第8話 小屋の夜
小屋の入口に立ったまま、私はしばらく火を見ている。
灰色の薪の間で、小さな炎が揺れる。形はたしかに火なのに、そこに橙色はない。薄い灰色が明るくなったり暗くなったりしているだけで、あたりに暖かな光が広がる様子はない。それでも近づくと、頬にかすかな熱が当たる。
灰色でも、火は熱い。
それを肌で確かめてから、ようやく私は動くことができた。
ロアは火の向こうで、細い枝を折っている。乾いた音を立てて二つにし、火のそばへ寄せる。勢いよく燃やすのではなく、濡れた布を乾かせるくらいの大きさに整えているようだ。
「そこなら、少しは暖かいぞ」
火の右側に平たい石があり、そのまわりだけ地面が少し乾いている。私は包みを抱えたまま、そこへ腰を下ろす。濡れた髪の先が首に当たり、冷たい水滴が背中へ伝う。水場で体を拭いたときは一時的に楽になったが、小屋へ戻るあいだにまたすっかり冷えている。ワンピースもところどころ湿っていて、胸を隠す布も、腰の下穿きも肌に冷たく張りつく。
「濡れたままだと、すぐに体が冷えてしまうぞ」
ロアは火を見たまま言う。
「……はい」
返事をすると、自分の声が思ったより小さいことに気づく。ロアはそれ以上何も言わず、火のそばに枝を足す。どの枝なら燃えて、どれを入れると煙が増えるのか、その手つきには迷いがない。私には同じ灰色の枝にしか見えないのに、ロアには違いが分かるらしい。
腰の袋が動くたびにずれ、私は上からそっと押さえる。布越しにガラスペンの硬い軸が指に当たる。水場へ行くときも、どうしても置いていけなかった。これで何ができるのかは分からない。けれど、遠ざけると落ち着かなかい。
ふいに、村の子どもが言った「色」という言葉が耳の奥でよみがえる。
戸口の隙間から見えた、小さな灰色の顔。私は袋から手を離し、胸の前の包みへ目を落とす。
村の女性が持たせてくれた、硬い灰色の食べ物が二つ入っている。歩いている間はそれを抱えるだけで精一杯だったが、これを見てお腹が空いていることに気づいた。
包みを開くと、乾いた塊が二つ、灰色の布の上に転がる。
灰色だ。昨日食べたものと同じで、何からできているのかは分からない。焼いた粉の塊にも見えるし、根を干したものにも見える。私は一つを手に取る。
「食べるなら、今のうちに」
ロアが言う。
「ロアさんは」
「あとで食べる」
私は手の中の塊を見る。村の人が私にくれたものだ。二つとも自分で食べてしまっていいのか。
「一つ、食べますか」
ここまで連れてきたのはロアだ。そう思って差し出しかけると、ロアは枝を持つ手を止め、少しだけこちらに顔を向ける。
「それは、お前がもらったものだ。
「でも、二つあるので」
ロアはすぐには答えない。
火の明るさが、彼の頬の線をうっすらと浮かび上がらせる。村の男たちのように、一つの家で畑を耕して暮らしてきた顔には見えない。少し疲れているのか、目元に濃い影が落ちている。
「じゃあ、半分でいい」
ロアがそう言ったので、私は塊の一つを両手で割る。ぱき、と乾いた音がして二つに分かれる。片方を差し出すと、ロアは何も言わずに受け取る。
礼は言わない。
けれど、受け取ったあとで視線が少し下がる。それがロアなりの表現なのだと思う。
私は残った半分を口に運ぶ。
硬い。
ゆっくりと噛み締めると、昨日と同じように、薄い穀物のような味が広がる。水気がほとんどなくて、口の中の水分がどんどん吸われていく。
「水はそこだ」
ロアが入口の近くを指す。浅い器に灰色の水が入っている。手に取って少し飲むと、水場の水ほど冷たくはなく、少しぬるい。
飲み込むと、体が少し楽になった。
「ロアさんは、いつもこういう場所で寝てるんですか」
器を置きながら聞くと、ロアは火を見たまま答える。
「いつもじゃない」
「じゃあ、今日は?」
「今日は、たまたまここだ」
それだけだった。
「家は、ないんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思う。ロアは火の端に置いた枝を少し動かす。
「今はない」
前はあったのかもしれない。そう思わせる言い方だ。怒った様子はないが、それ以上は聞けない。
火が小さく揺れる。
小屋の中には、古い木と乾いた土の匂いがこもっている。入口は戸ではなく布が垂れているだけで、風が通るたびに揺れる。誰かが暮らしている家というより、夜をやり過ごすための場所に見える。
「ここは、誰も使ってないんですか」
「俺のものじゃないが、今は誰もいない」
「薪や布は、ロアさんが置いたんですか」
「ああ」
また使うことがあるのだろうし、ほかの誰かが使うこともあるのかもしれない。そういう場所が必要な世界なのだと思った。
ロアは火を見ながら、枝を少しずつ足している。一度に入れすぎない。
「どうして、火を大きくしないんですか」
「あまり大きくすると、目立つから」
そのとき、外で枝が折れる音がする。
私は身構える。
火の向こうで、ロアの手も止まる。けれど立ち上がりはしない。目だけが入口の布へ向いている。灰色の布が風でわずかに動く。
もう一度、音がする。かさ、と草を擦るような低い音だ。
村の近くで見た灰色の虚が頭をよぎる。ロアのそばで崩れるように消えていったもの。
「静かに」
ロアが声を潜めて言う。
私は声を出せず、じっとロアを見つめる。ロアも平気そうには見えない。ただ、今は動かない方がいいと判断しているようだ。
しばらくすると、外の音は遠ざかっていく。
残ったのは、風が木の間を通り抜ける音だけだ。
「今のは」
「たぶん、獣だ」
「さっきの……あの虚じゃないんですか」
「分からない」
ロアはそう言う。
分からない。
この世界のことを、ロアは何でも知っているのだと思いかけていたが、そうではない。
「分からなくても、ここにいるんですか」
「外よりはましだからだ」
安全だからここにいるわけではない。外よりましだから、小屋に入って火のそばに座る。その言い方に、私は何も言い返せない。
「怖くないんですか」
「怖いさ」
あまりにも普通の答えが返ってきて、驚いた。
「怖くても、寝る場所はいる」
嘘をついているようには聞こえない。
怖いのは私だけじゃない。
ロアも平気なわけではなく、怖くても火を起こして夜を越してきただけなのだ。
「私も、怖いです」
「そうだろうな」
ロアは枝を一本足す。
「俺も、前はそうだった」
「家を出たころ、ですか」
ロアは答えない。聞いてはいけないことだったのかもしれない。彼の横顔を見ても、何を思っているのかは分からない。
外で風が強くなり、冷たい空気が足元を抜ける。
「中で寝た方がいい」
ロアが言う。
「ロアさんは」
「入口の近くにいる」
村では外にいたロアが、ここでは小屋の中に入る。今は誰のものでもない場所だからだろう。
私は小屋の奥へ行き、床に置かれていた古い布の上に腰を下ろす。壁に背をつけると、木の硬さが背骨にそのまま伝わる。あの、白く冷たいベッドとは違う。ナースコールも、清潔なシーツもない。火のそばに、ロアがいるだけだ。
袋を外さないまま横になる。ガラスペンが少し当たって痛い。
入口の近くで、ロアが壁に背をつけ、片膝を立てて座る。
「寝ないんですか」
「そのうち寝る」
「明日も歩くんですよね。どこまでですか」
「行けるところまでだ。その先は、明日決める」
決まった宿も地図もない。そのとき分かるものだけで決めていくのだろう。
私は目を閉じる。灰色の村の光景や、消えかけていた子どもの顔、水の冷たさが浮かんできて、すぐには眠れない。
外でまた草の音がする。今度は遠い。
「火があれば、あまり近づいてこない」
ロアが言う。
「さっきのあれ……虚も、火を嫌がるんですか」
「さあな」
分からないままでも、経験として知っていることがある。それだけで少し気が楽になる。
「火は、消えませんか」
「気づいたときに俺が足す。もし俺が起きなかったら、お前が足してくれ」
「私がですか」
「乾いた枝を入れるだけだ。難しくはない」
少しだけ力が抜けた。怖い夜の中で、火に枝を足す話だけが、生活の営みに近いように感じられる。自分にもできることが一つある気がする。
ロアが入口のそばに置いてあった枝を何本か指差す。
「軽い方が乾いている。火のそばに置いて、少し温めてから入れろ」
「分かりました」
私は手元に枝を引き寄せる。ロアの顔は暗くて、もうよく見えない。
「ロアさん」
「何だ」
「私は、まだ信じたわけじゃありません」
ロアは少し黙ってから、
「分かってる」
と言う。
「でも、今日ここまで来られたのは、あなたがいたからです。ありがとうございます」
ロアはすぐには返事をしない。
しばらくしてから、低い声で言う。
「明日も歩く。もし足が痛むなら、早めに言ってくれ」
「言ったら、立ち止まってくれるんですか」
「止まれるような場所なら」
「止まれない場所だったら?」
「ゆっくり歩く。それならできる」
大丈夫だとも、守るとも言わない。でも、そこまで言ってくれただけで少し安心する。
火の音だけが聞こえている。
何度か目を開ける。火はまだ残っていて、ロアは入口の近くにいる。
一度だけ火がかなり小さくなったとき、私は手元の枝を火のそばへ入れた。灰色の炎が枝先に触れ、ゆっくり広がる。
ロアが目を開ける。
「これでいいですか」
「ああ」
ロアはそれだけ言って、また入口の方へ顔を向けた。
外で何か音がするたびに目が覚める。それでも私は、同じ灰色の火のそばで、ロアと夜を越している。




