。このあたりは、何度も通っているからな」


ロアは、淡々と事実だけを口にする。

私にとっては同じ灰色の草地でも、ロアにとっては見慣れた場所なのだ。どこに道が残っていて、どこを避けるべきか、地図ではなく体で覚えているのだろう。


「私には、同じに見えます」

「最初はそうだ。そのうち、なんとなく分かるようになる」


それで会話は終わる。

分からないものを分かるように説明してほしい。そう思っても、この灰色の景色の違いを言葉だけで理解できる気はしない。

しばらく歩いてから振り返ると、家並みはもう低い灰色の塊に戻っている。

私は前を向く。


「ロアさんを、信じたわけじゃありません」


言っておきたかった。ロアは振り返らない。

「そうか」

「でも……一人じゃ、無理ですから」


ロアは少しだけこちらを見る。


「だから、ついてきてるんだろ。はぐれるなよ」


あまりに簡単に言われて、胸の中に残っていた反発が行き場を失う。私は少しうつむき、足元の灰色の草を見る。ここがどこかも、どうすれば帰れるのかも、ガラスペンが何なのかも分からない。村から離れるほど、さっきまでは当たり前のようにあった水や食べ物や屋根が、急に過去になっていく。そう思うと、足が重くなる。

ロアが少し先で止まる。

私を待っているのだと分かる。振り返りはしない。ただ、歩くのをやめている。私はそこまで追いつき、少し後ろで止まる。前には、木立がある。


「この先だ」


ロアは木立の中へ入る。中は、外よりもさらに道が分かりにくい。地面には細い枝が落ちていて、踏むたびに足の裏が少し痛む。しばらく行くと、水の音が聞こえる。

近づくにつれて、石に当たる細い流れの音だと分かる。木の根元を回り込むと、浅い水場があった。岩の間を細く流れる水で、もちろん、その水も灰色だ。

その少し先に、小屋が見える。

板を継ぎ足して建てたような、小さな小屋だ。屋根は低く、壁の板には隙間があり、入口には戸の代わりに古い布がかかっている。人が住んでいる家には見えないが、完全に捨てられた場所にも見えない。


「ここですか」

「夜を越すくらいなら、なんとかなる」


ロアはそれだけ言う。安心できる場所には見えないが、外で夜になるよりはましなのだろう。

私は水場の方を見る。歩いている間、ずっと体が気持ち悪い。服は薄く汚れ、足に巻いた布も湿った泥を含んで重くなっている。


「ここで……体を洗ってもいいですか」


言ってから、顔が熱くなる。ロアは水場を見て、それから小屋の方を見る。


「水はかなり冷たいぞ」

「それでもいいです」


ロアが小屋の中から細長い布を一枚持ってくる。


「これを使うといい」


差し出された布は灰色で、何度も洗われたように端が少しほつれている。

私は岩の陰に隠れ、ワンピースをそっと脱いで、すぐ手が届く乾いた岩の上に置く。胸元をきつく縛る布と、腰回りを覆う下穿きは着けたままにする。どちらも、私の知っている下着とは構造が違っている。昨日からずっと身につけていたはずなのに、張り詰めた状況の連続で、そんな違和感を抱く余裕すらなかったのだ。いざ意識し始めると、肌に触れる見慣れない布の感触で急に落ち着かなくなる。

それでも今は、すべて脱いで丁寧に洗う状況ではない。手渡された布を冷たい水に浸し、固く絞る。胸の布の隙間からそっと差し込み、汗ばんだ肌を拭う。下穿きも脱ぐ気にはなれず、布越しに届く範囲だけを水で清める。刺すような水の冷たさに体がビクッとこわばるが、泥と汗にまみれた不快感が少しずつ拭き取られていくと、ようやく息がつけるような安堵感がある。

首まわり、わきの下、膝の裏。汗が残っていそうなところを順に拭っていく。背中は手が届く範囲だけだ。

足の布を外すと、小石を踏んだ場所が擦れて赤くなっている。触れると、じわりと痛む。つま先と指の間の泥を落とすと、痛みが退くまで動けなくなる。


挿絵(By みてみん)


外した足布を絞り、岩の上に広げて干す。

水面に映る髪は、不自然なほど鮮やかな青緑色をしている。この灰色の景色の中で、自分の頭だけが浮き上がっているようで、妙に落ち着かない。

冷えないうちにワンピースを着直し、水場から戻ると、ロアは小屋の前でしゃがみ込んでいた。灰色の薪の間に、小さな火が起きている。その炎すら、鮮やかな橙色ではない。くすんだ灰色の光を放ちながら、薪の上で揺れている。

ロアは私を見ずに言う。


「髪が濡れたまま寝ないほうがいい。体が冷える」


それが気遣いなのか、ただの注意なのかは分からない。

私は包みを抱え直し、小屋の入口に立つ。

信じたわけではない。

それでも、ここで今夜を越すしかない。

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